嘘日記 その7 「帰ってこないで」



  (1)
「山ちゃんのお墓に行ったとき、いきなり満開の枝垂れ桜に出くわして、足が止まって、見とれてしまったよ。せっかくだから、コンビニまで引き返して弁当と缶ビールを買ってきて、ひとりで花見をしたよ。まわりに誰もいなかったから贅沢なひとときだった」プー。

「俺、府中のパドックの裏の日本庭園で花見したから」ギー。
「わたしなんか、毎日さくら並木の下を通っているから、べつに花見なんかしなくても」みや。
 4月の第1日曜日は、みんなでお花見の予定だったが、急きょ中止になった。

「プーさん、だいぶやせたね」安。
 退院してから4月までの1週間ほど、自宅療養としょうして、のんびりしていた。45日間の入院生活で太ももの筋肉が退化していて、かけっこはおろか歩くのもこころもとない。で、リハビリをかねて毎晩「月」まで散歩。1本のビールですっかりいい気分になってしまう。

「やっと確定申告がおわって、肩の荷がおりたわ」みや。
「安ちゃんのところの税理士さんにやってもらったんじゃないの?」ギー。
「いっしょにやって、教えてもらったのよ。だから、来年から自分でやる。税理士さんにたのむとけっこうするのよ。今回はとくべつ安くしてもらったけど」
「で、どうだったの、税金は?」
「税金をはらうほど儲かっていないわよ。なんとかかんとか黒字だけど、みんなの給料を抑えているからね。ヒロダンと敦子さんはボランティアだし、プーさんなんか、生活保護者より少ないから…まともに払ったら赤字よね」みや。
「となると、『Barミラノ』の家賃収入がおおきいね」ギー。
「そう、ちょうどその分ぐらい浮いている」みや。
「『Bar』、どうなの、このところ行ってないけど」安。
「それが、予想外に入っている」ギー。

 ひょうたんから駒、のようななりゆきで始めた『Barミラノ』は、意外なほど評判がいい。「ミラノ」のギャラリーに荒川さんたちが水彩画を展示して、その打ち上げのときに荒川さんが思いついた。金曜と土曜だけ、9時から12時までの「Bar」。酒のうえでのたわごとだと思っていたら、友人の敦子さんを相談役にして、恵子さんと2人で始めてしまった。

 慣れないし、忙しかったこともあって、店開きの12月は、プーか、ギーのどちらかが手伝った。荒川さんも恵子さんも素人なのでバイトのナオが居残って働いた。
 荒川さんと恵子さんの友人知人が来てくれたり、いつもなら9時閉店で帰っていたお客さんがそのまま残って『Bar』で呑んでくれたり。ボーナスが出たり、忘年会があったり。そんなわけで、12月は忙しくとも、年があければ暇になるはずが、意外やいがい、順調に推移している。

「Barミラノ」の家賃、売り上げの歩合制にしておけばよかったね」みや。
「みやちゃんが固定にしたんじゃないの?」ギー。
「まさか、こんなに入るとは思わないもん」みや。
「せいぜい、つぶれないで長続きしてもらいたい」プー。

 荒川さんと恵子さんの2人でやっているが、実質的には恵子さんがきりもりしている。荒川さんは還暦をすぎて身体は口ほどに動かないので、おもにお客さんの話し相手になっている。50になったばかりの恵子さんが、厨房から出たり入ったりしながら、おもてなしをしている状況なので、ナオが9時で「ミラノ」の仕事を終えても居残って手伝っている。予約が入ったときなどは、ギーも手伝う。

「さいきん、恵子さんに7時から入ってもらっている。9時までミラノで働いて、あとは『Barミラノ』。主婦だけあって学生とちがって掃除などもいきとどいているし、厨房の仕事も覚える気でいる。熱心だね」ギー。
「恵子さんね、金、土だけではなく、祝日の前日にも店を開けたいらしい」プー。
「どーゆうこと?」みや。
「たとえば、火曜日が祝日だったら、月曜日に営業する。水曜日が祝日だったら、火曜日に営業する」


 ギーが、天ぷらを揚げ、ヒロダンがそばをゆでてくれる。みやちゃんが、お客様からいただいた自家製のトマト、きゅうり、玉ねぎでサラダを作る。
 雨が降り、風が吹き、あっけなく桜が散り、花見が流れて、手持ち無沙汰。プーは、ジョッキー1杯の生ビールでいい気持ちになる。

 プーは、皆よりひと足さきに引きあげた。まだ肝臓も元にもどってなくて、すぐに酔ってしまう。部屋で増田さんのCDをながしながら、うつらうつらする。湖面に浮かぶボートで仰向けに身体をたおし、頭の下で手をくみ、かすかに揺れ、流されている感じ。なぜか山ちゃん、竹本や友人の死に顔があらわれては消えていく。みんな誘っているようにニコニコしている。

 夢の中にいるはずなのに、増田さんの音楽が聴こえてくる。
 眠っているのか、覚めているのか、判然としない、夢うつつ。
 死んだ知人たちの笑顔がながれていって、また眠りに落ちた。


(2)
 アップライトピアノをくれたマリコさんがピアノを弾きにきている。だいたい、週に2回。2時から4時まで。彼女の練習もかねたBGM。お客様の会話のじゃまにならない程度の音量でクラシック。

 いままで、プーは自分からすすんでクラシックなど聴くこともなかったが、マリコさんのピアノを聴くようになって、図書館からグールドやグルダのCDを借りたりするようになった。それで、本を読むときなどはクラシックをながし、お酒が入っているときはジャズをかける。いつの間にか、2つのパターンに分かれるようになった。

 北岡さんは、ふらりとやってきて
「いいかしら……?」
 といって、1時間ばかり弾いて帰る。彼女はいつもモーツァルトばかり。

 北岡さんの尽力でジュニアーサッカーの会合は「ミラノ」にもどってきた。以前ほどは集まらない、多いときで10人、少ないと4、5人。倶楽部ができてから1年がたち、組織ができつつある。監督、コーチ2人、父兄、みんなボランティアで運営している。北岡さんは役員ではないが、機関紙を出したり、グランド確保のために市役所に出向いて交渉したりしている。

「こんどミラノを借り切ってマリコと演奏会をやろうかしら……」
 どこまで本気なのか、照れ隠しで笑った。


(3)
 プーと入れかわるように、島さんが「ミラノ」にやってきて
「残念だね。花見、楽しみにしていたのに」
「まさか、この時期に葉桜になっているとは」ギー。
「島さん、天ざる、食べる?」みや。
「食べる。まだ咲いている所はあるけどね。山とか、北に行けば。でも、そこまでしてね……」
「さくら前線を追いかける人もいるらしい」ヒロダン。
「もの好きだね」ギー。
「伊豆へ行って、翌週は千鳥が淵、靖国神社、上野と回って次の週は水戸とかね。あれっ、こんなところに桜が、咲いているじゃない」島。
「恵子さんが、金曜日に持ってきたの。『Barミラノ』では、一輪の桜を囲んで花見酒ってわけ」ギー。
「なるほど、恵子さん、やるね」島。

「ところで、プーさんはどうしたの?」島。
「眠いって、島さんと入れ違いで帰ったのよ」みや。
「ほんとうに眠っているのかな?プーさんに相談があったんだけど……」島。
「メールしてみれば」みや。
「ずいぶん酒が弱くなったよ。病気してから」ギー。
「なによ、相談って」みや。
「いや、その……プーさんの向いの部屋、空いているよね?」
「ふん、4畳半と3畳の物置」みや。
「入れてくれないかなぁ、と思って。アパートの隣の部屋に引っ越してきた女がうるさくってね、深夜の12時1時まで話し声が聞こえるんだよ。大家さんに苦情を伝えてあるんだけど、あまり効きめがないので、ちょくせつ本人に言ったら…ブスッとしてそっぽ向いてやがんの。カチンときたよ。アパートの契約更新がこの6月だから、更新料はらってまで居ることないと思って」
「あんなところ、出たほうがいいよ」ギー。

