嘘日記 その8 「帰宅」



  (1)
12月30日、忘年会をかねた増田さんのギター教室の発表会に、ギーさんがあらわれ手伝ってくれる。すでに「ミラノ」は前日から正月休みにはいっていて、今日は「ミラノ」を貸切にして増田さんに提供している。
去年も同じ日にやったので、生徒やその友人や家族も心得ていて、なんでも自分たちでやる。飲食は持ち込みで、店では何も出さない。場所を貸すだけ。前の日に大掃除を終えているので、帰るまえには元どおりの状態にしてもらう。


「さっきまで、家の大掃除をやっていたんだけどね・・・」ギー。
「めずらしいね。ギーさんが、家の掃除をやるなんて」プー。
「うん、たのまれてね。網戸をはずして洗っていたらね、女房がああしろ、こうしろと現場監督みたいにうるさいんだよ。で、嫌んなっちゃってね、そんなに言うんだったら、おまえがやれよって、うっちゃって来た」
「そりゃ・・・おだやかじゃないねぇ」
「いつもこうなんだ。口やかましくて口論になっちゃう」

妻の寿美子の物言いがしゃくにさわるようだった。妻の言っていることの内容より、言い方、態度、その大柄さにむかつく。結婚してしばらくはそんなこともなかったが、いつの頃からか夫を見下すようになっていた。

それでも生徒たちのギターを聞き流しながら、ビールを呑むごとに腹立ちが収まっていくようだった。増田さんのジャズギター教室は、若者よりもオジサンの方が多い。若い頃バンドをやっていて、仕事に追われるようになって止めていたが、定年退職で復活するオヤジバンドのパターン。なぜか、女性徒がひとりもいない。

ギーは、へたなギターを聞き流しながら呑んでいると、何の脈絡もなく郷里に帰ってしまったナオのことが思いやられた。いい女だったなぁ、と思い、いい奴だったとも思う。自分の娘よりも若いから口説くわけにもいかなかったけど、口説いたところで相手にされないだろうが、もうちょっとそばに居て欲しかった。
ナオの魅力は自分の魅力に気づいていない、おおらかさにあった。女性にありがちな本能的な媚びやささいな嘘がない。自分を1ランク上の女にみせたい、といった虚飾がない。素のままで、ほとんど女を感じさせないのにセクシャルだった。彼女には、自意識というガラスの破片のような厄介なものがなかったのかもしれない。

年の瀬もせまっているのに、このオジサンたちはギターなどかき鳴らして・・・・・
(大掃除は済ませたのか)。
(カーチャンに怒られないのか)。
ギーは、ビールを呑みながら余計なことをぼんやり想っている・・・・・
30歳ぐらいで結婚して、ふたりの子供を育て、定年まで働いて、退職後は年金生活。嘱託かアルバイトのかせぎを趣味の音楽につぎこんで余生を満喫している・・・・・。

オジサンバンドの面々の皆がみな、ギーが想いうかべるほど平均的な人生をおくってきたとは考えられないが、まぁ、趣味の音楽をやれるだけ恵まれた老後にはちがいない。まともな会社で40年間も働けば、まともな老後がまっている。それにひきかえ、ギーは飲食店を渡り歩いたので、退職金がない。きちんと国民年金を収めていないので受け取れる年金は、雀の涙。

ギターのような、これといった趣味もなく・・・競馬を趣味と言えるかどうか、言えたとしても、このところ熱が冷めてきた。「ミラノ」での仕事が趣味といえば、叱られそうだが、言えなくもない。恵子さんとナオにはさまれて仕事をしていると、家にいるときよりもくつろげる。童心にかえったような気になる。

「ギーさん、明日の大晦日はどうするの?」プー。
「例年だと、女房の実家に泊まって新年を迎えるんだけど・・・」
「へー(平)さんのところ、(月)のオールナイトジャムセッションに行くんだけど、来ない?島さんもくるよ」
「う〜ん、行ってもいいけど、朝まではねぇ・・・」
「べつに朝までいることはないよ。出入りは自由だから、カウントダウンがすめば皆んなで初詣に行こう」

恵子さんは、娘さんとハワイにいっている。ナオは冬休みで帰省している。女房の実家には行きたくない。立川競輪にでも行こうかと思っていたが、ふん切りがつかないところへ、プーからの誘い。以前のギーなら、賭け事で憂さを晴らして、酒で嫌な自分を忘れるところだが・・・このさい、ポックリさんで新年を迎えるか。

増田さんと彼の代理で教えている師範が2人。ギターの生徒が10人ばかし。生徒の仲間のプレイヤーもそれぞれの楽器をたずさえ10人ほど来ている。あと生徒の友人知人や恋人や家族が20人ぐらい。

音楽というのも、不思議なものだ。ジャンルを問わず、一流の演奏は聴き惚れないまでも、聞き流せる。ときには、聞いていることを忘れることさえある。なのに、素人がやるとどうも耳障りでいけない。

「頭が痛くなるねぇ・・・」ギー。
「愛嬌だよ、アイキョウ」プー。
「そう、ムキになるなよ。たかが、生徒の発表会じゃないか。ちょくちょく間違えているようだが、女房の小言よりは、ましだろう」
「うん、まぁな・・・」
「だからさぁ、嫌なところに行かないで明日はジャムセッションで新年を迎えよう、ね」

しんけんに聞くのは、良くないことかもしれない、素人の演奏も女房の小言も。プーのように、ちょっと斜めに構えて聞き流せば頭痛も腹立ちも生じない。


(2)
3時から始まったジャムセッションも5時ごろから、入れ替わりたちかわりプロや平(へー)さんが加わって楽しいものになってきた。かかとで床をふみ、指先でテーブルのはしを叩いてウイスキーソーダのグラスを口にはこんだ。こんなセッションのときは、聴いているだけじゃ、つまらん。タイコでもたたければ、とプーは思った。

いつの間にか、平さんが「ワルツ・フォー・デビィ」を弾いていた。
それに気づいたとき、うつむきかげんのオッスが想いだされた。彼女がプーの部屋にくると、まず、はじめにやることが、フッフッと鼻で吸って、窓を全開にして空気をいれかえることだった(冬の寒い夜でも)。それから、おもむろにこの曲をかけるのが常だった。
そんな儀式にどんな意味があるのか、分からない。彼女はちょっと変わった娘だったから、たぶん、意味なんかないのだろう。でも、この曲を聴くと反射的にオッスが脳裏にあらわれ動きだす。そのとき、プーの気持ちもよみがえり、ふあふあと、とりとめもない感じになり平さんのピアノが遠くへいって聴こえなくなった。

オッスは「ミラノ」で2年間アルバイトをして大学を卒業すると郷里へ帰り、すぐに結婚してしまった。許嫁(いいなずけ)で、あとはオッスの返事まちだったらしい。たまに、プーの部屋に遊びにきても、そんな話はおくびにも出さなかったが、いまから思えば、迷っていたようだ。大学の4年間は、親が決めた人と結婚するかどうかの逡巡の日々だったにちがいない。その間に恋人ができ、愛しあっていたらまた別の人生になっていただろうが、そうはならなかった。

オッスから送られてきたクリスマスカードに結婚式の写真がはさまれていた。打ち掛けで角隠しのオッスは能面のようだ。でも、よく見ると、こわばった表情ながら嬉しさを隠して覚悟をきめたようにもみえる。ちょっと見ない間に、オッスはプーの知らない人になったようだ。

桜が咲くころに、あかちゃんが産まれる予定です、と記されてあった。あのオッスが母になるのか、と思うと妙な感じがする。どうも、うまくその姿を想像することができない。
一昨年の春、オッスが泊まりにきた翌朝、氷川神社で2分咲きの花見をした。そこで若いママと幼子がひなたぼっこをしていた。まだ歩きはじめたばかりらしい幼子は母から逃れヨチヨチかけだし、母が捕まえようとすると、またかけだして、母親がつかまえにくるのを身構えて待っていた。ハァーハァーと息をはずませ、よだれをたらして喜んでいた。そのうちころんで泣きだし、オッスが覗きこむと恥ずかしそうに顔を母の胸にうずめた。
そうだ、氷川神社の安産のお守りを送ってやろう。

酔った頭でオッスのことを想い浮かべている間、音楽は聴こえていなかったようだ。いまは、親分の増田さんがギターを弾いている。だから、そろそろ生徒の発表会セッションも終わりだろう。


