記憶と幻想のコラージュ その一

「Speak Low」


  (一)

「・・・なに、その顔。・・・そんなシケた面じゃ、客が来ないよ・・・」
信夫(ノブ)は入ってくるなり、そう言い放ってカウンターのいつもの席に腰をおろした。
あらかじめ分かっていたことではあるが
「岡ちゃんが死んだよ」
とは言えないで半二は苦虫をかんでいた。
「誰もいないじゃない・・・貸し切りかよ・・・」
ノブは誰もいない奥の客席にむかって言い放った。
5時開店の「ロリン」だが、7時になっても一人も客が来ない。半二は慣れている。

 開店は5時からだが、たりない食材を買って4時ごろ店に入る。掃き掃除、拭き掃除。それほど客が来るわけでもないから、たいした仕込みもない。で、コーヒー豆の焙煎をしている。前日の豆の残りを見計らって合計で100gになる量を焙煎する。20g残っていたら80g。10杯分の豆があれば1日まにあってしまう。
 以前はブレンドして挽いてもらった豆を1週間に1度、とどけてもらっていた。それは半二が「ロリン」をやる前の店が仕入れていた業者から引きついだだけだった。半年ほどして半二は、ふと自分で焙煎してみる気になった。
 図書館でコーヒーに関する本を何冊も借りてきて、読んでみた。ネットでも調べてみた。焙煎機は家庭用から専門業者向けまで、じつにたくさんの種類があった。メーカーもいろいろ。100gぐらいの焙煎なら家庭用で間にあいそうだったが、カネがないので小型の中華鍋やフライパンや魚を焼く網で試してみることにした。生豆はネットで発注、宅配で着払い。

 オヤジの竜三が降りてきてノブの横に座った。
「コーヒー、くれよ。その前になにか食べるものない?」
「スパゲティーかチーズトースト。サンドイッチもできますが・・・」半二。
「サンドは何なの?」
「卵とハム・・・スモークサーモンもありますけどね・・・」
「じゃ、スモークサーモンにしてよ・・・コーヒーは後でいいから」
半二はすばやく3斤パンを2枚スライスしてバターとマヨネーズ、ほんの少しの洋芥子をぬった。レタスをしいてサラダやつまみに使うスモークサーモンと軽く塩もみしたオニオンスライスを挟んだ。パンの耳を取り、Xに切り、パセリを添えてだした。
「これ、サービス」
半二はインスタントのオニオンスープに先ほどの玉ねぎと粉チーズをパラパラッと振りかけた。

「ひとつ取っていいよ・・・」
オヤジがノブにすすめると
「いただきます・・・」
ノブは遠慮なく手をのばし、ビールを追加した。
「岡ちゃんが亡くなったってな・・・」オヤジ。
「ええ・・・?」
ノブはサンドを口にいれたまま変な声をだした。
「まえから聞いてはいたんだけどね・・・余命6ヶ月だからピッタシじゃねェか。その病院にオレと半ちゃんが入院していたんだよ、去年。俺たちは無事出所できたけどさ・・・」オヤジ。
 去年の今ごろ、半二が胃がんで入院すると同室にオヤジ(竜三)がいた。同病相憐れむじゃないけれど、話すようになった。大部屋の半二たち六人は胃がん、大腸がん、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胆石などの手術を待つ患者。みんな不安と困惑とで押し黙っているのだが、ひとり大きな声を出して元気にしているのが竜三だった。

「ここのコーヒー、だんだんうまくなってきたなァ。やっぱり自家焙煎だと香りがいいよ」。
竜三はカップを鼻先に持って香りを楽しんでいる。
半年まえから生豆を仕入れて、みようみまねで焙煎をはじめた。ブラジル、コロンビア、キリマンジェロ、モカ、マンダリン、現在は5種類(ときどき入れ替える)の豆を仕入れて、そのうちの三種類をブレンドしている。三種類の豆の量が均等の場合もあれば、三、三、四などと比率に変化をつける場合もあるので、その調合の種類は限りがない。半二は豆の種類と比率をノートに記入し、小まめに味の寸評を書き込んでいる。
 このところ、小型の中華鍋で百グラム程度を十五分ぐらいかけて焙煎している。ずっと左手で鍋を振っていると手首が疲れるので右手にお玉をもって代わる代わる豆を混ぜている。スターバックスなどのカフェや本格的なイタリアンが増えたせいでエスプレッソやカプチーノが好まれるようになったせいか、一般的に豆の煎り加減が深くなっているようだが半二は昔はやった中深煎りを好んでいる。
 だが、じっさいは時間と豆の色を見て火を止めるので(豆の大きさなどによって)毎日微妙に煎り具合が違う。焙煎するとガス台のまわりにコーヒー豆の薄い膜が飛び散り、その掃除がめんどう。また、意外なことだが煎った豆の熱をとりクズやカケラを捨てると一割がた量が減っている。
 半二は二十歳のころ、新宿のジャズ喫茶で三年、働いた。そこでは仕入れた豆をコーヒーミルで挽いて百グラムずつネルドリップで淹れていた。そのときの味が忘れがたく残っていてブレンドしていても、つい昔の味を求めてしまう。いま流行りの深入りではなく豆もそれほど細かく挽いていなかった。

「半ちゃん、葬儀には行ったのかい?」オヤジ(竜三)。
「いや・・・やらないんだって。家族だけで通夜を済ませて、きょう直接火葬場に行ったって・・・家族だけで」
「家族ったって、アイツ母ちゃんと分かれたんだろう?じゃァ、子供だけでやったのかい?」オヤジ。
「詳しいことは分からないんだ。岡ちゃんといちばん親しかった小島さんから連絡があって、ぜんぶ家族だけでやるから俺たち仲間は誰も出席しないよって・・・」
「それは、寂しいね・・・いろいろあるんだろ、いろいろ」オヤジ。
「いま、直葬・・・ってのが流行りらしいよ」半二。
「そうか・・・それで半ちゃん、シケタ面をしていたのか・・・」
ノブも岡ちゃんはあと半年とは聞かされてはいたが、不意を突かれたようで、あらためて半二の顔を見た。何か訴えるようなまなざしだった。


(二)
退院してから半二は、一週間ぼんやりしていた。食欲もなく出歩くとフラフラするので部屋に閉じこもっていた。胃が半分なくなったし、太ももの筋肉もそれくらいなくなったようだ。なくなった、といえばカネがなくなった。一年まえに離婚して家を追い出され、胃がんの手術をしたら、なんど貯金通帳を見直しても残高が心もとない。入院手術の保険がおりるまでもつかどうか、頭の中で足し算と引き算をしていた。
 年金が引き出せる十五日、駅前のキャッシュコーナーまで行ったついでにオヤジの不動産屋に顔を出してみた。
「退院したら俺の会社に来いよ、出所祝いをしてやるぜ・・・」
半二より一週間さきに退院したオヤジの申し出を思い出して駅のロータリーから一本入ったところにある不動産屋をのぞくと、オヤジは二階の住居にいた。
この辺を歩くのは久しぶりだった。Aホテルが建っているのは知っていたが、いつのまにかホテルの周りにホテルなみのマンションが何棟も建っていた。オヤジの不動産屋と隣の焼肉屋の周りは駐車場になっている。その二軒が立ち退けば三千坪ぐらいの更地ができるわけだから、いずれ大きな箱が建つだろう。

「メシ、食ったのかい?」
二階から降りてきたオヤジが挨拶もそこそこに半二に問いかけながら扉を開けて表にでた。
「まだなんです・・・」
 病院のパジャマ姿とはちがってグリーンのチェックのブレザーにグレーのスラックス、靴はイタリア製。オヤジが腕時計(高そうだが、半二には本物かどうかわからない)に目をやると長短の針が1のあたりで重なるようにしていた。半二は食欲もなく朝から何も口にしていなかった(といってもベッドを離れたのは十一時ちかかったが)。年金を引き出したら何か食べようとは思っていたが・・・べつにこれといって具体的に食べ物の絵が浮かんでいたわけではなかった。
「なに食べる?出所祝いだ、ご馳走するよ」
オヤジはあい変らず声がデカイ。すれちがう通行人が振りかえって二人を見る。
派手な身なりのオヤジと綿パンにセーター、その上に剥げた革ジャンのみすぼらしい半二。
「うなぎ」
半二はマフラーの中でボソッともらした。
「なにィ?うなぎ?・・・そうか、そうきたか・・・」
オヤジは笑いながら何度もうなずいて、携帯でうなぎ屋に電話をしながら駅のタクシーのりばに足を運んだ。

「看護師の春さん(岩崎春子)覚えているだろう?先日あの子と食事をしてカラオケに行ったよ」
 春さんは半二より背が高く、バスケットかバレーボールの選手のように大柄だった。声も大きく九州訛りの話し方をする小学生の子供がいる元気な女性だった。あまりにも特徴がはっきりしているので覚えるつもりがなくても覚えてしまう。
「この話は内緒にしてくれよな、病院に知れると俺より春さんが叱られるから・・・」
タクシーの後ろ座席でオヤジは内緒と云いながら嬉しそうに話している。もちろん運転手にはまる聞こえだが意に介していないようだ。
 タクシーが十五分も走ると住宅地を抜け畑のなかの古民家についた。広い駐車場(舗装されていない空き地)のわりには店の看板はなく、知らない人が前を通りぬけても何の店か分からないだろう。店であることにも気づかないに違いない。駅からも遠く歩いては来られないから不便なところだ。オヤジ(竜三)が電話をしていたのはこの店だった。
「これから二人で行くから、いつものやつを頼む。肝の串焼きもなぁ・・・」

「春さんにはお世話になったからね・・・お礼をしたかったんだよ。もちろん、他の看護師さんにも声をかけたよ、ベッピンさんのYさんとか・・・みんな公平に声をかけた。そのYさんに断られてね、患者さんや元患者さんとのおつき合いは禁止なのです、と。まぁ、そうだろうね・・・」
 Yさんはその病院のナンバー1だったから名前は分からなくとも半二にはすぐにどの女性か分かった。近づきがたいほどの美人だったので半二は近づけなかったが、オヤジは用もないのに近づいて遠慮なく話しかけていた。半二は美人に脈をとられ体温を計られるだけで話しかけることはできなかったが、入院をするといいこともあるのを知った。
「先ほど電話をしておいたのはね・・・この店は注文を受けてから捌くからね、時間がかかってしょうがないんだ。それで前もって電話を入れておいたわけ。そうしないと小一時間待たされるからね・・・。だから常連さんはみんな、そうしているよ。なに呑む?」
 ビールと言いかけて何故か咄嗟に
「お酒」
「じゃぁ、俺も酒にするか・・・」