 プーの住んでいる家は「ミラノ」から1軒はさんだ裏手にある。はじめ2階だけ借りていたが、篠さんの具合が悪くなり施設にはいったため、1階はただで使わせてもらっている。「ミラノ」の倉庫兼第2厨房でヒロダンがそばを打ったり、ギーさんが仕込みに使用している。
「プーさんは10畳の部屋だけだから、だいじょうぶじゃないの?リビングも広いし、1人で住むにはもったいないわよ。どうせ空いているんだから」みや。
「島さん、あの部屋代、いくらだったけ」ギー。
「8万」島。
「じゃ、家賃として、8万円、いれてね」みや。


(4)
 眠りの浅瀬のようなところで、まどろんでいた。増田さんのギターの音が聴こえていた。山ちゃんが誘うように笑ってくる。くも膜下から解放された竹本もニッコリしている。プーは目がさめてからも2人の笑顔を思い起こそうとしたが、かすんでまたたく間に消えてしまった。夢のなかで、彼らは確かに笑っていた。ただ一緒にいたのではなく、別々のところから現れた。2人とも顔の表情に動きがなく、写真のようにしゃべらなかった。


(5)
 退院してからも自宅療養しながら毎晩「月」にかよった。夜になると虫が穴から這い出すように出かけた。午前中は洗たくしたり、掃除したり。昼からは音楽を聴いたり、読書したり。それで、暗くなると外の空気がすいたくなる。(平)へーさんと雑談していると、ほっと、するところがある。

「ゴールデンウィークのライブなんだけど…ボーカルのマキさんがダメになって、代わりにうちのえりちゃんに
歌ってもらうことにしたよ。増田さんの娘さんのフルートもはいる。あくまでもピアノトリオのスタンダードジャズでボサノバをちょこっといれる感じ」平。
「若い娘が2人はいると華やいでいいけど、レベルがちょっと」プー。
「だから、ミリオンセラーの曲で、やさしいのを選んで、楽しんでもらおうと…」平。

 プーと待ち合わせしていた島さんが、入ってくるなり「小さん」の写真に向ってかしわ手うって礼をしている。カウンターの「たぬき」の置物のお腹をなぜながら……
「もうちょっと小奇麗にしてもらいたいなぁ。ジーンズとかティーシャツはダメ。ピアノトリオの3人のおじさんは、ジャケットを着てネクタイ締めて、若い娘の2人は舞台衣装で客の目を楽しませて」島。
「そうだね、平さん、ショーアップしましょう」プー。
「うん、なんとか、そっちでごまかしてみるか」

「プーさんのところの空いている部屋を貸してもらおうとおもってね」島。
「うん、みやちゃんからメールが届いていたよ」プー。
「こんど隣に引っ越してきた女が夜中までうるさくてね。本人に注意しても、静かなのは2、3日だけ。大家さんに苦情を伝えても効果なし。この6月が賃貸契約の更新なので、しおどきかな、と思って」
「隣の女性、いくつぐらいなの?」平。
「30過ぎだね」
「お水系じゃないの?」プー。
「たぶんそんな感じ。2時すぎまで男と話し込んでいて、またその声がでかいんだ。2人とも酔っていて、何を話しているのか分からないけど、くどくて耳障りなんだ。眠れねぇよ」
「あのアパート、壁なんか薄いよ。6月まで待たなくても、すぐくれば」プー。
「ありがとう」
「休日なら、安ちゃんのところの車を借りられるよ」プー。


 2階の間取りは、プーの部屋(もと夫婦の部屋)が10畳。リビングが10畳。台所が4畳。島さんが住む部屋(もと子供部屋)が4畳半。物置が3畳。バス、トイレ。

「平さん、俺こんど入院して、いろいろ考えたよ。それで、死んだらどうなるか……べつに宗教的なものではなくてね、天国とか、地獄とか。俺の死体を誰がどう処理するかなんだけど。ポックリさんの仲間にやってもらいたいんだよ。葬式なんかいらないから、ポックリさんの仲間の立会いで焼いてもらって、丘のような集合墓地に骨を撒いてもらえればいい。もちろん、戒名もいらない」プー。
「俺も、そうしてもらおうかな」島。
「島さんは長男で両親の墓があるんじゃないの?」平。
「ある。浦和に」
「じゃ、そこに入ればいいんじゃないの」平。
「入ってもいいんだけど、あと、めんどうをみる人がいないんだよ。姉は嫁いでいるし。俺には子供はいないし。あっ、いるけど、縁はきれているし」
「まず、姉さんと相談してからだね。プーさんも、自分ひとりで決めないで子供と話し合って了解を取っておいて。いざというときは、本人は死んで口はきけないんだから。そうなると、親族の意見が通っちゃう」平。

「俺、遺言状を書いておくよ」プー。
「書くだけではなく、話して遺言状に子供たちのサインをもらっておいてよ。そうすれば、わたしが骨を拾ってあげましょう。といっても、わたしの方が先に逝くと思うけど」平。
「分からんよ、こればっかりは」島。

「なんか、陰気くさいことを楽しそうに話しているね」
酔って入ってきたギーが、はんじょうをいれる。
「ギーさんは、墓、あるの?」プー。
「ある。北海道に家のが。でも、俺、3男だからなぁ」
「じゃ、こっちに造るの?」プー。
「あれ、けっこうカネ、かかるんじゃないの」
「けっこうするよ」島。
「カネ、ないんだよね」
「カネがあれば、お墓、造る?」プー。
「うーん、どうかな。何も考えてないんだよ」


(6)
 ギーは北海道出身だ。網走に近い辺ぴなところらしい。高校を出て浅草のトンカツ屋に入った。見習いのころ、土日になると馬券を買いに行かされた。門前の小僧ではないけれど、仕事より先に競馬を覚えた。それから、ずいぶん研究したらしいが、今ではケントク買い、だそうだ。レースを予想しないでデタラメな数字の馬券を当てずっぽうに買う。

 見習いのころ、何人もの先輩に小金を貸しては逃げられた。
 忘れられないのは、上京の記念に親に買ってもらった腕時計を持ち去られたこと。

 トンカツ屋をまかされるようになったころにアルバイトで入ってきた大学生が、女房の寿美子。暇なときは2人だけで仕事をするので、おのずと気心がしれてしまう。そのうち、ギーの部屋の掃除にくるようになり、洗たくもするようになったのは、彼女が押しかけて泊まるようになってからだった。

 背が高く、スラッとして顔立ちもいいギーに惚れたのか、彼の純情を愛したのか、とにかく寿美子が積極的だったらしい。

 トンカツ屋を出て、同じ会社が経営する割烹の店で働いているころにマージャンを覚えた。土日は競馬、平日は明け方までマージャン。9時まで仮眠して昼の仕事、昼寝して夜の仕事。
 店の近くの寮(アパート)に住んでいたので家賃はかからず、食事は店で食べていたから給料のほとんどは遊行費に消えた。
 ギーは、そのころ体質的に酒が呑めなかったから遊行費は賭け事代のこと。マージャンのメンバーがそろわないときは、花札、サイコロ。ひとりのときは、部屋でごろ寝。救いは借金をしなかったこと。その時代はまだサラ金はなかった。質屋でカネを貸してくれたが質草(時計など)がなくなっていた。