(3)
ギーは、ギターの発表会をやっている「ミラノ」をプーにまかせて、ひとあし先に帰った。妻と娘がいる実家には行かず家で呑んでいた。
年末年始は妻の実家で迎えるのが恒例になっていたが、明日の大晦日は「月」に行くことにした。平さんたちのジャズを聴きながら新年を迎えよう。義父たちに気をつかいながら「紅白」を見るなんてまっぴらだ。
いままで、よく我慢して行っていたものだ。妻の実家は川越のとなりにあり、妻は始終行き来している。ギーは年に1度だけ顔を出すことで日ごろの不義理を帳消しにしているつもりだった。

両親、女房の兄夫婦と2人のこども、ギー夫婦と娘。毎年年末にあつまり、「紅白」を見ながら年越しそばを食べる。一緒に新年を迎え、お雑煮を食べる。ギーーは元旦の朝、ぐい呑にお神酒をいただいたら失礼することにしていた。長居は無用だ。

つまらない番組しかないテレビを消して2階に上がった。布団に入って横になると気だるい疲れが五体に広がるようだった。いつの間にか、2階に上がるとき壁際の手すりをつかむようになっている。そういえば、朝、起きたときなどベッドからおりても、すぐに歩けない。しばらくの間、左足のアキレス腱を伸び縮みさせ準備運動してから歩き出さないと転んでしまう。寝ている間にアキレス腱が固まってしまうようだ。それは体全体にもいえるようで、しばらく同じ姿勢でいると体が固まって、とっさに次の動作にうつれない。

夜中に尿意をもよおして目が覚めたときなど、困る。すぐトイレに立てない。ベッドに横になったまま、右手の5本の指でおもいっきり左足のアキレス腱を掴んでやる。それを20回やってからベッドをおり左足のストレッチをして、おもむろにはばかりへ。今のところ、失禁はしていないが・・・難儀なことではある。

それより心配なことは、夜中の地震、火災など・・・。燃えさかる家の中で逃げ出せず、一生懸命アキレス腱のストレッチをしている自分の姿が見えるようだ。

若いころは反射的に体が動いた。こどものころは、動物的に動いていた。さいきんでは、頭で考えてから体に指令をださないと動かない。寝起きのときなどは、脳から筋肉に命令がでても体が反応しない。硬直している。マッサージをしてあげないと言うことをきかない体になっている。

確かに、疲れがたまっている。このところ3時から寮の台所で仕込みをして、5時から店に出ている。8時で居酒屋レストランのオーダーはストップして、9時からは「Bar」になる。一応「Bar」は12時閉店だが、客しだいでは1時2時になってしまう。結局、ぎーは12時間ちかく働いている。それに週に2度、5時に起きて市場に行っている。好きでないとやっていられない仕事だ。生活保護なみの給料でほとんど店長の仕事をしている。
若いときから、ずっと厨房の立ち仕事だったから、足腰が消耗している。若いときはなんでもないが50、60になって、そのつけがあらわになる。

プーも病気をしてからは、いぜんほど働かなくなった。ランチタイムはこなすが、朝はみやちゃん、夜はギーにまかせっきりだ。だから、プーは店長というより、みやちゃんとギーの休みのためのヘルプ要員。還暦をまえにして大病をしたから無理もないけれど、プーは収入より休息と自由な時間を欲したようだ。ギーも、このところくたびれてきて体が休息を求めてカチカチに固まっている。とりあえず、市場の買い出しはヒロダンにお願いしよう。

「ミラノ」はみやちゃんの娘2人と大学生のアルバイトを除くと、みんな団塊世代の年寄りばかりだ(みやちゃんを年寄り扱いするのはかわいそう)。ギーは眠りに落ちながら、これから「ミラノ」はどうなるのだろう・・・と思った。


(4)
いつのまにか、大資本が飲食業界にまで入り込み、個人の店が日に日に減っている。商店街はシャッター通りとなり、以前にはたくさんあった夫婦や家族で営んでいる喫茶店や食堂などは見あたらなくなった。この強欲資本主義の世の中では個人の店(家内手工業)では生計がたたない。「ミラノ」はなんとかかんとか、やってはいるが、それは、プーとギーが生活保護以下の薄給に甘んじているから。

ギーは「ミラノ」で働くようになってから、生活費は自分の食事代ぐらいしか入れていない。収入が10万ちょっとしかないから、やむおえないとはいえ、面目ない。それに引きかえ、妻の寿美子は小学校の校長で1000万以上稼いでいるようだ。このふたりの収入のアンバランスが夫婦関係を危うくさせている。

恵子さんが「Barミラノ」をはじめてから、ギーが手伝うようになったら
「深夜の12時を過ぎたら帰らないで」
と妻の寿美子に言われ、Barの休みの日曜祝祭日と早番の日しか帰らなくなった。以来ほとんど「ミラノ」の裏の寮の1階で寝泊りしている(2階はぷーと島さん)。部屋の引き戸を開ければ、目の前のリビングと台所は「ミラノ」の仕込み場だ。便利なことこの上ない。夜中の2時に店を閉めても、酔っ払っていても這ってでも帰れる。

住宅ローンもおわり(妻の収入で返済した)娘も社会人になっているので、ギーの収入は当てにされていない。それだけではなく、ギーの存在じたいが目障りのようだ。妻は仲間の校長に娘の見合い写真を託し、自分の老後を考えながら、婿の品定めをしている。

「遅いね・・・」島さんがうなずくように言う。
「実家に寄ってきたの?」と、プー。
「くしゃみ、しなかった?」へーさんが笑っている。

大晦日の夜、こんなところに集まって騒いでいる。ベースとギターの間に挟まって、若い娘のアルトサックスが軽快な曲をやっている。ギーはマウスピースをくわえた娘の横顔をながめていた。

「噂をしていたんだよ。ギーさん、実家で捕まって、来られないんじゃないかって」プー。
「いや、行かなかったんだよ」ギー。
「それにしては遅いじゃない」島。
「呑みながら、あれこれ考え事をしていたら寝てしまってね・・・女房からの催促の電話で目が覚めた。実家には行かない、と断ったら、あら、そう、家には食べるものは何もないわよ、だって。いままで年末年始は女房の実家で過ごしていたので行かないと怒りだすかと思っていたら、そうでもなかった」
「あんがい、あちらさんも、ほっとしているかも・・・」平。
「お婿さんには、気をつかうから」プー。
「女房の兄家族も一緒に住んでいる両親のところへ、女房家族の一員としておじゃまするのできゅうくつなんだよ。浮いているというか、俺ひとりだけ他人なんだよな」
「どうして毎年いっていたの、一族になじめないでいるのに・・・」プー。
「日ごろの不義理を年1回で帳消しにしようという魂胆・・・でも、その必要もなかったみたい」
「今ごろ向こうでは一族郎党なんの気がねもなく宴会が盛り上がっているよ」島。
「そうだな、たぶんそうだよ。何でそのことに気づかなかったんだろう」ギー。

こんどは増田さんの娘リノのフルートが入ってボサノバになった。彼女はどんどんうまくなっている。1年前とは別人。昨日もギターの忘年発表会で吹いていた。最後は増田さんと親子でやっていて、平さんも感心していた。
「うまい人とやっていると、知らないうちにうまくなるんだよねぇ・・・」

「年末年始は、家族といっしょに過ごすのが、まぁ、普通だよな。おおぜいの人たちが渋滞を我慢してまで里帰りするわけだからね・・・里帰りしないまでも、家で家族いっしょに新年を迎える・・・」島。
「俺、家族、いないんだよ」プー。
「俺もいないんだけどね・・・家族がいない奴らがこんな所にあつまってくるんじゃないの・・・」島。
「俺、家族、いるんだけどね、いっしょにいたくないんだよ。特に女房の親族とはね。だから、行かなかった。向こうも、俺に来て欲しくなかったみたい。今ごろ、分かったよ」ギー。

いつの間にかギターがおりてベースが入っている。平さんのピアノとドラムも加わり、にぎやかになってきた。若い娘2人のアルトサックスとフルートがかわるがわるソロをとり、もりあがってくる。

ギーは、もう何も考えてはいなかった。酒に酔い、音楽に身をまかせていた。こうべを垂れ、上体を揺らし、足のかかとで床を叩いた。

平さんがカウントダウンを始めると、みんなが数えはじめた。
「明けまして、おめでとうございます」
「年の初め」を平さんが弾きだし、ベースがリズムをきざみだした。サックスがはいって、いつのまにか皆んなが歌いだした。

