嘘日記 その6 「手あて」



  (1)
 祭りが終わると街も虚脱したように静かにたたずんでいる。

 月曜日は臨時休業にして、午前中に祭りのあとかたづけをして、みんなで残り物のおでんを食べる。
「おでんはひと晩寝かした方がおいしいね」みや。
「味が染みこんでいる。白いご飯がほしいけど、ないんだよね」ギー。
 ヒロダンが立ち上がり、お湯を沸かしている。ヒロさんがねぎを刻んだり、わさびとつゆをだしたり、ざるそばの器を準備したり。

 ギーは、生ビールサーバーのレバーを引いて
「これを残したらもったいないよ」
 みんなの分までついでいる。
「わたし、いらない」みや。
「わたしも」ヒロさん。

「ヒロダン、プレートにざる敷いて5人分まとめて盛っちゃって」ギー。
「この厚揚げなんか、味が染みこんで濃いから、ビールがうまい。ハンペンも1日たつと味がするね」
 プーが立ち上がり、生ビールのレバーを引くと、プシュ、プシュプシュ……
「泡食った」プー。

「いい加減にしなさい、ってこと」みや。
「ねぎもわさびも器ひとつでいいから……」ギー。
 ざるそばの富士山を囲んで、めいめい箸をつきだす。
「ざるそばをみんなで囲むのは初めて」ヒロダン。
「おでんにはビール。ざるそばにはお酒」
 プーひとり、ぐい呑みにぬる燗をついでいる。
「嫌ぁーねぇ。昼間っからお酒呑んで」みや。

「こうして、みんなで1つの料理を食べると、ひと味違うね」ヒロダン。
「鍋と同じよね」ヒロさん。
「同じ釜の飯を食った仲」ギー。
「鍋釜も仲がよくていいけど。ちょっと…あらら、プーさん。お酒の入ったぐい呑みにそば入れて、どうすんのよ?」みや。

 急に眠たくなってきて、めずらしくお酒1杯で引きあげる。ヒロダンもついてきて、明日の分のどばを打つ、と言う。
 ギーが、手をあげて
「ちょっとパチンコして帰る」
 みやとヒロさんは、後片付けしながら世間話。

 ヒロダンは1階でそばを打ち、プーは2階で増田さんのCDを聴いていた。増田さんのギターに催眠術をかけられたのか、1曲も終わらないうちに眠りに落ちていた。
 お祭りのあと、打ち上げをしたあとも部屋で飲んで、夜中、腹痛に見舞われたのだった。ついつい飲みすぎてしまうのは、アル中だった父の遺伝だろう。劣性遺伝だな。
 祭りの翌週の日曜日、増田さんのライブコンサートを終えころから、街はもとの日常のざわつきを取り戻していた。


(2)
 ついに「ミラノ」の裏の住民から苦情がきた。
「ゆうべのライブの音、うるさかったわ。ドラムがドンドン響いて、おちおちテレビも見てられないのよ」
 夜になって、町内会長が現れ
「ライブのときの音、もう少し下げてください。近所迷惑になっていますよ」
 夏、店の前のテラスでの酔った若者たちのふるまいに苦情があって、それが、涼しくなって収まったばかりなのに……まぁ、次から次と問題がでるもんだ。
 ライブの音がうるさい、という苦情は以前から間接的にはとどいていた。でも、まぁ、ドラムがはいらなければだいじょうぶだろう、と誰もなんの対応もしていなかった。
 裏の住民の奥さんが怒鳴り込んできてはじめて、驚いた。
 好きな人にとっては、お金をだしてでも聴きたい音楽が、興味のない人には雑音でしかないことに、遅まきながら気が付いた。

「防音するといっても、この建物、築60年ぐらいだからねぇ。木造モルタルで、すき間だらけでボロボロだよ。あと10年もたないよ」
 建築業の安ちゃん。
「この建物に手を入れてもあと10年じゃ、無駄だよね」ギー。
「それに、喫煙コーナーの煙草の臭いがもれてくる苦情があるし」みや。
「大型の換気扇をつけて観葉植物で囲って、ずいぶん空気がきれいになった感じがするけど」
 喫煙者のギーは臭いに鈍感だ。
「確かにきれいになったけど、完全禁煙になじんでいるオバサマには、我慢できないのよ。やっぱり完全密閉の工事をしないと」
 みやにはオバサマの苦情がよく分かる。
「分煙にするのは来年からで、今は周知期間で、お客様にまかせているだけだから、しょうがないよ」ギー。
「裏のおばさん、ライブだけじゃなく、新しく取り付けた換気扇の音もうるさいって」プー。
「もう、お金のかかることばかりじゃないの。無いわよ」
 ウンザリするだけではなく、みやはご立腹。

「とにかく、防音が先だね。禁煙コーナーの密閉工事はうちでやるけど、防音は、プーさんたちでやってよ。うちでやると高額になるし、プーさんたちで、できるよ。ホームセンターで防音材やいろんな種類のセメントも売っているから。やり方はうちの人間に教えさせるから。プーさんとギーさんで、暇をみて、ぼちぼちやればいいんじゃない。プロのようにきれいにできなくていいの。穴とすき間を埋めてくれれば。それだと、簡単だし、材料代だけですむし」安。
「それがいい。お金がかからないのがなによりだわ。ヒロダンも手伝ってくれるんじゃないの」みや。

 ボランティアでそばを打ったり、ゆでたりするだけではなく、すでにヒロダンは祭りの前に100万円、出資していた。そば打ちを始めてから、自分の店を出したいと、かすかな夢をもっていた。仲間の1人が出店を予定していたので、ついついヒロダンもその気になっていた。が、ヒロさんはぜんぜん相手にしてくれず、夢がしぼんだ。

 漠然と、店を出せればいいなぁー、と考えていたが、現実的にヒロさんに問い詰められると無理。そばを打つ技術だけでなく、ちょっとした日本料理もできない。あくまでも素人の趣味で、お金をいただくほどの物ではない。それにヒロダンは接客業の経験がない。これから本気で修行をしたとしても、5年はかかる。5年たてば、体力的にもたない。夫婦でそんな話をしているとき、ヒロさんが思いついて「ミラノ」で「ボランティア」となった。

 渡りに船とは、このことか。
 試しにヒロダンの打ったそばを「ミラノ」に持ち込むと、まずまずの評判。そうこうしているうち、プーの下の篠さんの部屋が空いたので、そこでそばを打ち、「ミラノ」でゆで始めた。ギーに天ぷらの下ごしらえや揚げ方を習い、いつのまにか働いている。ただ働きだけど勉強になるし、ただでそばが打てるのがうれしい。自分が打ったそばを目の前でお客さんが食べてくれるのが、これまた嬉しい。それに、女房がいちばん恐れる負債のリスクがないのでボランティアで十分。自分で店を出すことを思えば「ミラノ」に出資した100万は高くない。「ミラノ」がつぶれても、それ以上損をすることがないのだから……

 ヒロダンだけではなく、島さんも手伝ってくれる。クリスマスコンサートに間にあえばいいから、2ヶ月ある。今度の日曜日、安ちゃんのところの作業員が防音工事の手ほどきに来てくれる。みんなでぼちぼちやりましょう。

「プーさん、とりあえず裏のオバサンちに折り菓子でも持って、お詫びに行った方がいいよ。そのとき、オバサンの苦情をよーく聞いて、自分たちで防音工事をする旨、伝えて誠意を示して」
 安ちゃんがクレーム処理のハウツーを教えてくれる。
「行きたくねぇなぁ、みやちゃん、行ってよ」プー。
「謝りに行くのは、店長の仕事」みや。
「こんな時だけ、店長にして…」
「それから、プーさん、大家さんの所へ行って、壁の隙間、何とかしてくれないか、相談してみてよ。まず、工事なんかしてくれないと思うけどね。だったら自分たちでやるから、材料費ぐらい出してくれないか、打診してみて。出さないと思うけどね。とにかく、無断で修理すると、後からどんないちゃもんつけられるか分からないから、報告がてら貸しを作っておくといい」安。
「嫌だよ、そんなの。安ちゃん、大家さんと知り合いなんだから、安ちゃんが行ってよ」
「プーさんが裏のオバサン、安ちゃんが大家さん」
 みやが決定する。


(3)
 増田さんの娘さん(リノ)が1曲だけフルートを吹いた。イパネマの娘。春、さくらの下で吹いていた時よりずいぶん上達していた。スムースでさわやかな感じがした。
 増田さんはソロを控えめにしてヴォーカルのニニを立てていた。なにしろ増田さんのプロデュースでニニのファーストアルバムを出したから。たくさん売らなければならないから、プロモーションをかなりやったらしい。だから、ベースもドラムも彼女をひき立てるのを心得ている。
「ミラノ」でのライブは、CDのプロモーションは控えめにして客層に合わせてスタンダードを半分、ビートルズやスティービーワンダーなどのミリオンセラーのポップス半分、飛び入りで増田さんの娘さんのボサノバ。一般的に知られている選曲だったので、お客さんには好評だった。