 週に1度の休みの日に、昼まで寝ていると、寿美子が弁当を持ってやってくる。部屋の掃除と洗たくをしてくれる。その物音で目が覚めてしまう。洗濯物を干し終えると2人でいっしょに寿美子の作った弁当を食べる。寿美子はあまり食べない。食べるギーの様子をうかがっている。ギーの箸の動きや、そしゃくを執拗に見つめる寿美子の目に気づいたとき
「うまい」と言ってしまった。
 彼女の母性的なおしつけがましさに耐えかねて。

 2人で街にでると寿美子はギーの腕をとり、引きつけて自分の身体に押し当てる。どこへ行くというあてもない。映画でも観ようか、とうながしてみる。映画館だと話し相手にならないですむし、座っていられる。面白くなければ、寝たっていい。
 寿美子はデパートへ行こうという。わざわざ地下鉄にのって銀座まで。地下から7階まで、グルグル回る。ついて歩くだけで、いいかげん、うんざりする。
 寿美子は家具売り場にさそって、いろんなダブルベッドのクッションを両手で押して試している。気に入ったベッドに身を投げだして、トランポリンのように身を弾ませている。なにがそんなに嬉しいのか、子供のようだ。

 結婚はしたが、女房の両親にはずいぶん反対された。でも、ギーは両親の説得にはうごかなかった。なんとなく、無理筋、のような気がした。家柄とはずいぶん古風ないいかただが、自分の家や育ちと女房のそれとはあまりにも違う気がした。勉強が嫌いで頭も悪い自分なのに、彼女も彼女の両親も教師の教育一家なのが、なんともうっとしい。つきあい始めた頃、寿美子にたのまれて両親に挨拶にうかがったが、いやな顔をされて結婚式の日まで会うこともなかった。
 結婚後、年に1度、新年の挨拶にいって1泊するのが憂鬱だった。


(7)
 冷蔵庫や洗濯機などを市の施設に運ぶと引越しの荷物は机とベッド、たんすとゴルフバッグくらいしかめぼしい物がない。よけいな物は全部すてたので、安ちゃんのところのワンボックスカー1回ですんだ。プーやギー、ヒロさんも夫婦も「ミラノ」の仕事(日曜日のバイキングランチ)で手伝えないので、みやちゃん一家総出で引越し。メグと和はみやちゃんの指示で掃き掃除、拭き掃除、雑用をやってくれた。助かったのはメグの友達のK君。重い物はK君と島さんでなんとか運んだ。

 3畳の物置にタンス、ゴルフバッグ、ダンボール箱を押し込み、4畳半の部屋の決めておいた場所に机とベッドを入れるとさっさと「ミラノ」へ。あとかたづけは本人がやることに。前の住みかの掃除は日を改めて、みやちゃんとヒロさんがやることに。
「ちゃんとアルバイト代、出してよね。うちのはいいけど、K君とヒロさんには」みや。
 島さんはうまそうにビールを呑みながらうなずいている。
 今なら、なにをたのんでも島さんはニッコリうなずきそうだ。

 プーとギーがバイキングランチを終え、その残り物をたずさえて来たときは、島さんは寝ていた。引越しのあと「ミラノ」で食事のときに呑んだビールが効いたらしい。とりあえず、2人で呑んでいよう。そのうち起きだすだろう。
 プーはグラス1杯のビールを呑んだだけで、お風呂のスイッチを入れると自室のベッドで横になった。手術と45日間の入院で、すっかり体力が落ちてしまった。

 ギーは、スポーツ新聞の競馬面だけとりだして、眺めながら呑んでいる。
府中のパドック裏の日本庭園で花見をしていらい、このところ競馬場には行っていない。G1ならまだしも、なみのレースならわざわざ電車に乗ってまで出かけるのがおっくうになってきた。

「なに、まだ競馬なんかやっているの?」
 島さんが小ばかにしたように言う。
「最近はやっていない。結果を見ているだけ」
「結果を見て、おもしろいの?」
「おもしろい、というか、データを集めているんだ」
「また、いかがわしい必勝法をあみだそうと……」
「まぁ、ね。集めたデータをいろいろな角度で切ってみると、それぞれ違った断面が見えておもしろい」
 プーが起きだしてきて
「デタラメ買いからデータ買いに変えたわけ?」
「まだ今はデータを集めているところ。ビッグデータになったら試してみる」
「そんなこと、専門家や競馬新聞がいぜんからやっているよ」
 島さんは、お先に、と言って風呂場へ。
「まぁ、ひまつぶしにパチンコするよりはいいんじゃない」プー。
「このところ、パチンコはやらないし、馬券は買わないから小遣いが減らないよ」ギー。
 最後のギーが風呂からあがったころ、ヒロダンがそばを持ってきて茹でてくれる。ランチの残り物を広げて、オヤジ4人で引越しそばをいただく。


(8)
「恵子さんね、(金)(土)だけの営業じゃなく、日曜と祭日以外は『Barミラノ』をやりたいらしいよ」ギー。
「いいんじゃないの?」島。
「いいけど、荒川さんはあてにならないよ。となると、ギーさんとナオにしわ寄せがいくよ」プー。
「オレは手伝ってもいいけど、ナオは無理だよ。来年卒業だから忙しい。ジュンにたのんでみれば?」ギー。
「ジュンなら週に1日や2日ぐらいならできないこともないと思うけど、深夜の12時までだから、親御さんがねぇ…なんと言うか」プー。
「恵子さんの大学生の娘さんも週に1日や2日ぐらいなら手伝うそうだよ」ギー。
「恵子さんの娘さんなら可愛いだろうな。でも、いきなりじゃ役に立たないよ、客寄せにはなるけど」島。
「とにかく人手をいれることだね。2人いれて、かわるがわる出てもらえばいい」プー。
「若い子にしてよ、愛嬌のある。なんなら俺が面接してもいいけど」島。
「島さんが採用するとフィリピンPabになっちゃうギー。

 ギーはナオに「Bar」の仕事には深入りさせたくなかった。彼女がいると客受けがいいから売り上げにはなるが、変な虫がつくおそれもあるし、水商売特有の水垢が知らずしらず身に染み付いてしまう。それが良くない。


(9)
 ゴールデンウィークがあけてから「マリコ・北岡」コンサートとへー(平)さんの「Jazz Live」が2週つづけてあった。

「マリコ・北岡」コンサートはクラシックで北岡さんの生徒さん家族、あとはマリコさんと北岡さんの知人友人でほぼいっぱいになった。
 今回は新しい試みとして日曜日のバイキングランチが終わったら、そのまま3時からコンサートにはいった。こどもづれの家族客が多いので5時には終えるようにした。
 チケットはバイキングランチ付きと、コンサートのみの2種類用意した。もちろん、いつもどうりバイキングランチだけのお客様もOK。

 クラシックのコンサートは初めてだったが、みなさん熱心に聴いていた。ジャズの客層とはまるっきり違って、耳に全神経を集中しているようで物音ひとつたてない。緊張感がある。それにひきかえジャズライブの客は話しながら、飲食しながら、身体を動かしながら…なにかしながら聴いている。なかには歌舞伎の観劇客のように演奏者に掛け声をかける人もいて、みなさんリラックスしている。