あらためてお神酒で祝杯をあげた。

それを合図のようにして島さんが立ち上がり、プー、ギーとつづいた。冷気に身震いしながら氷川神社に向かった。新年の空気を味わいながら黙々と歩いた。あちこちの四ツ辻から人があふれ出し、途中の市役所あたりでは1本の列になっていた。
ギーは、仕事を終えて吸ういつもの深夜の空気とは、何かが違うような気がした。やはり、元旦だから新鮮なのだろうか。自分の気持ちが改まっていくようだ。今年はいつもの年とは違うような予感がした。

鳥居の陰からみやちゃんが現れたのは去年とおなじだった。
去年は、娘ふたりも出てきて島さんからお年玉をもらったのだった。島さんがお年玉を用意していたことで、彼らが待ち合わせしていたことをぷーは悟ったのだった。
今年は、娘のメグも和もいない。

みやちゃん、島さん、プー、ギーでお参りした。それぞれに祈ってはいたが共通するのは「ミラノ」の経営のこと。商売繁盛とはいかないまでも、そこそこつぶれない程度には、もってほしい。とくに、みやちゃんは生活がかかっている。娘ふたりが社会人になるまでは、それなりにカネが必要だ。だから、みやちゃんがもっとも真剣に店のことを考えている。

ここへきて、ギーが「ミラノ」の経営に興味をもちだしたのは、みやちゃんのせいではなく「Barミラノ」のせいだ。今では、ほとんど毎晩1時2時まで働いている。朝とランチタイムはみやちゃん親子とヒロダン夫婦にまかせっきりだ。

ヒロダンは定年後に始めたそば打ちに凝り、いちじは店を出すことまで考えた。が、年齢のことや資金のことを考えると、ふん切りがつかなかった。退職金がなくなってしまう恐れがあるので、女房のヒロサンがいい返事をしなかったこともあって、出店はあきらめていた。そんなとき、ヒロサンの思いつきでヒロダンの打ったそばを「ミラノ」のみんなに試食してもらったところ、できのいいものに限って店でつかっていいよ、と、ギーさんが言ってくれた。そばの材料代だけにしかならないが、ヒロダンは毎日そばを打てるだけでうれしかった。しかも、食べたお客さんが、おいしい、と言ってくれるだけで天にも昇る心地。幸せ。

ギーさんの弟子になって、煮物や天ぷら、焼き魚、最近ではお刺身もできるようになり、朝の市場での買い出しもヒロダンの役割になった。たいした収入にはならないけれど、これから自分の店を持つリスクなしに、そばを打ち、板前のまね事をできるのは、うれしい。朝6時にヒロサンが「ミラノ」に入り、みやちゃんと開店の準備をし、ヒロダンは裏の仕込み場でランチの下ごしらえをする。10時ごろ、ぎーさんが起きだしてきて、ヒロダンが仕込んだものをひととおり点検する。たまに刺身を切って盛り付けの絵を描いてくれたりもするが、店にはでない。

ギーは、店のことと娘のことは祈願したが女房の寿美子のことは、あえて何もしなかった。プーさんが商売繁盛の御札を買い、ぎーは健康祈願を求めた。みやちゃんと島さんは、あれこれ4つの御札と破魔矢を手にしていた。

ぷーはまっすぐ帰るつもりでいたが、みやちゃんが
「あら、用意してあるのよ、お雑煮・・・」
「身体が冷えたから、呑んでいってよ」島さん。
プーとギーはふたりの娘と一緒に、6人でお雑煮をいただき、焼酎のお湯割りを呑んだ。メグも和も、以前ほど島さんのことを毛嫌いはしていないようだった。プーとギーは、さっさと引き上げて、寮でもういちど2人で呑みなおした。


(5)
「オッスに赤ちゃんが産まれるんだよ・・・」プー。
「ふーん、早いね」ギー。
「ジューンブライドだから日数はあっている。ハネムーンベイビーかも」
「あの娘、ちょっと変わっていたよね。プーさんには、なついていたけど、俺とは話さなかったなぁ」
「ギーさんは、ナオがお気に入りだったから・・・」
「まぁ、ね。ナオとオッスはひとつ違いだけど、おとなとこどもだね。ナオはキレイだしスタイルはいいし社交的で明るい。それにひきかえ、オッスは色白でぽっちゃりしていて顔もととのっているのに、なぜか暗い。話しかけてもまともな返答が返ってこないから、言葉がつづかない」
「話してみると、それほど暗くもないけどね。羞恥心が強いんだね。だから他人に対していちいち思いあぐねてしまうようだった」

「あんなおくてのオッスがお母さんになるなんて、想像しづらいなぁ」ギー。
「たしかに・・・」プー。

プーは、幼子をあやしているオッスの姿を想い描いてみた。オッスが泊まりにきた翌朝、散歩にでかけた氷川神社で見かけた若い親子が目に浮かんだ。さくらが咲き始めたころだった。20歳ぐらいのお母さんと1歳ぐらいの幼児が戯れている、のどかな眺め。男のいない、母子だけの満たされた世界。

こどもを身ごもり、産んで育てているうちに母になるのだろう。オッスは母親になることで過剰な羞恥心が蒸発して、学生のころより、きっと生きやすくなるだろう。こどもと遊びながら、自意識の不毛を笑うだろう。プーは、はんぶん眠りながらそんなオッスを想像していた。

初詣の帰り、みやちゃんのところに寄り、プーと一緒に寮にたどりついたのは夜中の2時だった。ふたりで呑みなおしてオッスの話がではじめて間もなく、プーは、うとうとし始めた。ギーはテーブルに顔を伏せたぷーを横目に、プーとオッスの関係に想いをはせた。

それが、自分とナオのことにかさなった。
ナオはこの春から田舎の役場で働く地方公務員。どのような仕事をするのか知らないが、地味で暗い感じだ。ナオなら東京で華やかな仕事につけるはずなのに、どうして帰郷してしまったのだろう。兄が東京にいて、母ひとりが田舎住まいなので帰ったようだが、なにもそんなに急ぐこともないように思えるのだが。母親はまだ50半ばなんだから、あと数年はこちらに居ればよかったのに。

ギーには、まだ未練があった。
たとえ、東京で働くことになったとしても川越に住んでさえいれば、いつでも会えるし、場合によっては「Barミラノ」を手伝ってもらえるかもしれない。ナオがいれば売上があがるだけではなく、ギーも張りあいがでるというものだ。休みのまえの金曜や土曜なら、毎週でなければ手伝ってもらえるだろう、仕事は無理にしても飲みには来てくれるだろうと甘く考えていた。

ナオは大学院を出ているのに教職をとっていない。そんなの、なる気、はなっからないんだもん。で、出版関係の就職試験をいつつ受けたが、どれもだめだった。そのうち1社から受付なら採用する、また別の会社では秘書ではどうか?と誘われたが断ったらしい。ナオは編集の仕事をしたかった、できれば文学関係の。

ギーには、ナオは人に接するサービス業や営業が向いているように思えるのだが・・・。秘書もいいかもしれない・・・社長しだいだが。

きゅうに田舎の役場で働くことになったのは、なにか事情があるのだろう。試験を受けた話も聞かなかったから、縁故採用だろう。人口3万人たらずの田舎の役場にどんな仕事があるのか。受付の窓口の女性だけが来客の対応をしていて、上司や他の職員はお茶を飲んだりタバコを吸ったり新聞を読んだりしているだけで、ろくに仕事らしきものをしていない情景が目に浮かぶ。

ナオはきっと東京にもどってくる。ギーは自分に言い聞かせるように念じながら、眠っているプーの肩をゆすった。


(6)
女房と娘は実家で例年のごとく新年を迎えている。さんが日は帰ってこないだろう。ナオも故郷で母親とそうしているだろう。恵子さんは娘とハワイだが、亭主は日本アルプスのふもとで雪にうもれているらしい。

ギーは、ぼんやりテレビの箱根駅伝をながめていた。アナウンサーが出場している大学の順位やタイムをきめ細かくしゃべっているようだが、ギーの耳にはほとんど入ってこない。ただ、地元の東洋大学の名前だけがひっかかった。が、知っている選手がいるわけでもなく、ふぅーん、という程度。

残っていたカップ麺の年越しそばを流し込んだ。注視しているわけではなく、たんたんと走る選手をバックの風景とおなじように眺めている。若い走者の表情がつぎつぎと写しだされる。そのときだけ、ギーは、ちらっと選手の顔に目をやる。