 打ち上げで増田さんたちミュージシャンが引きあげるとバイトの娘たちも居なくなり、ひとりふたりと帰り、残るはみやちゃん、島さん、ギー、プー。
 ライブの後の打ち上げは、興奮しているのか、ついつい飲みすぎるようだ。いつになく、みやちゃんもゴキゲンで口も滑らか。

「島さん、去年のクリスマスと春のライブ、フィリピンの女性、連れて来てたでしょう。このところ見かけないけど」
「うん」
「あれ、何なの」
「フィリピンパブのホステスだよ」
「あんな若い子と付き合ってるの?」
「べつに付きあってるわけじゃなく、客とホステス」
「じゃ、ライブに同伴するにも、お金がいるの?」
「そう」
「ばかばかしい。いくらなの、デート代」
「まぁ、いいじゃない。いくらでも」ギー。
「島さん、フィリピン女性がすきなの?」
 みやの追及にタジタジとなる島さん。
「べつに、好きってわけじゃないけど…彼女たち、明るいんだよね、底抜けに」
「言葉、通じるの?」
「カタコト」
「別れた奥さんが中国人で彼女がフィリピ人。外人が好きなの?」
「そんなこと、ないけどね」
「俺、キーセンパブに行ったことある」ギー。
「やたら男を持ち上げて、殿様あつかいするんだよね」島。
「いたれりつくせりで、つい、いい気になっちゃってね…」ギー。
「鼻の下のばして、バカじゃないの、男って」
 今日のみやちゃんは、かなり酔っていたようでバカだ、嫌いだ、と言いながら島さんに送られて帰った。

 夜中、また腹痛にみまわれた。それほど飲んでいないのに、どうしてだろう。この前ほどの痛みではないが、お腹をおさえたまま、丸まっていた。手元にあった正露丸をのんだら、1時間ほどで眠りについたようだ。


(4)
「ここに居ると思ったのよ」敦子。
「月」で(平)へーさんと増田さんの話をしているところへ敦子さんが入ってきて、プーの背中をポンと叩いた。
「『ミラノ』でおそばいただいて、お酒飲んじゃった」
 敦子さんは、川越祭りの2日間、チーズケーキを作って、大活躍。増田さんのライブコンサートのときは友人を4人も連れてきてくれた。
「店(ミラノ)客、入ってた?」プー。
「3組。店閉めたら、ギーさんもこっちに来るって……入り口のタヌキいいわね」
「招き猫、の代わりの招きタヌキ」平。
「それは、表向き。じつは、我らがポックリ教の聖なる生き物でござんす」プー。
「ふーん、タヌキが聖なる…だますわけ?」敦子。
「だまさない。インドのヒンズー教の牛みたいな…」平。
「あれかしら。神社の入り口に乗っかっている狛犬」敦子。
「まぁ、そんなものだねぇ」平。
「じゃ、ミラノの店の前にも何か置けば?さいきん川越の街中のあちこちに発泡スチロールの動物のオブジェが置いてあるじゃない、2メートルぐらいの大きな」敦子。
「あれ、発泡スチロールなの?」プー。
「あれ、誰が作っているの?市がやっているの?」平。
「友達が市役所にいるから聞いておくわ。たぶん、観光課じゃないかなぁ。ここがタヌキならミラノはキツネ」敦子。
「それはまずいよ。稲荷神社になっちゃう」プー。
「じゃあ、何がいいかしら……あのね、話は違うけど、私の友達で絵を描いている人がいて『ミラノ』で絵を飾りたいんだって」
 そこへ、ギーと島さんが連れだって入ってくる。
「よっ、お待たせ」
 島さんはだいぶ飲んでいるようだ。
「最後の客にねばられちゃってね、遅くなっちゃった」ギー。
「今日は、ポックリ教の寄り合い?」島。
「いや、ただの飲み会」平。
「ミラノに絵を飾りたいっていう友達がいるんだけど…」敦子。
「いいんじゃない。でも、山ちゃんの写真をかけてあるよね」ギー。
「あれは、昔、山ちゃんがイタリア旅行をしたこきに撮ったミラノ。あれを外して天井にレールを付ければ5、6点かけれるでしょう」敦子。

「入り口の横のガラス窓のところにも3、4点、飾れる」ギー。
「あそこなら通行人にも見えるし、いいわね。なにも発泡スチロールのキツネを置かなくても」敦子。
「敦子さん、安ちゃんに頼んで。レールの取り付け」プー。
「えっ、私が」
「敦子さんが頼めば、無料奉仕」ギー。
「悪いわ。プーさんとギーさんで取り付けられないの、レールぐらい」敦子。
「オイラ、高いところダメなんですよ」プー。
「素人が取り付けて、絵が落ちてきて、お客さんの頭にでもあたったら、大変なことになっちゃう」ギー。
「しょうがないわね、頼りになる人ばかりで」

「話はかわるけど、あと20年ぐらいして、団塊世代が80過ぎになると、どうなるんだろうね。今の平均寿命はだいたい女性が84、男性が80。20年後は1〜2歳、寿命がのびているとしたら、その世代の70%ぐらいは生きていることになる。それに団塊世代の上の私のような老人もいるわけだからね、大変な数だよ。生きていても、その半分ぐらいは寝たきりかボケ」
 まじめに話す平。
「どれぐらいの人数になるんでしょうね」敦子。
「なんか怖いね。1000万人いたら、日本は滅びるね」ギー。
「べつに日本のためではないけど、ボケたり寝たきりになったら、ポックリいくような現代版おばすてやまの仕組みをつくらないと……尊厳死や安楽死を認めて無駄な治療はしない。よけいな事はなにもしないで老衰でいいの」
 平さんは真剣だ。。
「もっとポックリさんを布教すればいいんじゃない。いまオレたち5人だけど」
 どこまで本気なのか分からないプー。

「ところで敦子さん、山ちゃんの1周忌はどうするの?」ギー。
「お寺さんに来ていただいて、家で身内だけでやります」
「へーさんのクリスマスコンサートはちょうど1年だけど」ギー。
「私は友達をさそってコンサートに行くけど、山ちゃんの名前はださないで」
「じゃ、飲み会やろう。山ちゃんを偲んで、クリスマス前に」プー。
「忘年会ということで、『ミラノ』で」ギー。
 ギーは明日、市場に行くのでひと足はやく「月」をあとにした。

それをきっかけに島さんと2人で敦子さんを送って帰った。
「敦子さん、ひとりで住んでるの?」島。
「そう、近くに息子家族がいるし、となり町に娘家族もいるから」
「いっしょに住まないの」島。
「元気なうちはね。それに、しょっちゅう娘が出入りしているから」
 敦子さんを送り届けて、島さんと夜道を歩いた。11月に入ると、あの夏の耐えがたい暑さが恋しくなるほどひんやりしている。ほろ酔い気分で「月」をでたが、敦子さんを送り冷たい風に身をさらしていると酔いがどこかへいってしまったようだ。

「敦子さんには息子、娘家族がいるし、ギーさんには奥さんと娘さんがいる。平さんだって奥さんと息子がいる……ゲイらしいけど。結局、俺たちだけなんだよね、ひとりもんは。息子はいても、縁も切れて、いないも同然だし。そうそう、息子の結婚式のDVDを持って来るってよ。いちど一緒に飲んだ新婦のおやじが」島。
「ちょっと、おれの部屋で飲んであったまっていかない?」プー。
「うーん、明日は出番なんだ。朝、アルコールが残っていると乗務できないんだよ。最近、うるさいんだ。」

 焼酎をお湯で割って飲んだ。冷えた体がひと口飲むごとに、ポカポカしてくる。が、さきほどの心地よい酔いは戻ってこない。平さんが話した20年後のことや、わかれぎわの島さんのつぶやきがよみがえってきた。
 板の間に新聞紙を広げて足の爪を切った。乾いた音がした。


(5)
 さっそく安ちゃんが部下を連れてやって来た。
 防音工事の件はまだ何も手をつけていないのに…敦子さんに頼まれたせいか、部下がメジャーを取り出して寸法を測っている。
「この天井、絵をぶら下げると抜けるかも」安。
「板の梁を打ち付けてから、レールを取り付けましょう」部下。
「じゃ、入り口横の天井も同じように」
 翌日、2人の作業員が来て、ほんの1時間で仕上げてしまう。

