その2 さくらの木の下で   (2010年月10月末記)


 
 (1)
 5年ぶりの帰省だった。
 はじめて深夜高速バスを利用した。夜の11時に八重洲を出ると早朝、大坂の天王寺についた。バスに乗るまえに気持ちよくなる程度にお酒を飲んでおいたので、フーは眠っている間に大坂についていた。途中休憩の静岡あたりでいちど目を覚ましただけで思いのほか快適だった。
 左右1列だけの幅広いリクライニングシート、ゆったりとした室内空間がいい。新幹線に比べて便利で安い。それに早朝に着くので、その日1日有効利用できる。まわりの乗客たちは慣れているらしく、深夜バス用の空気枕やアイマスクなどの小物を用意していた。

 迎えに来た兄の車で家に帰るまえに墓参りをした。
 実家の近くの狭山に墓地がある。1月4日の早朝だから誰もいないと思っていたのに何組もの夫婦や家族がいた。兄の話では元旦から大勢の人々がくるらしい。
 堺市が丘陵を造成して公園墓地にしているので春になると墓参をかねた花見客でにぎわう。墓地で花見とは妙な感じがしないでもないが……。とにかく広く、フーは何度来ても墓のありかがわからない。いつも、ただ兄についていくだけだから、たぶん1人では案内所がないとたどり着けないだろう。

 クリスマスコンサートは初めての試みでまごつくことが多かったが、それ以上の喜びがあった。安い料金でたくさんの料理を出したので利益がでたのかどうか、よくわからない。でも
「よかったわー」
「楽しかったわー」
 と、帰りがけのお客さんに言われると、嬉しい。
 お客さんが帰ったあと演奏した平(へー)さん、マキさん夫妻と飲んでいるといつもとは違う楽しさ、喜びがスタッフ仲間にあるのがわかる。それは何なの、とたずねられてもフーはうまく答えられない。
「縁の下の力持ち」
 今ではそんな言葉は使わなくなったけれど、みんなで力をあわせ汗をかいて高揚した気分で打ち上げのお酒を飲みしゃべり、ライブの後でもう一度ライブを味わい楽しんでいる。祭りのあとで裏方たちが寄り合って飲む酒ににているかもしれない。そんないい気持ちにしたった翌日、山ちゃんが亡くなった。

 その後、正月までの日々をどのように過ごしたのか、フーはさだかには覚えていない。翌日から店を閉め、お通夜、葬式、大掃除、そのまま正月休み。
 アルバイトの女子大生たちは、それぞれふるさとへ帰っていった。桜木(ギー)も都(みや)も年末年始は家族と過ごしている。この時期の独りもんは侘しいものだ。他人の家族の中に割り込むのもちょいと気がひける。そんなわけで、フーは部屋に引きこもって酒をひっかけていた。
 敦子さんに声をかけられて「ミラノ」で手伝うまでは、ひとりぼっちの子供が砂場にうずくまっている後ろ姿のようだった。ウツではないがそれに似た心持だった。自分はハンパモンだと思っていた。それが、気づくとただ生きているだけで、何でもないことだった。働きはじめるとフーを包んでいた不吉な雲は風に流されていた。
 山ちゃんが入院してから、朝から晩まで働いていた。疲れが溜まっていた。あいた時間は寝るだけだった。考えるヒマはなかった。だから将来を心配し、自分を問う余裕もなかった。それがよかった。
 ふと、フーは昔のアルバイトを思い出した。代々木駅から明治神宮に向かう途中の喫茶店で大晦日から三が日まで寝る間も惜しんでテキヤのように働いたことがある。そのころは正月に営業するカフェもファミレスもなかったから高い料金でも客は列をなしていた。身を粉にして働いていると自分が無くなって気分が高揚した。

 正月休みはヒマをもてあましていた。日ごろ労働時間の長い休みの少ない人間が、ぽっかり連休になると何をしていいのかわからない。時間をつぶすこれといった趣味もない。正月そうそう、ジョーやギーに声をかける気にもなれない。
 ぼーっとしているのにも飽きたので、フーは部屋の掃除をすることにした。ついでに机の前の壁にコンサートの打ち上げのときの集合写真をピンナップした。みんなの顔を眺めていると微笑ましく、自分がひとりぽっちだなんておもえない。
 掃除をしている途中から、ちょっとばかり模様替えをしていた。1つの家具を動かすと他の物を移動することになり、そうするとまた別の物を動かさなければならず、狭い部屋が足の踏み場もなくなっている。やり始めるとけっこう時間がかかって1日では終わらない。でてきた郵便物を整理していると母からの手紙が見つかり、ついつい読みふけってしまった。それでお墓参りを思いついた。


 (2)
 墓参りから帰るとブランチのお好み焼きと焼きそばが用意してあった。
 ビールで乾杯する。
「どや、いけるやろ。さいきんな、牛スジ入れてんねん……まえは豚バラばっかりやったけどな。焼きそばにな、牡蠣いれたから食べて。早うたべなかとうなるで」
 兄はへらで牡蠣や牛スジや食べごろのお好み焼きをフーの前にはこぶ。おなじように、嫁の分も自分の分も。仕分けして食べ飲み、ほとんど1人でしゃべっている。
「ウマイ。こんなお好み焼きは川越では食えんな……」
「ほんまか、うれしいことゆうてくれんな。もっと食べて」

