嘘日記 その5 「祭りのあとで」



 
(1)
裸の上半身が固まって金縛りにあったようで、起き上がれない。開けっ放しの窓辺の板の間で、裸で寝込んでしまって、冷えたようだ。
しばらく横たわったまま、不本意ながら「気を付け」の姿勢でいた。両手をついて、やっと上半身を起こしたが、すぐには立ち上がれない。情けないことに椅子の背をたよりにするしまつ。リビングのテーブル上には、昨夜、飲み食いした酒や料理が無残な姿で散らかっていた。自分を叱るように、両手のひらで頭を叩いた。それから、頭を何度も左右にふった。
そうすれば遠心力で頭痛が飛んでいくかのように。

プーはお手洗いを出るときになって
「そうか・・・」と思い出した。
「そうか、そうか・・・」と、寝室を覗いた。
オッスとナオがプーのダブルベッドで築地の冷凍マグロになっていた。

そうだ、昨夜、オッスが吐いたのだ。
ナオが空いた皿をさしだし、プーが背中をさすってやった。ふり向いたオッスの瞳はにじんでいた。それを潮に宴もおひらきに・・・

冷たい水をコップ1杯、いっきに飲んで、また元の場所で横になった。まだ5時だ、もう少し眠ろう。昨夜のことを思い出すのは、その後でいいだろう。
頭痛が消えてからでもいいだろう、そう自分に言い聞かせ、身を倒した。床板の冷たさが素肌に沁みこんで気持ちいい。

そのまま、眠りの方に傾きかけているのに、なかなかストンと眠りに落ちない。そのうち陽が射し始め、小鳥たちが集まりだし、小娘たちのようにうるさく喋りだした。その小鳥たちのせっかちな甲高いおしゃべりが、プーの頭痛を啄ばむ。
立ち上がり「静かにしなさい」と言って、窓を閉めたい。カーテンを引いて眩しい光をさえぎりたい、と思いながらも身体が動かない。尺取虫のようにして、とりあえず顔だけ日陰に運ぶ。

夢と現の間で、平さんたちのライブコンサートの様子が見え隠れする。昨夜「ミラノ」で・・・えりちゃんが歌った、2曲。ともにボサノバだった。
えりちゃんのささやくようなソフトボイスと軽いのりが曲に合っている。「月」で平さんにレッスンを受けているときより、いいできで本番に強いのかもしれない。舞台用の衣装でライトを浴びて歌っていると、いつものえりちゃんとは別人のように輝いて見える。忍者の変わり身の術を使っているみたい、われ知らず。

横たわるプーの耳元で乱暴な足音がしたり、食器の触れ合う音や水の音がしていた。話し声は何も聞こえなかった。トイレの水の音やバスのシャワーの音も聞こえた。それから、静かになった。2人は昨夜の後始末をして帰ったようだ。

昼まえにやっと起きあがり、ひげを剃り、冷たいシャワーを浴びると、気だるさがとれ、頭の中が晴れてきた。還暦を前にして、いまだに飲みすぎてしまう、自分が情けない。
欲するままに行い、則を超えず、とありたいが・・・いとも簡単にこえてしまう。頭痛は去ったものの、鳩尾あたりで鈍痛というほどのものではない、しびれるような感覚がある。奇妙な生き物がでんでん虫のように丸まて、じっと動かず微細な電波を発しているようだ。その生き物は病んだ細胞の塊だ。たぶん、胃潰瘍か肝臓疾患。プーは、1年も前からそう察しながら病院には行っていない。

独り住まいになって、ますます恣意的生活に拍車がかかっている。坂を転げ落ちる玉のようで、自分では止めることが出来ない。大きな穴や石の壁でもないかぎり、行くところまでいくしかないだろう、プーはまるで他人ごとのように思っている。

そこで、嫌なことを連想してしまった。
10歳年長のOさんは胃がんで死んだ。1歳年長のMさんはすい臓がんで半年後に死んだ。1歳年下のHさんは脳溢血でいち夜にして亡くなった。この1年間に、たてつづけに3人の遊び仲間が死んだが、3人とも熟年離婚組みだった。
これは偶然ではないし、笑い事でもない、と思いながらも自嘲的な笑みがこぼれてしまう。

「自由」は「身体」に悪い。

でも、長生きするために生きているわけではない。気がついたら、生きている、というだけの事だ。だから、生きてりゃいいんだ。やりたい事やって。おもしろおかしく。60年、生きても、100年、生きても、大差ない。人生は長生きを競うタイムトライアルではないのだから。


(2)
「そろそろミラノも禁煙にした方がいいんじゃない・・・」みや(都)。
みやちゃんは、去年まで煙草を吸っていた。ママの店スナック「銀」で働いていたから、職業柄1日1箱も。「銀」を辞め「ミラノ」で働くようになってから煙草を止め「ミラノ」も禁煙にしよう、と事あるごとに言っていた。プーも吸わないし、安ちゃんも吸わない。従業員で煙草を吸っているのは、ギーさんとアルバイトのジュンだけ。だから「ミラノ」を禁煙にしてもいいのだが、プーはなかなかふみきれない。売り上げが減るのが心配。ただそれだけ。

8月の平さんたちのライブコンサートも無事おわり、9月の会議で言いつのった。
「ライブコンサートのときは全面禁煙にしてるよね。とても空気がきれいで感じがいいのよ。平日も禁煙にしたら?」
「ライブコンサートのときの客は7割がたオバサマたちだろう。
禁煙にしないと集客にひびくんだよ」プー。
「平日の日もね、煙草の臭いがする、と言って、いったん入ってきたお客様が帰ってしまうのよ」
それは、プーも気づいていた。

最近、とみに嫌煙客が増えている。医学的に煙草の煙が有害であると証明されつつあり、マスコミを通じてそのデータが流されているので喫煙者は肩身が狭い。病院や公共施設、最近では駅のホームや歩き煙草も禁止されている。神奈川県では、条例で飲食店での禁煙を可決した。