古民家の一部をそのまま店にしているようで、料理屋の造りではなかった。五十前後の夫婦二人きりで営んでいるようだ。客席は大きな部屋をつい立で四つに区切っているだけ。だから四組の客しか取れない。訳ありで頼めば個室もあるようだが、宴会は受けない。商売をやる気があるのか、ないのか、変な夫婦だ。
二合徳利とお猪口が十個ぐらい入った竹のかごを置いていった。奥さんはほっそりとした少しやつれた感じの婦人だった。夢二の絵のモデルに似ていた。
 オヤジが一言二言、話しかけても口元をゆるめて曖昧にうなずくだけで、これといった返事はしなかった。常連のはずのオヤジにもお愛想を言わなかった。お高くとまっているのではなく、それが地のようだ。
 出されたうなぎの肝を噛み、お酒を口に含むとなんとも言えない上品な甘さが口の中にひろがった。美味しい、と半二は感じた。日本酒を呑んで美味しいなんて久方ぶりだ。朝飯抜きのすきっ腹だったので、お猪口一杯のお酒が五臓六腑にジワジワと染みわたるのが分かった。
「美味しいね・・・」
 お酒なのか、うなぎの肝なのか、オヤジはそれだけ言ってうなずいている。自分のイメージしていたものと口の中に入れたものがほぼ一致しているのを確認して納得しているようだ。
「美味いだろう・・・」
「美味いですね」
「退院して二週間だろう、やっと食べられるようになったよ。でも半分、人の半分しか食えねぇ・・・だから、うな重のご飯は半分にしてもらったよ」
「オヤジはほとんどご飯を食べず、うなぎを肴に呑んでいるようだ。
「半ちゃんのご飯も少なめにしてあるけど、食えなかったら残していいよ。退院して一週間なんだから、無理することはないよ」
 半二は肝吸いで口中のうなぎのタレの甘みをながし、お酒を口に含んだ。入院してから胃がんの術後まで点滴だけの絶食だったが、何かを食べたいという気はこれっぽっちもおきなかった。術後の三日目ぐらいに重湯の上澄みだけが出た。翌日、その上澄みにお米がパラパラと数えられるほど泳いでいた。退院の二日まえに汁気たっぷりのお粥を食べたあと、不意にうなぎが食べたくなった。
「ここのうなぎは裏の荒川で捕れたやつらしいよ。それから、伊佐沼。地元の天然ってやつよ。だから、ちょっと泥臭いだろう。それにやせて脂ののりがいまいちなんだよな。でも高いんだよ、こっちの方が」
 言われてみれば、たしかに泥臭い気がした。中国や台湾産の養殖うなぎほど脂っこくはなく、肉厚でもなかった。
「ここの主人はよぅ、無口でなにもしゃべらないんだよ、うなぎのことも世間話も。ただ、うなぎを捌いて焼くだけ。商売っ気がないんだから・・・変人だね」
「なんで、あんないい女(奥さん)がついているんだろう・・・」
半二は口には出さず、奥さんの仄かに白いうなじを想いおこした。

 二合のお酒で二人は十分だった。
 大資本のチェーン店や立派な店構えの料理屋よりも、農家と見間違えるような侘しいたたずまいのこの店を半二は気に入った。でも自分の財布では来られないだろう。オヤジは一万ほどの領収書を手にしていた。
「ちょっと下の店を見ていきなよ」
 入院中、話はオヤジから何度も聞かされていた。

「川越の駅前で不動産屋をやっているんだ。もう、息子に任せているがね・・・」
六人部屋で暇をもてあましているが、患者同士はたいして話はしない。あいさつ程度だ。これからの手術やその結果のことを考えていると隣のベッドで横たわっている他人に興味がわかない。みんな痛みや不自由に耐え、自分のことで精一杯だ。
 ところがオヤジはだれかれなくみんなに声をかけている。半二のベッドの横に椅子を持ってきて雑談する。
「俺の会社(不動産屋)の地下が空いているんだけど・・・どうだ、やらないか?」
やるにもなにも、これから半二は胃がんの手術。成功するかどうかも分からない。成功したところで、1ヶ月はなにもできないだろう。カネもない。
 半二はこれから先のことは何も考えられない。生計をいくら考えても手術がうまくいかず死んでしまえばそれまでだ。だから何も考えずボンヤリしていた。
「地下はイタリアンだったんだけどさ、逃げられちゃってさ、そのまま空いているんだ。うちは保証金を預かっているからたいして損はしていないが、仕入れ業者が泣いていたよ」

 ほとんど忘れていたが、オヤジに誘われてうなぎ屋の帰りに地下の店を覗いてみた。不動産屋の横の階段をおりると5坪ほどの中庭があり、庭に面した入り口の壁が全面ガラスになっていた。ドアーも一枚の分厚いガラス。そのせいで地下にしては明るい。
オヤジの息子が二つの鍵を持ってきて開けてくれた。淀んだ空気がカビ臭かった。息子が明かりをつけると埃っぽい古い、かなり昔の喫茶店が出現した。
「五十年前だよ、五十年・・・」
ここでオヤジ夫婦が喫茶店をやっていた。一階でオヤジの親父が不動産屋をやっていた。2階は住居。
 中に入ると正面がカウンターで、すぐ左が洗面所で右に長方形の客席になっていて奥の天井のあたりが明り取りの窓になっていた。ざっと見て二十坪ぐらいはありそうだ。が、詳しくは問わなかった。掃除をすればそのまま営業できそうだが・・・そもそも商売をする発想が半二にはなかった。月十万の年金では足りない生活費をどのように稼ぐか?そんなことしか考えていなかった。


(三)
「岡ちゃんが離婚していたとは、知らなかったなァ・・・」
遊び友達とはいえ二十年以上も付き合っているノブも岡ちゃんの家庭の内情までは知らなかったようだ。二人は仲が良くなかったので知りたくもなかったのかもしれないが、ノブはいつになく寡黙で神妙な表情。
「そうだよな・・・俺なんかたいしたつき合いもないからいいんだけどさ、半ちゃんも知らなかったの?」
オヤジ(竜三)はゴルフをやらないし、競馬はとっくの昔にやめているから岡ちゃんとの接点はない。しいてあげれば飲み屋ですれちがうぐらいだ。だから顔は見知っているがそれ以上の関係はない。
「気がつかなかったなァ。たまにゴルフをして呑むだけだからね・・・」
半二にしても、ここ数年の付き合いだし、岡ちゃんと二人で呑む仲でもなかった。

 昨日亡くなった岡ちゃんといちばん親しかったのは小島さんで、二人はよくつるんでゴルフや競馬をしていた。二人はもともと仕事(岡ちゃんは業界紙で小野さんは印刷会社)のつき合いで仲良くなったようだ。もう、三十年ものつき合いだから小島さんは岡ちゃんの離婚は知っていたはずだが・・・。
「岡ちゃんは、いくつだったっけ?」
オヤジは痩せて角張った岡ちゃんの顔を思い出そうとしていた。
「たしか・・・70になったばかりじゃないの・・・」
半二もはっきりとした年齢は知らない。
「ちょっと若いな」
オヤジがキッパリと言った。
「せめて平均寿命の80までは・・・いきたいよな」
六十過ぎのノブが呟き、六十六の半二がうなずいた。三人の言葉数が減り、だんだんお通夜のような雰囲気になってきた。
「ここはお酒は置いてあったっけ?そう、あるの。じゃあ1合燗して、熱めで、寒いからな。それで身を清めておとなしく寝るよ」
オヤジは雰囲気を変えたいのか、おどけたようにいった。
「俺も清めようかな」
ノブはいっきょに落ち込んで心ここにあらず、といった様子。
それを聞いて半二は自分の分もお燗して、ぐい呑みでだした。それぞれ自分の中で想いをめぐらしているようで三人は黙って呑んだ。
半二は去年の今ごろ、オヤジと呑んだうなぎ屋のお酒の味を思い出した。あの病みあがりの、お猪口1杯のお酒は五臓六腑に染みわたって脳細胞がしびれるほどうまかったけど、今日の酒は酔えない。

「俺と女房で喫茶店をやってたんだ。五十年前、ここで。景気がよかったから十人もの人手を使って店は女房に任せて、俺は呑み歩いていたいたよ。そのうち不動産屋の方が忙しくなってね、俺は親父の鞄持ちよ。不動産のカネの動きを見ていたら喫茶店なんか馬鹿らしくてやってられないよ。それで女房も不動産屋を手伝うようになり、親戚の夫婦に店を任したんだが、十年ももたないでつぶれたよ。バブルもはじけちゃったしね。その後、賃貸で貸した若夫婦がイタリアンレストランをやっていたが、やはり十年もたなかったなァ。店をそのままにして逃げちゃった。ある日、突然いなくなっちゃうんだからね、恐れいっちゃうよ。まァ、不動産をやっているから、慣れているといえば、なれているがね・・・」
嘘かまことか、オヤジは冗談半分にしゃべっている。
「そこへ去年、半ちゃんが入ったんだ・・・居抜きで」
ノブがからかうように鼻でふん、と笑った。
「オイラも十年もたないよ・・・」
反射的に半二も云い返していた。
「もつ訳ないだろう。いま、ここは地上げにあっているんだから。以前は俺が地上げをやっていたいたんだが・・・半ちゃんには悪いけど頃合をみて売るよ。だから保証金なし、家賃もただ同然にしている・・・」
オヤジにしては強い口調だった。
それは病院で聞かされ、うなぎ屋でも説明されていたから承知のうえだ。立ち退きでいつ追い出されてもオヤジには礼を言っても文句のつける筋合いではない。半二は口にはださないが感謝している。犬も歩けば棒にあたるというが、人もどこで誰にあたるか分かったもんじゃない。病院の大部屋でオヤジにあたったのは僥倖だった。

 ぐいのみの一合たらずのお酒を呑みほすとオヤジは二階に上がった。半二は地上までいっしょについて上がった。上着をひっかけないで外にでたので冷気で思わずブルブルッときた。オヤジは階段で2階に上がるだけなのにマフラーを巻きなおしコートのボタンをかけた。
「おやすみ」
「おやすみ」
呼吸をととのえてからオヤジは手すりをつかんでゆっくり階段を上がっていった。これいじょう外にいると凍えちまう、半二は子供のように階段をかけ下りた。店に入るまえに手がかってに看板を裏返してCloseにした。
「もう、閉めるの・・・?」
振り向いてノブが問いかける。
「うん、でもまだ居ていいよ」
「わるいね、じゃァ、あと一合だけつけて・・・」
半二は明かりを落として二合あたためた。