 翌朝、兄と幼少のころ過ごした町を訪ねてみた。
 半世紀ぶりに見る町はすっかり様変わりしていた。家のそばの南北に流れる堀が埋めたてられ、上空を高速道路が走っていた。東京オリンピックのときに首都高ができたように大阪万博のときにできたのだろう。高速道路建設にともない町も区画整備され、ごちゃごちゃした昔の面影はなくなっていた。
 フーの家があったところも更地になっていた。
 ぽつんと取り残されたようにたたずんでいる仲のよかったMさんのうちにあがりこんで小一時間、話しこんだ。半世紀前の想い出話。4歳のフーが三輪車ごとどぶ川に落ちて、Mさんに洗って着替えてもらったことなど……。
 子供のときに見た記憶のMさんはふくよかな体形だったが、80を過ぎて身体が半分になったかのようだった。
「立ち退きでみんな出ていった。ええときに来たなぁ、うちらも来月に引越しや。阿部野に行くことになってん」
 フーが通っていた小学校を見にいった。
 校舎が立て替えられ、どこにでもある建物になっていた。広大に感じていた校庭が、わが目を疑うほど狭い。なにかの間違いではと戸惑い、それから笑ってしまった。記憶という手品の種が見えたような気がした。
 もうひとつ。
 Mさんのところを出て山口さんの家を覗いてみたら、ひとみちゃんがいる偶然に出くわした。50過ぎにもなる弟が結婚もせず1人実家に暮らしているのでちょこちょこ世話に戻るらしい。彼女とフーは幼友達で小学校も同じクラスだった。母親どうしが仲がよかったので互いによく行き来した。美形で頭のいいひとみちゃんを気にいっていた。その可愛いかった彼女がアンパンマン顔のオバチャンになって、目の前にいる。
 深夜バスで帰省したが、帰りは新幹線だった。窓辺の席でビールを飲み、バッテラを食べる。うつらうつらしながら半世紀前の美少女、ひとみちゃんを想い浮かべていた。細い身体と大きな瞳が印象的な少女とアンパンマン顔のオバちゃんが同一人物とは……歳月の残酷さをおもわないではいられない。
「少年、老いやすくやね」
 フーの白髪を見やってアンパンマンが笑う。

 窓辺を流れる風景が熱海の海原になり、トンネルに入ると山ちゃんの顔が出てきた。笑顔はなかった。彼は敦子さんから聞いてフーの部屋を斡旋してくれた。
 初めて会ったときのとまどった顔。クリスマスコンサートのときのはにかんだ顔。死期を悟り、病院のベッドで「これでいいんだよ」と言いたげだった澄んだ瞳。
 トンネルを抜けると、また海原だった。
 山ちゃんの死顔は毅然としていた。なぜか救済されたように見えた。何から救済されたのかは分からないが、死はそれほど嘆き悲しむものではないよ、と語っていた。

 車窓の景色とアンパンマンの顔が二重写しになり、それがトンネルで山ちゃんになり、うとうとしていると大晦日のジャムセッションに変わっていた。
「月」で大勢の客を見たのははじめてだった。平(へー)さんがホームページに案内をのせたので日ごろみたこともない人たちがぽつりぽつり現れ、楽器持参者が何人もいた。へーさんは音響やブッキングにかかりっきりで奥さんが厨房で忙しくしていたのでフーも手伝った。
「今日のために大掃除を率先してやりましてね、女房の機嫌をみはからって大晦日のオールナイトジャムセッションの話をしましたらね、なんと女房よろこんじゃってね、どうぞ、どうぞ、だって。それでもって今晩、俺を追い出しながら言うことがふるっているんだ。これで心おきなく紅白を見られる、だって」
「うちの女房も、そのくちなんだ。数年前から大晦日はここに来てんの」
「俺たちぐらいの歳になって子供が出ていって夫婦2人っきりになったら、それぞれ好きなことを好きなようにやればいいんだよ」
「そうだね」
「古希にもなって毎日の買い物まで女房にくっついて、濡れ落ち葉とか粗大ごみとかうとんじられている奴の気が知れねェ」

 はじめのうちは学生ふうの兄ちゃんがギターソロをやっていた。そこへ体格のいい中年がベースを抱えてやってきて、へーさんにお伺いをたてている。一言二言、ギターリストと言葉を交わし何度もうなずいている。
「まァ、一杯飲んでからやれば……」
 と、客のひとりにいわれ
「あっ、ワインを持ってきたんだ。車の中、取ってきます」
 その背に女性の声
「階段に気をつけて」
 今まで誰も転げ落ちたことがないのが不思議なくらい「月」の階段は狭く、急で危ない。フーも手すりなしには下りられない。
 ギターが抜け、へーさんのピアノとドラムが入りトリオでスタンダードをやっていた。その場その場で話し合い選曲しコードを決めている。演奏者の入れ替わりもへーさんが指示していた。サックスが入ったころから空気がホットになってきた。聴き入っている客たちの身体もリズムを刻んでいる。若いトランペットが加わると2管になりいっそうファンキーになっていった。しばらくの間、店全体がジャズに酔っていた。その日のへーさんはいつもの彼ではなかった。年老いた喫茶店主ではなくジャズピアニストだった。
 緊張しながら歌いはじめたのはへーさんにレッスンを受けているリリちゃんだった。ところどどころはずしてしまうのは愛嬌。若くて、小学生みたいなおかっぱで可愛いからミスも受けてしまう。歌いおわった彼女はうれし恥ずかし、まんざらでもなさそうな微笑み。素直な人柄がうかがえる。フーは彼女がレッスンを受けているときからファンになっていた。
 最後にへーさんが入って全員でセッション。そのながれでみんなで氷川神社へ初詣に行った。とにかく病気をしないこと、「ミラノ」がうまくいくこと、フーは2つお願いをした。

 帰りの新幹線の中で大晦日のジャムセッションを思い出していたら、情景がいつの間にか「ミラノ」のクリスマスコンサートに変わっていた。へーさんの柔らかいピアノタッチ、マキさんのハスキーな声、しっかりした足どりのベース。
 おとなの音楽だった。飲み食べ話しながら、半世紀前のスタンダードジャズを聴くのも悪くない。くつろいで楽しめるコンサートだった。帰りがけのお客さんがみんな喜んでいるのが、フーは嬉しかった。
 また、海原が広がる車窓に山ちゃんの顔が見え隠れする。コンサートの挨拶でメリークリスマス、と言ったときの顔。病室で「ミラノ」を頼むよ、と言ったときの顔。流れる背景のなかで、じっととどまっている山ちゃんにフーは言った。「ミラノ」は私が引き継いでやります。

 職と家庭を失くして暗い穴に落ちた。
 みじめだった。なにもする気がしない。眠っていないときは音楽を流しぼんやりしていた。フーは因果を考えたが、敦子さんからお呼びがかかるまで穴から這いあがれなかった。
 会社では出世はできなかったが不満はなかった。傍流ではあるが好きな職場だった。が、定年前に窓際に飛ばされた。
 権力者におもねることができない。それはフーの気質だった。要領の悪さ、単純さだった。人の話の裏が読めない。策を弄することもできない。あるのは、いわれのない自尊心。フーの場合、それが我がままでもあるから人間関係がぎこちない。だからどうしても組織の端っこにいることになる。隅でも縁でも好きであれば居心地の悪い場所ではなかった。彼はそこから飛ばされた。
 