「スタバーが全面禁煙で出店してきたときは、話題になったけど、今では普通。アタリマエ」みや。
「うちの会社でもね、昔は自分の机で吸っていたけど、いつの間にか廊下の片隅で吸うようになり、今では屋外の裏庭で吸っている。もちろん応接室も禁煙。文句や嫌みを言う来客も減り、しょうがないな、とあきらめている」安。
「ミラノ」を禁煙にしたいのはやまやまだけど・・・売り上げが心配。これ以上落ちると店はつぶれてしまう。

「時代の流れやね。あのロンドンのパブも禁煙になったんだって」ギー。
「ギーさん、ロンドンに行ってきたの?」平。
「ロンドンという名のパブじゃないの?」
「冗談はともかく・・・最近の日本の喫煙者のデータなんだけど、成人男性が30%
女性が10%、平均20%だって。だから大手の飲食チェーン店ではそれぐらいの
比率で分煙にしている店が多いね」安。
「きちんと分煙してくれているといいけどね、なかなかそんな店はすくない。もれてくる煙草の臭いにオバサンは過剰に敏感なのよ。それに、分煙の工事をしたら、けっこうかかるんじゃないの」みや。
「そうだね、塀の大きさと材質にもよるけど、100から200万ぐらいだね」安。
「ここで商売、しないでよ。借りたお金、あと100万しかないからね」みや。

「・・・とりあえず、朝から5時までは禁煙にして、夜はお酒も入るし、オバサマも少ないので喫煙OKということにしては、どう?工事代もかからないし」ギー。
「全面禁煙にしたいけど、まぁ、それで様子を見ましょ」みや。
「どれぐらい、売り上げ落ちるやろ?」プー。


(3)
「これをきっかけに、ギーさんも禁煙したら・・・?」みや。
「いまさら禁煙してもねぇ・・・。もう遅いよ」ギー。
「何をやるにしても、遅いってことはないのよ。私だって1年前にやめたんだから・・・。プーさんはいつからやめているの?」
「子供が小さいころ、小児喘息のけがあって、夜中に何度も救急病院に運ぶことがあって、それでやめたから、ずいぶん昔」
「私はね、娘のメグが煙草を吸ってるのを見つけて、やめさせたの。私もやめるからって」
「俺の娘は、お宅と違って煙草を吸わないし、小児喘息でもなかったからね・・・」ギー。
「でもね、厨房で吸わないで。まわりに迷惑だし、客席からも見えるのよ」
「ずいぶんな言い方だね。去年までさんざん吸っておいて、自分がやめたら・・・この言い草とは、変わり身が早すぎやしないかい?」
「時代の変化についていかないと商売にならないのよ。職場を離れたら何処で吸ってもいいけど、ミラノにいるときは店の裏で吸って」
「なにか、悪いことでもしているみたいだね」
「良いことではないわね」
「それじゃまるで犯罪者扱いじゃないか。いっそのこと、マリファナのように所持、吸引、売買は犯罪にすればいいんだ」
「それをやると、闇社会の膨大な収入源になっちゃう」プー。
「じゃあ、1本100円、1箱2000円にすれば本人のためにも社会のためにもいい」みや。
「バカ言ってんじゃないって。1箱2000円じゃ、吸えるわけねぇだろう」
「それでいいのよ。そこが狙いなんだもん」
「毎日1箱吸う人には、高額納税者として感謝状を贈るとか」プー。
「いい加減にしてくれよ。煙草と酒と競馬で収入より納税の方が上回ったらどうしてくれるんだよ」
「間接税には還付金はないよね」みや。


「朝から5時までは全面禁煙、夜は喫煙OK」で決まりかけたが、その後いろんな意見が出て紛糾した。ジュンを除いた煙草を吸わない女性陣は朝も夜も完全禁煙を望み、煙草を吸うギーさんは、せめて夜だけでも喫煙OKにしないと夜の売り上げが半減すると主張する。

そこへ島さんがあらわれて。
「俺も煙草やめたいんだけどねぇ・・・なかなかやめられないんだよ・・・。タクシーも煙草でもめている。煙草を吸う運転手、吸わない運転手。煙草を吸う客、吸わない客。狭い車内にいろんな客が乗ってくる。いままでは、ほとんどの運転手が煙草を吸っていたから、客の喫煙を運転手が我慢していた。それも仕事のひとつだったし、客の喫煙が嫌なら運転手にならなければいい・・・そんな風潮だったが、今では運転手の間接喫煙被害が問題になっていて、タクシー会社も訴訟問題に発展するまえに禁煙車を走らせている。そしたら禁煙車選ぶ客が増えているんだよ。時代の流れだね。だって80%の人が煙草を吸わないんだからね。そのうちタクシーは完全禁煙になるよ」

プーも「ミラノ」を完全禁煙にしたいと思っている。ただ、ギーさんが言ったように、昼の売り上げはまだしも夜の売り上げが心配。これ以上売り上げが落ちたら店を閉めなければならない。そこまでして、今、完全禁煙にこだわる必要があるのかどうか。

「プーさん、トイレの横に換気扇があるよね。そこに、もうひとつ換気扇を付けて、周りを背の高い観葉植物で囲って、喫煙コーナーを作ったらどう?1坪ぐらいのスペースがあるから大きな灰皿と椅子3つ4つ置けるでしょう」安。
「どれくらいかかるの?」プー。
「換気扇と工事代、それから植木を4つで20万ぐらいだね」安。
「高い。原価でやって。それから換気扇は強力なやつにして、煙がこちらに漏れてこないようにしてね、臭いも」みや。
「プーさん、工事は早めにやって、自主的に喫煙コーナーで吸うのは別として、実施は年明けからにして、これから年内3ヶ月かけてしっかり告知した方がいいよ。いきなりやると、喫煙者の常連さんが気分を害して来なくなってしまう可能性があるからね」安。


(4)
「月」はジャズをうたいものにしている店ではないが、ジャズを聴きながら酒を飲み語り合う場だ。ジャズと酒と煙草はセットになっているようで、喫煙者が多い。昔のジャズ喫茶など室内に煙がもうもうと立ち込めていた。それでなければジャズ喫茶の感じがしなかったが、今はそうでもない。