 そこへオッスが入ってきた。
 いつもと違う表情だと思ったら、背後から中年女性が現れて、
「小百合の母でございます」
 長い間お世話になりました、と挨拶した。お母さんにしては、若すぎる。歳の離れたお姉さん。しかも、きれい。オッスが照れ笑いしながらお土産をさしだした。プーはポカンとお母さんに見とれていた。
「どうぞどうぞ」
 みやちゃんが席をすすめ、お茶を出し
「お昼、食べたの?」
 オッスは他人行儀に
「済ませました」
 12月も中頃になると授業も終わり、後は1月の試験が済めば卒業式だけだから、友人とシェアーしているアパートを引き払い実家に帰る、と言っていた。夏、帰省から戻ってきたオッスがバイトを辞めると申し出たので、訳をたずねたところ、そう打ち明けた。
 母と娘、並んで座っていると、うりふたつ。
 親子で「ミラノ」やオッスが住んでいたアパートの大家さんや世話になった人に挨拶まわりをして帰った。

「若いわね、お母さん。それにきれい。負けたわ」みや。
「40ぐらいかな?」プー。
「えぇ…オッスが22だから、18で生んだことになるわよ」みや。
「20で生んだとして、42か、まぁ、そんなところでしょう」ギー。
「みやちゃん、何歳でメグちゃん生んだの?」プー。
「はぁ、聞かないでよ、そんなこと。歳ばれるじゃないの」

 暇をみはからって防音工事に取りかかる。まず、苦情のきた店の裏側から。なんたって、半世紀前のモルタルだから、よく見ると、すき間ができている。穴のあいているところもある。そこへ、チューブ入りのセメントを埋め込み、左官屋のへらでならしていく。ギーが上手い。要領を見ているプーにへらを渡し、ギーは、どんどんセメントを注入していく。プーはへらで押さえながらサッとならしていく。二人で分業してやると、はかどる。1時間で壁1面が完了。

 そのとき気づいたのが、喫煙コーナーの2つの換気扇だった。換気扇を通して音が筒抜けなのだ。しかも、裏の家の窓に面している。
「ライブのときは、換気扇、使えないな……」ギー。
「全面禁煙にして、外で吸ってもらいましょう」プー。
 このペースで防音工事がすすめば、平さんのクリスマスコンサートには間にあう。


 みやは久しぶりに酔った気がした。
 1年前、ママの店スナック「銀」にいるころは、お客さんの相手をしていて、つい飲みすぎることもあったが、今はそんなこともない。敦子さんにたのまれて「ミラノ」で働きはじめたころは朝10時からだったが、夏から朝7時に開店しているので、5時に起きて6時に店に入っている。寝るのは10時だから、夜遅くまで飲むこともない。
 たまにライブコンサートの打ち上げで飲むのが楽しい。
 ビールにしてもワインにしても酔い心地がいい。

 スナック「銀」でお客さん相手に飲んでいるときは、そういう訳にはいかない。仕事だから心底酔えない。さめた部分がある。お酒を飲んで酔わないでいると、身体に良くない。そのてん「ミラノ」の仲間と飲んでいると気兼ねなく何でも言えるので、お酒がおいしい。が、昨夜はちょっと島さんに突っ込みすぎたかもしれない。フィリピン女性のことなど忘れていたのに、酔ったら急によみがえってきて……
 まぁ、いいっか。
 島さんもそれほど気分を害していなかったようだし。
 目覚めは良かった。ライブの疲れとお酒で熟睡したようだ。
 なぜか、夢の中でお金の計算をしていた。
 「株式会社ミラノ」の出資金の額だが、微妙に違う。自分は10万しか出していないのに夢のなかでは100  万になっていた。


 安ちゃんの話によると、大家さんは防音工事には無関心だった。賃貸のことは不動産屋にまかせてある、のいってんばりだった。不動産屋にあたってみると、老朽化した物件には手を入れる気はなく「ミラノ」が出て行くのを待っているようだった。
 まぁ、安ちゃんの予想どおりだった。
 防音工事をするな、と言わないかわりに金も出さない。

「ミラノ」は築60年のモルタルで、がたがきているから、後10年もたないよ。みんなが集まったとき、安ちゃんが言っていた。でも、10年後のことなど考えられない。来年のことで精一杯。
「このところ、工事ばっかりやっているでしょう。禁煙コーナー。表のテラス席。防音。ギャラリー。それから、プーさんの引越し代と製氷機の買い替え。借り入れた200万、なくなったわよ」みや。
「ヒロダンが100万、入れてくれたから」プー。
「まぁ、今年は年をこせる」ギー。
「10月はよかったんじゃないの」
 安ちゃんは数字を見ないでも、ある程度わかっている。
「よかった。いままでで1番よかった。お祭りでかせいだし、増田さんのライブも入ったから。7月、8月もまずまずだったけど、10月はバッチリ」
 機嫌のいいみや。
「毎月、祭りがあるといいんだけど」プー。
「そのうち8月に出店してきたイタリアンSの影響がでるような……」安。
「だいじょうぶ、ヒロダンのそば、評判いいから」ギー。
「ギーさんの魚料理も」みや。

 11月の会議はいつになく、なごやか。
「ミラノの経営って、ひもじいタコだね」
 島はからかっている。
「タコ?それ、どういう意味?」みや。
「赤字になると、自分たちの身銭をきっているだろう。今回、ヒロダンが出資してくれたけど。それって、食べる物がなくなったタコが自分の足を食べるのに似てない?」
「銀行から借りるか、他人に株を買ってもらうか、あくまでも自己資本でやるか」安。
「銀行は貸してくれないよ。それに、誰も「ミラノ」の株を買う奴なんていないよ。俺たち以外」ギー。
「赤字になったら、自分たちで埋めるほかないのよ。とりあえず、赤字にしないこと。でないとタコになっちゃう、足のない」みや。
「菓子屋横丁のあちこちに発泡スチロールの2メートルぐらいの動物のオブジェが置いてあるじゃない。ミラノの前にそのタコを置こうよ」
 島はふざけている。
「じゃあ、自分の足を噛んでいるオチャメなタコ」
 悪ノリするプー。


(6)
 島さんは還暦を迎えて、年金をもらい始めたら、出番(24時間勤務)が週2回に減った。今までどおり働くと、年金が満額もらえなくなるか、やたら税金が高くなるので働き損になってしまう。だから、みんな年金を受け取り始めると、仕事を減らし、収入を減らしている。これって、変だよね。間違っていると思う。健康で意欲のある人にはどんどん働いてもらって、働き損にならないような制度にすべき。

 タクシーの運転手の島さんは、いまだに年金の制度がよく分からない。あるていど、分かったなと思ったら、いつの間にか変更されている。それに、島さんが33歳の時に国民年金に入ったら、25年収める必要があるから3年さかのぼって収めないと国民年金に入れません、と言われ、さかのぼって収めたのに、記載もれになっていて、30年前の領収書がないと、認めない。年金だよりの返信で2度、記載もれの確認を申請したが返事もなかった。

 年金を受け取る手続きで社会保険庁に出向いたとき文句を言ったら、若い職員は記載されていないから、どうしようもない、と問答無用の態。確かに、この若い職員の責任ではない。
 当時の職員がネコババしたのか、上司が横領したのか。
 5000万件以上の記載もれがあることから判断すると、これは社会保険庁の組織ぐるみの横領だ。政治家、官僚、公務員たちによってむしりとられているにちがいない。
 社会保険庁の犯罪。

 年金の記載もれが分かってから、ちょっと大げさだけど、島さんは公務員や官僚や政治家が信用できなくなった。まさかそこまではしないだろう、と、お上を盲目的に信じていた自分がバカだった。レントゲンを撮ったように支配者たちの悪事が見えてきた、ように思えたら、ばかばかしくなってきて、盗賊国家に税金を納めるのも嫌になってしまう。たいした額じゃないけど。

 お歳よりは家や貯金を持っているが、国を信用できないで、先行き不安を感じて、お金を使いたくてもつかえない。これは幸せな老後ではない。かせいだ金はきっちり使ってあの世に行くのがいい。庶民には、どうせたいした財産なんかないのだから。
 日本にはお金が有り余っているのに銀行で眠っている。世間に「お足」として出回らないから不景気になっている。国が国民に信用されていないことが不景気の原因だと、島さんは思っている。
 景気が悪くなって失業者が増えると、タクシーの運ちゃんが増える。


(7)
 敦子さんの友人の荒川さんはカルチャーセンターで水彩画を習っていて、そこの仲間たちとサークルを作っていた。定年退職した人が多く、60の手習い。年金を受けながら、あるいはパートをしながら趣味に興じている。10人ぐらいの仲間がいて絵半分、おしゃべり半分の集まり。画廊を借りるほどの腕前ではなく、いままで病院のロビーや公民館で展示していたが、今回は「ミラノ」でやることになった。

 絵を吊るすレールを取り付けた翌日には大勢でやってきて、あっ、という間に吊るしてしまった。あらかじめ、どの作品はどこに、と決めてあったらしく手際いい。
 入り口の横の窓に大きい絵を2点。L字型の壁に4点と2点。2ヶ所の柱に1点づつ、計10点。ちょっと窮屈なレイアウトになったが、出品者全員の作品をかざるには、やむをえない。