「クラシックのコンサートもいいね」プー。
「そおぉ?オレ、眠くなるんだよね、あれ聞いていると」ギー。
「カネだしてまで聴きたいとは思わないね。酒、呑めないんだろう?」島。
「呑んでもいいけど、あまり呑む人はいないね」プー。
「でも、まぁ、あれだけ入れば商売にはなるよね。バイキングの流れでやれば、料理の手間もはぶけるし、5時に終わると後がらくだよ」ギー。
「それにさ、北岡さんの生徒さん家族が来てくれるので、ある程度、客の入りが計算できるのがありがたい」プー。

「今日は泊まっていこうかな。あす市場へ行くから朝、早いし」ギー。
「下の篠さんの部屋で寝れば…布団、あるよ」プー。
 1階の篠さんの8畳間があいている。台所が「ミラノ」の仕込み場でリビングが物置になっている。篠さんが施設に入ってから、空き家にしておくと部屋が傷むので1階はただで使っている。

 ヒロダンが帰るのを潮に、引越し疲れで島さんは自室にもどり、プーも術後で体力がなく、そうそうに引きあげた。ひとり残されたギーは手にしていたスポーツ新聞の競馬面を投げ出し、ぼんやりしていた。あと1杯呑んだら階下の篠さんの部屋で寝ようと思っていた。

 つい、うとうとしてしまった間に、日ごろ思い出しもしない変なことがよみがえった。アルコールで麻痺した脳細胞から、なつかしい過去がこぼれ落ちてきたようだ。

 高校2年の秋に盲腸の手術をした。10日で退院したが、術後の経過がおもわしくなかった。しじゅう腹痛におそわれ、下痢をした。検査入院や自宅待機で2年生の後半を棒にふった。それで、出席日数不足で2年生をもういちどやりなおすことになった。

 いままで一緒にすごしていた仲間が3年生になったのに、ギーは1年下の奴らともういちど2年生をやらなければんらない。かつての同級生から1年おくれたことより、仲間からはずれたことがつらかった。はじめのうちは学校で会うと、みんなと雑談もしていたが、学年がちがうので、じょじょに疎遠になっていった。
 そのかわり新しい級友と仲良くなればよかったのだが、なじめなかった。1年歳下だけなのに、えらく子供じみてみえた。まわりも、ギーが1歳年上というだけで遠慮がちで近づかない。

 学校がおもしろくないから、よくさぼった。都会のように遊ぶ所もカネもないので野山や川原で時間をつぶした。とうぜん、学業はおろそかになり、落ちこぼれになっていた。落ちるところまでおちると、成績は気にならない。ビリでもなんでも、卒業さえできればよかった。
 どのようなつてだったのか、学校に募集のきている会社があったので何も調べず応募した。渡りに舟で、逃げるようにして東京にやってきたから、仕事はなんでもよかった。

 東京には人間がうじゃうじゃいる。とくに電車や駅には人があふれている。ぶつかり合うほどの人がうごめいていても、自分のことを知っている人が誰ひとりいないことが、うれしかった。人の目を気にしなくていいから、なんだか自由になったような気がした。

 ギーは階下の篠さんの布団にもぐりこんで高校生時代のやるせない感じを思い起こしながら眠りに落ちた。


 市場で冷凍マグロを大量に仕入れてくる。仕込み場にマイナス50度にもなる業務用の冷凍庫がはいったので、まとめ買い。ランチで刺身定食や鉄火丼をだしている。「Barミラノ」では、突き出しでマグロをちょこっとだしたりしている。
 ランチでは魚料理と肉料理と天ざるの3品を定食でだしている。もちろん、ピザやパスタもあるけれど。

ヒロダンのそば打ちも安定してきたし、てんぷらも下ごしらえだけではなく揚げられるようになってきた。煮物、焼き物もそこそこできる。だが、お刺身だけは、まだまだ。
 でも、ギーと、プーのどちらかが手伝えば、ヒロダン夫婦、みやちゃん親子の4人でモーニングからランチまでこなせるようになった。

ギーは仕入れてきたマグロを冷凍庫に入れると11時まで仮眠をとった。うつらうつらしていると、昨夜の高校生時代の想いが浮かんできた。だが、当時の生々しい感覚がよみがえらない。思春期にあれほど思い悩んだ劣等感、虚栄心、自尊心などが、40年の時間の経過でしらぬ間に消えている。

「あなたは自分のことしか考えていないんだから」
 夢をみていたのだろうか。女房の寿美子の言葉で目がさめた。
 高校時代のひりひりした傷口のような体験を思い起こそうとしていたのに、女房がでてくるとは。

 女房は小学校の教師で、ギーは板前だから勤務時間はちがうし、休日も合わない。それに、女房は娘を連れてしじゅう近くの実家に出入りしていた。義母もひんぱんに泊まりに来る。なんだか、ギーは養子に入ったようで肩身がせまい。
 それに寿美子の収入はギーの倍もあるので、家も女房が買ったことになっている。ローンの頭金は義父が出してくれたので肩身がせまいどころか、居場所がない感じ。
 いまは寝に帰るだけだ。
 確かに、自分のことしか考えていないのかもしれない。


(10)
 ポルトガル語を習い始めたせいか、えりちゃんの歌はボサノバらしくなっていた。もともとささやくような歌い方だったので、合っているのかもしれない。
(増田さんの娘)リノのフルートも上達していた。いぜんのように、あきらかに間違った、と分かるところはなかった。昨年の花見のときは、桜の下で増田さんと演奏していて、間違えるたびに舌をだしたり、フルートで自分の頭をコツンとやっていたが。

 きょうは、ピアノトリオでやるときはスタンダードジャズ。えりちゃんやリノが入るとボサノバやビートルズやスティービーワンダーなどの有名なポップスをやった。お客さんはどうしても知っている曲を喜ぶから。

 えりちゃんとリノのノースリーブの色あざやかなドレスにあわせて、平さんとベースとドラムスさんも蝶ネクタイにジャケットで決めていた。いままでのライブとはちがって、華やいだ雰囲気。
 さいごの方で、増田さんが飛び入りでギターソロを弾いてくれると、場の空気ががらりと急変した。思いがけないプレゼントをもらったようで、お客さんの拍手もいちだんと高まり、アンコールの催促になっていた。

 2週連続のライブも無事のりきった。
 さいきんになって、ギーも「ミラノ」の経営を考えるようになってきた。「ミラノ」に出資しているからだけではなく、店をつぶしたくないから。赤字が続き店がなくなると、仕事がなくなるだけではなく、楽しみや、やりがいや、仲間がいなくなって困る。たぶん、途方に暮れるだろう。

 東京に出てきて最初はトンカツ屋で、そのあとが割烹。その頃、ときどき大井競馬場内の出店にやらされた。ギーが勤めていた会社は飲食店を10軒も経営して、競馬場やゴルフ場にも出店をだしていた。

 大井は川崎、船橋、浦和の南関東の公営競馬の1つ。1ヶ月間で4ヶ所を巡回するので月に1週間ほどの営業になる。
 大井開催のときは10店舗の店から人手を寄せ集めて、テキヤのような仕事をする。ギーは、ときどき呼ばれて、1日中やきそばを焼いていた。

 朱に染まれば赤くなる。
 見習いで浅草のトンカツ屋で働いているとき、よく場外馬券売り場に走らされた。大井競馬場では、馬券売り場の階下で焼きそばをやいていた。馬券の買い方はすぐに覚えたが、あて方はいっこうに分からなかった。

 当然のごとく、吹きだめのごとく、似たものどうしがあつまってくる。たいしたワルはいない。もちろん、善人もいない。社会から落ちこぼれたり、はみだしたり、行きき場のない者たちが小金を握りしめて一喜一憂している。