「別に禁煙にした訳ではないけど、入り口の外の踊り場に女房が灰皿を置いたら、ぽつりぽつりとそこで吸う人が増えてきた」平。
「平さんも吸わないし、吸わない人が増えてきたから、遠慮しながらここで吸うより外で吸った方がおいしいかも」プー。
「煙草を吸う人も、みなさん気を使っているみたいだね。初めての客などは、たいてい、煙草吸ってもいいですか、って聞くもの・・・そんなときは換気扇に近い席に案内しながら、入り口の外にも灰皿がありますから、と言ってあげるの。すると半分以上のお客さんが外へ行きますね。ちょっと行ってきます、って」


「この前のライブコンサート、えりちゃん、よかったねぇ・・・」プー。
「そうね、上出来」平。
「ここで練習しているときより全然よかったよ」
「まぁ、ベースとドラムと私もついているし、PAもあるしね」
「別人になってたよ、えりちゃん」
「うん、やっぱり本番になると女は化けるね。それにボサノバの方が合ってるみたい、ジャズより。そうそう、先週から増田さんの日曜日のレッスンが始まったよ、ここで。私は夜だけ顔を出して、コーヒー淹れたり食事出したりしている。見聞きしているだけでも、増田さんたちの教え方が参考になるね」
「家賃、いくらで貸しているの?」
「ナイショ」

「アレッ、赤塚不二夫じゃないの・・・?」プー。
「そう、小さんと交代してもらった」平。
「なんで?まさか教祖まで交代したわけじゃないでしょうね」
「赤塚不二夫は、われらが教祖小さんと違って、長患いしたんだよね。辛かったと思う。長い闘病生活苦を忘れないために、しばらくはコレデイイノダ〜」平。
「ニャロメ、バージョンってわけ?」
「反面教師バージョン」
「なんか、意味よく分からないんだけど・・・ところでさ、居酒屋の入り口によく置いてある、素焼きの大きなタヌキ、あれを外の踊り場に置いて徳利を持っている手に灰皿を持たせて、そこで、お客さんに煙草を吸ってもらえば・・・タヌキのお腹を撫ぜれば、願いが叶う、とかなんとか書いて」
「プーさん、買ってよ」
「ポックリで買えば・・・ポックリ教の聖なる動物なんだから」
「ふつう新興宗教は金持ちなんだけど、ポックリには1円も金ないよ。
教祖、不二夫ちゃんの写真、カウンターのタヌキの置物、ぜんぶ私の現物お布施」
「しょうがねぇーな・・・では、タヌキを探しにカッパ橋まで行ってくるか」プー。


(5)
「この前のライブよかったわね・・・やっぱりアップライトでもピアノがいいわ、キーボードより。マリコ(アップライトをくれた人)も喜んでた。ただ同然で下取りに出すより、こうしてここで使ってもらえてうれしいって。なんかマリコもここで練習がてらに弾かせてもらえないかって。マリコの部屋の真下の住民から苦情があって、弾けなくて寂しいみたい。上手いわよ、彼女。プロじゃないけど」北岡。
「北岡さんのお墨付きじゃ、大丈夫でしょう。BGMで弾きたいときにひくということで。ギャラは差し上げられませんが・・・」プー。
「もちろん・・・のどをうるおす飲み物さえあれば十分。それから・・・マリコはジャズは弾けません。主にクラシック、それから映画音楽やポピュラーを少々。しばらくは、私も様子を見に来ますので。そうそう、9月のジュニアーサッカーの会合、ここでやらせて。「S」はうるさくって、会議する雰囲気じゃないわ。人数は減ると思うけど・・・決まりしだい連絡します」北岡。

北岡さんの子供がサッカーを始め、そのジュニアーサッカーチームの会合を月1回「ミラノ」でやっていた。が、「S」が開店したので前月はあちらでやったが、今月は「ミラノ」でやりたいとのこと。ありがたい。北岡さんたちの会合や趣味の集いなどがやりやすい雰囲気作りをしなくちゃ。
「S」やファストフードやセルフカフェにない「ミラノ」の良さをもっと宣伝すること。

料金、メニューなど相談に応じます。
予約、人数によって割引があります。
テーブルの配置、つい立、禁煙席など用意します、など。

すでにホームページには記載してあるが、各個人にメール発信したり・・・まだまだ、いろいろやり方はある。
「ミラノ」のホームページを立ち上げてくれた安ちゃんの会社のAさんに相談してみよう。プーはシステムがからっきし分からないアナログ人間なので、少しはできるオッスも入れて。とりあえず、北岡さんたちの会合が「S」から「ミラノ」に戻ってきた。それは良かった、だけではなく、戻ってきたことに商売のヒントがあるような気がする。


(6)
ヒロさんが旦那(ヒロダン)の打った蕎麦を持って来る。
ヒロダンは定年退職してからも嘱託で元の会社に残っていたが、それも辞め、そば打ちに凝っている。教室で習いながら打ったそばを隣近所に配ったり、友人を呼んで自分ちで食べさせたりするのが楽しい。今ではそば打ち道具一式そろえ、ちょくちょく打っている。が、そうそっちゅう配ったり、友人を招待するわけにもいかず、自分たち2人では食べきれないので「ミラノ」へ持ってきた。
ランチタイムが終わったあと、ギーさんがサッと茹でてくれる。残り物の天ぷらもあるので、今日のまかないは天ざる。

「けっこういける・・・」みや。
「ミラノのそばよりおいしい」メグ。
「かたい、というか腰があるというか、まぁ、そばの香りがする」プー。
「これは10割だね。ニッパチの方が食べやすいかも・・・」ギー。

ヒロダンは、川越市が後援しているオジサンのための料理サークルに顔をだしていて、そこでそば打ちのことを知り、その教室にも通うようになった。すぐに道具一式そろえた。粉も仕入れた。打ちたくてしょうがないから、どんどん打つ。うまくいかない。
教室で習った通りやっても、失敗ばかり。捨ててばかりで仕入れた粉がなくなるころ、やっと食べれそうなそばが打てるようになった。といっても、人様に出せるしろものではなく、毎日、夫婦でそばばかり食べてすごし。