 指定したランチタイムの後の暇な時間帯に来て、てきぱきと作業を終え、コーヒーを飲んでいるところへ敦子さんがやって来た。荒川さんと言葉をかわして、ひととおり皆に挨拶してから、絵を観る。60の手習いの方も何人かいて、ほほえましい絵が並んでいる。さほど上手くもないが、それなりに味がある。ひとつ、見る者に優越感を感じさせてくれる絵があって、笑いをさそって人気。
 中途半端に上手いより、いい。

「料金はいくらいただくの?」
 と敦子さんが聞いてから、みんなそのことに気が付いた。
「お金もらっていいの?」プー。
「場所代で」みや。
「画廊じゃないのに」ギー。

「友人知人に案内の葉書を100枚送りまして、その内50枚には私の印鑑が押して有ります。その捺印し葉書を持参して来た方には、お飲み物をお出ししてください。あとでまとめて私が精算します」
 そんな荒川さんの申し出があったので、ギャラリーとしての料金はなし。
 絵を見に来たお客さんの飲み物代や、なかには食事をする人もいるだろうから、売り上げにはなる。その内、1人でも2人でも顧客になってくれれば。


(8)
「これは、内緒にしてくださいね」
 べつにたのんだわけでもないのに結婚披露宴のDVDを持ってきた。
 郵送してくれればいいのに、わざわざ川越くんだりまで足を運んでくれたので「ミラノ」で一献かたむけた。ギーには事情を話して、つまみを用意してもらってあった。息子、一成(縁はきれている)の結婚相手の父親は公務員で実直な感じだが、お酒が好きそう。会うのは2度目で前回は奥さんと一緒だった。

「娘の友達がビデオを撮ってくれまして、それをDVDにしてくれたんです。元の奥さんも写っていますよ。向こうの親族がいっぱい出席してましたよ」
「あまり見たくないな……」
 島の顔はそんな表情になっていた。
「まぁ、そう言わずに…元奥さんの再婚相手も写っていますよ」
「見たくねぇなぁ」
「再婚相手って、島さんが結婚する前の、元亭主なんだって」
「はぁ、なんだっだって?」
「あの奥さんは、中国で離婚して、日本に来て、島さんと再結婚して一成くんを生んで、日本国籍を得て、島さんと離婚して、元の中国の亭主と再々婚して、子供を2人生んで一緒に住んでいる」
「……ふ〜ん…ややこしいなぁ」
「奥さん、亭主、2人の子供、亭主が連れてきた実の連れ子、みんな中国人だけど、法律では日本国籍になっている」
「ふ〜ん…そういうことか。なるほど…」
「中国の甥っ子や姪っ子を何人も呼び寄せて、大学や専門学校に通わせている。そのうち、養子にでもするか、日本人と結婚させるみたい」

 彼はDVDを持ってくる、というのは建前で、本音は一成の母(島さんの元妻)の情報を島さんに話して聞かせたかったようだ。一成には夫婦ともども好印象をいだいているが、姑には不信感があるようだ。どうも、うさんくさい、と島に言いたげだった。

 ギーが、まぐろとアボガドのぶつ切りを大皿に盛ってくれる。それを各自小皿のわさび醤油でいただく。アボガドがまぐろ以上に脂がのっているようで、中トロっぽい味がする。

「いけますね、アボガド」公務員の父親。
「目をつぶって食べると、よりいっそうまぐろの味がしますよ」島。
「これ、ちょっとつけて食べてみて」
 ギーはサラダドレッシングを小皿についだ。
「うーん、なかなかですね。うんうん」公務員。
「まぐろにも、ちょっとつけてみて」ギー。
「まぐろにドレッシング?本気かよ?」島。

「結婚した若い2人は三鷹の賃貸マンションで暮らしています。あちらが高円寺で私どもが国立なので、まぁ、その中間にしたようです。でも、あちらには中国から連れてきた兄がいますし、下にも2人いますから、一成くんには国立にきてもらいたいのです。今すぐ、という訳じゃなく、子供ができたり、私が定年退職したりしたら」公務員。
 ギーが、口なおしに「仙波豆腐」をだしてくれる。お隣の仙波町にあるおいしい豆腐で醤油もわさびも薬味もなにもつけないで、そのままいただく。ねっとりした感触で大豆の味がしっかり伝わってくる。
 公務員の子供はひとり娘だから、そばに置きたいようだ。できれば、同居したい考えをもっている。酒の酔いのせいか、島には話しやすいのか、思いを率直に言葉にした。
「一成くんに養子に入ってほしいんです」

「仕上げはペペロンチーノとざるそば、どちらがよろしいですか」ギー。
「そばにしましょうか」
 公務員は島を見ながら答える。
 彼は娘の将来と自分たちの老後を心配している。娘夫婦と一緒に暮らせば、それらの心配事のほとんどが解消される、と思っている。
 島は、自分の老後と息子をつなげて考えたことはない。


 駅まで公務員を送って「ミラノ」にもどってみると、客はだれもいず、閉店準備をしていた。9時にはナオも帰り、看板を消して、ギーと2人でちょっと飲んだ。

 彼をおくったまま部屋に帰るつもりだったが、なんだかわだかまりがあって、足がかってに「ミラノ」にもどってきた。彼に話をきかされて25年もまえの忘れていた嫌な思いがヌゥーと顔をだした。元妻と離婚したとき、なんだかはめられて結婚したような気がしていた。被害者意識かもしれないが、じっさい金銭的に損もしたし、府に落ちないものを感じていた。でも相手が中国人だから、日本人のように、何を考えているのか、はっきり分からないところがあって、それをそのまま曖昧にして忘れていた。

 公務員の元妻に関する話は、島の府に落ちないものをストンと落としてくれた。やっぱりあいつは戦略的に離婚結婚をくりかえしているのだ、日中を股にかけて。
 そんなこと、いまさら分かっても、どうなるものでもないが。

「まぐろとアボガドはいけるね。店で出したら?」島
「出るかな?まぐろのロスが心配なんだよね」ギー。
「生ものはそのへんが難しいよね」
「とりあえず、ランチでまぐろぶつ定食をだして、あまったら夜、つまみでアボガドと一緒に出してみようかと」ギー。
「なるほどね」
「それか、お通しで強制的に出してもいいかな…と」ギー。
「うん、うん、つまんないお通し出されて、いくらかでも取られるのは気分が悪いから、アボガドまぐろが嫌なひとはには仙波豆腐とか他に選べるお通しを用意しておけば」島。

「さっきの話だけど、バブルのころ中国から出稼ぎの女性がいっぱい来て、風俗で働いていたよね。あのころ偽装結婚がはやったけど、いまだにあるんだよ。俺の知ってるチンピラが女に結婚相談所をやらせて、裏でそんなことをしている」ギー。
「へぇー、まだそんなことやってるの」島。
「1件、斡旋すると相談所に30万、入るそうだ。本当かどうか知らないけど。戸籍を汚した男には毎月7万、入るそうだ。許せない日本男児だね」ギー。
「オレ、カネ、もらってないよ。とられた」島。

「明かりがついていたから…」
 みやが入ってきて、後ろのメグを見て
「迎えに来たのよ」
 メグは島とギーに挨拶して、迎えに来なくていいのに、といった感じで笑っている。
「島さん、いつまで飲んでいるの、明日、出番じゃないの?」みや。
 しょうがなく、島が立ち上がると、背後をメグが白い目で見上げていた。








(9)
 11月も末になると朝夕、冷える。昼間、陽が出ていると暖かく感じるときもあるが、曇ったり風が出ると急に寒くなる。街行く人はコートやダウンジャケットを着ている。マフラーをしている人もいる。
 思えばこの数年、プーは着るものを買っていない。いつも同じものを着ている、着たきりすずめ。それを見かねて敦子さんがシャツを買ってくれたことがあった。
「気にしないで、安かったから」
 山ちゃんのものを買うついでにプーのシャツを2枚、買い物籠に入れた。
 そういえば、プーの誕生日祝いに、オッスがダークグリーンのカシミヤのマフラーをプレゼントしてくれた。誰にも言わないでね、と言って。

「月」で待ち合わせしていた。(平)へーさんとよもやま話をしながら待っていた。平さんのクリスマスコンサート。あれから1年経ったんだねーと、相槌を打っているところへオッスができたばかりのチラシを持ってくる。
 平さんの夏のライブコンサートの写真をつかって、赤、白、緑のクリスマスカラーで仕上げている。

「いいじゃないの」平。
「うん、まぁまぁ、かな」オッス。
「これが最後だな」プー。
「そうか、じゃ、記念に取っておくんだね」平。
「パソコンにはいっている。全部」オッス。

 チラシを作ってくれたオッスは当日ライブコンサート会場の「ミラノ」には居ない。あと2週間で群馬に帰ってしまう。
「その日だけ、出てくればいいじゃない」平。
オッスのところは群馬でも高崎に近いから、関越高速に乗れば1時間半で行ける。大宮から新幹線で行ってもローカルの八高線でもそれくらいで行ける。
「うん、まぁ……」なんだか心もとない返事だった。

