記憶と幻想のコラージュ その1 

「オール オブ ミー」


  (1)
「誰もいないじゃない。貸し切りかよ」
 入ってくるなりノブが突っこむ。
 5時開店の「ロリン」だが、7時になっても客が来ない。
 慣れている。
 半二自身が空っぽだった。

 たりない食材を買って店に入る。掃き掃除、拭き掃除。それほど客が来るわけでもないから、たいした仕込みもない。で、コーヒー豆の焙煎をしている。
 オヤジの龍三が降りてきてノブの横に座った。
「コーヒー、くれよ。その前になにか食べるものない?」
「スパゲティーかチーズトースト。サンドイッチもできますが」
「サンドは何なの?」
「卵とハム。スモークサーモンもありますけどね」
「じゃ、スモークサーモンにしてよ。コーヒーは後でいいから」
 半二はすばやく3斤パンをスライスしてバターとマヨネーズ、ほんの少しの洋芥子をぬった。レタスをしいてサラダやつまみに使うスモークサーモンと軽く塩もみしたオニオンスライスを挟んだ。パンの耳を取り、Xに切り、パセリを添えてだした。
「これ、サービス」
 半二はインスタントのオニオンスープに先ほどの玉ねぎと粉チーズをパラパラッと振りかけた。

「ひとつ取っていいよ」
 オヤジがノブにすすめると
「いただきます」
 ノブは遠慮なく手をのばし、ビールを追加した。


 去年の今ごろ、半二が胃がんで入院すると同室にオヤジがいた。同病で、話すようになった。大部屋の半二たち6人は胃がん、大腸がん、胆石などの手術を待つ患者。みんな困惑と不安で押し黙っているのだが、ひとり大きな声を出して威勢がいいのがオヤジだった。
「ここのコーヒー、だんだんうまくなってきたなァ。やっぱり自家焙煎だと香りがいいよ」。
 オヤジは飲むまえにカップを鼻先に近づけた。
 半年まえから生豆を仕入れて、みようみまねで焙煎をはじめた。

 このところ、小型の中華鍋で焙煎している。ずっと左手で鍋を振っていると手首が疲れるので右手にお玉をもって豆を混ぜている。スターバックスなどのカフェや本格的なイタリアンが増えたせいでエスプレッソやカプチーノが好まれるようになった。そのせいで、一般的に豆の煎り加減が深くなっている。が、半二は昔はやった煎りを好んでいる。
 半二は20歳のころ、新宿のジャズ喫茶で働いた。そこでは仕入れた豆をコーヒーミルで挽いて100gずつネルドリップで淹れていた。そのときの味が忘れがたく、つい昔の味を求めてしまう。いま流行りの深入りではなく豆もそれほど細かく挽いていなかった。



(2)
 退院してから、ぼんやりしていた。頭も体も空っぽだった。たよりなく虚しかった。これからどんな風に生きていけばいいのか、見当がつかない。
 食欲もなく出歩くとフラフラするので部屋に閉じこもっていた。胃が半分なくなったし、太ももの筋肉もそれくらいなくなったようだ。なくなった、といえばカネがなくなった。離婚して家を追い出され、胃がんの手術をしたら、なんど貯金通帳を見直しても残高が心もとない。入院手術の保険がおりるまでもつかどうか、頭の中で引き算ばかりしていた。

 年金を引き出すために駅前のキャッシュコーナーまで行ったとき
「退院したら俺の会社に来いよ、出所(快気)祝いをしてやるぜ」
 半二よりさきに退院したオヤジの申し出を思い出し、駅のロータリーから1本入ったところにある不動産屋をのぞいた。2階からオヤジが下りてきた。
 この辺を歩くのは久しぶりだった。Aホテルが建っているのは知っていたが、いつのまにかホテルの周りにホテルなみのマンションが何棟も建っていた。オヤジの不動産屋と隣の焼肉屋の周りは駐車場になっている。その2軒が立ち退けば広い更地ができるわけだから、いずれ大きな建物ができるだろう。