                        (3)
 1月6日、新年会といえるほどのものではないがみんなで食事をした。フー、ギー(桜木)、みや(都)、ナオ、ジュン、オッス。
「ところでフーさん、大阪に帰ってたんだって……」
 と、みやが何か聞きたそうに帰省の報告をうながした。
「墓参りをしてきたよ、5年ぶりだった」
「お正月にお墓参りなんて、なんか変」
 ジュンが抗議するようにいう。
「と、思うだろ、ところがけっこう墓参者がいてね、早朝なのに初詣感覚なんだな」
 食べるだけ食べたバイトの3人が帰ったあと、ギーが七草粥の準備をしていると、みやが勧める。
「パスタやピザにも入れてみれば」
「そうだね、香のあるものをパセリのようにふりかけてみるか」
「七草粥、茶わん蒸し、お吸い物、お新香、みかん付き。おかわりサービス」
 みやが決めてしまう。
「なんだか老人食だね」
「いいのよ。正月休みで飲みすぎ食べすぎだから胃腸にやさしい老人食で」
 
 正月明けで集まったところでフーがきりだした。
「そうだ、敦子さんのところへ挨拶にいこう」
「そのまえに、ちょっと話したいことがあるんだけど……『ミラノ』の営業時間のことなんだけど、朝からやってモーニングを出したらどうかしら。手間のかからない料理にしてレジで注文と会計をいっしょにすませたら、私とパートさんの2人でできるとおもうけど」
「何時から開店するの」
 ギーがみやに訊いた。
「7時。できたら私、スナックの仕事を辞めて『ミラノ』で朝から働きたいの」
 正月の間、みやは生活の仕方を変えようと思案していた。
「これでも2人の子供のことを考えているのよ」
「敦子さんの家に向いながらみやがうったえる。
「2人とも難しい年ごろなのよ。はっきり夜の仕事は止めて、とは言わないけど…嫌がっているのが分かるのよ」
 フーも訊いた。
「『銀』のママに話したの」
「まだ。『ミラノ』で朝から働けるめどがたてば話すけど。どうせすぐには辞められないとおもう。私の後釜が決まらないとね…かってに辞めるわけにはいかないわ。世話になったママに迷惑はかけられないし、筋を通しておかないと後々めんどうなことになるし」
 敦子さんの頭には白いものが目につき、急に老けこんでいた。
「昨日まで寝込んでいたのよ。これが本当の寝正月ね」
 それでも彼女は、お正月だからといってみんなの器にお神酒をつぎ、自分でもひと口飲んだ。
「喪中なんて気にしないで。こうしてそろって来てくれて、お神酒を飲んでいただくと山ちゃんも喜んでいるわ、きっと」
 仏壇はなかったが、山ちゃんの机の上に位牌と写真が置かれていた。写真の彼は若く、なんの屈託もなく笑っている。輝いている。その無邪気な笑顔は、後年彼が失ったものだった。フーは彼のこぼれるような笑顔を見たことがない。
 ひととおり敦子さんのお話を聞いて、打合せどおり早めにおいとました。帰りぎわに朝から開店したい旨をフーが伝えた。
「いいんじゃないの」
 すでに敦子さんは「ミラノ」に関心がなかった。


                         (4)
 七草粥はたちまち売り切れ、七草パスタ七草サラダも好評。そこで都(みや)が
「お粥モーニングって、どう?」
 フーが首を傾げているところへ安田(安ちゃん)がやってきて落語家のように口元で器を傾け
「……やろうよ」
 彼は安ちゃんと呼ばれ、山ちゃんの幼友達で親友だ。日ごろ部下を連れてきて散財してくれるお得意さんでもある。10数人の社員をかかえる建設会社の2代?目。
「ここでマグロを食べられるとは嬉しいね」
 安ちゃんは冷酒を飲んでいる。
「敦子さんに会ったけど、やつれたね。まぁ、しょうがないけど。それでフーさんに任せるってよ。引き取ってほしいんだって『ミラノ』……和食もいいとおもうよ」」
「……先立つものが」
「保証金の300万円だけでいいって。あとは全部フーさんにあげるって。ただ『ミラノ』の名前は残してほしいらしい」
「300万かぁ」
「足りないようでしたら出資してもいいですよ。それに川越市でも借りられるし、いくつかの公共機関も融資してくれますよ」
『2、3あたってみて、たりないようでしたらお願いします」
 きゅうな敦子さんの申し出にフーは戸惑い、思いついたばかりのことをつけたした。
「49日のまえに追悼ライブをやろうとおもっているんです」
「いいね、やってよ。山ちゃん喜ぶよ」
「それからね、朝から店を開けようと考えているんです」
「いいんじゃないの」
「募集のパートさんが入りしだい始めたいけど、みやちゃんがスナックの仕事を辞めないといけないのでママに話してからですね」
「彼女に辞められるとママも困るだろう。とにかく事情を説明して……」
「そうですね、それからですね」
「実はね、フーさんの相談にのってほしいって敦子さんに頼まれたんだ。だから、いくらでもいいから出資して仲間になったほうがいいとおもっている」
「敦子さんの気持ちはよくわかります。俺が引き継いだところで、いつまでもつか心配なんでしょう。ごもっとも、ありがたいですよ。こんどの日曜日にみんなで話しあってみます」
「だったら私も敦子さんをさそってきます。みんなの和でなんとかなるよ。ただ基本的な営業方針は、フーさんが決めた方がいいよ」
「基本的な営業方針なんて……」
 フーはしどろもどろになっている。

 それから2人は中院の近くの「月」に寄った。
「安田です」
「平(たいら)です」
 2人は初対面なのでフーが仲をとりもつ。
「お客さんが来ないもんだから、さきほどまで練習していたんですよ。正月もね、毎日きていたんですよ。家にいて四六時中女房と顔をつき合わせているのもね……。テレビのくだらないお笑い番組を見るよりここでレコードを聴きながら本を読んだり、鍵盤に触れている方がね…。それよりあれだよ、『ミラノ』でクリスマスコンサートをやってから急に練習に身が入るようになってね、自分でもおかしいんだよ」
 鼻で笑いながら嬉しそうなへーさん。
「いつの間にか忘れていた人前で演奏する喜びを思い出しちゃったよ」
「じつは聴きにいっていたんですよ」
 安ちゃんがクリスマスコンサートを話題にした。
「それはどうも。僕たちもやっていて楽しかった。お客さんも盛り上がっていたし」
「へーさん、山ちゃんの追悼ライブをやりたいんだけど」
 フーが話をきりだすと安ちゃんもつけたした。
「やってほしいね、彼を偲んで」
「僕はいいですよ」
 一瞬、へーさんの瞳が輝いた。
 それから、遠くを眺めるようにあらぬ方を向いた。