 焼きそばを作りながらそんな客をみていたので、ギーは、賭け事の世界にどっぷり身を浸すことはなかった。賭け事で儲けることはできないと分かってきたから、朱に染まっても赤くはならず、桃色ぐらいだった。


「ミラノ」がつぶれるかどうかは、プーだけではなく、ギーにとっても大きな賭けだった。金儲けの賭けではなく、もうちょっと大切なものを賭けている想いが強くなってきている。だから、ピクニックと称して府中や中山まで足をのばすのがおっくうになってきた。

 北岡さんの教え子の音大生が「Barミラノ」を手伝ってくれることになったので、恵子さんの計画通り日曜祭日以外は「Bar」の営業をすることになった。(いままでは金、土だけの営業で、9時から12時までの3時間だけ)

 音大生は小暮さんだから、グレちゃん、と呼ばれている。彼女とナオ、恵子さんの娘さんとジュンも手伝っている。
 スタッフは恵子さんと女子大生の誰かとの2人体制。ギーかプーのどちらかが手伝うが、恵子さんの熱意にうたれたのか、ギーが最後まで店に残っていることが多い。12時閉店だが、すんなり時間通りに終える日はすくない。お酒のはいった客はづるづると居残るので、どうしても1時ごろになってしまう。

 恵子さんはこの仕事を始めたばかりで、酔っ払いのあしらいには、まだなれていない。なんだかんだととりとめないことをシャベリつづける客に、話の腰をおらないで機嫌よく帰ってもらうのが難しい。
 そんな、水商売にしてはうぶな恵子さんの様子を見て、なめえかかるやからが、たまにいる。だから、ギーさんが居るだけで揉め事の防止になっているはず。

 もともと変な客のこない店ではあるけれど、ギーさんの居ない日は、心細い。恵子さんは客足がとぎれると12時まえでも店を閉めてしまう。変な客と2人きりになるのが、怖い。


(11)
 いいことばかりは、続かないものだ。「Barミラノ」が3時間とはいえ、日曜と祭日以外は営業することになり「ミラノ」の経営も軌道にのりつつあるのに、また立ち退きの話がもちあがってきた。去年、その話が出たときは、打診のような感触だったが、今回は決めてかかっているようだ。
 間にはいる不動産屋がいうには、大家さんは自宅、別荘のほか「ミラノ」や他の不動産もあり、80歳の高齢でもあり、相続税対策で自宅以外は処分するそうだ。

「立ち退きを断ったら、どうなるんだろう」プー。
「無理やり追い出すことはできないはず」平。
「バブルのころ、地上げって、あったけど」プー。
「あれは地主に対してであって、ミラノは賃貸契約でしょ。撤退料がでるにしても、たいした金額じゃないと思うよ」平。
「どれくらい出るんだろう」
「さぁ……新しい店を出すには足りないんじゃない」

 プーは「月」で呑んだ帰り「Barミラノ」を覗いたら、安ちゃんがいたので入り、すわりこんだ。他に客はいない。恵子さんとナオが手持ち無沙汰にしていた。
「なんだ、客が誰もいないじゃない」プー。
「若干1名、居るんだけど」
 安ちゃんが自分を指さしている。
 そこへ更衣室からギーが出てきて
「ひまだから、もう、帰ろうと思っていたところだよ」
「こんな日もあるんだね」安。
「いままでは、金曜と土曜しかやっていなかったから、こんなひまな日はなかったけど、毎日やるようになって、お客さんが分散しちゃうのよね」恵子。
「そりゃ、もっともな話だね。いままでの2日営業が6日になったわけだからね。営業日数が3倍になったから、1日の客数が3分の1になっても不思議じゃない」安。
「そんなぁ…安ちゃん、商売は割り算、掛け算だけじゃないんだから」ギー。
「営業日数が3倍になったから、売り上げが3倍にならないとしても、2倍にはなるでしょう」プー。
「2倍では、ちょっときついでしょ、商売として」ギー。
「だいじょうぶ。これからです。始まったばかりなんだから」ナオ。
「ナオちゃんが、頼り。……ギーさんも」恵子。
「オイラは」プー。
「タヨリナイ」ナオ。

 そこへ、ひょっこり島さんがあらわれて
「きょうは、何なの?集まりでもあるの?」
「いやいや、ただのグーゼン」プー。
「立ち退きの話、したっけ? また、不動産屋が話をむしかえしている。大家さんにせっつかれているらしい」プー。
「去年、俺たちで防音工事をしたとき、その話はなくなったんじゃないの?」ギー。
「そう、立ち消えになったんだけどね。このところ、大家さんの具合がかんばしくないらしい。もう、80過ぎだからね。先が見えてきたから、今のうちに相続税対策で不動産を処分したいそうだ」プー。
「それで、立ち退きってわけか」島。
「断ったら、どうなるの?」ギー。
「そのときは、不動産屋が買い取ってくれ、と大家さんに言われているそうだが、不動産屋はそんな余裕はないって」プー。
「じゃ、どうなるの?」ギー。
「大家さんは急いでいるからね。不動産業界に売り情報を流すでしょう、訳あり物件として、多少値引きして」プー。
「それは、まずいよ。ブラックな奴らに買い上げられたら、追い出されるよ。立退き料なしで」島。
「それはないよ……」ギー。
「お店がおもしろくなりはじめたところなのに」恵子。
「安ちゃん、なんとかしてよ。あの不動産屋とは幼友達でしょ。それに、大家とは互いに親同士が友達じゃないか。たのむよ」プー。
「うん、話してみるよ」安。

 安ちゃんが言いおえたとき、4人連れの客が入ってきた。恵子さんとナオがお出迎えに行く。ギーは厨房に入る。はじめての客で、みんなスーツ姿だから、会社員の会合か宴会の流れのようだ。きゅうににぎやかになって、恵子さんの表情も一変して明かりがついたよう。
 つづいて2人組みがきたかと思うと、草野球の世話係のウラさんが右手をあげて、ヨッ。お客さんって、来るときは申し合わせたようにどんどんくる。来ないときはパッタリ来ない。

 いぜん、ギーが言っていた。準備万端整えて待っているときは、えてしてひまで、人手不足や仕込みがおわっていないときにかぎって、忙しい。

 客商売って、たしかにそんな風なところがあるようだ。

 店がにぎわいだしたので、安ちゃんが帰り、プーと島さんも裏の部屋にもどった。そのとき、プーはウラさんにあいさつした。草野球の試合がおわると「ミラノ」で打ち上げをしてくれる。15人ぐらいで来てくれて呑んでくれるので、いいお客さんだ。ウラさんは、このところ「Bar」にひとりでやってくる。どうやら、恵子さんが目あてらしい。

 やはり、忙しくしているほうが仕事はたのしい、と、ギーは思う。
 厨房にいて、すこしあおられると気合がはいって充実感がある。ギーは、この店が立ち退きでなくなるのが、我慢ならない。なんとかならないものか。
 かつてなら、店がつぶれれば、転職するだけだった。そんなことは何度もくり返していて苦にならない。だが、今回は違う。

 もう、今では、よその店では働く気になれない。

 ギーは10軒以上の飲食店で働いてきた。小さい店、大きい店。きれいな店、きたない店。うまい店、まずい店。忙しい店、ひまな店。個人店、チェーン店。いろんな店で永年勤めてきたので感覚的に店の良し悪しが分かる。
 勤めはじめて1週間もすると、その店がそう遠くない日につぶれるのが分かる。目に見えて閉店しないまでも、暖簾はそのままで経営者がかわっている。だから、つぎの仕事場をさがしながら働くことになる。