「メシ、食ったのかい」
 オヤジが挨拶もそこそこに問いかけながら歩きだした。
「まだなんです」
 病院のパジャマ姿とはちがってグリーンのチェックのジャケットに黒っぽいスラックス。オヤジが腕時計(スイス製のようだが、半二には本物かどうかわからない)に目をやると長短の針が1のあたりで重なるようにしていた。半二は食欲もなく朝から何も口にしていなかった(といってもベッドを離れたのはお昼ちかかったが)。年金を引き出したら何か食べようとは思っていたが、べつにこれといって食べ物が浮かんでいたわけではなかった。
「なに食べる?出所祝いだ、ご馳走するよ」
 オヤジは小柄だが、あい変らず声がデカイ。
 すれちがう通行人が振りかえって2人を見る。派手な身なりのオヤジと綿パンにセーター、その上に剥げた革ジャンのみすぼらしい半二。
「うなぎ」
 半二はマフラーの中でボソッともらした。
「なにィ。うなぎ……そうか、そうきたか」
 オヤジは笑いながら何度もうなずいた。
 携帯でうなぎ屋に予約をしながら駅のタクシーのりばに向かった。

「看護師の春さん、覚えているだろう。先日あの子と食事をしてカラオケに行ったよ」
 春は半二より背が高く、バスケットかバレーボールの選手のように大柄だった。声も大きく九州訛りがあった。たしか小学生の子供がいる元気な女性だった。あまりにも特徴がはっきりしているので覚えるつもりがなくても覚えてしまう。
「この話は内緒にしてくれよな、病院に知れると俺より春さんが叱られるから」
 タクシーの後ろ座席でオヤジは内緒と云いながら嬉しそうに話している。もちろん運転手にはまる聞こえだが意に介していないようだ。

 タクシーが15分も走ると住宅地を抜け畑のなかの古民家についた。広い駐車場(舗装されていない空き地)のわりには店の看板はなく、知らない人が前を通りぬけても何の店か分からないだろう。店であることにも気づかないに違いない。駅からも遠く、歩いては来られないから不便なところだ。オヤジが電話をしていたのはこの店だった。
「これから2人で行くから、いつものやつを頼む。肝の串焼きもなァ」

「春さんにはお世話になったからね、お礼をしたかったんだよ。もちろん、他の看護師さんにも声をかけたよ。ベッピンさんのYさんとか。そのYさんに断られてね。患者さんや元患者さんとのおつき合いは禁止なのです、と。まァ、そうだろうね」
 Yはその病院のナンバーワンだったから半二にはすぐに分かった。近づきがたいほどの美人だったので半二は近づけなかったが、オヤジは用もないのに遠慮なく話しかけていた。半二は美人に脈をとられ体温を計られるだけで嬉しかった。入院をするといいこともあるのを知った。

「この店は注文を受けてから捌くから時間がかかってしょうがないんだ。それで前もって電話を入れておいたわけ。そうしないと小1時間待たされる。だから常連さんはみんな、そうしているよ。なに呑む?」
 半二はビールと言いかけて咄嗟に
「お酒」
「じゃァ、俺も酒にするか」

 古民家の一部をそのまま店にしているようで、料理屋の造りではなかった。中年の夫婦で営んでいるようだ。客席は大きな部屋をつい立で区切っているだけ。だから4、5組の客しか取れない。訳ありで頼めば個室もあるようだが、宴会は受けない。商売をやる気があるのか、ないのか。
 徳利とお猪口がはいった竹のかごを置いていった。奥さんはほっそりとした、少しやつれた感じだった。夢二の絵のモデルに似ていた。
 オヤジがひと言ふた言、話しかけても口元をゆるめて曖昧にうなずくだけで、これといった返事はしなかった。常連のはずのオヤジにもお愛想を言わなかった。お高くとまっているのではなく、それが地のようだ。
 お酒を口に含むとなんとも言えない上品な甘さが口の中にひろがった。美味しい。日本酒を呑んで美味しいなんて感じるのは久方ぶりだ。朝飯抜きのすきっ腹だった。お猪口1杯のお酒が五臓六腑にじわじわと染みわたるのが分かった。ゆっくりと脳細胞が麻痺する。空っぽの半二に酔いが心地よかった。

「うん、うんうん」
 お酒なのか、うなぎの肝なのか、オヤジはうなずいている。自分のイメージしていたものと口の中に入れたものがほぼ一致しているのを確認して納得しているようだ。
「旨いだろう」

「退院して、やっと食べられるようになったよ。でも半分、人の半分しか食えねェ。だから、うな重のご飯は半分にしてもらったよ」
 オヤジはほとんどご飯を食べず、うなぎを肴に呑んでいる。
「半ちゃんのご飯も少なめにしてあるけど、食えなかったら残していいよ。無理することはないよ」
 半二は肝吸いで口中のうなぎのタレの甘みをながし、お酒を口に含んだ。入院してから胃がんの術後まで点滴だけの絶食だったが、何かを食べたいという気はこれっぽっちもおきなかった。術後の3日目ぐらいに重湯の上澄みだけが出た。翌日、お粥を箸でかき回すと、その上澄みにお米が数えられるほど泳いでいた。退院の2日まえに汁気たっぷりのお粥を食べたあと、不意にうなぎが食べたくなった。