 酔いがまわってきたのか、口が酒になじんできたのか、ひと口ごとの味に舌がいちいち反応しなくなってきた。いったん酒を口に含むこともなく、すっと喉を下っていく。
「岡ちゃんのところ、息子一人だけだよな・・・まさか息子一人で全部やったわけじゃないだろう・・・」
ノブは葬儀の連絡が誰からもなかったのが不満だった。
「小島さんが手伝ったらしいよ。口外しないでくれ、と言われているんだけど・・・別れた奥さんも来たらしい。あとは岡ちゃんの兄弟が三人とその子三人だったらしい。小島さん以外は親族だけ」
半二は小島さんから聞かされていたことをはしょって伝えた。
「ずいぶん簡素なんだね・・・まぁ、それでもいいけど。お坊さんがいない、ということは戒名がないんだね。戒名がないとお寺に入れないし・・・お墓もないんだね。まぁ、どうでもいいけど。やっぱり、亡くなっちゃうとなんか寂しいというか・・・嫌なこともすゥーっと消えていくね」
ノブは岡ちゃんに対してわだかまりがあるようだった。
「嫌なことって?」
「むかし、岡ちゃんとゴルフやっていただろう。小島さんがいたし、半ちゃんも入っていたよ。呑み屋で会えば一緒に呑むしね。仲間ではないけど、知らないわけではないんだ。でもね、合わないんだよ。確かに、あの人、ゴルフは上手かったよ。でもそれが何だっていうの?打ち上げの宴会で偉そうにしているんだよね。ゴルフが上手いからってべつに偉い訳じゃないんだからね・・・こちらは握って取られるし、デカイ面はされるし、面白くないんだよ。はっきり言って嫌いだったね」
まだまだ云い足りないけど、ノブは少し吐き出して少し楽になったようだ。
「・・・オイラなんかには、けっこうやさしかったけどね・・・」半二。
「そう・・・半ちゃんにはやさしかったの?。小島さんなんかには下手にでていたね。まァ、小島さんは年上で仕事上の付き合いだからね。」
「やさしいっていうか、まァ、普通・・・あまり嫌な思いはしなかっけど・・・」
半二と岡ちゃんの関係は薄い。だからお互いに感情のもつれようがない。
ノブには何だか、わだかまりがあるようだった。

 半二にはうかがい知れない葛藤が二人の間に挟まっていたのか、ノブはこらえるように言った。
「亡くなった人の悪口を言うのはよくないよね、特に今夜は。・・・止めておこう」


(四)
 カウンターの横のドアーを開けると半二の部屋になっている。そこは、もともとは倉庫だった。だから、本来の入り口は外の中庭に面したところにある。
半二が店をはじめることになり、掃除をしたり古い装飾品を片付けたりしてガラクタの処分をオヤジに相談すると
「隣が倉庫だから、とりあえずそこに入れておけば・・・」
と、言われてはじめて倉庫があるのを知った。
十坪ぐらいの広さのところに壊れた冷蔵庫や冷凍庫、ガス台などの厨房の備品が転がっていた。使えそうにない椅子やテーブル。不動産屋の書類が入っているらしいダンボールが二十個ほど壁際に積んである。
半二は倉庫に入ってガラクタを眺めている間に「ここは使えるな」と思った。目の前のガラクタが消えた何もない十坪の四角い空間が見えた。
「ベッドと机を置けば自分の部屋になるじゃないか」
半二には家具の位置はすぐに決まったが倉庫だけに照明がたりない。

 ときどきオヤジが地下まで降りてきて様子を見にくる。
「だいぶ片付いたな・・・無理するなよ。メシまだなんだろう、食べに行こう」
オヤジについて行くとビルの中のカラオケボックスだった。四畳半ぐらいの部屋に通されると先客がいた。看護師の春と彼女の連れの恵理(エリ)さん。オヤジはここで春と待ち合わせていた。
半二にはひと目で春のことはわかったが、春は半二に気づかなかった。それでオヤジが入院していたときの状況を説明するとすぐに思い出した。看護師と元患者が病院の外で会うのは妙な感じだ。半二は春に寝返りも打てない身体を転がしてタオルで拭いてもらったことが何度もある。そのときは、春に尊い母性を感じて胸の内で感謝した。
 半二は春に挨拶をして、お世話になったお礼を言った。
彼女は笑って手のひらを左右にふって「いいのよ・・・」という感じで仕事の話には触れたくないようだった。病院の中で看護師の制服を着て働いている姿と私服でカラオケに興じている彼女はガッカリするほど別人だった。
オヤジはいまでも春とエリの2人と付き合っている。もう、1年になる。オヤジが世話役をしている「歌声の会」に2人は参加していて、町内の公民館などで歌好きのお年寄りたちを集めて歌っている。ボランティアのようで自分たちも楽しんでいる。
 オヤジは10年ほどまえに奥さんを亡くして寂しいのか、いろんなところに首を突っ込んでいる。町内会の会長などはとっくの昔に終えているのに事あるごとに相談にのっている。市の「第九を歌う会」に参加して、毎年6月から練習し12月になると150人ぐらいで歌っている。もう歳だから声量は落ちているがバリトンのいい声をしている。
「わたし、手伝います・・・」
「歌声の会」の帰りに立ち寄ったエリは店内をゆっくりとまわり、居抜きの店の数箇所に目をとめて宣言した。
「そうしてくれると助かるね。半ちゃんは病みあがりだから・・・」オヤジ。
「エリは建築事務所で働いているから、いいんじゃない」春。
「建築事務所といっても、仕事は事務なんだけど・・・」エリ。

 半二はオヤジに連れていってもらったうなぎ屋が引っかかっている。なぜだか不意に、農家のような店のたたずまいと陰のある夫婦が、運河の底から浮かび上がるアブクのようにポッと出てくる。確か、店の看板はなかったし、暖簾もでていなかった。だから知らない人には、うなぎ屋ともなんとも分からない。
 あれで、商売になっているのだろうか。
 一時半ごろ、オヤジとうなぎ屋に入ったときは、歳のはなれた先客のカップルが一組いるだけだったが、半二たちが食べはじめたころにはその姿はなかった。それから、新たに客は入ってこなかった。
半二たちが来るまえの客の入り具合は分からないが、店の雰囲気からしてそれほど混んだ気配はなかった。厨房の亭主の姿は見えず、奥さんはダルそうな立ち振る舞い。お昼時でも三、四組の来客だろう、と半二は推測した。
 土日祭日は休みで、昼は十二時から三時まで、夜は六時から九時まで。来るのはみんな電話かメール予約だから、予約がなければ店を開けない。そんなやり方だから、月の半分は閉まっていることになる。

「とりあえず、ぜんぶ捨てましょう」
エリはキッパリ言い放つと店内の物をどんどん中庭に運んだ。彼女はすでに新しい店のイメージを持っているいるようだ。
 壁に掛かっている何年まえのものか知れない印象派の油絵の複製やイタリアンの店のものらしいナポリ、ローマ、ミラノ、ベニスの写真を取りはずすと壁には額のあと以外なにもなくなり、すっきりした。
「汚い壁紙もはがしましょう。むき出しのコンクリートのままでいいでしょう」
「汚い蛍光灯の照明も取り外してスポットライトにしましょう。明かりの調節ができるものにね」
エリはテキパキと決めていく。
半二はうなずきながら、カネの工面を思案している。

「このゴミの山、どうするんだよ」
オヤジは腕を組んだまま
「病みあがりの半ちゃんには無理だな・・・ここに住むったって、風呂がないよ。倉庫なんだから冷暖房はないし・・・」」
「この辺に銭湯があったような気がしたんだけど・・・」
「もう、十年もまえになくなってマンションになっているよ。歩くと二十分かかるけど、自転車だと五分のところにあるけどね・・・」
「その銭湯でいいです」
半二は倉庫に山積みになっている産廃をキレイさっぱり処分して自分の部屋にしようと思っている。


(五)
「Jazz Cafe Bar Rollins」という店名だったが、看板ができあがると「s」が抜け落ちていた。それで誰もが「ロリン」というようになった。半二がその呼び名に慣れたころ、店や隣の部屋にもなじんできて、ずっと前からここに居るような気がしてきた。
 店を始めるとき、看板はなくてもいい、と考えていた。あの陰気な「うなぎ屋」のようにひっそりとやればいい。てめェ1人でやれば、人件費はかからないし家賃はただみたいなものだから、仕入れ代と光熱費を支払って十万も残ればいいだろう。なら、一日十人も客がくればいいんじゃないか?
半二は、なんとなくそんなのん気な考えでいた。

「バカいってんじゃないよ。看板がなくて客が入ってくるわけないだろう。誰がそんなオッカナイ所へ行くんだよ。それとも半ちゃん何かい、銀座のホステスみたいにいいお客をたくさん持っているのかい?」
「いや・・・あの、うなぎ屋みたいに・・・」半二。
「あそこだってちゃんと看板はあったんだ、目立たなかったけど。それがいつの間にかなくなって、たぶん壊れたか、誰かが悪戯で持っていったんだろう。そのときはすでに客がついていたからね、だから看板がなくてもやっていけるのよ」
オヤジにしてはめずらしく説教調の口調だった。
「でも看板って高いんだよね。電飾だと・・・」半二。
「そうよ、高いよ。だから業者に頼むんだよ。ビールやウィスキー、コーヒーやコーラの業者に当たってみな。どこかは、ただで看板を作ってくれるよ。まァ、その会社のロゴがはいるし、仕入れなくちゃいけないけどね。自前の看板は儲かってからでいいよ・・・あっ、その前に立ち退きになっているかも・・・」
オヤジは自分で落ちをつけてひとり笑っている。

 いよいよ仮オープン(知人の口コミだけで1週間も)のときになってエリに聞かれた。
「店の名前はなんだっけ?」
「「Rollins」にしようと思っている」
「な〜に?ロリンズって」エリ。
「ジャズのテナーサックス奏者だよ」
「ふゥ〜ん、ジャズね・・・」エリ。

 六十過ぎて離婚し、嘱託で残った会社の仕事も辞め、宙ぶらりんの状態で胃がんになった。
「もう、どうでもいいや・・・」
半二は口にこそださないが、そう思っていた。
手術台で横になり
「これから麻酔をかけます」
と宣言されたとき
「ああ、このまま眠って目を覚まさないこともあるのだな・・・」
と思うと、ゆったりした時間(時計では1分ぐらいだろうか?)が静かに流れ身についた汚れがきれいさっぱり洗い落とされ、生き延びたいという執着心がなかった。
手術台での心境を思い出すと
「ちょっと淡白すぎるな・・・」という思いと
「どうでもいいや・・・」
という諦めに似たダルな気分が交差する。
「六十六歳にもなって店を始めるなんて、めんどうだな・・・」
オヤジに地下室を案内されるまでは、どうやって断ろうかな、と思案していた。

「うちの亭主、ジャズが好きでCDいっぱい持っているわよ・・・」エリ。
半二は若いころジャズのLPレコードを百枚ぐらい持っていた。それが、友達に貸したり引越しをするたびに減り、いま手元にあるのは三十枚足らず。それも四十年以上まえに買ったもので、ほとんど聴いていないからカビがはえているかもしれない。たった三十枚のレコードでJazz Cafe Bar を名のるのはおこがましいが、オヤジに引っぱられて地下の空間を見たときに二十歳のころ働いていたジャズ喫茶がよみがえった。脳細胞で眠っていた記憶が目をさました。
 その間にエリが建築デザイナーの亭主を連れてきた。エリより十歳ぐらい上のオカッパ頭で黒縁のメガネをかけた、いかにもその業界の人らしい身なりだった。やせていて鼻の下にヒゲをたくわえ似あっていた。亭主がかもし出す雰囲気は多くの自己主張があるようだったが、名刺を出して藤田と名乗った以外はたいしてしゃべらなかった。
それでも半二の古いLPジャケットをていねいに一枚ずつながめて
「いいですね・・・」
と言って、その中からビル・エバンスの一枚を選んで差し出して
「これ、かけてくれますか・・・?」
と言い、カウンターの上のポータブルプレーヤーを見て子供のように笑った。
 どうやら白人女性が「Speak Low」を歌っているようだ。二、三歌手の名前が思い浮かんだが、誰が歌っているのかかはっきりしなかったので半二はただ
「いいですね・・・」
とだけ云った。
「これはね・・・女性が男性を誘っている歌なんですよ・・・」
藤田が半二に「知らなかったでしょう」と云わんばかりに歌詞の説明をした。
「Speak Low」
その個所だけエリがハモッた。