 ギーの馬券はあたらないが、つぶれる店はあたる。

「Barミラノ」はつぶれないと思う。恵子さんがやっているかぎり、だいじょうぶ。やはり、経営者の人柄だと思う。欲をださなければ、元気なうちはやっていけるでしょう。


(12)
 そのうち、ギーは転勤で飲食店をはなれ、催事部門の管理者になった。おもにビッグサイトの催事に売店をだして弁当を売った。ラーメンやうどんも売ったし、現場で働く人たちのための社員食堂もやった。催事出展会社のパーティーも請け負った。そうした仕事を取ってくる営業がギーの仕事で、売店の売り子や金銭管理までまかされた。もっとも大きな仕事は東京モーターショウで売店を20も出して、大きな売り上げがあった。

 ビッグサイトまで電車で通うと2時間もかかるので、大きな仕事のときは近くのホテルに泊り込むことが多い。常宿のビジネスホテルに野郎4、5人で4、5日泊まる。仕事を終え、ひと風呂浴びると、思いおもいに出かける。パチンコに行く者、呑みに行く者、デートする者。みんなで晩ご飯を食べたり、マージャンをしたりすることもあるが、売り子の女性が遊びにきたりすると呑み会になりカラオケになる。催事の終わりの打ち上げは、だいたいそのパターン。そんなことをしているうちに、売り子の女性と仲良くなってしまう。

 売り子は、女子大生から50代のおばちゃんまで常時2、30人はいた。ただ、ひとつの催事単位で採用するので4、5日しか働かないバイトもいる。が、古手のおばちゃんは仲間を5、6人連れてきてなが年勤めている。催事の仕事はあるなしが不規則で、しかも短期なので人手の確保がむずかしい。いつの間にか、ギーはリーダー格の3人のおばちゃんに日にちと人数で派遣を頼むようになっていた。リーダーには手当てを出すだけではなく、お礼のしるしに、たまには食事や呑みに連れてゆく。できるだけリーダーのおばちゃん全員に声をかけて呑み食いするようにしている。ある特定の女性だけと親しくすると、仕事がやりにくくなる。

 でも、女子大生から声がかかると話は別だ。たまに
「相談したいことがあるの……」とか
「食事、ご馳走してよ……」とか、誘われる。
 そんなときは、とりあえず、相談にのることにしている。

 ギーは頭脳明晰ってわけではないが、やさ男でさっぱりしたたちだから、女性の方からそれとなく言い寄ってくることがある。古株やリーダー格の場合は仕事にさしさわりがあるので、最後まではお付き合いはしない学生や若い子でトラブルになりそうもなければ、来る者拒まず、去る者、追わず。
 世間では「つまみ食い」といったりするが……。

 ギーは、自分では女好きではないと思っている。こまめに女性を気づかったり、おだてたり、すかしたりするのがめんどうくさく、苦手だ。それに、ちょっとした女性の我がままをきいてあげる忍耐にとぼしい。ようするに包容力がないのだ。

「自分のことしか考えていない」のかも。

 広い催事売り場を巡回しながら、小まめに集金し、情報収集しながら若い子に粉をかける。
 いわくつきの古株やトラブルになりそうな女性はパスして、全員に冗談半分に声をかける。
「お茶、飲みにいこう」
「こんど、食事しよう」
「デートしようよ」
 自分でも誰に声をかけたか、覚えていない。
 ほとんど口からでまかせ、のあいさつがわり。
 でまかせで誘っていると分かっていても、怒る女性はいない。たいてい、笑って受け流す。こなれた女性などには
「所長、今日は何人に声かけたの?」
 と、突っ込まれたり、からかわれたりする。

 それでも、あとからOKのメールが届いたりすることもあるから、女心は分からない。

 Hとのつきあいもそんな遊び半分で始まったから、なんどかのデートで終わるはずだった。ギー自身、Hのことはなにも知らなかった。売店のアルバイトでこれといって目だつところのない女性だった。
「食事につきあっても、いいわよ〜」
 返事のメールをもらってから、Hの顔を思い浮かべるのに苦労した。いや、どうしても思い出せなかった。とりあえず、待ち合わせのお店に早めに行って、入り口の見える席で待っていると会釈しながら近づいてくる女性がHだった。
「なんだ、この女性だったのか」
 ギーは、わざと大阪のヤクザ風に自分に突っ込んだ。
「へた打ってしもうたな……」
「まぁ、ええやんか。番茶も出花や」
 ギーが、へたな自分を笑いながら、Hを眺める。
「この催事でアルバイトを辞めることになりましたので、挨拶をしておきたかったのです」
 はにかむように笑みをうかべるH。
 たしか、1ヶ月も働いていないはずだが。

 このとき、Hと2年も付き合うことになるとは夢にも思わなかった。
 この浮気がばれて夫婦の間に亀裂がはいった。

 いぜんにも似たようなことがあったが、妻の寿美子は大騒ぎすることもなかった。つまみ食いのお遊びで、うやむやになっていた。マージャンで外泊しても、あきらめ半分で許していた。が、Hのことが発覚してから、寿美子の人が変わった。


(13)
 安ちゃんから声がかかって、プー、ギー、島さんが「Barミラノ」に集まったのは10時をすぎていた。みやちゃんは明日の朝が早いので来なかった。ヒロダンも顔をださなかった。
「Bar」は恵子さんと新入りのグレでやっていた。最近では、荒川さんはほとんど働いていない。たまに来ても、仲間といっしょのお客さんのことが多い。なんとなく、「Bar」の仕事から降りた格好になっている。

「不動産屋に行ってきたよ。そのあと、大家さんと話してきた」安。
「大家さんが言うにはね、『ミラノ』さんに立ち退いてもらって、30坪の土地を更地で売りたいらしい。立退き料はでないそうだ」
「いや、でるはずだよ。普通でるよ、どこでも」ギー。
「立退き料はださないかわりに店を解体して更地にする費用は大家さんが持つそうだ」
「更地にするには、どれくらいかかるわけ」プー。
「2、3百万だね」安。
「立ち退きを断ったらどうなるの」プー。
「いま契約しているなじみの不動産屋に『ミラノ』を残したまま引き取ってもらいたいらしいけど、不動産屋はその気がないって。大家さんは裁判なんかやる気はなく、ミラノを残したまま売りに出すそうだ。業界のネットに情報を流せば、金額しだいではすぐに買い手は現れる」安。
「それは、まずいんじゃないの。やばい会社に買い取られると…」ギー。
「それが心配なんだよね。ふつうの人は訳あり物件には手をださないから」安。
「安ちゃん、知り合いなんでしょ。不動産屋と大家。なんとかしてよ」プー。
「不動産屋から売値を聞きだしてみる。更地にすることを考えれば、相場より1割は安いはず。2割にできれば、買い手をさがすよ」安。

 翌日には、みやちゃん、恵子さん、敦子さんに安ちゃんの話が伝わったようで「ミラノ」のティータイムに顔をそろえた。北岡さんが、いつものようにモーツアルトを弾いていた。「ミラノ」での2度目のコンサートが11月に決まっている。

 怒ったような表情のみや。
 心配げなけ恵子さん。
 困ったわぁ、敦子さん。

 みやは親子3人の生活がかかっているし、恵子さんは軌道にのりはじめた「Bar」を手放したくはない。敦子さんだって山ちゃんと20年間営んだ「ミラノ」が消えてほしくはない。