「ここのうなぎは裏の荒川で捕れたやつ。それから、伊佐沼。地元の天然ってやつよ。だから、ちょっと泥臭いだろう。それにやせて脂ののりがいまいちなんだよな。でも高いんだよ、こっちの方が」
 言われてみれば、たしかに泥臭い気がした。中国や台湾産の養殖うなぎほど脂っこくはなく、肉厚でもなかった。
「ここの主人はよゥ、無口でなにもしゃべらないんだよ。うなぎのことも世間話も。ただ、うなぎを捌いて焼くだけ。商売っ気がないんだから……」
「なんで、あんないい女(奥さん)がついているんだろう」
 半二は口には出さず、奥さんの仄かに白いうなじを想いおこした。

 1合のお酒で十分だった。
 大資本のチェーン店や立派な店構えの料理屋よりも、農家と見間違えるような侘しいたたずまいのこの店を半二は気に入った。でも自分の財布では来られないだろう。オヤジは1万ほどの領収書を手にしていた。
不動産屋の前でタクシーを降りると
「ちょっと下の店を見ていきなよ」
 入院中、話はオヤジから何度も聞かされていた。


「川越の駅前で不動産屋をやっているんだ。もう、息子に任せているがね」
 大部屋で暇をもてあましているが、患者同士はたいして話はしない。あいさつ程度だ。これからの手術やその結果のことを考えていると隣のベッドで横たわっている他人に興味がわかない。みんな痛みや不自由に耐え、自分のことで精一杯だ。
 ところがオヤジは誰かれなくみんなに声をかけている。半二のベッドの横に椅子を持ってきて雑談する。
「俺の会社(不動産屋)の地下が空いているんだ。どうだ、やらないか」
 やるにもなにも、これから半二は胃がんの手術。上手くいくかどうかも分からない。成功したところで、1ヶ月はなにもできないだろう。カネもない。
 半二はこれから先のことは考えられない。生計をいくら考えても手術がうまくいかず死んでしまえばそれまでだ。だから何も考えられず、新聞も読む気にならず、ボンヤリしていた。テレビが虚しく空騒ぎをしていた。
「地下はイタリアンだったんだけどさ、逃げられちゃってさ、そのまま空いているんだ。うちは保証金を預かっているからたいして損はしていないが、仕入れ業者が泣いていたよ」

 ほとんど忘れていたが、オヤジに誘われてうなぎ屋の帰りに地下の店を覗いてみた。不動産屋の横の階段を下りると10坪ほどの中庭があり、庭に面した入り口の壁が全面ガラスになっていた。ドアーも1枚の分厚いガラス。そのせいで地下にしては明るい。
 オヤジの息子が2つの鍵を持ってきて開けてくれた。淀んだ空気がカビ臭かった。息子が明かりをつけると埃っぽい古い、かなり昔の喫茶店が出現した。
「50年前だよ、50年」
 ここでオヤジ夫婦が喫茶店をやっていた。1階でオヤジの親父が不動産屋をやっていた。2階は住居。

 中に入ると左側がカウンターで、奥が客席になっている。突き当りの天井のあたりが明り取りの窓になっていた。ざっと見て30坪ぐらいはありそうだ。掃除をすればそのまま営業ができる、とオヤジはいうが、そもそも商売をする発想が半二にはなかった。年金では足りない生活費をどのように稼ぐか、そんなことしか考えていなかった。



(3)
「俺と女房で喫茶店をやってたんだ。50年前、ここで。景気がよかったから10人もの人手を使って店は女房に任せて、俺は呑み歩いていたいたよ。そのうち不動産屋の方が忙しくなってさ、俺は親父の鞄持ちよ。不動産のカネの動きを見ていたら喫茶店なんか馬鹿らしくてやってられないよ。それで女房も不動産屋を手伝うようになり、親戚の夫婦に店を任したんだが、10年ももたないでつぶれたよ。バブルもはじけちゃったしね。その後、貸した若夫婦がイタリアンレストランをやっていたが、やはり10年もたなかったなァ。店をそのままにして逃げちゃった。ある日、突然いなくなっちゃうんだからね、恐れいっちゃうよ。まァ、不動産をやっているから、慣れているといえば、なれているがね」
 嘘かまことか、オヤジは面白可笑しくにしゃべっている。
「そこへ、半ちゃんが入ったんだ。居抜きで」
 ノブがからかうように鼻でふふん、と笑った。
「オイラも10年もたないよ」
 反射的に半二も言い返していた。