「私、すこしやせたみたい・・・」ヒロ。
「そばダイエット?」ヒロダン。
なんとか2人で(この香り、この歯ごたえ)と思えたら、もうたまらない。近所に配ったり、友人を呼んでふるまったり。えっ、ヒロダンが打ったの?と驚かれたり、おせいじでも、おいしいと言ってもらえると、嬉しい。つい調子に乗ってしまい、作りすぎてしまう。
それも一段落して・・・

「店を出してみたい・・・」
自分でも思いがけない言葉がポロリ。ヒロダンの口からこぼれ落ち、あわてて手で口を押さえる。その手の甲を見やるヒロさんは、聞こえたのか、聞こえなかったのか、
「はぁ・・・?」

「ミラノに出してみたい・・・」とっさに言いつくろったヒロダン。
じつは、ヒロダンのそば打ち仲間のひとりに「店を出す」という奴がいて、ついつい、そいつの腹案に身を乗り出してしまい、その気になっていたようだ。そば打ち教室のかえりに、数人で居酒屋に寄ると「店を出す」話でもりあがる。じっさい具体的に出店計画があるのはひとりだけだが、皆それぞれに想いがあるようで、いろんなアイデア、趣向が出て、それにまた尾ひれがついて話がつきない。

ヒロダンは定年後も会社に嘱託で残って5年勤める予定でいたが、2年で辞めてぶらぶらしていた。退屈しのぎに、市がやっているオジサン限定の料理教室に通ったり、そこで知り合った人とそば打ちに行ったりしている。生活は自分の年金でなんとかなる。
そのうちヒロさんの年金も入る。万が一に備えて、退職金には手をつけていない。やる気になれば資金的には小さな店ならやれないこともないが・・・
口に出して言うにはまだ早すぎる。それにこれから修行してそば屋を始めるとしても、65、6歳では遅すぎ。

「ヒロさん、旦那にニッパチ蕎麦、打ってもらって」みや。
みんなでヒロダンのそばを試食してから、ギーさんが感想をまとめるように言った。
「香りがいいね、そば通にはうけるかも・・・でも、ちょっとかたい。茹で加減にもよるだろうけど、10割蕎麦はぼそぼそした感じだね。打つにしても、茹でるにしても、むつかしい」
「ヒロダン、初心者なんだから、もっとやさしいそばを打てばいいのよ」みや。
「素人ほど難しいことをやりたがるんだよ」ギー。
「とりあえず、ヒロダンにいろんなそばを持ってきてもらって、食べ比べしようよ。いいのが出来るようになれば仕入れる、ということで」
「今の製麺屋さんのそばも悪くないよね・・・素人に頼るとあぶない」ギー。
「今までどうり製麺屋さんから仕入れて、出来のいいときだけヒロダンから買い取れば・・・どうせ毎日そば打つわけじゃなし」みや。


(7)
1階の大家(篠)さんの部屋に通じる扉の鍵を開け、手すり伝いに下りていく。
階下は暗く物の形が見えない。しばらくそのままの姿勢で立ちつくしていると、目がなじんできて電化製品デジタル時計の明るさで室内の様子が分かってきた。照明スイッチのありかを思い出し、歩き出したところで布団のカバーに足をとられバッタリ両手をつく。
なんと、目の前に篠さんの寝顔があった。
「お父さんと連絡がつかないの。携帯も家の電話にもでないのよ。プーさん、2階から下りてみて・・・」
そば談義に割り込むようにプーの携帯が鳴って、篠さんの娘さんからのお願いだった。

1階に篠さん夫婦、2階に娘さん家族が住んでいたが、篠さんの奥さんが亡くなり、1年後、娘さんの亭主の転勤により娘家族が横浜に引越していった。篠さんだけが1人残り、空いた2階にぷーが転がり込んだ。篠さんとプー、上下1人づつ別々に暮らしていてほとんど行き来はなかった。
たまに「ミラノ」に食事にきたり、出前を取ったりするくらいで、以前ほど頻繁に顔を見せなくなっていた。半月に1度、娘さんがやってきて掃除をしたり、
片付けものをしたりして世話をやいて、帰りがけに篠さんも一緒に車に乗せようとするが、駄々っ子のように梃子でも動こうとしなかった。プーが2階に住むようになったのも、大きな家に篠さん1人では無用心ということで、家賃収入のためではない。

ギーさんとみやちゃんも階下に降りてきて、すぐ救急車を呼んだ。篠さんは風邪を引いて寝込んだら、起き上がる元気もなくなったようだ。携帯の電源も知らないうちに切ってしまったようだ。もし、娘さんからの連絡がなければ、このまま孤独死だった。

10分もしないうちに救急車が来て、プーとみやちゃんも一緒に乗り込んだ。近所の知っている病院に運ばれて診てもらったところ、やはり風邪からくる衰弱で別段命にかかわるものじゃないそうだ。点滴を打ち始めて、しばらくすると、眠る篠さんの顔色もいくぶん明るくなったように見える。横浜から娘さん夫婦が駆けつけてきたので、プーとみやちゃんは入れ替わるように病院を出た。
そのとき、みやちゃんの胸にママのことがよぎった。プーは、竹本さんのことを想った。

「ちょっと弾いていいかしら・・・」
ランチタイムが終わり、一段落して厨房内で遅い昼食を食べているところへ、わざわざ北岡さんが言いに来た。北岡さんとマリコさんは「ミラノ」で食事をし、コーヒーを飲み、ころあいをみはらかっていたようだ。お客様は2組だけで、お茶を飲みながら話し込んでいた。マリコさんが弾き始めても2組のお客さんは生音に気づかないようだ。ユーセンで流している音量と同程度にしてあるので、注意深く聴いていないと分からない。でもひとりの女性がピアノの前のマリコさんに気づき、連れにあごをしゃくって見せた。連れはマリコさんを見やり、しばらく聴いていたが、すぐまた、おしゃべりにもどっていった。もう1組の客はピアノを弾くマリコさんが見えなかったせいか、最後まで気づかなかった。