昨夜の酒が残っていたが、お正月だから、迎え酒の燗をつけた。

正月3日は喜多院の達磨市だ。川越祭りに次いで人が出る。稼ぎどきだから出店をだす。その仕込みを明日やらなければならない。といっても、ヒロダン夫婦がやってくれることになっている。おでん、焼きそば、フランク。昼過ぎにでも顔を出してみよう。プーさんも2階から降りてくるだろう。

箱根駅伝の実況放送が聞こえていたから眠っていたわけではないが、夢がところどころで現れて、ギーは箱根ではなく北海道の故郷の道路を駆けていた。うしろから飼い犬ブラックがついてくる。アナウンサーが淡々としゃべっている。
「ブラックがギーの背後をぴったりマークしています。風よけなのでしょう。風圧による体力の消耗をさけている。それにしても、近すぎますね。ギーの後ろ足がブラックのあごにあたったようです。ブラックはギーの後ろ足に蹴られて一瞬たじろいだが、また猛然とダッシュして、ギーにくらいつきました」
ギーは、背後をふりかえり
「あぶないから、近づくな」
とばかり、後ろ足をつきき出した。ブラックは、ギーの思惑をはかりかねた。なんどもボクサーのように顔を左右にふって、伸びてくるギーの後ろ足をかわした。戯れだとおもった。走りながらブラックは左右の前足でギーのかかとにポンポンとワンツーをあびせた。そのとき、ギーはスピードを落とし、グイッとカウンターぎみに後ろし足を伸ばしてきた。ブラックは本能的にサイドステップを踏んでギーの後ろ足を舐めるように横にかわした。うしろから来たトラックがブラックを轢いて走り去った。

ギーは、自分の涙で目が覚めた。
まだ、箱根駅伝は続いていた。前方を白バイが誘導し、横を乗用車が、背後をたくさんの報道関係者をのせたトラックがつづいている。
テレビを消して、残っていたぐい呑の冷えたお酒をあおった。くちびるの端から涙のように酒がたれた。

愛犬ブラックがトラックに轢かれて死んだのは、事実だった。が、夢に出てきた状況とはちょっとばかり違う。ギーが学校帰りのバスをおりたら、ブラックが迎えに来ていた。ブラックは嬉しさのあまり、ギーに飛びかかり、ギーは彼をハグして、走り去るバスの排気ガスをあびながら道路を渡ろうとしたとき、死角から対向車が現れブラックを轢いた。ブラックが宙を舞う姿がいまでもスローモーションで見える。

箱根駅伝を見ながらうたた寝したせいで、30年ぶりにブラックを思い出した。お酒のせいもあるだろう、夢のせいかもしれないが、新しい発見があった。思いつき、といってもいい。ブラックは、たんに不注意で轢かれたのではなく、襲ってくる敵(トラック)からぎーを守るために飛びかかっていったのだ、と。

ギーはぐい呑にお酒を満たし、電子レンジにいれた。
酒はひとりにかぎる、と、こころのなかでつぶやいた。

そういえば、毎年元旦の朝、遺言状を書き改める、と、プーさんが言ってたな・・・。
遺言状ったて、たいしたことはない。
不治の病になったら、安楽死にしてほしい。それが法律的にだめであれば、すくなくとも、胃瘻などの延命治療だけはやめてほしい。痛み止めだけでいい。他になにもしなくていい。ほって置けば脱水症状になり2週間ぐらいで死ぬだろう。息子と娘とポックリ仲間で密葬にして焼いてくれればいい。坊主も戒名も墓もいらない。共同墓地ができれば、そこにいれてほしい。葬式はしなくていいが、お別れ会を「ミラノ」で平さんのピアノや増田さんのギターでやってほしい。
だいたい、そんな事だった。

もう、プーさんは、遺言状を書き改めたかな。
ぷーは、ひとり者だから好きなようにできるだろうが、ギーには女房がいるからそんな訳にはいかない。墓なし、戒名なし、葬式なしでは、女房は承知しない。話すまでもないことだ。でも、酔いがさめたら、プーさんにならって一応書いておこうと思う。ある自治体が丘陵墓地の一角を共同墓地として販売していて、プーさんは10万で購入した。

たとえ、ギーが墓は要らない、と遺言しても妻の寿美子は造るだろう。でも、その墓はだれが看るのだろう。娘は結婚しないかもしれない。結婚しても子供ができないかもしれない。子供ができても墓を看てくれないかもしれない。たとえ、孫がギーたち祖父母の墓を看てくれたとしてもひ孫はみないだろう。

だから、一家の墓を造っても跡継ぎがいなければ100年の寿命だ。


(7)
「ねぇ、来年の正月は2日からやろうよ」みや。

3日は6時で店を閉め、そのまま新年会となっていた。今年は天気にめぐまれ人出が記録的に多かった。朝11時から夕方6時までの営業で平日の3倍の売り上げがあった。
「いやぁ〜もっと仕込んでおけば、もっと売れたね」ギー。
「おでん、なんか4時でたね切れ・・・」ヒロダン。
「見込んで仕入れると、雨が降ったりして残っちゃうんだよ、これが」プー。
「たしかに、それは言えるね。バッチリ仕込んで準備万端、さぁーいらっしゃい、と構えていると、あんがい客足がにぶいんだよね。そんなもんだよ、商売って」ギー。
「だからね、欲を張らず、売り切れたことを素直に喜んでいればいいのよ。その方が酒がうまいし」プー。
「べつに欲張っているわけではないけど、正月の2日もやれば、そこそこ売れるんじゃないの?」みや。

「昨日さ、仕込みをしていたら、初詣の客がゾロゾロ歩いていたよ」ヒロダン。
「以前は、喜多院の達磨市(3日)まではたいした人出はなかったけど・・・氷川神社ぐらいで。さいきん、元旦から多いよね。もし2日にやれば、今日ほどではないにしても、平日の倍は売れるね。しかも、営業時間は今日と同じ半分」ギー。
「でしょう、だからさぁー、2日にやって七草のころに連休をとって温泉にでも行こうよ、みんなで」みや。
「いいね、いいね」
いつの間にか島さんが入ってきて呑んでいる。
「去年の日帰り温泉ははきつかったね。運転手の俺なんか酒は呑めないしさ・・・足湯だけじゃ、温泉に行ったかいがないよ」

そういえば、去年、日帰りで伊香保へ行ったんだ。なんだか、あわただしかったなぁ。運転手でぜんぜん呑めなかった島さんのために、もどってから寮で呑みなおした。

「来年じゃなく、今年行こうよ。ゴールデンウィークあけに・・・」プー。
「1泊するんなら、運転手してもいいよ」島。
「1泊しましょう。世間の誰もが休むゴールデンウィークに働くんだから」みや。
「じゃ、そうしましょ。働くばかりが能じゃない」プー。
「プーさんに、それを言われるとは・・・まいりました」みや。

たしかに、プーは以前ほど働いていない。山ちゃんが亡くなってしばらくは、朝から晩まで毎日12時間労働だった。それが今では半分ぐらい。
朝は6時から、みやちゃん親子とヒロサン夫婦がやり、夜は5時からギーとバイトが入り、8時には恵子さんが加わる。べつに、プーがいなくてもやれないことはない。ただ、店の休みがないので、交代で休む人の穴埋めがプーの役目になっている。

プーは病気をしてから考えが改まった。
ようは、働くばかりが能じゃない、ということ。

子育ても終わり、家のローンも済み、独り身では、さして生活費はかからない。住まいは寮だし、食事はまかないだ。着るものなんてほとんど買うこともない。それに、年金が少し入るようになった。65歳になれば、全額はいるから、生活保護者なみの収入になるだろう。だから無闇に働いて必要のない金を稼いでも無駄。

安ちゃんと敦子さんが顔を出して、新年の挨拶をして立ち話だけで帰っていった。みやちゃんと島さんも、明日が早いからとヒロダン夫婦といっしょに家路に。

残った平さんとプーとギー。
「プーさん、遺言状、書き改めたの?」ギー。
「うん、といっても、ほとんど去年とおなじ」プー。
「なに・・・毎年、書くの?」平。
「うん。といっても内容はほとんど変わらないけどね。書き初め、みたいなもんだよ」プー。
「プーさんにならって、俺も書いたよ」ギー。
「なに、書くのよ」平。
「寝たきり、ボケたときの治療。葬式、戒名、墓地のことだね」ギー。
「まぁ、オレは独り者だからね、たよりはポックリさん仲間なんだよ」プー。