「変な人に買い取られたら、私たち追い出されると思うのよ」みや。
「安ちゃんが買い手をさがしてくれるんでしょ?」敦子。
「『ミラノ』が乗っかっている、訳あり物件に手を出す人は、まともじゃないって。『ミラノ』を追い出す自信がある、ブラックな人しか買わないって。居座っているから、安く買い叩いて、私たちを追い出して売れば儲かるらしい」みや。
「とにかく、安ちゃんにまともな買い手をみつけてもらって」敦子。
「さいきん、『Bar』の仕事がおもしろくなってきたところなのよ…」恵子。
「そりゃーそうでしょう。あれだけ客がはいれば」みや。
「いえいえ、まだまだなんですけど…出たくないわぁ」恵子。
「安ちゃんに買い取ってもらえないかしら」みや。
「さぁ、どうかしら、ねぇ」敦子。
「大家さんが相続税対策で売るんだったら、安ちゃんの会社が税金対策で買えば」みや。
「そんなに利益が出ているとも思えないけど。不景気だから」敦子。
 とりあえず、買い手がみつからない場合、敦子さんから安ちゃんに頼んでもらうことになった。

 敦子さんと恵子さんが帰ると、ギーとプーが、うかない顔で入ってくる。
「暑いね、今年はとくべつ」ギー。
「寿命が縮まる、って言葉を実感しているよ」プー。
「たんなる加齢症じゃないの?」みや。
「病気、したからだよね…」ギー。
「うん、まぁ。立ち退きの話がでてから、仕事に身が入らなくて」プー。
「ずいぶん、いままで働いてきたみたいな物言いね」みや。

 ご機嫌ななめなみやに、プーは、あえて反論はしない。触らぬ神に祟りなし、ってところかもしれない。ギーも妻の寿美子にそんな感触をもっていた。Hとの浮気がばれてから、機嫌がわるくなって、寿美子の身体に触れると、いきおいよくぎーの手を払いのけるのだった。ケンモホロロ、って感じ。

 浮気がばれてから、何年たっても不意にそのことを持ち出して、ギーを困惑させる。ギーが忘れているHのことを具体的に事細かくいいつのる。何者かにとりつかれたように非難をまくしたてる。それは、まぁ、いい。2人だけの間なら、聞くだけきいて、それで終わりにすればいいのだから。

 ギーには、いまだに忘れ得ない場面がある。
 ギーの目の前の寿美子の両親に向って
「この人、2年間も浮気をしていたのよ」
 と冷ややかに訴えたのだ。

 こっそり、ギーの不始末を母親にぐちるのなら、分かる。なにも、ギーの目の前にいる自分の両親に向って言うことはないだろう。なんとか、自分の落ち度をギャグにしたかったのだが、ただただ重い沈黙だった。ギーも両親も、二の句がつけなくて気まずい思いをした。それこそ、穴があったら……。
 そのときは、ただただ身を縮めて、その場を離れることを考えていたが、あとあと、寿美子の意地の悪い仕打ちに腹がたってきた。あいつには、底意地の悪い嫌みなところがある。ギーの気持ちが冷えびえとして、妻から離れた。それから無関心になった。







(14)
 立ち退き話でゴタゴタしていたわりには「ミラノ」の売り上げはまずまずだった。チェーン店のレストラン「S」ができたり、ママのスナック「銀」がつぶれたり、個人の薬局がいつのまにか美容院に変わったりしたが「ミラノ」は順調。

 朝は6時からみやちゃんが、夜は1時まで恵子さんががんばっている。

 恵子さんは「Bar」の盆休みを1週間とって娘さんと八ヶ岳のふもとへ行った。そこに、早期退職した亭主が古い民家を買い取って暮らしている。寒いのが苦手な恵子さんは、夏の間だけ車を飛ばす。
「ミラノ」はお盆休みの日曜日だけ1日休んで、みんなで伊香保温泉に行った。

 みや親子3人。ヒロさん夫婦。プー、ギー、島さん。安ちゃん、敦子さん。ナオとグレは帰省していた。ジュンは参加しなかった(祭りの準備で忙しい、と言っていたが、どうだか)。なぜか、草野球のマネージャーのウラさんが付いてきてみんなのビデオを撮っていた。

 温泉に入って昼食も終わるころ
「立ち退きの話は片付きました」
 安ちゃんが、みんなの耳目をあつめながら、宣言した。
「いろいろあったけど、うちの会社で買い取ることになりました」
「よかった」
 という声がなんどもあがった。安ど。
 みやも、プーも、ギーも笑顔になっていた。
 たれこめていた黒い雲が足早に流れ去り、明るい陽がさしてきた。みんなは陽気でほがらかないち団となって家路についた。

「車の運転をしながら、思ったんだけどさ」島。
「安ちゃんが買い取っちゃうと、『ミラノ』は安ちゃんの物になるんじゃないの?」
「そんなことは、ないよ。ちゃんと、登記してあるわけだから」ギー。
「そうだよ。出資した株主のものだよ」プー。
「まぁ、そうだけど。建物は俺たちのものだけど、土地は安ちゃんのものになるわけだよね。だったら、俺たちと安ちゃんの間で賃貸契約をやり直すか、今までどおりにしておくか、話し合わないと」島。
「そんなめんどくさいこと、するの?たんに地主さんの名義を変えるだけでいいんじゃないの」ギー。
「とにかく賃貸契約書を作り直さないと」
 プーはすでに板の間に横になり眠りそう。
「安ちゃんにまかせておけば、悪いようにはしないと思うよ」ギー。
「うん、まぁーね。だいじょうぶだとは思うけど」
 島さんは、まだ何か言いたそうだったが、寝入ったプーを眺め
「安ちゃん、いくらで買い取ったんだろう?」とポツリ。


 今日も、ギーは階下の和室に泊まった。
「ミラノ」の1軒おいて裏側にあるので、ついつい泊まってしまう。家から通うと40分かかるが、ここからだと1分もかからない。夜、酒が入ると駅まで歩き電車に乗り家まで歩くのがカッタルイ。どうせ帰っても、風呂に入って寝るだけ。何かあるとすれば、妻の嫌みな小言だけ。
 とにかく、安ちゃんのおかげで「ミラノ」は追い出されずにすみそう。気がかりな黒い影が消え、ぐっすり眠れそうだ。

「Bar」は9時からだが、恵子さんは7時には店に入り、「ミラノ」を手伝いなが「Bar」の準備をしている。そのせいか7時ごろから「Bar」の客が来るようになり、店の雰囲気が居酒屋食堂から「Bar」に変わりつつある。客層も年配の会社員が増えたようだ。
 ギーは、その変化を好ましく感じている。

 恵子さんとナオが接客し、ギーは厨房で黒子に徹している。店の空間が今までより静かで落ち着いたような気がする。
 それは、ギーの錯覚かもしれないが。
 たまには、グレがBGMでピアノを弾く。

12時閉店にはなっているが、12時に閉まることは、まずない。たいてい、1時前後になってしまう。12時にはバイトを帰し、恵子さんとあとかたづけをしていると、2時ごろになったりもする。
 それでも、ギーは苦にならない。


(15)
 プーと島さんは、同じ屋根の下に住みながら意外と顔を会わすことがすくない。島さんはタクシーの仕事で、月に10日は帰ってこない。プーの帰りは10時ごろ。「Bar」を手伝った日は1時になってしまうから、すれ違うことの方が多い。

 たまたま、プーが5時あがりで帰ると、島さんがいた。朝8時に帰宅して昼まで寝ていたそうだ。居間のテレビを見ながらぼんやりしていた。
 タクシーの仕事は24時間勤務だから睡眠が不規則でいけない。人間は夜行性動物じゃないのだから、夜中に寝ないで昼に寝ても、疲れがとれない。
 だるそうにしている島さんを見ていると身体をこわさないかと、心配になる。