 教職試験に落ちて、しばらくの間、元気がなかったが、郷里で就職がきまり落ち着いたようだ。オッスは教師になる夢をあきらめてさっぱりしたのか、サバサバしている。仕事は病院の入院患者のための食事を作る給食センター。オッスは大学で管理栄養士の資格を取得している。
「月」を出て、オッスを送って帰った。
 オッスは部屋につくまで、ひと言もしゃべらなかった。


(10)
 荒川さんたちの水彩画展は一般客にも出品者にも好評だった。あきらかに素人の絵と分かるので、見る人に余裕ができるようで、これなら、わたしにも描ける、といった風情の笑みが浮かぶ。
 公民館などで展示してもなかなか見に来てくれない。「ミラノ」だと、お茶のみがてらに入れるし、自分たちとはぜんぜん関係ない、店のお客さんも見てくれるからありがたい。
 出品者もグループ展を機会に日ごろ会えない旧友と会えて嬉しい。記帳ノートに何ページも名前と住所が並んでいる。今までにない反応だと、荒川さんたちは「ミラノ」で打ち上げをしてくれた。
 敦子さんが顔をだすと、春にまたやりたい、とのことだった。
 7時に始まった食事とお酒の打ち上げは、もりあがり9時になっても半分の5人が残っていた。
「もう、終わりなの」
 荒川さんの不満げな声に、プーは敦子さんの顔を見た。両手を合わせ、拝むサインが出たので、ギーを見やるとうなずいていた。ナオも同意してくれたので
「では、今日はとくべつ1時間延長して10時まで」プー。
「ありがとう、悪いわね」敦子。
「ねぇ、どうして9時で閉めるの」荒川。
「客がいないので、やっても無駄」ギー。
 そのとき、表の看板の明かりを消してあるにもかかわらず、カップルが入ってきた。初めてみる顔だった。断ろうかと思ったが10時まででもいい、というので入ってもらった。2人でワインのボトルをあけてピザとパスタを食べたので売り上げになった。
「9時で閉めるなんて、もったいないわ、土曜の夜なのに」荒川。
「荒川さんがやれば……」
 プーが冗談で言ったら
「敦子さんが手伝ってくれるなら……」
 荒川さんはまんざらでもない様子だった。

 水彩画展を見て、常連客の水谷さんが話しがあるという。何かと思えば、写真を展示させてもらえないか、主人と私の、とのことだった。水谷さんは敦子さんのお客さんで、プーは話したことはなかったが、週に1度ぐらいピザを食べながらコーヒーを飲みに来る。みやちゃんとは雑談を交わしているが、写真の話は聞いたことがない。水谷さんが70半ばで、ご主人が80近いので、どんな写真だろうと、見せてもらうことになった。

 カワセミが小魚をくわえ川面から飛び立とうとしている写真と越生梅林の2点、持ってきた。プーには写真を見る目はなかったが、ギーさんも、みやちゃんも、いいと言う。それで、水彩画展のあとに水谷さん夫婦の写真展があっさり決まった。お飲み物券30枚は、喜んで買い取るそうだ。

 水谷氏は80近いにもかかわらず、いたって元気で、さいきん白内障の手術をした以外、これといった病気をしていない。夫婦で日本の名所を撮影旅行している。その写真のなかでも、気に入ったものを他人に見てもらいたい。
 水谷さん夫婦は健康だけではなく経済的にも恵まれているようだ。はっきりとは言わないが、大企業の重役だったらしく、それを言外に匂わしてくるのが嫌みだ。プーはなるべく近づかないようにしている。
 写真の展示が決まってから、奥さんはいままで来なかった夫と2人で食事にくるようになった。そんなときは、みやがお相手して、老いた亭主をヨイショしている。そんなみやに、奥さんはお礼を言って帰る。たまにはお土産を持ってくる。

 写真や絵の発表の場を求めている人が意外と多い。画廊を借りるほどのレベルではないし、お金もかけたくない。かといって市の施設を借りるのは抽選だし、堅苦しい。駅に近い喫茶店などちょうどいいが、セルフの狭い店では落ち着いて鑑賞できない。
「『ミラノ』はゆったりしているし、客層も年配の方が多いから、いいわ」
 荒川さんがいいことを教えてくれた。
「市報に趣味のサークルの欄があって、紹介記事のあとに連絡先が載っているから、葉書でもメールでも出してみれば。お飲み物券を買ってくれれば展示は無料、とすれば反応あるわよ」

 荒川さんは本気だった。友達の恵子さんと敦子さんと3人でやってきて「ミラノ」の夜の部をやるという。金曜と土曜の夜9時から12時までの3時間だけ。はじめは荒川さんと恵子さんの2人でやって、なれればどちらか1人でやる。敦子さんは相談役で人手が足りないときだけ手伝う。3人とも地元の人で顔も広いから、友人知人に声をかければ2、3ヶ月は賑わうだろう。時期的にちょうどこの12月、1月はいい。問題はそのあとだ。

 週末の金曜と土曜の夜9時から12時まで営業することには問題はなかった。が、売り上げを「ミラノ」にするか、荒川さんたちにするか、で揉めた。
 荒川さんと恵子さんの考えでは、売り上げも仕入れも経費全部「ミラノ」のものとして、自分たちは売り上げの3割から4割もらえればいい、と簡単に考えている。
 友人知人に声をかけ、週末の夜「ミラノ」を自分たちの社交場にする。お酒を出して「Bar」にして、売り上げの何割かをいただければ、いい。
 安易というか、自分たちの都合だけで絵を描いている。

「商売はそんなに甘くないよ」ギー。
「私、スナックで働いていたから…売り上げなんてテキトウ。だから歩合制でやるより、完全に『ミラノ』とは別けて固定の家賃の方が揉めなくていいと思う。光熱費もかかるし」みや。
「俺、厨房の中、汚されたくないんだよね」ギー。
「客席だって、掃除して帰ってほしい」みや。
 ギーとみやからいろんな要望がでた。それを荒川さんたちに説明しなければならない。1度、みんなで集まって話し合う必要がある。いずれにしても、とうぶん閉店の12時まで、プーか、ギーが残らなければならない。戸締りや火の元の心配があるから。

「意外といけるんじゃないの。でも、身内だけでやっていたんじゃ、駄目だね。身内の溜まり場になって常連がトグロをまいていたんじゃ、一般客が居づらい。それでは長続きしないよ。口コミでもいいから一見さんに来てもらって、気に入ってもらって、またき来てもらうようにしなくちゃ。そのためにはキチンとした物を出して、キチンとお客さんの相手をしなくちゃ。たとえ知り合いでも、お金をいただいている以上、お客さんを楽しませないと。素人は自分が楽しんじゃうからね。遊びになっちゃう」島。
「遊び人の島さんが、そんな偉そうなこと言っていいの?」みや。
「仕事、してますよ。雲助、だけど」
「年金、もらってるいるでしょう」
「もらってるったって、ただもらっている訳じゃないよ。40年間積み立てた定期預金を政府から利子を付けていただいて、満期になって引き出しているだけ」

「なるべく一般客を相手にして、友人知人にはあえて知らせないで、自然に口コミで伝わるにまかせた方がいいと思う。狭い街なんだから、どうせ1ヶ月もしたら噂は嫌でも広がるよ」ギー。
「店のコンセプトを明確にしないと。客層とか単価とか」安。
「基本的にアルコールだけだって。食べ物は出さない。ちょっとしたおつまみだけ、だって。俺はその方が助かる。厨房内をごちゃごちゃかき回されら、かなわんよ」ギー。
「ギーさん、お通しぐらい作ってあげたら」みや。
「そりゃーいいけど、有料だよ」
「カラオケはやめてもらいたいなぁ……」プー。







(11)
 平さん達のクリスマスコンサートを終え、29日には大掃除を済ませて、そのまま正月休みに入り、3日の喜多院のだるま市から営業開始予定だったが、急遽30日に増田さんのところの生徒さんの発表会をやることになった。
 ふつうなら、断るところだが、増田さんの頼みとあらばやむを得ない。場所を貸すだけで飲食すべて持ち込みにしてもらう。終わったら、きれいに掃除をしてもらってゴミも持って帰ってもらう条件で、4時から8時まで。

 30日はみんな家の大掃除やお正月の準備で忙しく、結局プーが立ち会うことになった。
 ベースとドラムのサポートを得て10人ぐらいの生徒がかわるがわるギターを弾き、ひと通りみんなが弾きおえると思いおもいにメンバーを入れ替えセッションになっていく。遊びにきている仲間のサックスや平さんのピアノも加わり、もりあがっていく。

 お客さんも、みんな生徒の友人や家族で、身内だけのくだけた雰囲気。
 習い始めの生徒さんから上級者へと進行し、とりは増田さんの演奏。娘さんのフルートも入り、平さんのピアノも。かわるがわるギターが入り、笑い、緊張、興奮が店内にあふれ熱くなる。予定時間を1時間もこえてお開きになったとき、みんな汗びっしょりで笑顔でカタルシスに浸っていた。