マリコさんが小1時間、北岡さんが10分ほど弾いて
「また来ていいかしら・・・」
と北岡さんが言い、マリコさんが会釈して帰って行った。
「いいんじゃない・・・」みや。
ギーさんもうなずいている。
全部クラシックの曲だったので、はっきり言ってよく分からなかった。ジャズならそれなりに判断できるのだが・・・まあ、BGMとしてならOK。マリコさんの話では、ティータイムに2時間ばかり、週に1、2度とのこと。

「お父さんをこちらで引取ることになったので、1階もミラノさんで使っていいですよ」
先日の救急車のお礼を述べた後、篠さんの娘さんは、家賃もいらないと言う。
「空き家にしておくと無用心だし、家も傷むので・・・でも私たちが戻るときは出て欲しいの」
娘さんが1階の家賃はいらないが、一応不動産やを通して契約書は作って欲しい、と言うので、また敦子さんの世話になる。

2階から、椅子、テーブル、冷蔵庫、冷凍庫、寸胴、鍋などの備品を1階に下ろす。「ミラノ」のパソコンや書類も運び掃除をすると、大の大人が4、5人かかって1日仕事だった。とくに冷蔵庫と冷凍庫は厄介だった。ギーさんは、昔ギックリ腰をやった腰痛持ちで、重たい物には手を出さない。力仕事などやったことがないプーと
女性陣では荷が重い。そこで「夜、ミラノでご馳走するから」と搬入時と同じように安ちゃんちの若い衆に手助けを頼む。
「若いって、いいわね」
プーと、ギーさんをチラッと見やり、みやちゃんが言う。
「若い男の子が一生懸命、額に汗水たらして力仕事をしているのを見ると、なんだかゾクゾクするわね」
「なんだよ、そのゾクゾクっつうのは・・・」ギー。
「えへへへ・・・惚れ惚れするってことよ」
「へーえ、懲りないねぇ。ひとめ惚れで、ダメ男をつかんだくせに。若い男ってのは、単に労働力よ」ギー。

「来たきた、若くない労働力」みや。
そば打ち板、麺棒、包丁、道具一式、1階の台所に運び込んだヒロダン。
「明日から、ここでそば打ちします」
そばが打てるだけで嬉しいらしい。無料奉仕だから、材料費だけで済む。まだ、出来不出来はあるにしても、本人が嬉々としてやっているのだから、好きにやらせている。ヒロさんも家でそば打ちをやられるより、ここの方が都合がいい。台所が汚れないし、かたづく。口には出さないが、もう、ヒロダンのそばを食べるのは
飽きあきしていた。

「茹でもやらせて・・・」
ヒロダンは厨房内に入り込んで「やっぱり、自分で打ったそばは自分で茹でないと・・・」
大きな寸胴にお湯を沸かし、薬味のネギを刻み、わさびをおろし
「やっぱり、お客さんがどんな風に食べているか見てみたい」
ギーさんに包丁の使い方を教わったり、天ぷらの材料の下ごしらえを手伝ったり、すっかり弟子入りした格。
「カウンターで飲んでる客は得てして中に入りたがるんだよ。特に女性はね。立場が入れ替わる面白さってあるよね。でもそれは遊びで、いっときよ。まあ、ヒロダンはそれよりはましなようだけど・・・」ギー。

みやちゃんの娘のメグがインフルエンザでバイトを休むと、みやちゃんと朝6時に店に入って10時にメグと入れ替わるヒロさんが、急遽2時まで残ってくれる。いつもだと10時にヒロさんが上がった後、11時にヒロダンが入るのだが、今日は一緒。なんだか照れくさそうな2人。
いい歳したジジイとババアが恥ずかしがっている場合じゃない、と思うんだが・・・。

「ヒロダン、そうしてヒロさんと並んで立っていると、ミラノは2人の店のようだね」ギー。
「止めてくださいよ、ギーさん、勘弁してよ・・・」
暑くもないのに額の汗をぬぐうヒロダン。
その横でヒロさんが、ニコニコ。
それでも、お昼のラッシュが始まると、ヒロさんは亭主の仕事ぶりが気がかりでチラチラとチェックしている。自分の仕事がおろそかになっているのに・・・。
ヒロダンは、そばのゆでと水洗い、それにあわせて天ぷらを揚げることに集中している。女房の通すオーダーは聞こえても、ヒロさんのことなど眼中にない。まだ、そんな余裕はない。12時から1時までの1時間は、リング上のボクサーのように厨房の中でたたかっている。

メグの風邪は2、3日では治らず、敦子さんも応援にかりだされた。
「毎日は無理よ。ランチタイムだけね。これでも、忙しいんだから・・・孫のめんどうをみたり、習い事をしたり・・・」
敦子さんは料理教室でケーキ作りを習っているとかで、自作のチーズケーキを持ってきた。

さすがに去年まで自分の店だけあって、敦子さんの動きにそつがない。レジをやりながらも、知り合いのお客さんとの挨拶に余念がない。ほとんどの客が知り合いだから、話しかけられて返事するだけで、思うように仕事にならない。お客さんにとっては、敦子さんが相手してくれるのが嬉しいようだ。
敦子さんとお客さんが楽しそうに立ち話をしている眺めは、なかなかいい感じだ。ランチタイムのあわただしいさなかにあっても、敦子さんがいると、くつろいだ人間同士の関係になる。

ヒロさんはモーニングの時間帯の仕事には慣れているが、お昼はまだ要領が得ない。そこへもってきて敦子さんは、久しぶりに会った、なじみのお客さんをのんびりおもてなし。みやちゃんひとり、カリカリ走り回っている。

2時すぎて一段落して賄いの昼食を食べると、やっと、みやちゃんの目がやわらかくなった。自分でも顔がひきつって怖い表情になっていたと思う。忙しいのにヒロさんはのろい。のろいのに亭主のヒロダンの仕事ぶりに気をとられている。