「なんか、お疲れのようだね」プー。
「うん、べつに何をしたというわけでもないんだけどね。歳だな」島。
「島さん、働かなくても食っていけるんでしょ」
「うん、まぁ、ね。この間の話だけどさ、安ちゃんが買い取る件だけど…俺たちみんなでカネ出しあって土地を買えばいいと思うんだけど」
「カネ、出しあうといってもね…」

「あらぁ」
 そこえ、みやが入ってきた。
「めずらしいわね、ふたりそろって」
 みやは買い物かごから、アジフライ、絹豆腐、自分で作ったらしいかぼちゃの煮物などをとりだし
「冷蔵庫に入れておく?ここでいいわね」
 島さんが、このミラノ寮に引っ越してから、なにかと、みやちゃんが世話をやいている。今日は晩ご飯のおかずを持ってきたようだ。
「オレの分はないの?」プー。
「あるわけないでしょ」みや。
「豆腐だけ冷蔵庫に入れておいて。みやちゃん、いま、プーさんと土地を買い取る話をしていたんだけど…」
「ギーさんはね、10万しか出せないって。私もだけど。ところがね、ヒロさんって、すごいのよ。300万だって」みや。
「ほぉ、そのことヒロダン知っているのかな?あっ、そう。ふたりで相談して決めたの。それはそれは…じゃ、俺と安ちゃんが500万ずつ出せばなんとかなるんじゃない」島。
「北岡さんとウラさんも10万ずつ」みや。
「なんか、すごいね。みなさん、持っているね」プー。
「あの土地は坪100万。30坪だから、3000万。土地の上にミラノが乗っかっているので2割引の2400万。ぷーさんが50万出してくれれば、1400万になるから1000万借りればいい」島。
「ずいぶん手回しがいいね。オレが50万出すの?安ちゃんには話してあるの?」プー。
「まだ。敦子さんに話したらね、安ちゃんの会社であの土地を買うより、安ちゃん個人が『ミラノ』に出資して『ミラノ』が買う方がいいみたい。専務があの土地を買うのを嫌がっているのよ」みや。

 島さんは浦和の実家を姉とふたりで相続したが、現在は姉家族が孫ふたりを含めて6人で暮らしている。島さんは家土地の権利を放棄するかわりに必要に応じて現金をもらうことになっている。


(16)
 夜になると、気の早い虫たちが鳴き始めた。
 夏が終わろうとしていた。

「私も出そうかな?10万ぐらいなら」(平)へー。
「なんで」プー。
「月」で呑んでいた。
「これからもミラノでライブをやらせてもらいたいし…だから、『ミラノ』がなくなったら困るのよ」平。
「10万じゃあぁね。屁のつっぱりにもならない」プー。
「まぁね。気持ちだよ、キモチ。気は心っていうじゃない」平。
「ありがたいね、その10万」
 島さんが入ってきて、たぬきのお腹をなでながら
「ひとりの大口より、多数の小口がいい」

「安ちゃんもね、自分の会社であの土地を買うより、ミラノで買った方がよかったみたい」
 いつのまにか敦子さんも入ってきて「小さん」の写真に向って、かしわ手打っている。
 今日は月に1度のポックリ教徒の集まる日だ。ギーさんだけが「Bar]の仕事で遅れている。今のところ、信者5人だけの秘密教。ほとんど冗談だから、まだ宗教法人の届けは出していない。

「とにかく『ミラノ』で買い取れることになって、よかったじゃない」平。
「安ちゃんが取りまとめてくれて、公共機関からの借り入れもすんなりいきそう。なんたって担保の土地があるから」プー。
「土地がある、というのは大きいね」島。
「私もひと口、はいろうかしら?」敦子。
「いいね。平さん、敦子さんにも来てもらって、臨時の総会をしよう」プー。

「株主総会もいいけど、ポックリさんのことも、少しつめようよ。とりあえず、ここ「月」が教会で教主は小さん。ヒンズー教の牛のように、私たちはタヌキを聖なる生き物としてめでる」平。
「それはそれで冗談っぽくていいけど、オレはボケと寝たきりになるのが怖いんだよね。だからそのような状態になったら、安楽死にしてもらいたいわけよ。でもじっさい、そのような状態になったら、自分の希望を言えないし、認めてもらえないから、今のうちに文書にしておきたいんだよ」プー。
「安楽死は無理、法律的に。殺人罪になっちゃう」平。
「今すぐ安楽死を実行するんじゃなく、それをめざす、ということでいいんじゃないの」島。
「だったら、延命治療はしない、と決めてほしい」プー。
「それは、だいじょうぶだと思う。ただ、家族に説明して了解してもらって文書にしてサインをもらうこと。だれか、お医者さんとか弁護士さんの知り合いはいないの?」平。
「山ちゃんの友達でお医者さんがいるけど、精神科なのよね。延命治療にあまり関係がないようだけど」敦子。
「それでも医学の法律とか倫理についてきいてみたいな」平。
「じゃ、来月の集会は、そのお医者さんの都合に合わせてやろうよ」プー。
「弁護士さんもいるわよ、山ちゃんの友達で」敦子。
 その日はいつになくまじめな集会というか、呑み会になった。遅れてきたギーも含めて、みんな延命治療の拒否に同意した。敦子さんだけが、家族を説得する自信がないと、保留した。

「もうひとつ、確認というか、お願いしておきたいことがあるんだ。まえにも言ったことがあるけど、オイラの葬儀はポックリさんでやってほしいんだ。お坊さんもお墓も戒名もいらない。焼き場でポックリ仲間に立ち会ってもらって、丘にある無名の集合墓地に埋めてもらえればいい。その後、できることなら、平さんにオイラの追悼ライブをやっていただければ、申し分ないね」プー。

「俺も、プーさんと同じでいいなぁ……姉だけは呼んでほしいけど、焼き場に」島。
「オレもそんな感じでいいわ」ギー。
「私も、だいたいそんな感じでいいけど、私の追悼ライブは誰がやってくれるの?」平。

 延命治療、尊厳死、安楽死、葬式、お墓、戒名など、ポックリ教のおおまかな考えがまとまりだした。教義でも戒律でも掟でも縛りでもない。仲間同士のゆるやかな同意で、それ以上のものではない。


(17)
 妻の寿美子は昨年、小学校の校長になった。その頃から、いままで以上に仕事に打ち込むようになり、ギーのことは眼中にないようだった。ふたりの生活のリズムはずれており、休日もチグハグで、ゆっくり一緒にすごすこともなくなっていた。

「12時すぎたら、帰ってこないで」
 ギーが帰ってくるまで、寝付けないそうだ。はじめから帰ってこないと分かっていたら、戸締りをして入り口の2つの鍵をロックしてチェーンをかければ、11時にはすっと眠れる。朝には、すがすがしい目覚めがまっている。
「それが、なによ。夜中の2時に帰ってきて」
 たとえ寝入っていても、物音で目がさめる。ドロボーじゃないかと、不安になるの。

 寿美子は、あと数年の校長職を滞りなくまっとうしたかった。事故やトラブルで職を辞することだけはしたくなかった。夫のギーが、水商売をしているとか、夜中の2時ごろに帰宅しているとか、ギャンブルにはまっているとか、変な噂をたてられたくなかった。

 12時すぎたら、帰ってこないで、って言われたよ。
「なんで?」ナオ。
「うるさいんだって」ギー。
「ミラノ寮に泊まればいいじゃん」プー。
「ごめんなさいね…」恵子。





            嘘日記その7 「帰ってこないで」  おわり。
      








           






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