 それから何日かして、藤田が友人のインテリアデザイナーの山下を連れてきた。藤田は二十枚ものCDを紙袋に入れて貸してくれる。取り出してCDを確認すると一枚一枚のケースに藤田の名前が貼り付けてあり
「かた苦しくて申し訳ありませんが・・・」
藤田はCDのリストを出してサインを求めた。
それが、預かり書になっているのだ。半二は気持ちよくサインした。CDやレコードを貸すと戻ってこないことが多いのだ。経験上、半二はそのことが分かっていたので気分を害することはなかったが、藤田の性格が垣間見えたような気もした。背が高く立派な体格をした山下が重そうなプレーヤーを持ち上げカウンターに置いた。半二が触るとビクともしなかった。四方四十cmの木目で二十kgぐらいありそう。横の半二のプレーヤーは子供のオモチャのようだ。
「これ、使ってください」
山下は借用書を出さなかった。
「家にこんなのが何個もあるんですよ。スピーカーもあるのでこのスペースに合ったものを適当にみつくろって持ってきます、アンプも。店の開店(四月一日)には間にあいませんが・・・」
自認しているわけではないが、山下は音響マニアのようだ。藤田が「ロリン」のチャチなプラスチック製のプレーヤーを見て山下に頼んだようだ。
 五十歳ぐらいの藤田より山下は十歳ぐらい若いようだ。聞き耳をたてているわけではないが、カウンターで呑んでいる二人の会話がとぎれとぎれに半二の耳に入ってくる。そのつもりはないのだが、無意識のうちにエリの夫の藤田を観察している。二人は仕事がらみのつき合いで音楽の友でもあるようだ。それ以外にもつながりのあるような親しみのある関係のようだが、詳しいことは分からない。まァ、他人の人間関係なんてそんなものだから、どうでもいいのだが・・・。そのとき気になったのが山下の眼が潤んでいるように見えたことだった。ラグビー選手のようなゴツイ身体にその眼は不似合いだった。

 山下は帰りがけに店のノートパソコンからネットで音楽だけを専門に配信する放送局につないでくれた。ジャズやロックやクラシックなどいろんなジャンルがあり、ジャズにしても主にスイングを流す局やバップやモダン、ビッグバンドなど細かく分かれていて十局ぐらいはある。すべてアメリカのもので無料。日本の有線などと契約すると月に三千円はするのだが・・・。
 半二はお客さんからリクエストがないかぎり好みの局にアクセスしたままにしてある。それは五十年代から七十年ごろまでのスタンダードを流しているところ。奇をてらったりマニアックにならず、ゆったり聴いたりBGMにできるのがいい。
たまにLPやCDを持ってきて「かけてくれ」と言う客もいるが、それはそれでいいと思う。家で聴くのと店で聴くのでは、オーディオも空間も違うから同じ音源でも微妙に音が違う。

 四月になって本格的に営業を始めたが客は来なかった。知りあいが二、三人来るだけで暇を持て余していた。音楽を流しながら本を読んだり居眠りをしたりしていた。陽だまりでうずくまる猫のようだと半二は思った。猫のように散歩したり、たまには遠出して夜な夜な雌を追いかけたりして疲れて日向ぼっこするのは至福かもしれないが、来ない客をただただ待っているのは疲れる。
 まぁ、暇つぶしで「焙煎」を始めたようなものだ。


(六)
岡ちゃんが亡くなって直葬の翌日、オヤジが春とエリを連れて入ってきた。五時前だから開店はしていない。焙煎の途中だ。三人はカラオケボックスの帰り、冷やかしで「ロリン」を覗いたらしい。三人のカラオケ通いはもう一年もつづいている。といっても月に一度ぐらいのペース。エリはときどき抜けると言っていたから、オヤジと春の二人で行くこともあるのだろう。
「オヤジさんはいい人だけど・・・ちょっとエッチなのよね。なにげなく触るの・・・で、私はオヤジさんの手を払っちゃうけど、春はあまり気にしていないみたい。されるままにしているわけではなく身体を避けてはいるが、私のように拒絶したりはしないの。病院では患者さんに触られることも多いらしいのよ。だから「だめですよ」とさとすのも上手なはずなのに・・・でも末期患者には甘くなるらしい・・・」
そういうことに気のきかない半二にエリが女の直感をさりげなくしめした。
 それを半二はどこまで察したのか
「しょうがないな・・・オヤジ、末期なのかな」
半二はオヤジと春の関係に気付いていないようだ。
「末期的症状」
と云って苦笑いしたエリの目を半二は不思議そうに覗きこんだ。

 春はオヤジと半二が入院していた病院の看護師さん。バスケットボールの選手のように大柄で本人は百七十と言っているが、それ以上あるに違いない。オヤジと並ぶとオヤジの頭が春の肩あたりだ。歳も四十にとどいていないようだから、同居しているオヤジの娘さんよりも若い。
 偶然、半二とオヤジは病院の六人部屋で一緒になった。そこで春にはお世話になった。術後の痛みで自分では寝返りひとつうてないとき、彼女に身体を転がしてもらい暖かいタオルで拭いてもらった。ヒゲを剃ってもらい、髪も洗ってもらった。手術前に剃毛してもらったから、他人とは思えない。
 でも、退院してからカラオケボックスで会った春は別人のようだった。半二にとっては病院で制服を着て仕事をしているのが春で、カラオケでストレスを発散しているのは春ではなく、ただの歌好きのオバサンにすぎない。病院内では春に親しみや感謝の念を覚えたがカラオケボックスではなんの興味もおきなかった。自分の春にたいする想いが幻想だったようで、がっかりした。その反動かどうか分からないが、春より小柄な(春が大きすぎるだけでエリは中肉中背)エリのきめ細かい白い肌に目がいった。
 カウンターでオヤジを真ん中にして春とエリと三人が並んでコーヒーを飲みながら談笑している。半二は焙煎した豆の熱をとりながらエリの淹れてくれたコーヒーを飲み、ちょっとしたつまみの仕込みをしている。聞き耳をたてているわけではないが三人の会話が聞こえてきて、自分がその会話の中にはいっていないだけに三人の立場がよくうかがえる。

ほとんどオヤジの「歌声の会」に対する不満に春が話をあわせているようだ。不満といっても本気ではない。戯言だ。春はオヤジに付き合って食事をし、歌ってふざけたお喋りで仕事のストレスを発散しているのだろう。オヤジは老人だから安心だし、口は悪いがやさしい。それに金離れもいい。
 二人だけにしたかったのか、半二と二人きりになりたかったのか、オヤジと春が立ち上がってももエリはカウンターにすわったままだった。
「春、うなぎをご馳走してもらったんだって、オヤジさんに。あの二人、あやしい・・・」エリ。
「オイラもご馳走してもらったよ、ちょうど一年前。エリにこの店の開店準備を手伝ってもらっているころ・・・」
「美味しいの?」
「美味しい。それに、ちょっと変わった店なんだ」
「何が?」
「変わった夫婦なんだ。ちょっと説明しにくいけど・・・料理人の亭主はまず表に出てこない。だから、どんな人か分からない(オヤジは変人と言っていた)。女房の仲居は夢二のモデルのようないい女なんだが、無口で愛想がない。まるっきり商売人じゃない。店に看板も暖簾もないんだから・・・」
「それでよく客がくるはね・・・」
「オヤジのような常連だけだよ。しかも、予約をしないと入れないんだ」
「なんで入れないの?」
エリはカウンターの空になった三人分のカップとお冷のコップを洗い場の前にはこんで中に入ってきた。
「予約が入っていない日は商売をしないの。だから、いきなり行っても店が閉まっていることがある。運よくやっていても注文してから捌くから一時間ちかくも待たされる」
エリは食器を洗いながら
「半ちゃん、連れてって」
「えっ・・・」
「高いの?」
「高い!一人三千円はする。ちょっと呑めば五千円だね・・・それに辺鄙なところにあるんだよ。荒川に河川敷のゴルフ場があるだろう?その裏あたり、車でないと行けないよ」
「車ならわたしので・・・」
エリは食器を拭いたタオルを両手に持ったまま身体を半二にぶつけるようにして言った。


(七)
「岡ちゃんのところへ行ってきたよ」
エリと入れ替わるようにして入ってきたノブはめずらしくジャケットを着てネクタイを締めていた。
「奥さんがいたよ・・・戻ってきたんだね。たいして話さず、線香だけあげてきた」
「奥さんのこと、知っていたの?」
半二にはノブと岡ちゃんの関係が分かりづらかった。
「昔、会ったことがあるので・・・なんとなく面影が残っていた。向こうは俺のことは覚えていなかったけど・・・」
「あの奥さん、男ができて出て行ったんじゃないの?」
半二はそんな噂を小島さんから聞いたことがあった。
「・・・らしいね。戻ってきているところをみると、その男とは別れたんじゃないの・・・。その頃は、岡ちゃんにはもったいないぐらいのいい女だったけどね、すっかりお婆ちゃんになっていたよ。顔のしわが深かったから・・苦労したんじゃないの」
ノブは奥さんの老けように驚いたようだった。それだけ昔の印象がつよかったのだろう。
「ひとり息子は独身だから、親子で暮らせば納まりはいいんじゃないの・・・」
半二は岡ちゃんの私生活には興味がなかったのでテキトーに話をつないだ。
「そうだね、あの息子は四十も過ぎているから、もう結婚はしないだろう・・・」
「結婚したこと、ないみたいだね・・・」
「親父は女好きだったけどね。息子は男好きだったりして」
ノブはくだらない冗談を云って、ひとり笑っている。
「このごろ多いよね、そんなの。ゲイかどうかは分からないけど、結婚しない男が・・・」
半二はふと、立派なプレーヤーを運んで設置してくれた山下を思い出しながら呟いて、彼は結婚をしているのかな、と余計なことを推測した。
「女も結婚しないのが多いよ。今は下手な男より仕事のできる女も多いからね。その分、稼ぐから一人の方が気楽でいいんじゃないの」ノブ。
「そうだね、変な男と一緒になって苦労するよりずっといいよ」
半二もノブもバツイチで結婚には失敗している。変な男二人が自分たちを棚にあげて床屋談義をしている。