                            (5)
 みんなで集まるまえにフーはギーとみやに簡単に説明しておいた。店を引き継ぐことになったが、安ちゃんが間に入ってくれて保証金の3百万円だけで済むこと。「ミラノ」の名前を残すこと。フーが生命保険を解約して2百万、安ちゃんが百万出資するが運転資金としてあと百万はほしい。できればギーとみやにも入れてもらって会社組織にしたい。
「よくえわからないけど、ようするに株主になるわけ?あ、そう。社員で株主なのね。わたし、10万が限界」
 みやは、娘2人をかかえる母子家庭だからやむを得ない。
「女房に相談してみるけど、23十万ぐらい」
 ギーは生活費を家に入れていない。ほとんどギャンブルと酒に費やしている。
 フーがジョーにいきさつを話してみると、足りない分を出すという。意外と持っているのと気前がいいのに驚く。タクシーの運転手は稼ぎがいいのだろうか。そんなはずはないのだが。

 みやの発案により、朝10時に開店している。ランチの仕込みをしながらなので、たいしたものはできない。コーヒー、紅茶、ミルク、ジュース。トーストとサラダのモーニング。これからの朝営業のための予行演習と宣伝をかねている。
 ランチ前にぽつりぽつり、コーヒーを飲む客が入ってくる。みやは、そんなお客さんの相手をしながら手ごたえをつかんでいた。カフェやファストフード店のモーニングを食べ歩いて、どんなものが人気なのか、単価、客層などを調べ、いちいちそれをギーに報告している。
「そのたびに聞かされても、分からなくなってしまうので一覧表にしてよ」
 板前のギーはモーニングのメニューには興味がない。
 まず、フーは競合店を含んだ略図を作った。道路や駅、人の流れを書き込んだら「ミラノ」は外れにあった。そんなことは分かっていることだが、駅に近く人の流れの多いところほど大手のファストフード店やカフェチェーンが占拠していた。朝は回転が早く若い勤め人が多い。通勤電車に乗るまえにサッとお腹に入れておく、そんな感じだからスピードと安さが求められる。
 大資本と同じ戦略ではやっていけない。チェーン店の特徴は早くて安くてまずくない味。マニュアル接客と作り笑い。掃除の徹底、無休の長時間営業。まねていいのは掃除の徹底ぐらい。
 まあ、それがフーのおおまかな営業方針。
 人間性というやつはあまりにも多様でむらがありすぎるから大量生産、大量販売、大量サービスのじゃまになる。それは工場化できない。だから大手で働く人はシステムどおり動くアニュアルロボット(奴隷)にされる。
「ミラノ」で働くのはフー、ギー、みや、ナオ、ジュン、オッス、名前と個性を持った人間だ。資本の奴隷ではない。逆にいえば資本を持たない人間の寄せあつめだ。

「ママに話したらね、驚いてはじめは怒っていたけど最後のほうではあきらめているような感じだったわ。退職をはっきり承諾したわけではないけど、仕方ないわねぇ……とつぶやいていた」
 みやの話を聞いて、フーは安ちゃんをさそってスナック「銀」を覗いた。カウンターに6人、奥のボックスに6人で満員になる小さなカラオケスナック。フーも安ちゃんもたまには足を運ぶがいっしょははじめてだった。先客が2人いてかわるがわる歌っている。近所の商店主たち。みや(都)を相手に軽口をたたいておどけ、笑い、憂さを晴らして帰る。
 バブルのころはそんな客でいっぱいだった。貸し切りパーティーもちょくちょくあり、ママは左うちわだった。それが今では閑古鳥が鳴いている。今日の1日で、先ほどの2人とフーと安ちゃんの4人だけ。ヒマをぐちるママに小難しい話(みやの退職)もできない。中途半端な酔い心地のフーは安ちゃんを「月」へと誘った。
 ここでも閑古鳥が鳴いている、というか歌っている……
 へーさんのピアノでリリが練習している。ウイスキーソーダーを2つ作ると
「ちょっと待ってて」
 へーさんはピアノにもどっていった。
 2人はグラスを合わせた。
「あの客の入りでは、みやちゃんにお給料をわたしたらたいして残らないんじゃないかな」
 安ちゃんはざっと計算している。
「ヒマな日は、みやちゃんを早く帰すらしい。時間給だからね」
 フーはみやから聞かされている。
「銀」の経営状態は分からないまでも察しはつく。みやにお給料をわたして諸経費を支払うと残りはタカがしれている。ママはマンションの部屋を持っているからなんとか暮らしてゆけるけど、苦しい。
 へーさんの「月」も似たり寄ったりというか「銀」よりも売り上げは少ないが、店は持ち家で人手も使っていないから光熱費、仕入れ代などを払えさえすればいい。夫婦の年金で暮らせる。老後の余生としては悪くない。いや、いいとフーはおもっている。そのてんママは息子が出ていってひとりぽっちだから、いろんな意味で先行き不安だ。

「1月の最後の日曜日なら、なんとかできそうです。あのマキさん夫妻にドラムが入ります」
 へーさんが嬉しそうに伝えてくれた。
「へーさんバンド、落ちついてしっとり聴かせてくれるから『ミラノ』の客にはいいんじゃない」
 安ちゃんも歓迎している。
「ドラムもそんなに叩かないから、雰囲気にあわせてくれる」
 へーさんも客層にあわせた選曲を考えている。
「わたしにもビールください」
 レッスンを終えたリリは上気している。