「ひゃー、今夜は最高ー。増田さんとやれて」平。
「店でレッスンしているとき、一緒にやらないの?」プー。
「ないない」
 平さんは恍惚として増田さんとの共演の余韻をなんども反芻しているようだ。

 生徒さんの中に1人だけおじいちゃんがいた。80歳ぐらいだろうか。首をつき出し、譜面をにらみつけ、間違えないように肩肘はって、一生懸命弾いている姿は、子どものよう。

 20前後と60過ぎの男の生徒ばかりで女性は1人もいない。音大ではこのところジャズ科もできて、サックス、トランペット、トロンボーンなど管楽器をやる女性が増えているが、ジャズギターはなかなかお目にかからない。ロックやクラシックギターにはいるのだが。

 増田さんが陣頭指揮をして後片付けをしてくれる。平さんも手伝ってくれる。生徒さんもお客さんも、みんなでやる。すっかり大掃除をした後の状態にもどり、誰もいなくなった。

 生徒たちは、増田さんを先頭に2次会の居酒屋に。
「ミラノ」にひとり残ってウェスモンゴメリーを流した。いつもよりスコッチソーダが甘い。右足のかかとがリズムを刻み、あごをふりふり右手の指先がテーブルのふちを叩いている。左手にグラスを持ち、立ち上がると、踊っていた。薄暗がりの中、窓辺に映るその姿は、酔っ払いが船をこいでいるようだった。


(12)
 去年の大晦日は暇をもてあまして、部屋の掃除を始めて、今は亡き母からの手紙を見つけ、感傷的な気分になってしまった。手紙を読んだり、思い出に耽ったりして掃除を途中でやめてしまった。日常の雑事に追われて忘れていたことが、運河の底のガスのように思いがけず浮かびあがってくる。

「そうだ、墓参りをしよう」
 意識の底から浮かびあがる、あぶくのようだった。

 かつて高野山に登ったとき、残された者のいない無残な墓をいくつも見た。何百年も昔の名前が刻まれた石が、かしいだり、横たわったりしていた。

 実家の墓地は堺市が開発管理していて丘陵公園になっている。何百もある墓は石も敷地も規格整備され分譲、大量生産されている。明るくきれいで、どの御影石も朝日に輝いている。それにしても100年後、この墓地に参りに来る人はいるのだろうか。

 大晦日、「月」でオールナイトジャムセッションをやってくれるのは、ありがたい。いまだに日本人にとっては大晦日の夜は、特別なひととき。家族は集い、恋人たちは寄りそい、仲間は群れて新年を迎える。独り身のプーにとっては、身の置き所としては具合がよろしい。

 昨日の「ミラノ」の発表会にいた山根君がギターを弾いていた。彼は増田教室でも最上級者で、そろそろ助手になろうかという腕。平さんと、増田さんの娘さんとでボサノバをやっていた。
 だいたい去年とおなじ面子が顔をそろえて呑んでいる。大晦日の夜、わざわざここに来るということは、家族がいないのか、いてもうとんじられているのか、友人がいないのか、恋人がいないのか、居場所がないのか、とにかくプーのようにはぐれ者なのだろう。

「若いころ、例年、大晦日は新宿のジャズ喫茶でオールナイトだったよ。所帯を持ってからは遠のいたけどね。定年になって、またここで復活できて嬉しい」おやじ。
「あの頃は、おし黙って、ただレコードを聴いているだけだったけど……今はこうして酒を呑みながら生のジャズを聴いて、くつろいで若い女性とおしゃべりできる。悪くないねぇ」おやじ。
「私のお父さん、ハワイに行っている、ゴルフしに。兄はスキーに行っちゃったし、母は実家のお婆ちゃんの所で、私はここ。今、家に誰も居ないの」えり。
「大晦日の夜、一家そろって紅白みて、年越しそば食べて、行く年来る年みて、除夜の鐘を聞く。そんなのとっくに終わっている」
 いつの間にか島さんが入ってきていた。
 入れ替わるように、えりちゃんが立ちあがり歌いはじめる。

「俺もむかし、新宿の厚生年金会館でジャズのオールナイトで新年を迎えたことがある。帰りに花園神社に寄って東中野まで歩いたのを覚えている」島。
「歩いて?電車、走ってなかったの?」
「いや、元旦だから走っていたと思う。なんとなく駅とは反対の方へ彼女について歩いていた。彼女の部屋につくまで、いろんなことたくさん話したのに、今では内容を何ひとつ覚えていない」島。

 去年も来ていた体格のいい相撲取りのような青年がベースを抱えて上がってきた。えりちゃんが下がってテナーサックスが入りノリのいいファンキーな雰囲気になってきた。

「あの頃、朝まで呑んで新宿駅で勤め人とすれ違うとき、うつむき加減だったなぁ」プー。
「なんで?人目をさけるようなイケナイことでも」島。
「そうでもないけどね。あちらは、これからお仕事をする真っ当な人。こちらは、これから帰って寝る変な人。正視できなかったなぁ」プー。
「うしろめたい?」えり。
「そうでもないけどね。なんとなく冷たい非難がましい視線を感じたよ」プー。
「うちのお父さん、しょっちゅう朝帰りだけど、ぜんぜん平気」リノ。
「増田さんは、それが普通なんじゃない?」プー。
「そう、時間がずれているの。朝方に寝て、お昼ごろに起きるの、いつも」リノ。

 平さんの合図で新年のカウントダウンが始まる。

「アメリカなら、ここで誰とでもキスしてもいいんだよね」島。
 リノちゃんが立ち上がり、島さんに向って立てた右手の人差し指を何度も左右にふる。えりちゃんは、それとなく島さんの側をはなれた。

 遠くで除夜の鐘の音が聞こえる。


(13)
「氷川神社に行こう」
 島さんが立ち上がった。
 いいメンバーがそろってきたので、もうすこし聴いていたかったが、新客が入ってきて座る席もないようだったから、島さんについて出た。
 いっぽ外に出ると寒気で身震いがした。鼻の奥がツンとしてふやけた頬がひきしまるようだった。オッスにもらったマフラーを巻きなおし、毛皮のコートの襟を立てた。もういちど、ブルブルッと身震いをした。

 本川越駅から学生らしい若者たちが金魚のふんのように連なって初詣にむかっている。高校生らしい4、5人の男の子がふざけはしゃいでいる。深夜、仲間と野外にいるだけで高揚してくるものがあるのだろう。それにしても、女の子みたいによく喋る。

 細い裏道を通りぬけ10分足らずで氷川神社についた。すでに屋台もでそろって、ぞくぞくと参拝客が湧き出ている。島さんと鳥居をくぐろうとしたとき、柱の陰からメグと和が飛び出してきて「ワッ」と叫んだ。
 島さんが、大げさに驚いてみせ、振り返ると鳥居のそばにみやが立っていた。
「おめでとうございます」
 めいめい言い合って参拝に向う。
 人数が多いので横1列に並んで小銭を投げ入れ、拍手打ち、礼をして、思いおもいにお祈りをする。背後から押されトコロテン式に追い出される。オートメーションの流れ作業。まさか、隊列を作って参拝をするとは……

 去年同様、プーは健康と「ミラノ」の商売が繁盛とまではいかないまでも、そこそこでつぶれないよう、お願いした。
「島さんは何をお願いしたの」プー。
「車に乗っているからね、やっぱり交通安全。それから、健康。…俺たちポックリ教徒だけど、ここでお祈りしてもいいのかね?」島。
「いいよ、日本は多神教なんだから」
「ちょっと宗教的にふしだらじゃない?」
「いいの、ふしだらで。島さん、彼女のことはお願いしなかったの?」プー。
「ムリムリ」メグと和。
 2人は仲のいい友達と出くわし、そちらに合流すると言う。
「早く帰りなさいよ。2時まで」みや。
 そういえば、島さんがメグと和にお年玉をあげていたから、用意していたのだ。ということは、島さんとみやちゃんは鳥居の下で待ち合わせしていたのだな。

 みやちゃんは「健康祈願」。島さんは「交通安全」。プーは「ミラノ」のために「商売繁盛」の御札と破魔矢を買い求めた。
 だれが言うともなく、3人の足はみやちゃんの所に向いていた。
「何もないのよ。デパートで買ったちっちゃなおせちだけ。あなたたちが来るとは思わないもの。子供はおせち、食べないしね」
「お酒、ある?酔いがさめちゃった」島。
「日本酒はないのよ、私が呑まないから。ビールか焼酎」
「じゃ、焼酎のお湯割り」島。
「プーさんもお湯割りでいい?」みや。
「うん、薄めで」