(8)
今年で平さんは70歳になる。定年後の3年間、嘱託として元の会社に残っていたが、どうしても音楽にかかわっていたくて63歳で店をは始めた。退職金も少しは出たし、年金で生活のめどはついていた。だから「月」は商売ではなく趣味、道楽のたぐい。

朝、11時から3時まで奥さんが店番をしている。奥さんの好きなクラシックや映画音楽などを流してコーヒーを出している。自家製の幕の内弁当を10食用意している。それから、奥さんの作ったチーズケーキ。

それらを目当てのお客さんで、だいたい売り切れてしまう。たまに売れ残ると夜は半額にしてさばいてしまう。11時から3時までの間の20人ちかい客を奥さんひとりでこなしている。土日祭日お休みで、奥さんの体調しだいでは臨時休業もあり。商売っ気がないので、とにかく無理しない。

3時からへーさんと入れ替わって「ジャズ喫茶」らしくなり、客層が一変する。といっても、6時ごろまではほとんど客は来ない。ピアノを弾いたり古いLPを聴いたり、ちょこっとおつまみを作ったりして時間をつぶす。呑む客が、だいたい5、6人きて11時ごろ店を閉める。

こうしてみると「月」が休みでないかぎり、夫婦は朝の11時から夜の11時まで、すれ違っている。この、すれ違いがいいのよ、とかつて奥さんが言っていた。

「月」が休みの日曜日の夜、店の下を通りかかると灯りがついていたので階段を上がってみると、カウンターに座っている、へーさんの背中が見えた。一瞬、店内にはいっていいのかどうか逡巡した。へーさんの背中が拒絶しているように見えたから。

思い切って戸のガラスをノックすると振り返った怪訝な表情が、ひと呼吸おいてからいつもの笑顔になって、鍵をはずしてくれた。

「何か、呑む?」
「ハイ・ボールにするかな」
「じゃ、私も呑もうかな」
「おや、めずらしいね」

マル・ウォルドロンの寂しい曲がながれていた。
「今日、女房と新宿まで出て、息子とおそい昼食を食べたよ。何年ぶりかな、息子に会ったのは・・・顔を忘れていたよ。20年もすると人の顔は変わるんだね。あいつが大学生のころの記憶しかないのに・・・じっさい会ってみたら40過ぎのオッサンだよ。あれじゃ、道ですれちがっても気づかないね」平。
「息子さん、ひとりっ子だよね」
「そう、あいつひとりだし、結婚もしそうにないし・・・」
「あれだよね」
と言って、ぷーは手のひらを外にむけて指の甲を口にあてた。

平さんは、かすかにうなずいて奥歯でかたい物でも噛んでいるようで表情は変えなかった。
「オカマ・・・」
と、プーが言うたびに、平さんは奥歯で苦くてかたい虫を噛んでいた。
「テレビなんかでオカマのタレントがしゃべっていると、つい笑ってしまうこともあるけれど・・・他人なら、それはそれでいいんだよね。こちらには関係ないから、お好きなように生きてくださいって感じ。でもね・・・自分の息子がオカマとなると・・・」
平さんは、また奥歯で苦くてかたい虫を噛んだ。

話題を変えなきゃ、と、プーは思った。
人には、つっつかれてもいい傷と、嫌な傷とがある。見て見ぬふりをするのが礼儀のときもある。平さんの前では「オカマ」とか「ホモ」とか「ゲイ」とか言うのはよそう。

「この間、ギーさんも、プーさんにならって遺言状を書いたと言っていたよね。息子と会ったあと、私も書いておこうかな、と思ったわけ。財産たって、古家は価値がないから50坪の土地と老後のたくわえだけ。まぁ、相続税がかかるほどではないと思う。どうせ私のほうが先に逝くだろうから、そのときは、息子がもどってくればいい。まぁ、本人にその気があれば、だけど。

葬儀は簡単にすませるとしても、問題はお墓なんだよ。息子があんなだから、お墓を造ってもめんどうをみる人間は息子でおしまいなんだよね・・・女房は、だったら自分は実家の墓に入りたいと言うけれど、私はね、妻の実家の墓にも自分の実家の墓にも入りたくない・・・」
「俺と一緒の共同墓地でいいじゃない?ギーさんもはいるし」プー。
「その自治体でやっている墓地の案内書とかパンフレットみたいなものはあるの?」平。
「あると思う・・・さがせば・・・」
「10万円、と言っていたけど、契約書はあるの?」
「あると思う、さがせば」

「ふたりで、なに密談をしているの?」
いきなりガラッと引き戸が開いて、島さんが入ってきた。
「ポックリ教の墓のことなんだけど・・・プーさんが契約した自治体の共同墓地はどうかと思ってね・・・」平。
「墓地ねぇ、ボチボチ考えんとなぁ〜」島。
「島さん、呑んでご機嫌ですね」プー。
「そこは供養とかしてくれるの?」平。
「しない。無宗教だから。ひとつの丘全体が墓地で、墓石や戒名や故人に関するものはなにもない」
「なんか、ロンリーヒルだね」島。
「コンピューターの台帳に最小限の個人情報がはいっているだけ」プー。
「こんど、そこへ行ってみたいな」平。
「じゃ、墓地ツァーをやりますか、ポックリの」プー。


(9)
夕方から、ちらほら小雪が舞い始めた。
シベリアの方から寒気団が南下している、との予報があったが積雪は4、5センチ止まり、とのことだった。そのことで、客足がバッタリととまることはなかったから、とりあえず9時までは「居酒屋ミラノ」をやることにした。
8時に恵子さんが出てきて手伝いながら、ギーさんに言った。
「どうしようかしら?」
「とにかく、バイトのグレには休むように連絡したほうがいいね。どうせひまだろうし、雪で電車が止まったら帰れなくなるから。様子をみながらふたりでやりましょう」
「こんな雪で、お客さんくるのかしら・・・」

来なかったら来なかったで、いいと思った。
8時にはバイトのジュンが帰り、プーも9時にあがり「居酒屋ミラノ」は閉店したが、ひと組のカップルが柱の陰の席に残っていた。そのまま「Barミラノ」の看板で営業中にしておいたが人の入ってくる気配はなかった。ときおり車が往きかう人けのない路面に雪が積もりはじめていた。

恵子さんとグレと3人で食べるはずだった賄いの鍋に昆布をしくと、火を入れた。入口の営業中の看板を早々とクローズにした。白菜と長ネギを煮てから豆腐を入れた。恵子さんは窓辺に立って降り積もる雪をじっと眺めている。

柱の陰のカップルのふたりは見たことのない客だった。男は50過ぎの中年。スーツでネクタイを締めているところをみるとサラリーマンらしいが、どことなく着こなしが崩れている。不動産屋か金融業か。女は若い。20前後だろう。見るからに風俗か水商売ふうだ。親子ほどの年齢差があるにもかかわらず、ふたりはたえまなく話しこんでいる。話の内容は分からないが。

ギーは、簡易コンロを入口からも外からも、ひと目のつかないテーブルに出し、鍋を厨房から運んだ。それから、カップルの席へ行って
「雪のために閉店させて欲しい」
と、お願いした。男は何か文句を言いたそうな目つきをしたが、ひと呼吸おいて
「わかった」
と言った。それから10分ぐらいして席を立つと会計をしたあとで
「この辺にホテルある?」
と恵子さんに尋ねた。恵子さんがギーの方に視線を投げたので、一流の旅館でもホテルでもなく駅裏のラブホテルを教えた。ふつうなら歩いて10分もかからないが、この雪では今日中に着けるかどうか。明日の朝につけば宿代はいらないが・・・。

恵子さんが生ビールを注いでふたつ持ってきた。ギーが照明をぜんぶ消して乾杯した。鍋の底で簡易コンロの炎が白く紫色にゆれていた。

「この牡蠣は生食用だから、サッサッとしゃぶしゃぶみたいに泳がせるだけでいいよ」
と、ギーは実際にやってみせ、恵子さんのポン酢がはいった受け皿に入れ、自分の器にもいれた。恵子さんは、ふーふーと2度息を吹きかけて牡蠣を口に入れ半分に噛み切った。口の中で半分の牡蠣をころがしながら、ふーふーと息を吐いて
「おいひぃ」
と言って左手で口を隠した。ビールを呑んでから残りの半分を口に入れた。