                    (6)
「何か食べるものないの?」
 開店前に入ってきた客がねだるように言う。
「モーニングはトーストとハムエッグですが」
 みやがメニューを示すと
「ご飯が食べたいんだよな……お茶漬けならできるでしょ」
 ギーさんに頼んでみてよ、と言う。
 開店準備の忙しいさなか、特別注文する困ったお客さん。なれなれしい。みやは助けを求めてギーさんを呼んでしまう。ギーは厨房からチラッと客を見る。もう一度見直す。ズーッと見ている。
「なんだジョー(川嶋)さん、どうしたの」
「おっ、やってるね。朝帰り、といってもタクシーの明け番よ。いつもはコンビニに寄って帰るんだけど、ここを思いついてね。そしたらキレイなお姉さんが開店前からモーニングを出してくれるというし。お茶漬けがあるなんて嬉しいね」
 ジョーはやたら彼女を持ち上げている。
「日曜日、フーさんといっしょに呑もうよ」
 帰りがけに、ギーに言ってからみやも誘っている。

「ミラノ」を譲り受けるかどうか思案しているとき、フーの背中をポンと押してくれたのはジョーだった。職安で知りあってから、ギーを誘ってちょくちょく呑んでいた。3人とも無職でどうにもさえなかったが、ジョーは鼻で笑うだけでグチルことも悲観することもなかった。フーとちがって失業経験はなんどもあり、女房子供もなく親族はお姉さんが1人だけだった。身軽な独り者は、あとは余生と達観しているふうにもみえた。
 そんな彼が後押ししてくれ出資してくれる。カネがあるのかなー、とフーはいぶかったが誰よりもはやく振り込んでくれた。そのカネの出所は言わなかったし聞かなかった。余裕があるというか、こだわりがなかった。「ミラノ」がつぶれたら出資金はどうなるの、といった野暮なことには触れずあっさりしたものだった。ジョーに反応するようにギーが加わり、みやも少額ながら株主になる。
「ミラノ」を引きついで分かったのは、売り上げが伸びているのに赤字になることだった。そこで、安ちゃんの会社の経理マンに収支を分析してもらった。店の休みの日曜日、株主に集まってもらい彼に説明してもらうことになった。
「以前の経営状態はよく分かりませんが、働いていたのは敦子さん夫婦以外では夜のアルバイト1人だけですから人件費はたいしてかかっていません。ところが今は売り上げの半分が人件費です。多すぎます。3割りにしてください。このままだとあと4か月で資金ショートです」
 運転資金として用意してあった百万円が半年たらずで溶けてしまう。
 フーには予想外のことだった。というより考えが甘かった。ギー、みや、安ちゃん、敦子さん、ジョー、バイトの3人、みんないるからなんとかなるだろう、としか思っていなかった。
「売り上げ、人件費、仕入れ代、家賃、光熱費、消耗品、リース代、広告宣伝費……数字を出して計画案を作らないと」
 経理さんは呆れた表情で安ちゃんに目をやる。
 みんな、ズラーっと並んだ諸経費の数字を眺めているだけで言葉がでない。
「とにかく実態がわかっただけでもいいんじゃないの」
 お手上げ状態の沈んだ雰囲気のなかで、みやが元気よく言い放つ。
「気がついたら店がつぶれていた、というよりましじゃないの。なんとかなるわよ」
 敦子さんとバイトの3人が帰ったあと、フー、ギー、みや、安ちゃんが残り、お酒を飲みながら話あった。経費をおさえて売り上げをのばす、それが経営の基本だと経理さんがいう。そのとうりだとおもう。ただ、それだけでは面白くない。何か楽しいことがないと続かない。遊び心のない仕事はつまらない。
 雨あがり、幼い子が母親に手をつないでもらって歩いている。水たまりを見つけると母親を引っぱってわざわざその中に入っていく(長靴をはいているので)。フーはそんな好奇心に曳かれるように店をやりたい。
「オレの給料は半分でいいですよ。いままでそれで生活していたから」
 フーがきりだすと、ギーも
「俺も半分でいいです。どうせ賭け事で溶けてしまうから」
 ギーの奥さんは小学校の校長で娘も教師をしているから余裕がある。
「この春から上の娘が大学(夜間)に行くことになったので昼間『ミラノ』で働かせたいの」
 みやが、長女メグの話をもちだす。
「メグったら、就職が決まっていたのに年があけてから急に進学するといいだして……」
 みやは困ったような嬉しいような、まんざらでもない表情。
「早朝は散歩するお年寄りが多いから朝7時からオープンしたらどうかしら。それからランチタイムのあと2時半から5時まで閉めているけどティータイムとして開けたら」
 誰よりもみやが売り上げのことを考えている。
 安ちゃんも考えていた。
 手を打っていた。大きな封筒をフーに渡した。
「とりあえず申請してみれば……」
 それは公共の金融機関からの借り入れ申請書だった。書類が数枚はいっている。
「分からないところはうちの経理か部長に訊いて」


                    (7)
 去年の秋、山ちゃんが入院してからフーの生活が一変した。
 失業中は何もすることがなく宙ぶらりんで、ウツぎみだった。ヒマを持て余して反省することが増えた。還暦を過ぎて何十年も忘れていた情景がひょんな時にでてくる。
 それまで気づかなかった自分の欠陥が、レンズの焦点がじわじわ合うようにはっきりしてきた。そのほとんどがよろしくない。
 30歳を前にして社員になったころだった。仕事のやり方で上司と口論になったことがあった。ささいなことだが、フーは言い張った。話していると彼のほうが論理的で正しい。自分の主張は無理筋だと分かっていながらゆずらなかった。論点をずらし、うやむやにしようとした。そんな強情な性格がふと思い出され、あれはまずかったなとおもう。忘れていたそのような不細工な出来事があれもこれもと出てくる。
 穴があったら入りたくなるような恥ずかしい行いが、不意にあらわれる。反省しないよりした方がいいのだが、だからといってどうなるものでもない。
 敦子さんに声をかけられ「ミラノ」で便利屋、おごとく4、5時間働いて簡素で貧しく、のんびりしているのが性にあっていた。ところが今では、休みは週に1日だけで毎日12時間も働いている。疲れはて休日は夕方まで寝ているしまつ。考えるヒマもなくウツになるヒマもない。