「『Barミラノ』、客はいっているんだって?」島。
「うん、予想以上」プー。
「12月だし(金)(土)だけの営業だから。ボーナスも出ているし、忘年会の流れもあるから」みや。
「ミラノの客が9時で一旦精算してからも残って、Barの客になってくれるのが大きい」プー。
「荒川さんも恵子さんも、素人でしょ、水商売の。その素人っぽいところがいいんじゃないの?」みや。
「彼女たち、1時間も前にきて、ギーさんに教えてもらいながら支度して、1段落したら挨拶しながら客席を回っている。なかなか熱心だよ」プー。
「まぁ、始めたばかりだからね。誰だって初めは熱心なんだよ」島。
「当分の間はだいじょうぶ。友人が客を連れてくるから。その後だね、問題は」プー。
「連れてこられた客が気に入って、1人で来るようになれば、しめたもの」みや。
 お湯割りの2杯目を呑み終えたころ、メグと和が帰ってきた。それを機に島さんとプーは立ち上がった。2時になっていた。


(14)
 1月3日は喜多院のだるま市。初詣の客でにぎわう。川越祭りについで人出が多い。稼ぎ時だから、例によって出店をだし、やきそば、おでん、フランクを売る。2日からヒロさん夫婦がおでんを仕込んでくれる。ギーも、やきそばの下ごしらえをしたり、出店を設置したり、いろいろテキヤの準備をしている。祭りのときとはちがって、明日はオッスとナオがいない。売り子はみやちゃん家族にしてもらおう。プーは、飲み物がかり。生ビールを注いだり、コーヒーを落としたり。

 へー(平)さんのクリスマスコンサートのあと、店の大掃除をしたり、30日には増田さんの生徒たちの発表会に立ちあったり。大晦日は「月」のオールナイトセッション、島さんと初詣とつづき、今年は3日から「ミラノ」を開けるので自分のことを考えるひまがないのがいい。

 去年は「月」のオールナイトセッションには顔を出したものの、山ちゃんが亡くなったことで、気が滅入って正月休みをもてあました。何日もひとり自室に引きこもっていると、考えなくてもいいことまで考えてしまって、うっとしい。うつうつドツボにはまる。考える頭がないのだから、へたに考えたってろくなことはない。

 それなら、人が行きかう広場でぼんやりするのがいい。通行人を眺めたり、新聞を読んだり、コーヒーを飲んだり。陽がさしたり、風が吹いたり、雨が降ったり。見知らぬ人がほほえんだり、話しかけてきたり。
「こんにちわ、いい天気だね」
「ほんと、いい天気」
 それだけ。
 それだけでも、自分の部屋に閉じこもるよりはいい。

 去年好評だった七草粥は今年も人気で、仕込んだ20食、早々とモーニングで売り切れ。従業員の食べるぶんがない。みんなの顔色を見て、ギーが七草もとめて八百屋へ走る。
「おいしいわぁ、お代わりしていいのかしら」みや。
「これを食べないと正月が明けない」ギー。
「胃腸がいやされてカイチョウ」プー。
「なにそれ、しゃれなの?」みや。

 七草粥を食べたおかげで、胃腸にへばりついた脂やアルコールをきれいにふき取ったように快調のはずが、腹の中の虫だけは居座って威張っている。

 1月の末になって、その虫がいきなり暴れだした。
「ただ事ではない」
 痛みにおそわれたとき、とっさに分った。動物的本能というやつだ。洗い場のシンクを両手で掴みしゃがんでこらえていた。額に油汗がにじみ、玉となってたれてくる。
「だめだな、これは……」
 その場にしゃがみこんだまま立ちあがることができない。
「救急車を呼」
 もうひとりの自分がそれを打ち消していた。
「みっともない」
 見栄をはっているのか、バカなのか。

 4時ごろで店はちょうど暇な時間帯だった。更衣室で休んだ。横になると痛みがいく分やわらいだ。身体をくの字にして痛みを量っていた。ドアーを開けたナオが
「プーさん、2日酔いなの?」
 プーは首を横にふる元気もなく、うなずいていた。

 しばらくの間、身体を胎児のように丸くしてこらえていた。
「今がチャンスだ」
 と身体が教えてくれた。立てた。歩けた。
 腹の虫を怒らせないように静かにそろそろ歩いた。手提げ鞄ひとつで病院に向った。近場にある、かって知ったる病院だ。受付で
「お腹が痛い」
 と言っただけで、順番を待たず治療室へ通された。それだけ尋常でない表情だったのだろう。ベッドに横たわり検査が始まった。注射されたり、血を抜かれたり。お腹にヌルヌルする液体を塗られ、音波探知機をグイグイ押しつけられ、点滴された。
 痛みが鈍くなっていた。急に睡魔に襲われた。
気づくと、そばに敦子さんがいて、うなづいていた。
 パジャマ、下着、洗面用具を持ってきてくれた。敦子さんと話す間もなく、また眠ってしまった。そこに3日3晩いたが、寝たりさめたりしただけで、なにも覚えていない。
 「胆石」だった。

 その病院の内科には胆のうを取り出す手術をする設備はなく、医師もいないので他の病院に移ることになった。ストレッチャーにのせられ、救急車で運ばれると自分が人間ではなく荷物になったような気がした。次の病院でもいろいろ検査をした。レントゲンやCTスキャンの映像では、肝臓が異常に腫れているので腫れがひくまで手術はできない。6人の相部屋で1週間待機していた。
 胃がん、胆石、大腸ポリープなど、消化器系の手術を受ける患者たちの部屋だった。食事はできない。24時間点滴。その中に痛み止めが入っているらしく、痛みから解放されたので助かった。痛み止めが睡眠剤になるのか、やたら眠ってばかりいた。

 手術するにあたって親族の承諾がいる、と看護師が用紙を持ってきた。トラブルがおきた場合、病院が法的に不利にならないような事前策の文面だった。娘に連絡してサインをしてもらった。娘とは病気のこと以外は、たいして話さなかった。命にかかわるほどの病気ではないので(胆石なんて、盲腸のようなものだ)それほど心配しているふうでもなかった。ただ、病んでひとり年老いていく父に憐憫の情をいだいているのか、寂しげであった。

 毎日のように敦子さんが顔をだして洗濯物を持ってきてくれる。たのんでおいたCDを届けてくれたり「ミラノ」の様子を知らせてくれたり。
 1年前、この同じ病院に山ちゃんが入院し、敦子さんが看病していた。今は、見舞いに来ていたプーが入院患者になり、敦子さんが見舞いにきて世話をしてくれている。たった1年で立場が逆転している。

 お腹に4つ穴を開けて、胆のうを取り出すことになった。その方がお腹を切るより身体の負担が軽いらしい。術後の経過も楽で早い。今では、この穴を開ける手術が主流になっている。が、具体的な技術が想像できない。絵が思い浮かばない。

 手術の翌日、目をさますと個室に移されていた。
「雪が降っているわよ」
 敦子さんが着替えを持って来てくれる。
「暑いわね、この部屋。温室みたい」
 敦子さんが窓を開けると雪の冷気が入ってきて、目がさめるよう。
 痛みで身動きひとつできず、話す気力もない。
 敦子さんは窓を閉め、右手のひらでバイバイした。 

 昨年、くも膜下で全身麻痺した竹本を見舞ったとき、彼に話しかけるとまぶたと瞳孔の動きで返事をしていた。今なら彼の返事もちょっとは分る。

 毎朝、執刀医が院長、助手3名と看護婦長を引き連れて巡回に来る。包帯をとり、ガーゼをはずし診察しながらの会話では、どうも、おもわしくないようだった。
「水がたまっているので、しばらく経過をみましょう」

 点滴に利尿剤をまぜたりして様子をみたが、お腹の水はなくならなかった。なぜかレントゲン室にぷーを運びいれ、医師が馬乗りになってお腹を押さえても水はなくならなかった。やむなくお腹を開いて水を抜き取ることになった。

 手術を終え1週間もすれば退院できるものとばかり思っていたので、再手術を言い渡されたときは、おおいに落胆した。徒労感と空しさでぐったりしてしまった。なんのために、お腹に4つも穴を開けたのか。気持ちを整理するのにもう1日を要した。

「店のことは心配しないで。このさい、ゆっくり休んだらいいよ。敦子さんも手伝ってくれているし、ヒロさんも時間延長して残ってくれている。夜は、恵子さんが(金)(土)は5時から入ってくれている。どうせ9時から『Barミラノ』をやるのだから、これからもずっと5時から入りたいそうだ。彼女はなかなか働きもんだよ。学生のナオとジュンは冬休みだから昼も入っている」
 ギーは、ちょこちょこ様子をみにきて店の状況を聞かせてくれる。

「その医師、下手なんじゃないの?水がたまる原因は分らんけどさ。そんな所で馬乗りになって、患者のお腹を押すなんて、ひどい奴だね。停止した心臓のマッサージじゃないんだからさ」
 病院嫌い、医者嫌いの島さんらしい。