ぎーは、恵子さんの唇の動きに見とれていた。
生ビールを自分でおかわりして豆腐と白菜ばかり食べているぎーの器に、恵子さんは湯通しした牡蠣をつぎつぎと入れた。それを噛むと、どろっとしたものが口の中で溶けひろがってカマンベールのような味がした。

恵子さんは立ち上がって
「日本酒が呑みたくなったわ、ギーさんも呑む?」
うなずくギーさんを見て、2合徳利で燗をした(電子レンジではあるけれど)。
いつもならめんどうだから、ぐい呑でのむのだが、せっかく恵子さんが持ってきてくれたから、お猪口で呑んだ。恵子さんが注いでくれると、ありがたくて美味しい。
ギーが注いであげると、恵子さんはかしこまって両手で受けた。1杯のおちょこを3回に分けて左手を添えて呑んだ。

「呑めるんだね」
「少しだけね」
恵子さんは、お店では客にすすめられてもアルコールは呑まない。呑めないことになっている。店を始めるときにそう決めていた。だからみんな、恵子さんは呑めないものと思っている。ギーだけは知っていたけれど、誰にも教えていない。

ギーが牡蠣にレモンを絞りかけて生で食べているのをみて、恵子さんは箸をのばしてきた。口に頬張るともぐもぐと何かを確認するように咀嚼して
「美味しいわ」と、言って
「海の味がする」と、唇を横一文字に伸ばして笑った。

ギーが注ごうとお銚子を傾けると
「もう、いいわ」
と言って、ぎーの手からお銚子をとると、ギーのお猪口に注いだ。恵子さんがお銚子に左手を添えて注いでくれると、お酒とは別の何かもそそがれているようでありがたく、意を決するように口の中に放り込んだ。

恵子さんが立ち上がり、窓辺のカーテンの隙間から降りしきる雪を眺めている。もう、人も車も通らない。視界は純白で物は形を失い、しんとしている。トンネルを抜けると雪国だった、と呟きそうな景色だった。
「だれが見ているかわからないから・・・」
ギーが恵子さんの肩を引きよせて窓辺からずらした。
恵子さんは、されるがままに身を任せた。ちょうど恵子さんの頭がぎーの鼻先にあたり、いい匂いがした。ギーは恵子さんの髪の中に鼻をつっこんだ(トリュフを探す豚が地中に鼻をいれるように)。恵子さんも片腕をぎーの腰にまわし、もたれかかっている。
「ここにはトリュフはないようだ」
と言いかけて、よした。
「いい匂い・・・」
恵子さんはなにも言わないで顔を隠すようにぎーの胸にあてた。
しばらく、そうしていた。
ずいぶん長い間そうしていたような気がするが、もしかしたら、あくびひとつするほどの間だったかもしれない。
ギーは、唇を恵子さんの耳につけるようにして、言った
「スキ」
すると恵子さんの膝がガクッとゆるみ、しなだれかかった。
口づけをした。小鳥の挨拶のように淡白なものだった。
もういちど耳もとで
「スキ」
と言って耳たぶを噛んだ。
「イヤ」
と言って、恵子さんは両の腕でぎーの背中を抱いた。
もういちど口づけすると、恵子さんの舌がスルッと入ってきた。オイスターのわたの味がした。。


(10)
関越の本所児玉で降りて群馬との県境の山の方へ登っていった。ゴルフ場の脇を通り抜けたとき、運転手の島さんが
「ここ、むかし来たことがあるよ」と言った。
きれいに刈り込まれたフェアーウェイの芝が朝日に光っていた。バンカーの白い砂。コースをとり囲む杉林と木陰のしっとり黒ずんだラフ。
「きれいだね・・・」
ゴルフをやらない平さんが、コースを眺めながら感嘆した。
うねりながら30分ほどの坂道を登ると見晴らしのいい山の中腹にでた。丘陵が整備されていて公園のようだったが、よく見ると霊園だった。
「はい、到着」
と、プーが言って駐車場を指さした。
プーはまるでここの職員であるかのように先頭に立って掘っ立て小屋のような詰所に案内した。

プーが扉を開けると大音量のジャズが流れでてきた。オジサンが慌ててラジカセのボリュームをさげた。
「いいね、朝っぱらからファンキージャズとは・・・」
プーがからかうと、オジサンは笑いながら人差し指の背で鼻の穴をこすった。
「ホレス・シルバー・・・」
と、平ーさんがピアニストの名をあげると、オジサンは目を見開いて真顔になった。
「長年ここでジャズを流していますがね、いきなりアーティストを当てたのはあなたが初めてですよ・・・」
オジサンは30年ぶりに古い親友に会ったかのように、今にも平さんの手をとって抱きつきそうだった。
「そう、ホレス・シルバー。好きなんだよね、リー・モーガン、ドナルド・バード、アダレイ兄弟にハービー・ハンコック・・・・・」

まだまだ話したそうなオジサンに島さんが
「なかなかいい職場ですね・・・」
「モチロン、仕事、してますよ。問い合わせの電話に答えたり、お客さんがみえたら説明したり、案内したり。花や線香を売ったり・・・ジャズのCDは売ってはいませんがね」
オジサンは表に出ると丘陵墓地のいちばん上の方を指差して
「あのこんもり盛り上がった所が共同墓地なんですよ。道なりに上がって行けば10分で着きます。何もないけどね」

目の前の区画整備された霊園から離れた所にお椀を伏せたような盛り上がりがあった。だれが言うともなく、そこに向かって歩きだした。山歩きのシニアにしては身なりがちぐはぐなオヤジ4人が共同墓地の下見に向かった。みな一様に黙って一列になって歩く。ちょうど息があがる頃に着いた。視界が開け見下ろすと、眼下に町並みが小さく見えた。
オモチャのようなちっちゃな町で、いろんな人間があくせく生きているのかと思うと訳もなく
「ウフフ」
とほほ笑んでしまう。
「いい眺めだね」
ギーは高いところから見下ろしているせいか優越感にも似たものがあるようだ。そして、自分の日々の悩みがちっぽけなものに思えた。
「気に入ったよ。プーさんにならって俺もここに入るよ」
ギーを先頭にぐるっと一周してから古墳のような共同墓地の上まであがってみた。先程よりもなおいっそう見晴らしがよく、日当たりもいい。高さは10メートルぐらいあるだろうか。1000坪ぐらいあるだろうか。まだ碑もなにもたっていない小高い雑木林だ。

帰りがけに、平さんが詰所に寄って共同墓地(古墳のような)のパンフレットをもらってきた。ラジカセの音は小さくなってアートブレーキーのジャズメッセンジャーズが流れていた。
「あそこはこれから整備するらしいですよ。パンフレットのホームページに詳しくのっています。何でもそちらにメールで問い合わせてください」
オジサンはリズムにあわせてうなずくようにあごを上下させた。

帰りの車の中で
「なんか古代の墓みたいだね。前方後円墳とか・・・。あの下に各家ごとの墓がずらっと整備されて並んでいたけど・・・千ぐらい、あるのかな・・・あんなのこれからは必要ないよ。共同墓地なら深く掘れば何万と入れる。それに子孫が絶えても看る人がいなくなってもかまわない・・・」ギー。
「ギーさん、奥さんに相談したの?」平。
「いや、このところまともに会話をしていないからね・・・相談なんてもっての外。話さぬ(さわらぬ)神にたたりなしって感じ。で、プーさんに見習って元旦に遺書というかエンディングノートみたいなものを書いたわけ。骨はプーさんと同じ共同墓地に埋めて欲しい(骨の一部でもいい)と」
「私はそのことで、先日女房と話しましたよ。40過ぎのひとり息子が結婚しないようだから、私たちの墓はいらないんじゃないか?って。女房は虚をつかれたようで、しばらく黙っていたけどね。それからね、だったら両親の墓に入りたい、って言うのよ。共同墓地は嫌だって。私は女房の実家の墓には入りたくないしね。となると、夫婦別々になっちゃうわけよ」平。

運転手の島さんも話に加わって
「俺もね、実家の墓に入っても、めんどうを看る人は姉だけ。姉が死んだら、甥っ子か姪っ子が気にかけてくれるかもしれないけど・・・彼らのこどもたちとは縁がないと思う。だから、実家の墓と共同墓地と、ふたつに入れてもらおうかな?べつに、いいんだよね、お墓がふたつあっても」
「いいよ、べつに何個あっても。骨を海に撒く人もいるし、森に撒くひともいるし、そのうち宇宙に撒くひともでてくるよ。そんなの、どうだっていいんだよ。これからは個人や家の墓はなくなると思うよ。だから・・・平さんも一緒にはいろうよ」プー。