 マキさん夫婦の都合で3月末にずれこんだ追悼コンサートが敦子さんの申し出により新春コンサートに変わった。
「フーさんの気持ちはありがたいけど、あまり大げさにしたくないのよ」
 安ちゃんを伴って彼女が断りを入れにきたので、その場で変更した。
 ついでながらコンサートの値段や内容を相談すると
「もうフーさんたちのお店なんだから」
 彼女は「ミラノ」のことで口出しはしたくないようだった。そのかわり、安ちゃんがポツリと意見を置いていった。
「新春コンサートは少し値上げをした方がいいとおもう」
 彼はついでにこんなお土産も置いていった。
「日高県道の閉まっていたガソリンスタンドの跡にイタリアンのチェーン『S』が出店するってよ」
 しばらくの間、ぼんやりしていた。
 いきなり比重の重たい液体を流し込まれたように感じた。胃がうめいて落下した。指先を胃にあてがい押さえた。「S」の痛手は大きい。
 ギーはコンサートで30人分の料理をだせるので張りきっている。
「腕のみせどころ、だね」
 みやにつっこまれ、ふふふ、と笑っている。
 いろいろメニューを考えるのが楽しいらしい。遊び心をくすぐられニヤついている。
「ギーさん、県道のガソリンスタンドの跡地に『S』ができるんだって。安ちゃんが言ってたよ」
 知らなかった。ギーもみやも、黙ってその意味を考えている。
「いつ、いつなのよ」
 みやが口をとがらせて訊く。
「夏、8月だって」
 安ちゃんから聞いた話をそのまま伝えると2人は消沈して口数がとだえた。

 新しいパートさんが入った。ヒロさん。
 朝7時に開店し、みやの長女(メグ)も手伝いはじめた。みや、ヒロさん、メグで朝の売り上げも立ちはじめた。いままで準備中にしていた2時半から5時までをティータイムとして営業しだしたのもプラスしている。フーはコンサートなどで新たな客をつかんでいけば赤字解消と目論んでいた。
 そこへ「S」の出店で出鼻をくじかれた。みんな「S」で食事をしたことがあるだけにどんな店かあらかた知っている。とにかく安い。値段の勝負では勝ち目はない。
「大丈夫よ。だいぶ離れているし、あそこはロードサイド店だから客層がちがうし」
 みやがフーを元気づける。
「今から『S』のことを考えてもしょうがない。できてからでいいんじゃないの。それよりティーたいむをなんとかしないと」
 ギーはティータイムを1人でこなせないかと考えている。
 朝7時からのスタートにそなえてみやとヒロさんは6時に出勤している。10時からメグがきて2時まで働く。11時にヒロさんが上がりフーかギーのどちらかが出て3人でランチタイムをこなす。朝のお客さんは忙しいほど来店するわけではないが、きまった時間にきまった人が平均して来るので商売がしやすい。お茶漬け、お粥モーニングをはじめてから常連さんがぽつりぽつりふえてきた。お昼の和定食も人気で朝とお昼にかんしては手ごたえを感じている。忙しくもないティータイムは1人でできるだろう。     


                      (8)
 猪狩(イガ)がクモ膜下で倒れた。
 安ちゃんが病院の帰り「ミラノ」に立ち寄り報告してくれた。一応、手術はうまくいったが後遺症がどれほどかは分からない。
 一人っ子の娘が大学を卒業すると、計画どおり妻と娘が家を出た。前々からその日を待っていた。すでにマンションを購入して休日はその部屋ですごしていた。娘は半年も前から寝泊りしていた。彼はそんな親子の秘密にまったく気づかなかった。妻の勤務先の社長が弁護士を伴なって彼に会いに来た。
「どうか彼女(イガの妻)を自由にしてやってください」
 と言って頭をさげた。
 弁護士が慇懃に示談書を説明し離婚届を差し出した。イガはカッと頭に血がのぼり弁護士の言っていることが何ひとつ理解できなかった。本能的に妻がこの社長の妾であることを悟った。社長に飛びかかり殴りつけたい衝動を抑えるのが精いっぱいだった。おもえば弁護士の大柄な助手はボディーガードでもあったのだ。
 1ヶ月ぐらいたってから示談書を安ちゃんに見せた。
「これは天罰やな」
 イガは黙って肯いていた。
 それまで、妻を恨み社長を憎み復讐を考えていた。社長の妻に密告した。手切れ金の増額を要求した。そのほかにも仕返しをする策を考えていたが、時とともに自分の愚行もかえりみた。まだまだ恨みはくすぶっているが自分の浮気を棚にあげ離婚を引きのばすのもどうかとおもった。嫌がらせをしている自分が嫌になって安ちゃんに相談した。
 安ちゃんが知っているだけでもイガの妻にばれた浮気が2回。そのうちのひとつは相手の女の亭主が彼の家に乗り込んできて脅した。直接、会社にも行って彼の浮気を上司にばらした。
「それ、美人局じゃないの」
 安ちゃんのせりふに彼は半信半疑だったが、けっきょくカネをむしり取られた。妻はそのとき離婚を決意し、娘が大学を卒業するまでの4ヵ年計画をたてた。
「身から出た錆だね。うちの弁護士に頼んであげるから、弁護士同士で決めてもらった方がいいね」
 彼は安ちゃん、山ちゃんと高校時代からの友達だけに他人には言えないことも何でも話しあっていた。

 安ちゃんがイガの手術を知らせた日、フーはまっすぐ部屋に帰る気になれず「月」の階段をのぼった。客はだれもいない。
 フーは彼のゴタゴタを聞かされて自分の離婚騒動を思い出してしまった。嫌な気分だった。2人の子供が成人したころから夫婦の諍いが増えた。
 彼はイガのように浮気をしなかったが、出世もしなかった。少ない収入の割りにはアルコールを呑みすぎた。家の用事は何もしない。横のものを縦にもしない。自分のことしか考えていない、と妻の不満は絶えなかった。そのうち、会話は途絶えた。肌合わせも途絶えた。
「あなたには愛情がない」と吐き捨てられた。
 ジャックダニエルのハイボールを呑んでいるとビル・エバンスのピアノが流れだした。エディー・ゴメスのベースがいい。フーは別れた妻の残像から逃れるためベースのアドリブに身を寄せていった。彼女に恨みも憎しみもない。
「そうそう、日曜日、ここでマキさんたちと練習しましたよ、ドラムをいれて」
 エバンスはへーさんのお気にいりだ。
「あまりドンドコやられると……」
「ミラノ」の客層が中高年にかたよっているので、フーはうるさいドラムに気をつかってしまう。
「もともとガンガン叩く人じゃないので、その場に合わせてくれますよ」
 ドラムは大丈夫というへーさんに「S」の出店の話を振ってみたが、知らないだけではなく興味をしめさなかった。「月」と「S」では客層がまるっきり違うので影響はない。それに、へーさん夫婦は年金で暮らせるから店の売り上げはさほど生活に関係がない。そこがフーと立場が違う。
 夏までに資金ショートしそうだし競合店はできるし、もやもやしたものがわだかまっていた。それを吐き出しに寄ったがお門違いだった。
 へーさんはイガのクモ膜下の手術の話にものってこなかった。