 腹を開いて水を抜きとったあと、モルヒネのせいか、幻覚を見た。
 長い間、ベッドに横たわっているにもかかわらず、立っている、つもりだった。足元の壁が床で、天井が正面の壁に見えた。角度が90度ずれていて、歩きだそうとして足が動かないことに気づいた。
 ベッドに寝ている足元の壁に格子の模様があらわれ、縦横の線が交わるところからニョキニョキとトランプのジャックやキングがあちこちであらわれ消え、戯れているように何度もそれをくりかえしている。

 かつて覚せい剤中毒患者が被害妄想の幻覚を見て、なんの関係もない他人を刺したりするニュースを見てもピンとこなかったことが、なるほど、と実感した。数え切れないほどのクィーンが壁から湧き出してきて、襲ってきたら怖いだろう。

「お金、あるの?」
 枕元の請求書を手にして、みやちゃんがたずねた。
「ない。でも、高額医療だから、請求すれば健康保険からおりる、と請求書を持ってきた会計の女性が教えてくれたよ」
「この請求書、半月分になっているわね」みや。
「そう。この病院は半月単位で清算するんだって」
「半月でこんなにもするの?プーさん、保健にはいっているよね」
「うん。国民健康保険と県民共済と簡保」
「それだけはいっていれば十分じゃない。お釣りがくるわよ」
「とりあえず、立て替えてくれないかな、誰か?」
「私はないけど、島さんに聞いてみる。雪が降って、島さん儲かっているみたい」
 みやは、バイバイのかわりに請求書をひらひらさせて持ち帰った。

 看護婦(師)の親切が身にしみる。
 寝返りをうつこともできない身体をころがして拭いてくれたり、髪の毛を洗ってくれたり、足湯をしてくれたり。若い看護婦が多く、40をこえる人は看護婦長だけ。これは、この病院の経営方針なのだろう。教育がしっかりしているようで、病人に対する接し方がみなさんやさしい。考えてみれば、病院は究極のサービス業かもしれない。
 髪の毛を洗ってくれた若い看護婦は、自分が飼っている犬の話をしてくれた。そのとき、にんにくの臭いがした。2人でたわいもなくギョーザの話をしているだけで癒されるものがある。
 身体を拭いてくれた看護婦さんは、妊娠していて、お腹の中に赤ちゃんがいる、と幸せそうに気だるくほほえんだ。これから赤ちゃんを産む女性が末期患者の世話をしている。

 なかにひとり変った看護婦さんがいて、体温や脈拍をチェックするわけでもなく、フラッと入ってきてベッドのそばに腰かけて雑談をしていく。担当ではないから、サボリにきているのか。看護婦さんは忙しいから、そんな暇はないと思うのだが……
「上尾から4WDの車で通っているんだぁ」
「いま、スキューバーダイビングにこっているの」
 日焼けした健康的な顔でひとしきり話し終えると、ぷーの北方謙三のハードボイルドを
「これ、借りていい?」と持ち帰った。

「どう、具合?」
 ヒロダンが夫婦でひょっこり顔を出した。
「まあまあ、でも2度も手術をするとは思わなかったよ」
「ほんとうにね、びっくりしたわよ」ヒロさん。
「でも、元気そうじゃない」ヒロダン。
「うん、あと1週間ぐらいで退院できそう」
「それはよかった。退院しても、しばらくはのんびりした方がいいよ。店の方はなんとかなっているし」
「ありがとう。早くヒロダンのそばが食べたいよ」

「プーさん、そろそろ退院できるんだって?それを聞いてあわてて来たの。1度も見舞いにこないと、あとで何を言われるか分らないからさ」ナオ。
「なんだ、義理で来てくれたのか。まぁ、いいや。ありがとう」
 電動ベッドの上半身を起こしてナオを見あげた。まぶしい。
「最近、『Barミラノ』も手伝っているの。けっこう忙しいのよ。たまに荒川さんと恵子さんのどちらかが休むこともあるしね」
 ナオは脱いだコートをぷーの足元の布団に置き、マフラーをその上に放り投げた。すっぴんで飾らなくてもナオはきれいだ。
「敦子さんは手伝わないの?」
「夜は嫌みたい。ランチタイムはときどき手伝っているけど」
 ナオが「Barミラノ」を手伝えば、男性客は喜ぶだろう。売り上げアップ間違いなしだ。でも、ナオには水商売に染まってほしくない。大学院生のおとなの女性ではあるが、いまのまま健康的で子供のように輝いていてほしい。
「ナオが『Barミラノ』を手伝っているから忙しいんじゃないの?」プー。
「ちがうの。忙しいから手伝っているの」
「助平ジジイに口説かれるから、気をつけろよ」
「だいじょうぶ。荒川さんが、ビシッと言ってくれるから。○○さん、ここでは色気は売ってないのよって」
「荒川さんにそう言われると怖いね」
「コワイ。荒川さんににらまれると出入り禁止だから」


(15)
 退院を3日後にひかえた昼間、いきなりお腹の中で熱いものがあふれた。間髪いれず反射的に枕元のブザーを押していた。
「どうかされましたか?」看護婦(師)さん。
「お腹の中が熱い」
 すぐさま医師が飛んできた。
「下血しているよ」
 医師の声が聞こえた。
 バタバタとスタッフが駆けつけてきた。
 ストレッチャーに乗せられ、緊急手術だ。
 口の中に棒のような筒を差し込まれたとき、差し歯がはずれたところまでしか覚えていない。

 翌朝、医師がぞろぞろと巡回してきたときに教えてくれた。
「めずらしいことですが、たまにあります。十二指腸動脈破裂。……トウ(島)という病名です。(カタカナの島の名前に聞こえたが、聞き違えたかもしれない)ホッチキスのような器具でパチンパチンと5ヶ所、とめておきました。血管がくっついたころ、とめたものは自然に溶けます。それにしても、病院の中でよかったですね。1000ccの輸血ですみました。へんぴなところで破裂すると輸血が間にあわなく命にかかわります」

 敦子さんが安ちゃんと一緒に着替えの下着とパジャマを持ってきてくれた。
「原因はなんなの?動脈りゅうだったの?」安。
「内視鏡もCTスキャンも10回以上やっているけど、十二指腸に動脈りゅうはなかった」
「いきなり破裂しちゃったの?」安。
「そう、いきなり。先生に尋ねたところ、今のところ原因は分らないらしい。どうもストレスが関係しているらしいけど、証明されているわけでわない。血管がぼろぼろだったり、こぶがあったわけではないから、ストレスや精神的な要因で破裂した可能性がある」
「ストレスで血管が破裂したりするのかしら?」敦子。
「胃潰瘍、十二指腸潰瘍なんか神経からきているからね」安。
「腸だって、下痢や便秘も神経。ごめん汚い話で」敦子。
「心臓も感情や神経でドキドキしたり、痛いほど締めつけられるときがある」安。
「内臓って、意外と神経質なのね」敦子。
「ということは、プーさん、めちゃくちゃ神経質なのかな?」安。
「そんなこと、ないわよね」敦子。
「神経というより、気持ちのような気がする」プー。

 お腹にたまった水を抜きとる手術をするまえ、全身麻酔をかけられながら
「このまま目をさまさなくても、それはそれで、いいなぁ」と思った。
 自分でもあっさりしすぎていると感じるほど淡白だった。なにが何でも生き延びたいと執着するものがなかった。投げやりでもすてはちでもなく、自分の生死が他人事のようだった。気が弱っていた。それが、十二指腸動脈破裂に関係している、と思う。

「また手術したんだって?いったいどうなってんのよ」みや。
「分らんよ。いいかげんにしてくれって感じ」
「ほんとうに、3回もたて続けに手術するなんて」
「おかげさんで看護婦さんたちと仲良くなっちゃったよ」
 プーは、病院の2枚目の請求書をみやちゃんに渡した。
「島さんがね、倍返しだって。ふふふ」
 みやは、その請求書でプーの顔を扇いだ。


(16)
 梅は咲いたか、桜はまだかいな。
 この冬はずいぶん雪が降った。が、寝てばかりいたので雪は見ていない。2月に入院してはや1ヵ月半も過ぎていた。もうそろそろ退院という日にオッス親子が現れた。卒業式の帰りだ。和服のお母さんと羽織袴のオッス。目に焼きついた。
 お母さんはプーに挨拶すると退室した。

 オッスはプーのパジャマの中に手をさしいれ、ガーゼの上にあてた。
 しばらく、そうしていた。
 目が合うとはにかんで、口元で笑った。目が泣きそうになっていた。
 置手紙があった。


 プー様

 いろいろとお世話になりました。
 病気のことは、ナオから知らされていました。
 まもなく退院とのことで、安心しました。
 きょうは卒業式で、お別れの挨拶に来ました。

 6月にお嫁にいくことになりました。
 以前から、親同士で話しあっていて、
 やっと決心がつきました。
 いい人です。

    さようなら。

                      小百合





          嘘日記その6「手あて」  おわり。

          これはフィクションです。

      

      
  










           






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