敦子さんは笑っておしゃべりをしているばかり。のど元まで不満がこみ上げてきたが、我慢した。メグと2人でやればスムースに運ぶ仕事の流れが、3人でやっているのに遅い。お客様を待たせていると、必要以上にあせる。あせるとイライラする。

イライラすると怖い顔になる。このちぐはぐな感じは自分の娘がインフルエンザで1週間も休んだから、と思うと誰にも文句は言えない。
昼ごはんを食べ終えるころには、ヒロさんにも敦子さんにも、お礼を言いたくなった。

「このケーキ、おいしい。本当に敦子さんが作ったの?」みや。
「おいしい?ありがとう。春から料理教室に通っていて、ケーキ作りにはまっているの。いまのところ、人様に出せるのはチーズケーキだけ。ふふ」敦子。
「おいしい。私も作ってみたいわ」ヒロ。
「むりむり」ヒロダン。
「そんなこと、ないわよ。私にだって作れるんだから」
「敦子さん、ミラノでチーズケーキ出せば・・・」みや。
「こんなので、代金いただけるかしら・・・」
「大丈夫だよ。いま出している抹茶ケーキとかわるがわる出せばいい」ギー。
「1日何個ぐらいでるの?」敦子。
「10個ぐらいかな」みや。
「毎日は焼けないわよ、週に2、3回」
「いいですよ、それで。敦子さんが焼かないときは今までどおり抹茶ケーキを出すから。だから、焼く日を前もって教えて。抹茶ケーキの仕入れの都合があるから」ギー。

「チーズケーキ、いくらで仕入れるの?」みや。
「それはまだ・・・」ギー。
「いいわよ、仕入れ代だなんて・・・」敦子。
「そんな訳にはいかないわ、材料費プラス手間賃」みや。
「材料費だけでいい、ヒロダンのそばと同じ。でも、これって収入になるのかしら?あら、嫌だ。お金をいただくのは止めておく。いろいろめんどうそうだから。私のチーズケーキとミラノのランチの物々交換でどうかしら・・」
「正確には、物々交換は禁止なんだよね。物々交換すると税金を徴収できないから、税務署に叱られる。あ、たいした金額じゃないから大丈夫と思うけど、ナイショにしておいて」ギー。
「ギーさん、そば粉の代金だけど、私がいただくと敦子さんのケーキと同じで、収入扱いされると年金をもらっているので、困る。そば粉代はミラノが直接業者に支払って」ヒロダン。

「ボランティアだね、ヒロダンといい、敦子さんといい。なんたって人件費がかからないんだから・・・ミラノにはうってつけだね」ギー。
「ボランティアと言えば、プーさんも半分ボランティアみたいなものね、給料10万だもん」みや。
「家賃、経費で落としているし、飯はミラノでただ同然だし、10万あればやっていけるよ」プー。
「生活保護もらっても14、5万あるのよ。そっちの方がいいんじゃない?」みや。
「嫌だよ。申請しても五体満足だから却下されるだけ」プー。
「あら、そんなことないわよ。私の知っているおばさん、生活保護もらって、毎日元気でパチンコに行ってるわよ・・・」みや。
「何か病気を持っているんじゃない?」ギー。
「そんな風には見えないけど・・・別かれた元亭主がしゅっちゅう出入りしているし、社会人の息子も来ている。生活保護を受けているおばさんの部屋で一家団欒やっているよ。いったいどうなっているのかしらね・・・」
みや。
「たぶん、あれだと思うよ。宗教がらみか政党がらみ。プーさんが申請しても相手にしてもらえないけど、背後に宗教や政党がついていて、生活保護や介護や福祉の金を引き出すプロがいると、役所の人間も弱いらしい」ギー。
「ギーさん、詳しいね」みや。
「俺の知ってるヤーサン、もらってるよ。一部、組にピンハネされているけどね。ある宗教団体の信者ももらってる。そのかわり、選挙のときは関係政党に入れなきゃ」ギー。
「生活保護を受けている人は氏名を公表すればいいのよ・・・」みや。
「それをやると、プライバシーがどうのこうの・・・」プー。
「そんなこと言っているから、地方自治体や国の金をむしり取られるのよ」みや。
「まったく、税金の奪い合いだね。政治家、官僚、公務員、宗教団体、暴力団に右翼にエセ同和。それに税金をかすめとっていく不埒な市民。いくらでもいるんだよね、そんなやからが・・・みやちゃんなんか、女手ひとつで娘2人育てるつーのに」ギー。
「あぁーやめよ、こんな話。腹がたってくる・・・」みや。
「みやちゃんが始めたんじゃない、プーさんの生活保護・・・」ギー。
「そろそろ、祭りの準備、やろうよ」みや。


(8)
あれから1年、経ったのか。
日々の時の流れに身をさらしていると分からないが、川越祭りがくると、大晦日のように1年が「あっ」という間だった、と感じる。その「あっ」という間にもさまざまなことがあったにはあったが・・・

失業中、たまたま「ミラノ」に寄って敦子さんと話すようになり、山ちゃんに拾ってもらって、使ってもらい、部屋まで斡旋してもらった。すれすれでホームレスになるところだった。見ようみまねで夏をのりきったら、すぐ川越祭り。初めて「ミラノ」の店先に出店をだした。文化祭の高校生のようにはりきって、大の大人がはしゃいで焼きそばを売った。「ミラノ」はイタリアンなのに。