「一緒に入るったって、温泉に入るわけじゃないんだからね・・・」平。
「ポックリの仲間、みんな入ろうよ」プー。
「帰ってから、自治体のホームページの共同墓地を調べてみる・・・」平。


(11)
暑さ寒さも彼岸まで・・・空気がぬるんできた。梅が咲き、ときおり南風も吹いたりして桜の開花が話題になったりしている。今回はプーさんが「お花見とジャズ」の企画ではりきっている。すでにチラシはできていて喜多院、連馨寺、中院、新河岸川など桜の名所の写真や地図がライブ案内にのっている。
「昼間、家族や仲間と花見をしていただいて、その帰り近場の「ミラノ」でジャズのライブを楽しんでいただこうってのが、趣旨なのよ」と、プー。

「もう、けっこうチケット売れているわよ。昼間(3時〜5時)だと主婦が来やすいのよね、夜にくらべて」みや。
「たしかに、客層が違うね、夜とは」
「ミラノのお客さんでも、昼なら来られるって、喜んでいる方が何人もいたよ。子供や亭主、両親の世話でなかなか夜は出られないのよ」みや。

昼間、北岡さんとマリコさんのクラシックのコンサートをやったことはあるが、ジャズは初めて。客層を考慮して、平さんにはジャズにこだわらずビートルズやボブ・ディラン、スティービー・ワンダーや映画音楽なども取り混ぜて演奏してくれるように、頼んである。

「ミラノ」はライブハウスじゃない。朝はモーニングの喫茶店。昼は定食屋。その後は、またティータイムの喫茶店で5時からは食事もできる居酒屋。9時からはBar。そんな店だから、たまにやるライブも根っからのジャズファンは少ない。子供のころピアノを習っていたとか、学生時代にブラスバンドにはいっていたとか、友達とバンドをやっていたとか、そんな音楽好きが多い。

平さんのバンドはガリガリのジャズはやらない。やろうと思えばやれないことはないだろうけど、歳もとしだし、どちらかと言えば、失礼ながらBGMにちかいスタンダードが多い。ピアノトリオでヴォーカルがはいったり管がはいったり。さりげなくやってはいるが、おっ、と感じて聞き耳をたてると粋なアドリブを聴かせてくれる。

「私ね、ジャズって、好きじゃなかったの、ただうるさいだけで。でもね、ここで平さん達のバンドを生で聴くようになってから、いいなぁ〜と思うようになって、楽しみにしているのよ」みや。
ギーもそんなことを言っていた。自分からすすんでジャズを聴くこともなかったし、ましてやライブハウスは敷居が高い。いろんな飲食店でかかっている有線のBGMを聞き流す程度だったが、自分がやっている店で平さん達の生のジャズを聴くようになってから好きになった。

一概にジャズといってもいろんなものがあって、好きずきだ。みやちゃんは、ヴォーカルがはいったスタンダードやボサノバがお気に入り。ギーは、どちらかといえば、ちょっと古いバップやのりのいいファンキーが好き。プーは何でも聴く。その日の気分でアルバムを選ぶ。たとえば、ひとり静かに寝酒を呑むときは、ビル・エバンスとか。友人と楽しく呑んでいるときはロリンズとか。

「こんどリノさんのフルートはいるのかしら・・・聴きたいわ、彼女のボサノバ。それに、マキさんの歌を聴いていると歌詞の意味も分からないのに、いい気分になっちゃうのよね。仕事ぬきでBarのラウンジなんかで聴きたいわ。彼氏とカクテルでもいただきながら、まったりと」みや。
「まったりねぇ・・・島さんと行けばいいじゃない」プー。
「場違いよ、島さんじゃ」
「赤ちょうちんで焼酎呑みながら、焼き鳥でも食べて・・・」
「ジャズというより演歌・・・」みや。
「そんなこと言ったら怒られるよ。島さん、高校生のころエレキギターやってたらしいよ。寺内タカシ、ベンチャーズ、タイガースやスパイダースなどのグループサウンズのまね事」
「そんな話、聞いたことないわね。野球ならあるけど」
「野球とGS、両方やっていたって」
「ただ、やっていたっていうだけでしょう・・・あのぅ、話は変わるけど、この間、雪が積もった朝、みんなで雪かきやったでしょう。朝の6時から。「ミラノ」の前がひと通り歩けるようになった頃、ギーさんが来たのよ。たしか8時ごろ。ギーさんが寮を出たあと恵子さんも出てきて反対の方に歩いていったのを見ていたお客さんがいるんだって・・・」
「ふぅーん・・・」
「ふぅーんって何よ」
「いや、ふぅーんなんだけど、恵子さん雪で泊まっていったのかな?」
「そうじゃないの?プーさん、上に住んでいて気づかなかったの?」
「うぅーん、あの雪の夜ね・・・たぶん呑んで早く寝たような気がする。だって、みやちゃんが、雪かきするってんで6時に電話をくれたとき、それほど眠くなかったもんね」
「あのふたり、あやしいわね」
「みやちゃんと島さんもあやしいよ」
「あら・・・やぶヘビ」


(12)
雪が降って3日後、ギーは日陰の氷に足をとられて転んだ。店の裏から寮の部屋に帰る途中だった。ちょうど踏んだ右足の下だけが雪がとけて凍っていた。つんのめりながら左足でこらえようとしたが上体はヘッドスライディングしていた。運悪くそのとき、左手に携帯、右手にカバンを持っていたので手がふさがっていた。かろうじてとっさに左肘で受身をしたが、勢い余って左頬からコメカミにかけて、しこたま地面にたたきつけた。なぜかそのとき、手のひらから飛び出した黄色い携帯がコロコロと転がって止まるのが見えた。携帯を拾わなくては・・・車にでもひかれたら・・・と思いながらも、身体が動かず、右手が離さなかったカバンをあごの下まで引き寄せ、頬の痛みをはかっていた。

・・・それから、どのようにして部屋にもどったのか。
目がさめて起きあがろうとすると、身体のあちこちが痛い。その痛みで思い出した、昨夜、転んだことを。だが、その前後の記憶がぽっかり抜け落ちている。
もしや、と思い、カバンを開くと携帯と財布があったので、ひと安心。が、洗面台に立つと顔の左半分が腫れあがり血がこびりついている。痛みのある左肘をみると倒れるときに路面にこすりつけた傷にかさぶたができていた。
「まいったな・・・」
鏡を見ながら傷口に指先をそっとあてた。痛い、というより沁みる感じ。病院に行くほどの怪我でもない。それより見た目がおおげさで
「まいったな・・・」

それから1週間は厨房のなかで隠れるようにして仕事をしていた。
知らない人は喧嘩でもしたと思っているかもしれない。みんなには店の裏の日陰の凍った所を踏んで転んだと説明してあったが、どれだけの人が信じてくれたか。なかには、誰とやったの、どこでやったの、と喧嘩ときめてかかっている人もいる。
ギーは、あえて事の顛末を解説しない。転んだ姿はあまりにも無様だし、腫れあがった顔はみっともない。
話題を加齢症の方に振り
「まいったよ・・・」
すっかり足腰が衰えちゃって踏ん張れないんだな。太ももの筋肉がなくなっているんだよ。だから、つまずいても今までのようにはこらえきれない。ヒロさん夫婦には同情されたけど、みやちゃんには、さんざんからかわれた。
「いい歳して、飛び跳ねて歩いているからよ・・・」
「いや、そんな元気はないよ」
プーが口をはさむ。
「千鳥足・・・ギーさんも、そろそろ還暦だからね、無理ないよ、老化だよ」
「彼女ができたから、いい気になって呑みすぎたんじゃない」みや。
ギーは、誰にも分かってもらえない虫歯の痛みを我慢しているかのように手のひらを頬にあてて
「沁みるんだよ・・・」

確かに年が明けると還暦だ。べつに意識しているわけではないけれど、ぐるっと1周まわった感じがするな。なにがって?まぁ、人生ってかね、人がやることはおおよそやったような気がするね。
むかし、人生50年とか60年とかいったのは、その歳頃が寿命だったこともあるけれど60年も生きれば充分、あとはおまけの余生ってことじゃないの。