「・・・奥さんが出て行ってから、岡ちゃんが荒れてね・・・毎晩この辺を飲み歩いていた。ちょくちょく見かけたよ。話はしないけどね・・・挨拶するぐらいで。
 そういえば岡ちゃんと喧嘩をしたことがあったなァ。喧嘩といっても殴り合いじゃないよ、口論。酒席のたわいない話題でムキになってね。もともと岡ちゃんとは相性がよくないんだ。それだけじゃなくてね、スナックの女を取りあったことがあるんだよ。だからね、ちょっとした意見の違いにも互いに意地をはってゆずらないから口論になってしまう。クダラナイことで大のオトナがムキになって言い張るから、周りは呆れていただろうな。ほんとバカだよ。そのスナックの女には二人とも相手にされず・・・笑い者だね」
 そんなに仲の悪かった男の所へどうして線香をあげにいったのだろう。半二はノブに問いただそうかと思ったが、よけいな気がして止した。もしかしたら、ノブと岡ちゃんは半二が思っている以上に深い仲だったのかもしれない。半二はよそ者だから、この辺の昔の人間模様は知らない。

もともとは東京から流れてきたらしいが、親の代からここで不動産屋を営むオヤジが降りてきて
「なんか・・・食うものないか?」
オヤジは二階で五十歳になる娘(いかず後家)と住んでいる。その娘が都内へ出かけて帰りが遅くなるらしい。そんなメールを受け取ってインスタントラーメンでも作ろうと思ったが、それもめんどうになって「ロリン」に降りてきた。
「サンドイッチかスパゲティー。うどんもありますよ、オイラの晩飯だけど・・・」半二。
「じゃ、それくれよ、うどん・・・二人分あるんだろう」
「半生の美味しい讃岐うどん」半二。
「俺も食いたいよ」ノブ。
「いいよ・・・じゃあ、茹でるのに10分かかるからさ、悪いけどスーパーまでひとっ走りしてくんない?天ぷら買ってきてよ。天ぷらうどんにするからさ」
ノブはビールの入ったグラスを手にしたままチュウチョしていた。駅前のスーパーはすぐそこだが、めんどうで席をはずしたくなかった。
「美味しい讃岐の天ぷらうどん、ご馳走するからさ・・・」
オヤジがノブに頼むと
「どんなのがいいの?」
ノブが立ちあがった。
「かき揚げと春菊。ごぼう天とちくわ、多めに買ってきて。残りはつまみで出すから」半二。
「俺にあれ買ってきて、紅しょうがの天ぷら」
オヤジがノブの背中に追加するとノブは振り向いてうなずいた。

エリが「ロリン」ではじめた「歌会」には看護師の春は仕事で参加できなかったが、オヤジが連れてきたスナックの女性とその仲間が来て十人。もちろん、ノブもいる。オヤジが若い女性と、ノブが四十過ぎの女性の相手をしている。ノブはその女性を知っていた。なんと数年前、岡ちゃんと取りあって二人ともふられた園だった。 そんなことがあったから、ノブはよーく覚えているがソノ(園)は、そんなこと、あったかしら・・・という感じだった。忘れたのか、とぼけているのか、嫌がっている風でもなくノブと楽しそうに話している。ノブも昔のことにわだかまりはなく嬉しそうにしている。
 オヤジは、それが面白くない。若い女性とソノの二人を両脇に抱えて歌う腹づもりでいたのに、横から闖入者ノブが入り、ソノになれなれしくしている。不愉快だ、というオヤジの顔色を見てソノはノブにかまわずオヤジに話しかけている。お水系らしく、その辺はそつがない。
 ソノは数年まえまで近くのカラオケスナックで働いていて人気者だった。小柄で(トランジスターグラマー)、美人というより愛嬌があり男を立てるのが上手だった。呑んで酔った男はついついその気になってしまう。ノブと岡ちゃんのような客は他に何人もいたはずだ。
 でも、ソノは客から憎まれることはなかった。なんたって愛嬌があって可愛いし、男の誘いをかわすのがうまかった。客の方も、だまされ被害を受けたわけではないから、その気になった自分がバカだった、ということになる。ちょっといい思いもしているから、ソノは憎めない。


(八)
エリはソノの歌を聴いて軽い嫉妬を覚えた。それだけではなく、好感も持った。
 ノブは「ロリン」で「歌会」をはじめたエリが気に入ったことをすっかり忘れ、ソノに惚れ直したようだ。歌と声には自信のあるオヤジも小うるさいことは一言も言わず
「うまいねェ〜」
と、ソノの歌をほめた。オヤジもソノのことは知っていたが、半二は初対面だった。
 エリは春に誘われてオヤジの町内会の「うた声」に参加していたが、そこの選曲に物足りず「ロリン」で「歌会」をはじめた。ソノは「歌会」に参加してから「ロリン」に来るようになった。夜のお勤めだから出勤前にコーヒーを飲んでいく。ほんの二十分ほど。
「ここ、禁煙なのよね・・・?」ソノ。
「外のテラスでお願いします・・・」半二。
ソノはタバコとライターを手にどうしようかな、という面持ちだった。一服吸いたいが、夕暮れ時の外の空気は冷たい。
「タバコ、やめたいのよね・・・」
ソノは独り言のように呟いて立ち上がり、中年にしては可愛らしい微笑みを投げかけて出ていった。店の入り口全面が、ドアーも何もかもガラスなのでカウンターの中の半二からも見える。陽が落ちた地下の中庭のテラスでコートの襟を立ててタバコを吹かしているソノ。日本人女性でタバコを吸っている姿が決まっているのを見かけることはまずないが・・・ソノは様になっていた。思案げにタバコの煙をくゆらせている横顔は絵になっている。もしかしたら、地上の入り口あたりから見下ろす角度で写せば映画の一カットになるかもしれない。

「ソノさん、歌、上手いですね・・・」
何か思うところがあって話しかけたわけではないし、お世辞でもなかった。テラスからもどってきたソノに挨拶のように投げかけていた。
「ありがとう・・・」
ソノは唇を横に伸ばして静かに笑い、どうってことないのよ、って感じでうなずいた。
「歌、習っているでしょう?」
これも反射的に言っただけで、半二はなにも考えていない。
「ええ・・・分かるの?」
こんどはマジメな顔で半二を見た。
「あれだけ歌えるのは素人ではないね・・・?」
「あらぁ〜おだてないでよ・・・でもうれしいわ」

半二のテキトーなほめ言葉にソノは謙遜しながらものってきた。
「月に二回、習いにいってるの。都内まで・・・」
「やっぱりねぇ・・・どおりで・・・上手いわけだ」
「あらァ〜わたしより上手な方、いっぱいいるわよ・・・」
「そうですか・・・どこまで通っているんですか?」
「高田馬場・・・先生はプロのジャズボーカリストでね、ご主人がピアニスト。そこは、ジャズのライブハウスで、昼間や休みの日に歌や楽器のレッスンをしているの。ジャズのライブハウスは儲からないからね・・・レッスン教室で稼いでるみたい」
「もう、長いんですか?」
「いえ・・・まだ習い始めて二年ぐらい。年末にそのライブハウスで生徒の発表会があって・・・緊張したわ。わたし・・・間違えてばかり、歌詞は忘れるし足は震えるし・・・そのときのみんなの歌を先生がCDにしてくれたから、しばらくは毎日聴いていたの。あまり下手だから今は聴いていないけど・・・。でも、今ではあの時より少しは上達したと思う。先生も褒めてくれるし仲間も良くなったと言ってくれる。だから、やる気が出ているのよ・・・」
「そのCD、一度聴いてみたいね」
「やめてよ・・・恥ずかしくて、とても他人に聴かせられたものじゃないのよ。・・・ここの歌会、第2日曜日だっけ?また、来ます」

ノブによるとソノは「クラブ園」のママになっていた。雇われママなのかオーナーママなのか・・・それは、はっきりしないが。「ロリン」でソノが歌った翌晩にはオヤジとふたりで行ったそうだ。
「駅のロータリーに面してパチンコ屋があるだろう、あの裏側にある飲み屋ばかりが入っているビルの4階だよ。二階のスナックには行ったことはあるんだけど、四階は初めてだよ。オヤジはあのビルの飲み屋にはほとんど顔を出したらしい。まぁ、商売(不動産)柄ね。四階は違う店だったらしいよ。だから「クラブ園」は最近できたんじゃない?」ノブ。
「ふたりとも好きだね。昨日の今日じゃない」半二。
「違うよ、一昨日の昨日だよ」
「で、どんな店なの?」
「十坪ちょっとの広さかな。インテリアや調度品は高級そうに見えたけど、新しくはなかったから居ぬきで入ったんだろう。きょう日、あの手のクラブは流行らないんだよ。バブルの頃はよかっただろうけど・・・」
「高そうだね・・・」半二。
「俺は、お通しに箸をつけてビール一本とウィスキー二杯で五千円。オヤジなんかママや女の子にご馳走していたから、一万ちょっと払っていたよ。あっ、そうそう、オヤジは一曲歌ったからね、あれが高くついたかも。カラオケじゃないんだよ。ピアノが置いてあってね、ここみたいなグランドじゃなくて箱みたいなやつ・・・」
「アップライト」半二。
「そうそう、それ。川越に何校か音大があるじゃない?そのどこか知らないけどさ、音大の女の子がBGMで弾いているのよ。止せばいいのにオヤジが歌伴奏を頼んで歌ったのよ」
「ふゥん〜・・・なんとなく雰囲気が分かってきたよ」半二。
「一見、クラブ風だけど、ホステスはいないんだよ。ありゃーみんな女子大生だな。だから素人、プロはママだけ」
「客は入っていたの?」半二。
「いや、俺たちだけ。まァ、早く行って7時には出たからその後のことは分からないけど・・・」


(九)
「オヤジは気に入ったようだから「クラブ園」に通うと思うよ。まったく好きだよね。あのオヤジが連れ込み宿から出てきたところ見た奴がいるんだ。大きな女と一緒だったと云うから春だと思うよ。八十近いジジイと中年女が何をするんだろうね。春の身体ってオヤジの倍ぐらいあるよね、大丈夫かな?」ノブ。
「大丈夫かなって?」半二。
「ほら、窒息死とか、いろいろあるじゃない・・・」
ノブは妄想を半二に話して聞かせた。

うなぎ屋から数軒先が旅館だ。ふたりはうなぎを食べてシケこむわけだ。人に見られたところをみるとまだ陽は高い。たぶん、昼飯を食べてちょっと休んでいこうってことだろう。それだけじゃおもしろくないから、春が自分の看護師の制服に着替えるんだ。オヤジは入院患者のパジャマ。
 体温を計らせていただきます、と言って春が横たわるオヤジの脇の下に人差し指を差し込む。点滴の落ちる速度を調整しているジェスチャー。なかなかの役者です。ご気分はいかがですか?と言ってオヤジの手を取る。あらぬ方に目をやり、親指のひらで脈を数える。
「早いだろう、お前に手を握られるだけでドキドキするんだ」
オヤジは春の手のひらを自分の胸にあてがったかと思うと、グイッと引き寄せる。年老いた患者のどこにこんな力が潜んでいるのか、おもわず春はオヤジの上に覆いかぶさってしまう。気付いたときには口を吸われ乳房をもまれていた。