「うちの娘、2人とも出すから、みんな出て・・・年に1度の稼ぎどきだから、全員総出でやろうよ」みや。
「ナオとオッスは出るって、2日とも・・・ジュンは地元だから、今から祭りの準備で忙しく、当日はバイトどころじゃないって」ギー。
「確か去年もそうだったよね、町の山車が出るとか・・・」プー。
「あの子は毎年そうなのよ、正月より祭りの方が大切だって。私、手伝うわ。チーズケーキいっぱい作ってくるから、出店で売って」敦子。
「じゃー、ナオ、オッス、メグ、和、若い娘たちに売り子をやってもらおう」ギー。
「私は、何をやればいいでしょう」ヒロダン。
「そうだなぁ、そばは出さないから・・・ヒロさんと2人でおでんの下ごしらえ、たのむよ、篠さんちの台所で」ギ。
「おでんやるの?」プー。
「祭りにつきものよ、焼きそばとおでん、歩きながら食べられる物がいいな」ギー。
「あれ、簡単でいいわよ、フランクフルト。ボイルしておいて串を通して焼いて、後は洋辛子かケチャップをつけるだけだから」みや。
「よし、それやろう。今年はフランク、焼きそば、おでん。焼きそばは、川越名物太麺」ギー。
「プーさんは、コーヒー落としてポットに入れておいて。出店でテイクアウトカフェ。それから、生ビールのサーバーを用意して。お祭りだから、日本酒もね」みや。
「プーさんはドリンク係り。オイラは朝から晩までフランクと焼きそばを焼いている」ギー。
「私は何するの?」みや。
「出店の4人娘と後方のおやじ3人(オイラ、プーさん、ヒロダン)の連携を頼むよ」ギー。
「みやちゃん、今から祭りの2日分のシフトを作っておいて。まさか全員、朝から通しって訳にもいかないし、休憩時間なんかも・・・」プー。


(10)
「山ちゃんって、格好、よかったわぁ」ナオ。
プー、ギー、オッスで閉店後のかたづけをしているところへ、ふらっとナオが入ってきて一緒に飲むことに。
「何をとつぜん・・・山ちゃんがどうかしたの」ギー。
すでに、ナオはお酒が入っているようだ。
「3人で先にやってて・・・」
ギーさんは、威勢よくポンポンとビールの栓を抜いて、グラスと一緒にカウンターに置いた。それから、長靴に履き替えてデッキブラシで厨房内のタイルの床を洗っている。

「山ちゃんと敦子さんって、お似合いの夫婦だったよね」ナオ。
「いい感じだったね。半年、一緒に仕事をしていて、夫婦喧嘩を見たことがない」プー。
「たまに、バイトを怒鳴りつける店主って、いるじゃない?私、山ちゃんに叱られたことないよー」ナオ。
「私もー」オッス。
「確かに、優しかったね。善人は早死にする」プー。
「ギーさんは長生きする」ナオ。
「どーゆう意味だよ、それ・・・だいたい夫婦喧嘩しねぇ夫婦なんて考えられないよ。山ちゃん夫婦も若いこは
ドンパチやっていたと思うよ」ギー。
「そんな感じ、しないの。仲のいい兄妹」ナオ。
「敦子さんは山ちゃんのこと、尊敬していたね」プー。
「妹が兄を尊敬して仲良く子供を2人つくって・・・」ギー。
「憎まれっ子、世にはばかる・・・」オッス。

「なんだよ、オッスまで・・・分かったよ、分かりました。・・・ところで、ナオ、飲んできたの?」ギー。
「ちょっとね。あぶない雰囲気になる前に逃げだしてきた。あまり性急に求められてもね・・・で、飲み直しに寄ったわけ」
「男はみんな助平だから、酒を飲むととくに・・・」ギー。
「そうでもない、みたいよ。好きな人が求めてくれず、なんでもない人が言い寄ってくる」ナオ。
「そんなもんよ、男女の仲は。好きな人には好かれず、好きでもない人に好かれる。追えば逃げる。逃げれば追う」ギー。
「鬼ごっこみたいで、疲れるはね。駆け引きしたり、嘘ついたり、だましたり」ナオ。
「好きな人、いるのか、ナオ」ギー。
「まぁーね」
「こんないい女を袖にする奴もいるんだね・・・もったいないじゃないか」ギー。
「ギーさん、助平」オッス。
「男はみんな助平よ。な、プーさん」
「う、うん」
「えっ、ほんと?プーさんも助平なの?」ナオ。
「気持ちはね、でも身体がね・・・」ギー。


(10)
案の定、雨だった。
川越祭りは雨まつり。以前は曜日に関係なく、10月15、16日だった。最近は、観光客目当てに、10月の第3土日になったが、それでも雨祭りに変りはない。まぁ、天気予報で分かってはいたけれど・・・昼すぎに止そうだから、よし、としよう。

いつの間にか若い娘たちに混じって、手ぬぐいで鉢巻した島さんが、呼び込みの声をかけている。どこから調達したのか、はっぴまで羽織って。若い頃、ビヤガーデンでアルバイトしていたとかで、生ビールの注ぎ方になっている。泡の立て方、その分量が一定できまっている。薄い透明プラスチックのコップを傾ける角度といい、サーバーのレバーを引く右手といい、なかなか堂に入っている。
「島さん、自分で飲んでばかりいないで、売ってよ、ばんばん」みや。
「試し飲み、試飲」
「試し飲みは1口だけ。ちょっと裏へ行って、おでん持ってきて。昨日、ヒロダンが仕込んだ鍋が4つあるから、とりあえず1つ。それから、厨房から焼きそば10人分ずつ運んでね。とぎれないように」
「なんだよ、小間使いかよ・・・」
「それから、発泡スチロールの皿、割り箸、洋辛子、ケチャップ・・・」
島さんはメグと和に向って
「お母さんは人使いが荒いね」
2人はあらかじめ練習していたかのように、そろって首を横に振り、そっぽを向いた。

そこへ敦子さんがチーズケーキを持ってきた。といっても、実際に運んできたのは後ろからついてきた安ちゃん。さっそく1枚12カットを出店に並べる。
「ケーキ200円ね、焼きそばも200円」みや。
「おでんは?」安。
「1つ100円。なんでも」
「じゃ、じゃが芋、厚揚げ、牛筋、たまご。と、焼きそば。お昼まだなんだ。島さん、生ビールちょうだい」安。
「私も、少し、いただこうかしら。お祭りだし。生、半分でいいわ。半分、安ちゃんにあげる」敦子。
「その半分、オイラがいただきます」島。
「・・・島さん、裏のヒロさん夫婦に焼きそばと生ビール、持って行って」みや。
「メグ、和・・・お母さんは人使いは荒いけど、やさしいんだね。ヒロさん夫婦の昼飯のことまで気配りしている。オイラにも少しは気ぃ使って欲しい」
娘2人はまたしても首を横に振りつつ、踊るようなステップを踏んで、親指で何度も地面を指差している。