 久しぶりだった。気になっていたママの様子を見に安ちゃんと連れだって「銀」に寄った。客はいない。ママはぼんやりテレビを見ている。
「もう、閉めて帰ろうと思ってたのよ」
 まだ9時にもなっていないのに
「さいきん、客足のとぎれたところで閉めてるの。そのかわり昼間、カラオケ教室やってるの。毎日ではないけど、12時から4時ごろまで。教えるというほどでもないけど、ちょっとワンポイントアドバイスぐらいはしてあげてね。かわるがわる歌ってもらっているの」
 みや(都)が辞めて売り上げが減ったが、彼女に給料を出さなくなったのでママの収入が半分になったわけではない。カラオケ教室をはじめたので収入はさしてかわらない。結果的にみやを引き抜いたかたちになっていたので、フーはママの収入が気になっていた。みやの退職のせいで店を閉めることになったら、責任を感じてしまう。
「カラオケ教室はね、ほとんど奥さんたちだから気楽だわね。それに飲食持ち込みOKにして頼まれないかぎり何も出さないの。場所貸しみたいなものね」
 安ちゃんもママの状況変化の対応ぶりに感心している。
「フーさん、ママにならって『S』の対策を考えないと」
 フーはママを心配して来たのに安ちゃんに心配されるしまつだった。

 それから安ちゃんとママでイガの昔ばなしになった。
「イガ、入院したよ」
「うん、聞いた。クモ膜下だって」
「1日、部屋で気を失っていたらしい。無断欠勤をした翌日も出てこないので上司が電話したところ、欠勤していないと言いはっていた。それから飛び起きて出勤してきたときは目は真っ赤に充血し、異様な顔でその場に倒れこんだので救急車を呼んだ。即手術したが後遺症が残るらしい」
「イガさん、独り住まいだったから」
「上司の電話に反応しなかったら、そのまま孤独死だったね」
「よくまあ、それで電話に出られたわね、意識不明なのに」
「でも1週間も眠りつづけた病人が、親しい人の呼びかけで目をさましたこともあるよ」
 安ちゃんとママの話を聞きながら、フーはそのころの彼の無軌道ぶりを思いかえしていた。妻子に逃げられてから、毎晩のように呑み歩いていた。酒に溺れていた。
「イガさん、離婚してからすぐに再婚したでしょ。その相手、知っているのよ、私」
 ママが話しだした。
「イガさんがクモ膜下になったのは、その女のせいよ。もちろん飲みすぎなんだけど。その女性はね隣りのスナックで働いていたの。歳だし、まともな会話もできないのでカウンターに入って飲み物やおつまみを作り、皿洗いをやっていたわけ。彼がしょっちゅうカウンターで呑んでいるうちに仲良くなったらしいの」
 ママの話を聞いて安ちゃんも思い出した。
「山ちゃんがね、披露宴だけでもしたら、と言ったらその女性が反対したよ。それで敦子さんが、親しい人だけ集めて紹介する場を設ければ、と勧めたんだけど結局その女性がOKしなかった。しばらくしてから俺と山ちゃんだけ呼ばれて行ったんだよ、お祝いを持ってね。そしたらスナックのつまみみたいな乾き物と缶ビールを出されて、彼女はろくに挨拶もしないんだよ。変だったなー。なんでこんな人と再婚するんだろうと、不思議だったよ」


                      (9)
 どういうわけかクリスマスコンサートにくらべ予約の入りがいまひとつだった。日にちが悪かったのか宣伝がたりなかったのか、原因がわからないで首をかしげている。クリスマスのコンサートは当日を前にして予約完売していた。そのせいか今回も完売するものと思い込んでいた。素人のフーらしい。
「フーさん、クリスマスコンサートに来たお客さんのリストはあるの」
「名前と電話番号なら」
「これからはメールアドレスか住所も控えておいて。今からでもめぼしい人に電話したら」
 安ちゃんに言われ、うなずきながらコンサート専用の顧客名簿を作ることにした。
「いっそうのことホームページを開設したら。うちのシステムにたのめばアルバイトでやってくれるよ。会社に余っている古いパソコンもあるし、たいしてカネをかけないでできるはずだよ」

 フーは仕入れ業者を回った。肉屋、魚屋、八百屋、米屋、酒屋……食材店を訪ねて支払日の1ヶ月延期をお願いした。山ちゃんから引き継いだ仕入れ先なので、彼にはなじみが薄い。信用もない。そのため、手のひらを返したように露骨に嫌な顔をされる。彼は事情を説明し頭をさげ、なんとか了承してもらったが不愉快でしかたがない。
 そんななかで1人だけ
「あっそう、わかった。大変だね」
「魚政」のまさやんだけ、あっさり延期をのんでくれただけではなく励ましてくれた。
「ギーさんにたのまれてたんだ。いつも仕入れをしてもらってるんで、そのコンサートに行くよ、女房と」
 フーは腹の中に残っていたわだかまりを吐き出すようにギーとみやに業者回りを報告した。どこそこの誰々は顔色を変えて怒りだした。どこそこの誰々は目を細くして嫌味をネチネチ。米屋のオヤジは話の途中で足の先から頭のてっぺんまで舐めるように見て、ふっと鼻で息を吹き、店の奥へ引っ込んでしまった。
 フーは物まねしながら、ちょっと大げさに話した。
「あのオヤジ、むかつくわねぇ。わたし、まえから嫌いなのよ。やたら威張っているでしょう。店かえたら。米屋なんていくらでもあるんだから」
 みやはフーの話を聞いて腹をたてている。
「前から思っていたけど、仕入先をぜんぶ見直したら」
 ギーが提案した。