だから還暦をむかえると、また別の新しい人生が始まるような気がする。

5時起きの市場行きはヒロダンに任せるようになった。去年の半年間、いっしょに行って肉、魚、野菜、乾物屋での買い付けを教えた。仕入れる店は決まっている。あとは物の善し悪しを見る目と値段の交渉だが、ヒロダンは要領を覚え相手からも認められるようになった。ちょっとトボケた感じで、へたをすると交渉のやり取りはギーより上かもしれない。

以前は12時前には寝て5時前には起きて市場へ行き、戻ってから仮眠をとり、それからランチの仕込みをしたものだが、今は無理。Barの仕事が夜中の2時ごろになってしまうので寝る時間がない。体力もない。
10時ごろ起きだしてきて洗顔のあと、寮の台所でヒロダンの仕込みを見定めるぐらいで、もう、ダメ出しすることもなくなっている。
朝は、みやちゃん親子とヒロサンの3人でやり、11時から仕込みを終えたヒロダンが入っている。そのうちの誰かが休むときはプーがヘルプをしていたが、島さんもなんだかんだと手伝っている。

最近では、ヒロダンが市場に行くときは島さんがプー(ミラノ)のライトバンで迎えに行く。一緒にぐるっと市場を回って寮の冷凍庫や冷蔵庫に品物を入れ、ミラノでモーニングを食べ、ひと休みしてからランチの仕込みをする。それも、島さんが手伝っている。ギーがヒロダンに教えたことを今度はヒロダンが島さんに教えている。
3月末をもって島さんはタクシーを降りた。

直接の原因はちょっとした事故をおこしたことだったが、前々からそろそろ辞めようと考えていた。歳のせいで24時間乗務がきつくなったこと。夜など、視力が落ちて歩行者や自転車に気づかず何度も危ない目にあったことがあること。不景気のせいもあって水揚げもたいしてないこと。
年金も満額支給されるようになったし、遺産の立替として姉から毎月決まった入金があるので、それで生活には困らない。

「変則5差路で左折しようとしたわけよ。右側の車を確認して左折したら、先行しているはずの前の車が交差点で急停車しているのよ。あわててブレーキを踏んだけど、バンパーとバンパーがチョコンと当たっちゃってさ、凹んだのよ、少し。で、車を道路わきによせて、20歳ぐらいの兄ちゃんに言ったんだ
「何で急に止まったの」って。
「前方を確認していた」と言うけどさ。

右側の車が来ないのを確認して左折しておきながら急停車したんだよ。そこは変則5差路で車用の信号機の下に歩行者用の信号機が付いていて、車が左折するので歩行者は横断できないように「赤」になるんだ。この補助信号に初めての運転手はまごつくんだよ。で、初心者らしい兄ちゃんに言ってやったんだ
「あんたが見て止まった信号の「赤」は歩行者用の信号だよ」と。
兄ちゃんは、しまった、という表情をしながらも
「前方を確認していたんです」と言い張る。

しばらくそんな押し問答を繰り返していてもらちがあかず、兄ちゃんは警察を呼ぶと言い出してね、まいったよ。バンパーが親指の爪ほど凹んだぐらいで警察をよんだら、めんどうだよ。どんな理由があるにせよ、オカマを掘ったのはこっちだからさ。警察がきたら、前方不注意ってことになるんだよ。しょうがないから、小遣いをあげて示談にしようとしたんだけど・・・通報されちゃってさ・・・1日パーだよ。会社にもどれば、グダグダ説教はくらうし、小言タラタラで嫌んなっちゃってさ、仕事に気がのらないっていうか・・・。

「じゃ、辞めちゃえば・・・」みや。
「危ないね・・・雲助なんてやらなくても食っていけるんだから、島さんは」プー。
「店、手伝ってよ、ミラノ」ギー。
「なに、すんの?」島。
「市場の買い出し。それから、ランチの仕込み。島さんじゃないけど・・・俺もきつくなってきてね、体力的に。かといってヒロダンひとりに任せるのは悪いし・・・この前、また転んじゃってさ。年金のこで市役所に行ったとき、廊下でつまずいて転んじゃって、1回転して赤ちゃんのハイハイの格好でしばらく固まっていたよ。膝頭、両のお皿のところが痛くてねぇ・・・見知らぬお婆ちゃんに
「だいじょうぶ?」
って顔を覗きこまれて、返事もできず、うんうんって頭を上下にゆすっていたら係りの人がふたり飛んできて両脇を抱えて椅子に運んでくれた」
「市役所の廊下って競馬場のターフみたいに凸凹しているの?」プー。
「へへ、モチのロン、真っ平らのリノリウム敷き、古いけど」ギー。
「滑るのなら分かるけど、どうしてそんなところで、つまずくの?」みや。
「わからん。時々あって、つんのめる。サッカー選手がボールを蹴るときに手前の地面を蹴ってしまうことがあるけれど・・・そんな感じ」ギー。
「ダフリだね。ゴルフボールの手前の地球を叩くやつね。廊下を歩いていてダフルとはね・・・しょうがない、手つだってやるか」島。

「たいした給料はでないけどね。ボランティアみたいなもんだ」プー。
「やりなさいよ。賄い付きだしさ・・・呑んでも社員割引もあるよ」みや。
「俺、ミラノの大株主でもあるんだよな・・・」島。


(13)
恵子さんはゴールデンウィークにはいるとBarを1週間休んで、夫の暮らしている八ヶ岳のふもとへ娘と行ってしまった。「ミラノ」も例年にならってゴールデンウィークの間はバイキングだけにしている。ソフトドリンク付きで1500円。11時から3時まで。夜も食事は食べ放題にして1500円。アルコールは別料金にして5時から9時まで。
お昼は、ヒロダン夫婦、みやちゃんと次女の和、島さん。夜は、ぷー、ぎー、ジュン、みやちゃんの長女メグ。音大のグレは里帰り。まぁ、おおざっぱに振り分けて、代わるがわる休みをとって助けあいながらゴールデンウィークをのりきった。

山ちゃんと敦子さん夫婦が「ミラノ」をやっている頃は、1週間も店を閉めて海外旅行に出かけていた。どうせ店を開けていても暇だからということもあるが、のんきな大名商売でもあった。それではいけない、店がつぶれる、と、みやちゃんがしゃかりきになって営業を始めて、それでも暇なので営業時間を短くしてバイキングにしたらなんとかなった。で、そのご褒美に連休あけに1泊2日で温泉に行くことになった。
安ちゃん、敦子さん、常連のお客さんも加わって総勢20名ちかくなったので温泉宿が送迎バスを川越まで出してくれるという。それをいちばん喜んだのは島さんであるが・・・ギーさんが、体調不良で参加を取り止めた。

「ミラノ」の裏の寮で、みやちゃんと恵子さんがときおり鉢合わせするようになっていた。みやちゃんは3時に仕事を終えて2階の島さんの部屋へ買い物を届けたり、掃除をしたり。恵子さんはBarに出る前に寮の台所でおつまみを仕込んだり、ギーさんの部屋で休んだり。
会っても、ふたりは会釈をするていどだ。

島さんがタクシーの運転手を辞め、「ミラノ」を手つだうようになってから、みやちゃんとの関係はみんなから好意的に認められたようだ。それまでは、口には出さないまでも怪しまれていた。ひと目を避けてコソコソ会っているようで陰口の種になっていた。が、「ミラノ」で一緒に働くようになって変な噂が消えたかわりにからかわれ、照れくさそうに笑みを浮かべて受け流している様子もほほえましい。
そのてん、ギーには奥さんがいて恵子さんには亭主がいるから、島さんとみやちゃんのようにおおっぴらにはできない。

ギーは周に2回は洗濯物を持って帰っていたが、それが1回になり、帰らない週もあるようだ。昔から、仕事がら遅くなることが多く、そのあと呑んだりマージャンをしたりするので外泊はしょっちゅうで、妻の寿美子も慣れたもので不満を口にすることもなくなっていた。今では、たまに帰ると露骨に嫌な顔をする。帰ってこないでくれ、と言わんばかりだ。そんなわけで、しばらく遠のいていた足を家に運ぶと、そこで寝込んでしまった。

「黄疸がでている」と妻に言われ
鏡の自分の顔をみて一瞬にして、これは駄目だ、と悟った。妻に付き添われ病院に行くと即入院だった。

精密検査の結果、すい臓がんだった。


              「嘘日記 その8」・ 「帰宅」 終わり。
 
              この作品はフィクションです。






           






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