いつの間にか、ふたりの身体が入れかわり、オヤジは医師の制服を着て横たわる春を見下ろしている・・・老人患者にしては素早すぎる身のこなし。忍法でもつかっているのか、単にノブの妄想なのか・・・。
 オヤジは拝見します、と言って春の看護師の制服を剥ぎ、診察時はこんなものは着けてはいけない、と乱暴にブラジャーをとり片方の乳房を揉み、それから春の反応を見ながら、おもむろにもうひとつの乳房を吸った。春は右手で髪の毛のないオヤジの頭を抱え左手で自分の乳房を揉むオヤジの手に自分の手を添えた。豊かな乳房は小さなオヤジの手のひらからはみだしている。

「ノブさん、ちょっと考えすぎじゃない?」
「うん、でもまぁ、連れ込み旅館からオヤジと春が出てきたんだから・・・なにもないことは、ないよね」ノブ。
「分からんよ、ふたりで歌を歌っていたかもしれないし・・・」
「歌うんだったら、カラオケボックスでいいじゃない。なにもわざわざ連れ込み旅館で歌わなくても・・・」

ノブは自分の妄想に憑かれたようにしゃべりつづけた。
「・・・それで医師のオヤジの手が下に這っていって下着の上から手のひらをあてがうわけ。手当て。病気を治す魔術師のように、なにやらわけの分からないおまじないをとなえながら・・・。するとそのうち春は吐息をもらし、両の手で己が乳房を揉んでいる。吐息が喘ぎにかわり、年老いたおいぼれ魔術師の手が下着のなかに潜りこむと熱帯の湿地はすでにぬかるんでいる。するりと魔術師の指が滑りこむと春は大きな唸り声をあげ、お尻をもちあげ下着を引きおろした。太もものところまで下げたパンティーを足の指で引きずり下ろした。が、片一方の足首に止まったそれは、じゃれる子猫のようにまとわりついている。

「もう、それぐらいでいいんじゃないの・・・」半二。
「いや、まだまだ、これからなんだよ・・・」ノブ。

噂をすれば何とやら・・・オヤジが2階から降りてきた。
「オヤジさん、くしゃみしなかった?」半二。
「なんだよ、いきなり・・・さては、よからぬ噂でも・・・」
「園へいった話を、ちょっと・・・」ノブ。
「ああ、そうか。・・・あそこは、昔はいいクラブだったんだけどな・・・バブルがはじけてから、もう何軒も入れ替わっているよ」
ノブは春のことも連れ込み宿のことも口にしなかった。
「この間の「うどん」ある・・・?」オヤジ。
「なくなったんですよ、このあいだ3人で食べたから・・・」半二。
「あれ、美味しかったよな。出汁が関西風で、色が薄いわりにはしっかりした味で麺も讃岐の半生だけあって、こちらの団子のような茹でた麺とは歯ごたえが違っていた。あれ、定番メニューで出せばいいじゃないか・・・スパゲティーよりよっぽど美味しいよ」
「お気に入りですね・・・天ぷらは俺が買いに走ったんですよ」ノブ。
「スパゲティーはどこでもやっていてありきたりだから、やってみようかな、讃岐うどん。関西のヒガシマル醤油がだしている、粉末のうどんスープなんだけど・・・」半二。
「インスタントでも美味しいよ、受けるよ」オヤジ。

「インスタント・・・ラーメンならあるけど」半二。
「なに味・・・?」
「醤油、塩、味噌、豚骨」
「じゃ・・・醤油で」
半二は玉ねぎを1個スライスして電子レンジで5分。袋入りの乾麺を熱湯で3分。別の鍋でインスタントラーメンの粉末スープを溶かし卵を流し込む。そのスープの入ったドンブリに茹でた麺を入れ、玉ねぎの半分をのせた。いろどりに万能ネギとオヤジの好きな紅しょうが。
「美味そうだな・・・いい匂い」ノブ。
「うん、けっこういける。玉ねぎの甘みが効いている・・・」
麺をすするオヤジの横顔を見つめるノブに向かって半二が言った。
「作らないよ・・・食べるのなら一緒に頼まないとね・・・めんどうでいけねェ」半二。
「そんなこと言わないで作ってやれよ。商売人がめんどくさがって、どうするんだよ」
オヤジはふうふういいながら食べる合い間に言った。
そんなこともあるかと思って半二は玉ねぎを半分残しておいた。
「高いよ、いい?オヤジさんは五百円、ノブは千円」半二。
「何それ、ボリすぎだよ」ノブ。
「園(クラブ)よりは安いだろう・・・」半二。
「さっき寄ってきたよ・・・園」オヤジ。
「えっ、また行ったの」ノブ。
「うん、ちょっとだけ。六時に行ったら俺ひとり、貸切だったよ。一曲だけ歌って切り上げてきた」
ノブも行きたかったようだが、ノブの財布では連日は通いきれない。


(十)
「ロリン」が開業してからもうすぐ一年になる。
一日の客が五、六人で売り上げが一万ぐらい。それでも、月に十万ぐらい残るから、この3月から月曜日も休むことにした。日月連休で祭日も休み。
 半二は年金が月に十万入ってくる(介護保険など天引きされるから実質八万ちょっと)。が、それだけでは生活できないから、オヤジのすすめもあって「ロリン」を始めたが、儲けるつもりはない。くたばったときに自分の亡がらを処分する費用さえ残せば、あとは生活費さえあればいいのだ(月二千円の安い生命保険には加入している)。

「週休二日で祭日も・・・ちょっと休みすぎじゃないの・・・」
さいきん常連になったノブがツッコミをいれる。
「いやァ、疲れちゃってね・・・ノブもオイラの歳(六十六)になれば分かるよ・・・」
ノブはこの三月で定年になる。が、そのまま嘱託で会社に残るそうだ。
「俺も、退職して少しはゆっくりしたかったんだけど・・・内のかあちゃんが辞めるな、とうるさいんだよ。仕事を辞めて一日中家にいるのがうっとしいらしいよ。昼飯も作らなくちゃならないし。それに働けば今までの半分でも給料は入ってくるわけだし・・・亭主元気で留守がいい、ってやつよ」
「ノブのところは新婚だから、そんなことはないでしょう・・・?」
「からかわないでくれよ。五十のババアとの再婚だよ」ノブ。
ノブは二年前、この辺のスナック勤めの中年女性を式も披露宴もせず入籍だけしたらしい。その女性の評判はあまり芳しいものではないし、ノブも話したがらないので半二は詮索しない。

 そのとき、エリのことが半二の頭をかすめた。エリは見計らってカウンターにはいってきてコーヒーを淹れてくれる(上手くなった)。めったにはないが、忙しいと洗い物をしてくれたりする。ノブなど口うるさい客がいるときは何を言われるか分からないから手伝わない。するとオヤジが
「エリちゃん、コーヒー淹れてよ。半二よりエリちゃんの方が上手いんだから・・・」
などと冗談半分に頼んだりする。
そんなふうにお客さんから催促されて手伝うぶんには変な噂をたてられなくていい。怪しまれないようにエリが他の客の目を意識しているのが半二には分かる。その辺の気遣いがうれしい。
 だが「歌会」のときだけは遠慮なく手伝い、準備、進行、片付けを取り仕切っている。エリの発案ではじめた「歌会」だけに怪しむ者はいない。それは誰もが認めている。二月にソノが加わって三月にはソノの仲間が参加するという。エリにはすでに三月の「歌会」の青写真ができていて充実感がこみ上げている。

「ロリン」の開店は五時からだが、六時ごろまでは客はまずこない。半二は四時に店に入り掃除をしてから焙煎をする。店内にいい匂いが立ちこめてくる。簡単なつまみの仕込みをしているとだいたい五時をまわっている。客が入ってくるまでの間、メールやSNSのチェックをする。ついでにネットでさりげなく店の宣伝をする。
 たまに四時ごろ、エリが入ってくることがある。べつにこれといった用事があるわけではない。近くに来たついでに立ち寄るようだ。
「こんどの歌会は何人集まるだろうか?」とか
「ソノさんの歌仲間は何人来るだろうか?」とか
エリは思いついたことを問いかけながら掃き掃除や雑巾がけをしてくれる。慣れていて半二より要領がいい。しかも、キレイ。もしかしたらエリはお店の仕事をいたことがあるのかも。
「半ちゃん、お店の顔はね、おトイレなのよ。いつもトイレをピカピカにすることね」
エリは開店まえに「ロリン」に寄ったときは必ずトイレ掃除をしてくれる。
 お礼にコーヒーを出す。
 奥のピアノの横のテーブルで一緒に飲む(カウンターで飲んでいると入り口から見えてしまうので)。営業まえでも客が降りてきたりするのでエリが居るときは五時Openの札をぶらさげて鍵をしておく(エリがいないときはそんなことはしない。5時まえでも来た客は入れる)。
「いつもトイレを掃除してくれて、ありがとう。コーヒーだけのお礼じゃたりないから・・・」
半二がふざけてヒョットコのように唇をつきだすと、エリも笑って唇をつきだし、人差し指で自分の唇に触れてから半二の唇にタッチした。


(十一 )
 エリが開店まえに帰り、五時になって雑巾がけした看板を表に出していると、じっと立ってこちらを見ている人がいた。顔を上げるとソノだった。
「いいかしら・・・」
営業笑いのソノだった。
半二の後について降り、ドアーを開けると・・・
「いい匂い(コーヒーの)・・・」
ソノは商売柄、初対面で男の気持ちをぐッと捕まえるのがうまい。それから笑顔でゆっくり開襟をひらかせる。
ソノは出勤まえに「ロリン」に寄るようになった。「歌会」に参加してから毎日ではないけれどコーヒーを飲んで一服していく。
「オヤジさん、行ったんだって?二日つづけて」半二。
「ええ、早い時間にきて一曲だけ歌っていく・・・」
「迷惑をかけなければ、いいんだけど。あのオヤジ、態度がデカイから・・・」半二。
「ゼンゼン大丈夫よ、いまのところはね。陽気で明るいから若い女の子にも好かれているわよ」
「助平ェ、だから気をつけた方がいいよ・・・」
「あら、そうなの?でも、お歳だから・・・そのわりにはいい声をしているわね。声量もあるし、ステキなバリトン。二日つづけてシナトラを歌ったのよ」
「へェー、オヤジのシナトラなんて聴いたことがないな・・・」
「けっこういいわよ。これから歌いこめば良くなると思う」
「ふゥ〜ん」
半二はオヤジがマイクをにぎって悦に入っている姿を想像した。オヤジは何を企んでいるのだろう。ソノを気に入っているのは間違いない。若い女の子をからかったり、へたな冗談を言って笑わすのが楽しいのだろう(そのうちスキをみて触ったりする)。それよりもなによりも、音大生のピアノ伴奏で歌うのが嬉しいのだろう。気持ちいいのだろう。音痴で歌わない半二にも、それは分かる。