「銀」のママがカラオケ教室の客を連れて来た。安ちゃんは社員の福利厚生ということで数人と敦子さん。「月」でボーカルのレッスンをうけているリリたち。ジョーも女性同伴でやってきた。気をもんでいた客の入りは当日になってバタバタとかけこむ客でほぼ満席。見わたせば見知った客ばかり。気をもんでいたのが嘘のようにクルッと裏返っている。
 へーさんのピアノが鳴りだすまでの小1時間、まるで親睦パーティーのようだった。あちこちで人の輪ができ、談笑。甘いかもしれないが、損得勘定抜きにこんな場を提供できるのも悪くないな、とフーはおもう。枝豆や唐揚げなどで、もうかなり飲んでいるオジサンたち。女性には生ハムのサラダと赤ワインが好評。みるみる食べつくされ、皿が下げられていく。そこへ焼きたてのピザをどんどん運んでいく。
 ライブが2度目のジュンとナオの動きがいい。オッスもフーの指示に「オッス、オッス」と従っている。はじめてのメグは厨房でみや(母親)の助手をしていたが、途中からジュンとナオにまじってホールでウエイトレスをしている。
 ピアノが鳴りだすと客席の話声がぴたりとやんだ。まるで音の値踏みでもするかのように耳を傾けている。ベースがピアノを追いかけていき、追いつきウォーキング。ドラムは控えめにサポートしている。なんとなし、場全体に安どの息がもれる。

「ここ、ピアノを置かないの?」
 途中の休憩時に中年女性に話しかけられた。
「置きたいけど、カネと場所が……」
「アップライトだったらさほど場所はとらないでしょう。私、家でピアノをおしえているの。生徒がピアノを買いかえるとき、紹介するから引き取りに行けば。アップライトだったらもらえるわよ」
 どこまで本気なのか分からなかったが、フーはとりあえずお願いしておいた。
「クリスマスのときより良くなっている気がする」
 打ち上げでナオがもらす。
「わたしも、そんな気がした」
 ジュンが同調する。
 バンドのなかでただ1人居残ったへーさんが
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ。練習のしがいもあるってもんだね。やっぱりドラムが入ったから効いていたね、うん。ああ、それからフーさん、さっきのピアノの話、私にもお手伝いさせてくださいよ。引き取るまえにちょっと弾かせてください。でないとね、もらってはみたものの使い物にならないことがけっこうあるのよ」
 ただでピアノをもらったにしても、運送費はかかるし客席は減らさなきゃならないし、調律にカネはかかるし……
「今日のマキさん、声が伸びていた…」
「ナオちゃん、鋭いね」
 へーさん、自分のことのように嬉しそう。
 それから、みんなで花見をすることになった。


                      (10)
「フーさんの部屋にいっていい?」
 うつむいたまま言うオッス。
 コンサートの打ち上げもお開きとなり、みんなそれぞれに家路につく。フーと方向が同じのオッスがついてきた。
 彼岸をすぎても夜風は冷たい。
 オッスの横顔は能面のよう。
「いいよ……」
 それ以上なにか言うと、泣きだすような気がして何も訊ねなかった。フーは自転車を押しながら黙って並んで歩いた。七曲りの裏道を抜け、日高県道を渡り成田さん別院から喜多院、そこまで来たとき
「寒い」
 オッスは2つのバッグをフーに手渡すと陸上選手のようにスタートのポーズを決めてから「パン」とピストルの音を自分で言ってから走りだした。夜道は寝静まっている。あわてて自転車で追走するフー。振り返ったオッスはいたずらっ子のようにニッと笑って、また駆け出した。
「オイオイ、どこへ行くんだよ。こっちこっち」

 ハァーハァーと荒い息をしながら部屋にたどりついたオッスは、いきなり2か所の窓を全開にした。冷たい夜風が白くて薄いカーテンをふくらませ、なびかせる。
「う〜ん、ナイスブリーズ」
「え〜、ブリーフ」
「バカバカバカ、風が気持ちいいって言ったのよ」
「寒いんだけど……」
 自分の臭いが気にならないように、自分の部屋の臭いも気にならない。が、他人の部屋に入ると変な臭いがする。
 クサイ。
 オッスは風を通して臭いを消そうとしていた。

 オッスと部屋をシェアーしているC子の彼氏が遊びに来ていて、どうやら泊りそうなので帰りたくない。男性は部屋に入れない約束だったのに恋人ができてから反故にされた。でも夜になると帰っていたのが、近ごろはお泊りするようになった。
「ナオさんのところへ行くつもりだったけど、歩いていて決めたの、フーさんの部屋にしようと。そしたら、なぜか走ってしまったの」
「うら若き乙女の行動とはおもえませんが」
「あれで、フーさんは安全って聞いていたから……変なことしないでね」
 部屋の空気が入れかわり冷たく、清冽。小一時間飲みなおして寝た。フーはベッドをすすめたがオッスはソファーを選んだ。彼女はパジャマと歯ブラシを持参していた。

 翌朝、市役所で用事をすませてから氷川神社まで2人で散歩をした。神社の桜は三分咲きといったところ。陽のあたるところは暖かいが日陰は風が冷たい。花の気持ちもわからないでもない。いま咲いていいのかどうか、迷ってしまう三寒四温。それでも花見の客が2組いた。
 よちよち歩きの幼児をつれた若いお母さんが陽だまりでピクニック。その辺をちょろちょろする子供には目がはなせない。お母さんに追いかけられ、キャッキャッと逃げまどう子供はうれしくてたまらないらしい。駆けては立ち止まり、お母さんが子供の名を呼び追うとまた逃げ出す。お母さんも心得ていていっきに捕まえないで遊んでいる。子供はお母さんを見て誘い、背後にせまってくるとギャーギャー叫んでよろこび、よだれをたらして逃げまわり、足がもつれ、たおれて泣きだす。背後からお母さんがすくいあげ抱っこして、ぶつけたおでこをなぜなぜして
「痛いの、痛いの、トンデケー」
 子供は母親の胸に顔をうずめおとなしくなり、はやねむたげ。母親と同じ年ごろのオッスがのぞきこむと、子供は上目づかいに彼女を見てから恥ずかしそうに顔を母の胸にかくした。
 白髪の老人がさくらの木に背をもたせかけ、居眠りしている。フーは彼の容姿格好が父に似ているとおもった。たったひとりの宴おあとの夢心地らしい。そばには食べ残した弁当、飲みほした酒びん。
「あのおじいさん、居眠りしながら笑っているみたい」
 オッスがいうように、口元がにやけてゆるんでいる。
「どんな夢、みているのかしら」
「お母さんの胸の谷間に……」
 バァ−ンと、手のひらがフーの背中を叩いた。

   (2)「さくらの木の下で」  終わり  (3)につづく


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