こんな夫婦もいるんだな。
じゃが芋の皮をむいたり、玉子を茹でたり、昆布を結んだり、ヒロさんとヒロダンは無言で明日の仕込みをしている。それは陽の当たる庭で幼児がママゴトをしているような情景。島さんが焼きそばとビールを運んでいくと2人はそろって目線を上げ、口元をゆるめた。
申し合わせてかのように2人の動作がぴったり一致している。
「これ食べて」
「あっ、これは、どうもどうも」ヒロダン。
「精が出るね、おでん、評判いいですよ・・・」
島さんの営業トークに2人は顔を見合わせて、ニッコリ。
こんなふうに、歳をとっても仲のいい夫婦がいるんだな。べつに、うらやましい訳ではないが、悪い眺めでもないな。確か、2人には子供がいないはず・・・。

雨があがり、客足がのびて、蔵造りのメインストリートは歩けないほど人が出ている。
「ミラノ」は裏通りだから、メインからあふれた客がこぼれてくる。おこぼれちょうだいでも大層な数で、おもしろいように売れる。夜の8時には、あらかた売りつくして、店じまい。
「明日もあるから、今日のところはザッと片付けるだけでいいよ」ギー。
疲れて、みんな、言葉少なく、さっさと帰ってしまう。プーも疲れているはずなのに、
ちょっとした興奮状態で、このまま帰る気になれない。ギーさんも同様で居残って興奮を鎮める。島さんも付き合って呑む。

明日は晴れるから、もっと忙しくなる。
次の日曜日は増田さんのライブコンサートだ。
これで10月の売り上げは、なんとかなる。
よし、喫煙コーナーの工事をやろう。
疲れた身体と高揚した気分で、プーの頭が次々と青写真を描く。

明日の焼きそばの麺とキャベツとイカの手配はOK。おでんとフランクの仕込みはヒロダン夫婦がやってくれた。ドリンクはぷーさんだ。明日も敦子さんがチーズケーキを持って来てくれる。売り子の娘たちも今日の4人がやってくれる。よし、大丈夫だ。ギーさんも頭の中で一通りチェックしている。

「明日も手伝うよ、仕事、休みだから。2時ごろに来る」島。
「もっと早く来ないと、みやちゃんに叱られるよ」ギー。
めずらしく、早々とお開きとなる。

明日のおでんの仕込みをはやばやと終えたヒロさん夫婦は、夕方から連れ立って祭り見物に出かけた。その後姿を見ていると、若者のように手をつないでいる訳ではないが、なんだか2人はつながっている。一寸、離れて歩いているのに2人を包む空気の色がかすかに違う。手をつないだり、肩を寄せ合ったりしているわけではないが、目に見えないものでつながっている気配が漂っている。
「ヨッ・・・仲がいいね」ギー。
「ゴチソウサマー」みや。

2人に冷やかされて振り返ったヒロダンは、プーより数歳年長。身長はプーと同じぐらいだが、太っているプーより、まだ太っている。定年退職したときは零細企業の部長どまりだったから、たいした出世もしていない。これ、といった取り柄はないが、地道にコツコツ40年務めあげた。大学もでていない、美形でもない、そんなヒロダンをヒロさんは「偉い」と思っている。「立派」だとも思っている。
口には出さないが、ヒロダンを見る目が違う。見上げる感じ、なのだ。他人が見たらなんでもない、ただのオッサンなのに、ヒロさんにとってはかけがえのない人なのだ。

早々とお開きとなるが、このまま部屋に帰る気になれず「月」に向う。
島さんはカラオケスナックに行き、ギーさんはどことへとなく消えた。

今年の川越祭りはNHKで放送されるので、すべての山車が出て、町のいたる所で盛り上がっていた。観光客もいつもの年より多く記録的な人出だった。おかげさまで「ミラノ」もおこぼれちょうだいして、8時には売り切れ、閉店。
1ヶ月前から、祭りの後の月曜日は臨時休業と告知してあったので、後片付けは明日、ということでみんな祭りの最後を見届けに行った。
プー1人残って、ぼんやりしていた。


(12)
腹痛で夜中に目がさめた。
4本の指先の腹が、かってに鳩尾のあたりを押さえていた。強く押さえると一瞬、痛みが消えたような気がする。が、それは錯覚なのは分かっている。まるでお腹の中の怒れる生き物をなだめるように、手のひらで撫でたりさすったり、指先の腹で強く押さえたり、あの手このてでご機嫌をうかがう。駄目だ。今日のこいつは本気で怒っている。いつもの痛みとは違う。「救急車」という単語が思い浮かんだが「うーん」と唸って、打ち消した。薬を飲めば落ち着くはずだ。この前も、その前も、常備薬を飲むと2時間もすると痛みもやわらぎ、再び眠りに落ちた。

薬を取りに行こうと思うのだが、立ち上がることができない。胎児のように丸まったまま、その姿勢を解けない。痛みで身体を伸ばすことができない。この痛みに耐えるにはデンデンむしのように丸まって、唸って、転がっているほかない。

背後から手が伸びてきて、ぷーの手に手を重ねた。その手の冷たさが消えたころ、ぷーの手のひらの下に入ってきて、鳩尾あたりの怒れる生き物に手を当てた。

間抜けなことに、その手はオッスだ、と気づくのにずいぶん時間がかかったような気がする。昨夜、みんなと別れてから、オッスがこっそりやって来たのだ。
2人で飲み直したのがいけなかったのか。
最後に飲んだウイスキーが腹の虫を怒らせたのか・・・夜が明けるころ、痛みがやわらいだ、と感じる間もなく眠りに落ちていた。

窓辺の小鳥たちの甲高いおしゃべりで目がさめた。小鳥たちのうるさいさえずりが、非難がましく連呼してた。
「アンタの手のひらの下に差し入れた手は、アンタのもう一方の手だよ」






           「嘘日記その5・ 祭りのあとで」終わり

           これはフィクションです。

           






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