「ここのピアノ、昼間あいているでしょう・・・?」
あごで奥のピアノを指してソノが訊ねた。
「昼も夜も・・・」半二。
「うちの音大生がここのピアノで練習させてもらえないかって、オヤジさんに聞いていたわよ」ソノ。
「えェ・・・そうなの?・・・まァ、オヤジのピアノだけど。エリさんからオヤジが買い取ってここに置いてあるわけ」
「半二さんさえよければ、オヤジさんはいいと言っていたわよ・・・うちは、アップライトだし、大学のピアノは予約制の順番待ちで都合のいい時間に十分に弾けないし・・・自宅のピアノで練習できる学生はいいけれど、地方から来ている学生は大変よ。ピアノの弾ける部屋を借りて生活するには資産家のお嬢さんでないと無理・・・」

 そこへノブが現れた。
ノブがこんな早い時間に来るのは、ソノに会えるのでは?という魂胆からだった。
「あらッ、ノブさん、先日はありがとうございました」ソノ。
「いえいえ、。オヤジさんに誘われてね・・・オヤジ、昨日も行ったんだって?」ノブ。
「ええ、今日も来るかも?・・・ノブさんも来れば?」
ソノが愛想よく誘うとノブは鼻の下をのばしている。ビールを呑みながら、まんざらでもなさそうにのばした鼻の下を人差し指の背でこすっている。行きたそうだが、行くとは返事しないでニタニタしている。
ソノはノブの助平心をくすぐって立ち上がり、半二に向かって片目をつぶった。出て行くソノを見送ったノブは
「いい女になったなァ〜・・・もともといい女だったけど・・・」
「ノブと亡くなった岡ちゃんとで奪い合ったんだって?」半二。
「うふふ、そんな大そうな話じゃないんだよ。数年まえ、ソノはこの近くのスナック「スマイル」で働いていてね、人気者だったんだ。「スマイル」の客のほとんどは、多かれ少なかれソノが目当てだったと思うよ、他に何人も女の子がいたけどね・・・。だから、ソノを口説いた男はたくさんいて、俺たちはその中の二人にすぎないんだよ。みんな、相手にされなかったみたいだけど・・・その頃、三・一一があってさ、彼女の身内のだれかが亡くなったらしくて「スマイル」を辞めたんだよ。あれから数年見かけないと思ったら「クラブ園」のママになっていた・・・」
ノブは遠くを見る目つきでその頃を想い出しているようだ。

 ノブの話から連想して、半二にもよみがえる映像があった。
五年まえの三・一一のときは六十一歳だった。定年まえにリストラされ、友人の飲食店を手伝っていた。アルバイトだからたいした収入にはならないが、ブラブラしているよりはいいだろう、ということで友人の休みの日や不在の時間帯を主に任されていた。
 その日の三時ごろだったと思う。ビルの三階にあった店は今までに経験したこともない大きな揺れで立っていることもできず、洗い場のシンクのふちを両手で掴んでいた。店内にはお客さんが十人ちかくいた。本来ならお客さんを避難誘導しなければならないのだが、何もできず、ただガスの元栓をひねるのが精一杯だった。ながい揺れがおさまると、次々とお客さんが逃げ出すように出て行ったが、お年寄りほど慌てていた。お年寄りほど命が惜しいようにみえた。そのときは
「大きな地震だったね・・・」
と口々に言い合うだけで津波のことは分からなかった。その夜、電車が不通になり2時間歩いて帰った。

 家のテレビで見た津波の大きさに唖然とした。
車が流され、大きな船が陸に打ち上げられていた。高い壁のような波が次々と打ち寄せてきて町を飲み込んでいる情景に身震いがした。
 翌朝のテレビで幼い女の子が小さい両手をメガホンにして海に向かって
「お母さ〜ん」
と何度も何度も呼んでいた。


(十二)
 めずらしく岡ちゃんの友達の小島さんが降りてきた。小島さんはお酒を呑めない。コーヒーは好きだがジャズには興味がない。だから、まず一人で「ロリン」に来ることはない。今日はノブに会いに来たようだ。
 小島さんはひとしきり岡ちゃんの葬儀の模様をノブに(間接的に半二に)話してきかせた。十人たらずの身内だけで通夜を済ませ、翌朝、火葬場に向かった。お坊さんはいない。
小島さんの顔見知りは別れた岡ちゃんの奥さんとひとり息子だけで、その場でたった1人の他人だったから居心地がわるかったらしい。
 告別式はしない。戒名も墓もなし。身内だけの密葬だけで済ませるよう遺言状に記されていた、と息子が言った。すでに3年も前に樹木葬の共同墓地を購入していたそうだから、岡ちゃんはあるていど予感するものがあったんではないか、と小島さん。
「岡ちゃんは病院嫌いでねェ、一度も病院に行ったことがないんだって。むかし健康診断で病院に行ったけど混んでいたので待ちきれず、帰ってきたと言っていた・・・」
「胃がんの末期で余命六ヶ月になるまで痛くなかったのかなァ・・・」ノブ。
「二十年も前から痛かったって。でも、本人は胃潰瘍だと思っていたらしいよ。だから、市販の胃薬でごまかしていた。ここ数年は胃潰瘍よりもガンを疑っていたけど・・・けっきょく病院には行かず共同墓地を購入して、遺言状を書いていたんだね」
「じゃァ、覚悟をしていたということか・・・」ノブ。
「たぶんそうだと思う。奥さんに逃げられたのが、こたえたんだね」

「今じゃ、奥さんがもどってきて独身の息子と2人でくらしている・・・」小島。
「あの奥さん、男をつくって出て行ったんじゃないの・・・?」ノブ。
「うん・・・岡ちゃんも遊んでいたからね・・・」
小島さんは茶封筒をノブに渡して言った
「おめでとう」
ノブは封筒から札を取り出し数えた。小島さんも半二も札を見ていた。十に万あった。ノブがうなずくと小島さんはたち立ちあがり
「じゃ・・・」
と、言った。もう一件、支払いか受け取りかがあるようだった。あまり時間をかけないでそつなく切り上げるところは作業仕事のようだ。

小島さんは定年後、仕事もしないでこの十年、ゴルフ三昧の生活をしている。競馬が上手いらしい。半二はいまでは競馬を止めているが、いぜん小島さんに何度か頼んだことがある。彼は頼まれた馬券はパソコンで購入している、と言っていたが・・・呑んでいるかもしれない。年金だけではゴルフ三昧とはいかないだろう。まぁ、馬券を呑んでいるかどうかは、半二にはどうでもいいことだ。当たったときに配当さえもらえればいいのだから。

「ノブ・・・うなぎ、ご馳走してよ」
半二は茶封筒の入ったノブの内ポケットを指差した。
「うなぎ、か。いいなぁ」ノブ。
「美味しい店があるんだよ。オヤジさんと入った店で」
「ああァ・・・あの店ね。俺も行ってみたい・・・」
ニヤニヤしながらノブは立ちあがり
「これから行こうよ・・・」
と、誘う。
半二が「ロリン」を閉めて同行できないのを見越して
「おごるからさァ・・・」
ノブは札の入った内ポケットをジャケットの上からポンポンと叩いた。
おそらく、ついさっき帰ったソノを追いかけて「クラブ園」に行くに違いない。「園」ではないにしても、どこかへ呑みにいくだろう。女性のいる店。フトコロにはたんまりとある。一軒では済まないだろう。

ノブが帰ってから、客は誰もこなかった。
小さな両手でメガホンを作って、海の沖に向かって
「お母ァさんーん」
と、何度も呼ぶ、3歳ぐらいの女の子がよみがえってくる。
「そうか・・・きょうは三・一一だったのか・・・」
半二はいつもより早く店を閉めた。


(十三)
 いつものように買い物をするまえに自転車に乗って銭湯に行った。「ロリン」の隣の十坪ほどの倉庫を改装して半二の部屋にしているので、風呂がないのが不便。冬場は一日おきに銭湯に行き、ついでに仕入れをして帰る。マグロのブツとアボガドを買った。マグロはひと口サイズに切られパックされていたが、できるだけ筋のない物にした。アボガドは10個ほど握ってみて食べごろの2個を選んだ。店にレタス、トマト、きゅうり、玉ねぎがあるので、マグロとアボガドでお通しのサラダかマリネを作ろう。

 階段を降り「ロリン」のドアーを開けようとしゃがんで床の鍵を回したとき
「ちょっといいですか・・・」
と、二人連れの男が声をかけてきた。
半二は、しゃがんだまま振り返り、見あげる姿勢になった。若くて大きい方の男がサッと黒い手帳を出して、すぐに胸の内ポケットにしまった。金色の菊の印があったような、なかったような、はっきりとは見えなかった。
 店の中に入ると背の低い年配の刑事が
「昨晩、タナカノブオさん、来ましたね」
と、言いながら店の中を見まわした。
半二が、ええ、と返事をすると
「何時に来て、何時に帰ったの?」
と、横柄な口の利き方、態度だった。

 若い方の刑事は大柄で柔道でもやっていそうな体躯だから、用心棒のようだった。半二は昨晩の出来事を順番に思い出していた。五時に開店の看板を出すと待っていたかのようにソノさんが入ってきて、しばらくするとノブが降りてきた。ノブはソノが出勤まえに「ロリン」に寄ることを知っていて会いたかったようだ。十分ほど雑談をしてソノが出て行くと小島さんが入ってきて茶封筒をノブに渡した。
「だいたい、五時半ごろ来て、六時ごろ帰りましたね」
半二は不愉快な気分をできるだけ表情に出さないように淡々と話した。
 年配の刑事は小島さんには興味を示さず、ソノのことを訊ねたので「クラブ園」の場所を教えた。若い刑事は軽く会釈したが、年配の方は訊くだけきくと礼も言わずクルッと背を向けた。半二は表に出て、土俵にあがった相撲取りのように塩を撒いた。それから、手についた塩を舐めた。日ごろはしないが、入り口にひとにぎり塩を盛った。

その夜、オヤジが入ってくるなり
「ノブが死んだよ・・・」
と言って半二の顔を見つめた。
「信じられん・・・」
そう言いたそうにオヤジは首を左右に振った。
「昨夜、ラブホで死んだらしい。心臓麻痺だって。女がいたから事件性があるって。だから検視したらしい」
オヤジはいったいどこからそんな情報を得てくるのだろう。

「さっき、刑事がきたよ」
小島さんも入ってくるなりそう言ってため息をついた。
「ここでノブに会ったことを知っていたよ。あせったよ、馬券のことかと思って・・・」
「あせることは、ねェじゃねェか・・・」オヤジ。
「まァね・・・ノブのギャンブルじゃなく、オンナのことを知りたがっていた・・・で、何でノブとここで会っていたのだ、と訊くわけよ」
「当たり馬券の配当を渡した・・・」半二。
「やめてくれよ・・・半ちゃん。それだけは、勘弁してよ。ねェ・・・変に勘ぐられても困るんだ。ね、このさい冗談はなしにして」小島。
「大丈夫だよ。奴等は殺人の担当だ。チンケなノミ行為の取り締まりとは違うから・・・」オヤジ。
その夜はオヤジも小島さんも早く引きあげた。

半二は昨夜につづいて「ロリン」を早く閉めた。
臨時休業をしないこと、どんなに客が来なくても、居眠りしながらでもラストオーダーの11時半までは営業することにこだわっていたのに・・・気が滅入って商売をする気になれない。
 地上の看板のコンセントを抜き屋内に入れ、店の明かりを消し鍵をかけ、クローズの札をぶら下げた。ウィスキーと冷えた炭酸と氷を部屋に運んだ。マル・ウォルドロンのCDをボリュームを落として流した。扉を開け放しておくと店のスピーカーから部屋の中に音楽が忍びこんでくる。人差し指でウィスキーソーダーの氷をクルッと回した。自分の指を舐めた。半二は唇に当てたエリの人差し指を想いだしていた。

ウィスキーのせいだろうか?エリのせいだろうか?
五十年前に見た映画を思い出していた。高校の帰り、大阪梅田でイタリア映画を見た。内容は覚えていない。中年の男女四、五人が狭い小屋でいちゃつきながら駄弁っている。ただそれだけなのにワイセツ感が濃密にただよっていた。タイトルは「赤い砂漠」(パゾリーニ)だったような気がするが、記憶ちがいかもしれない。二時間ちかい映画だったはずなのにその一カットしか覚えていないのはどうしたことだろう。
 オトナになってから偶然テレビの再放送で見かけて、何故こんな場面で欲情したのだろう?と思うことがある。それは・・・思春期だったから何でもない映像に過剰に反応したのだろう。言いかえれば、もっとも鋭敏に監督の演出に反応したのかもしれない。半二は年老いて高校生のころのドキドキする感覚を忘れている。エリの人差し指にはドキッとしたけれど。

 高校に通う途中、梅田で乗り換えるので学校に行かず映画館に入ることもあった。学校の帰りに入ることもあった。当時(1965年頃)は昼間でもほとんどの座席が得体の知れない男達でうまっていた(女性だけの客はまずいなかった)。
 ウィスキーのせいだろうか?ノブの死のせいだろうか?
「かまきり」という映画も覚えている。その映画を見たわけではないが、看板のいかがわしいペンキ絵が脳裏に印刷されている。ボクサーのように両腕を前に突き出したかまきりと半裸の襦袢姿の女優が目に焼きついている。高校生の半二には、それがエロスだった。
 雄かまきりは交尾後、雌に食べられる、と聞いたことがある。ノブも食われたのだろうか。半二は酔った脳裏に雌に頭から丸飲みされる雄かまきりを思い浮かべた。それは、男と女の象徴だった。

「昨夜、閉まっていたわね・・・」
エリが「ロリン」に入ってくるなり、そう言って半二の顔色をうかがった。
「九時ごろ、閉めちゃった」
「あらっ、九時ごろ来たのよ・・・」
「開店まえに刑事が来て訊いていったんだよ、ノブのこと。態度がデカくて嫌な感じの奴等だった。それからオヤジがきて、小島さんがきて三人でノブのことを話していたんだけど・・・彼等が帰った後、誰もこなくて気が滅入ってきてね・・・」
「半ちゃんんが閉めた後に来たわけね・・・メールを入れたんだけど・・・」
「ゴメン・・・朝になって気がついた。電話してくれればよかったのに・・・隣の部屋で呑んでいたから、ドアーを叩いてくれても・・・」
「今日の歌会のまえにカラオケボックスで食事をしよう、とオヤジさんから誘いがあったけど・・・もちろん春も一緒に。でも、断ってこっちに来たの。あの二人、なんだかアヤシイのよね」
「あの二人がラブホから出てくるところをノブの知りあいが見たらしいよ・・・」
「そう・・・もしかしたら、ノブさんが死んだのはそのホテルじゃない?」
「そうかも・・・」

三月の「歌会」。
「ノブさん、死んじゃったんだって・・・昨日、刑事さんが来てね、いろいろ訊かれたのよ。その日、ノブさん、うちに来たのよ。早い時間だったから他にお客さんがいなかったので一曲、歌っていったのよ。マイ・ウェイ、この娘(こ)の伴奏で。きょう、ここでマイ・ウェイを歌うつもりだったらしいの・・・」
「あの野朗、俺の持ち歌を奪うつもりだったな・・・」
オヤジが冗談っぽく云ってみんなを笑わせたところでエリが「歌会」の準備を始めた。春もエリといっしょになってやりだすと女子大生の2人も手伝った(ソノの合図があったようだ)。準備といってもテーブルと椅子を並びかえるだけだが・・・音響(マイク、アンプ、スピーカー)は学生がやってくれた。
 リハーサルの間、オヤジがソノに言った。
「アイツのスマホを調べれば、何でも分かるんだよ・・・警察がやれば消去したものでも再生できる。だから、奴の足取りも相手のオンナもわかっているんだ。どうやらラブホのそばのうなぎ屋によったらしい。事件じゃないね、色事だよ。心臓麻痺だよ。一応、解剖するらしいけど・・・」
「・・・詳しいわね、オヤジさん。・・・でもね、ノブさんの再婚相手、わたし知っているのよ。いっしょに仕事をしたことがあるの・・・ちょっとだけ。そのときも再婚相手(ノブは三人目)が心臓の動脈剥離で亡くなっているのよ・・・」

半二はノブのことを何も知らないことを知った。再婚したのは知っていたが、相手の女性の素性も詳しくは知らない。それに、ノブが三人目の結婚相手で、しかも二人目の相手も心臓麻痺とは・・・。最初の亭主とは離婚なのか、死別なのか?最初の亭主も心臓とか脳の血管の病気だったら・・・どうなるんだろう?
「ホテルにいたオンナはノブの女房とは関係ないんだろう?あるの?」
オヤジは自分に問いかけるようにつぶやいて、両手を胸のまえで開いてみせた。
そんなことは、ここにいる者には分からない。これから、警察が調べるだろう。

ノブの噂話を打ち切るかのようにエリが手をたたいて集合をかけた。「ロリン」での「歌会」の進行役はエリが勤めている。二月から始まり、月一回で今日は二回目。歌い手は六人集まり、音大生の二人はソノに声をかけられお手伝いを兼ねて下見にきている。他の一人は歌う人の連れ。
 歌うのはオヤジ、春、エリ、ソノ、それから二人の計六人だから一人二曲は歌えるだろう。エリが歌う順番を決めている。オヤジもみんなもおとなしくエリの進行にしたがっている。

三月の第二日曜日、ティータイムの「歌会」。
梅と入れ替わるように桜の芽が開きはじめた。

半二は入院した病院でたまたまオヤジと相部屋になって知遇を得た。
 オヤジの不動産屋の地下が空き店舗になっているから、そこで商売をするようオヤジにすすめられていた。はじめ、半二は乗り気ではなかった。胃がんの手術をして体力もなく、気力も萎えがちだった。病気で失業し(そのまえに離婚している)病院の支払いを済ませると保険がおりるまで手元不如意だった。とても店など出すカネはない。
 その物件は地上げにあっていて、いつ立ち退くかも分からないから保証金はなし、家賃もタダ同然でいい、とオヤジが言う。その時はとうぜん立ち退き料は出ないが、掃除をすればそのまま居ぬきで商売ができる、とも云う。それにしても、あまりにもうますぎる話だ。(あとで分かったことだが、地上げにあって立ち退く場合、地下が空き家より店が入っている方が有利らしい)。
 半二は断るつもりでいたが、うなぎをご馳走してもらったことだし、オヤジの親切にたいして店を見ないのは失礼な気がして、とりあえずオヤジについて地下に降りていった。陽がさす五坪ほどの中庭があり、築五十年の地下室は陰気ながら風情があった。
 半二が二十歳のころ働いていたジャズ喫茶にどこか似ていて悪くない気がした。オヤジがご馳走してくれたうなぎ屋のような商売のやりかたなら、できないこともないな、と思った。

年金だけでは生活できない。だから生活費のたしに楽なアルバイトでもして余生をすごそうと考えていたが、胃がんになって予定が狂った。体力がなくなって人様に使っていただくほどの労力がない。それに、気力が湧いてこない。いつ、再発するかもしれないし、転移の可能性もある。まァ、二、三年は生きているだろうが、その先のことは分からない。

手術台で
「これから全身麻酔をかけます・・・」
と宣言されたとき、最後通牒のように聞こえて
「このまま、眠ったまま終りになることもあるのだな・・・」
という思いが走り
「まァ、それはそれでいいか・・・」
半二は思い残すことは何もなかった。
翌朝、目が覚めて思ったのは
「生きていたんだ・・・」
というだけで、嬉しくもなかった。
前夜の麻酔をかけられるまえの心境がよみがえってきて、もう1度
「生きていたんだ・・・」
なんだか、拾い物をしたような気分だった。

 病室の碁盤の目の壁紙の縦と横の線が交わるところからニョキニョキと風船のようなものが湧き出てくる。それは小動物のように出たり隠れたりする。よく見るとトランプのジャック、クイーン、キングだ。奴らはモグラたたきのゲームのように半二をからかってあちこちで出入りしている。
「小槌でも手にしていれば叩いてやるのだが・・・」
と、思いながらも麻酔のかかった半二は身動きひとつできない。
 半二がうとうととしてから目を開けると、トランプのジャック、クイーン、キング達がその物々しい衣装とともに姿を消していた。あとで気づいたのだが、碁盤の目の壁と思っていたのは実は天井だった。半二は仰向けに寝て天井を見ていたのに、立って壁を見ていると錯覚をしていた。
 その後、きゅうに寒気がした。氷の部屋に放りこまれたようだ。ヤク中患者が真夏なのに布団にくるまって震えているように半二も身体を固くしていた。
「フトン、持ってこい」
布団の中で震える唇で怒鳴ったが誰にも聞こえていないようだった。隣のベッドで患者と看護師がいちゃついているような気がした。
 いきなり腹部に痛みが走った。手術で腹を開いた傷跡が疼いた。麻酔がきれたのだ。ジャック、クイーン、キング達が消え、寒気が消え、頭が冴えてきた。
「それにしても痛すぎるじゃねェか・・・」
半二は左手を傷跡にあてがい右手を枕元の頭上に伸ばした。ブザーを押して看護室にモルヒネを頼もうと思った。
「この痛みが生きているしるしなんだな」
そう思うと、半二は手にしたブザーを押すのをためらった。もうしばらく我慢することにした。うなった。

 岡ちゃんが死んでノブが死んだ。
 半二の身の回りで死神がうろついているようだ。はっきりとは見えないのだが、じわじわとそいつが忍び寄っている。還暦を過ぎてから、年々その気配が色濃くなっている。
 それは海岸から霧が立ち上っているような感じで、思いのほか速い。みるみる建物の輪郭がぼやけ人の表情がなくなり、車のヘッドライトだけが昔のガス灯のようにともっている。
 岩場でひとり遊んでいて、いつの間にか潮が満ちて孤立してしまった子供のころの心細さににている。だが、半二には残された時間がないから子供のように泣いたり叫んだりすることもない。

 半二はエリをまねて口ずさんだ、Speak Low・・・。

                つづく

                                 
                「記憶と幻想のコラージュ」
                その一 「Speak Low」 終わり
                       
          
                その二「Killing Me Softly With His Song」
                その三「Love For Sale」

                                 


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