「もつ訳ないだろう。今、ここは地上げにあっているんだから。半ちゃんには悪いけど頃合をみて出るよ。だから保証金なし、家賃もただ同然にしてある」
 オヤジにしてはマジな口調だった。
 それは病院で聞かされ、うなぎ屋でも説明されていたから承知のうえだ。立ち退きでいつ追い出されてもオヤジには礼を言っても文句のつける筋合いではない。半二は口にはださないが感謝している。犬も歩けば棒にあたるというが、人もどこで誰にあたるか分かったもんじゃない。病院の大部屋でオヤジにあたったのは僥倖だった。


 カウンターの横のドアーを開けると半二の部屋になっている。
 半二が店をはじめることになり、掃除をしたり古い装飾品を片付けたりしてガラクタの処分をオヤジに相談すると
「隣が倉庫だから、とりあえずそこに入れておけば」
 と、言われてはじめて倉庫があるのを知った。
 10坪ぐらいの広さのところに壊れた冷蔵庫や冷凍庫、ガス台などの厨房の備品が転がっていた。使えそうにない椅子やテーブル。不動産屋の書類が入っているらしいダンボール箱が壁際に積んである。

 倉庫に入って全体を眺めている間に、ここは使えるな、と思った。目の前のガラクタが消えた何もない四角い空間が見えた。
「ベッドと机を置けば自分の部屋になるじゃないか」
 半二には家具の位置はすぐに決まったが、倉庫だけに照明がたりない。冷暖房がない。水回りがない。

 ときどきオヤジが地下まで降りてきて様子を見にくる。
「だいぶ片付いたな……無理するなよ。メシまだなんだろう、食べに行こう」
 オヤジについて行くとビルの中のカラオケボックスだった。4畳半ぐらいの部屋に通されると先客がいた。看護師の春と彼女の連れの恵理(エリ)。オヤジはここで春と待ち合わせていた。
 半二にはひと目で春のことはわかったが、彼女は半二に気づかなかった。それで半二が入院していたときのようすをオヤジが説明すると、すぐに思い出した。看護師と元患者が病院の外で会うのは妙な感じだ。半二は寝返りも打てない身体を転がしてタオルで拭いてもらったことが何度もある。そのときは、尊い母性を感じて胸の内で感謝した。

 半二は春に挨拶をして、お世話になったお礼を言った。
 彼女は笑って手のひらを左右に振り「いいのよ」という感じで仕事の話には触れたくないようだった。病院で看護師の制服を着て働いている姿と、私服でカラオケに興じている彼女はガッカリするほど別人だった。

 オヤジはいまでも春と付き合っている。彼が世話役をしている「歌声の会」に参加して、町内の公民館で歌好きのお年寄りたちを集めて歌っている。ボランティアのようで自分たちも楽しんでいる。その仲間にさそわれて、市の「第九を歌う会」にも参加して、毎年暮れになるとおおぜいで歌っている。もう歳だから声量は落ちているがバリトンのいい声をしている。

「このゴミの山、どうするんだよ」
 オヤジは腕を組んだまま
「住むったって、風呂がないよ。冷暖房はないし……倉庫なんだから」
「この辺に銭湯があったような気がしたんだけど」
「もう、なくなってマンションになっているよ。歩くとかなりかかるけど、自転車だと7、8分のところにあるがね」
「その銭湯でいいです」
 半二は倉庫に山積みになっている産廃をキレイさっぱり処分して自分の部屋にしようと考えている。

「とりあえず、ぜんぶ捨てましょう」
 開店準備を手伝うことになったエリが簡単に言い放った。
 店内の物をぜんぶ中庭に運んだ。きれいに掃除をしてから必要な物だけもどせばいいでしょう。彼女はすでに新しい店のイメージを持っているいるようだ。
 壁に掛かっている何年まえのものか知れない印象派の複製や、イタリアンの店のものらしいナポリ、ローマ、ベニスの写真を取りはずすと壁には額のあと以外なにもなくなり、すっきりした。
「汚れた壁紙もはがしましょう。むき出しのコンクリートのままでいいでしょう」
「古い蛍光灯の照明も取り外してスポットライトにしましょう。明かりの調節ができるものにね」
 エリはテキパキと決めていく。
 彼女は建築事務所で働いている。パートだが店の改造ぐらいならお手の物だ。それに亭主の藤田はインテリアデザイナーだからアドバイスをもらえる。
 

「ロリン」に置いてあるグランドピアノはエリから譲ってもらったものだ。オヤジがエリから買い取って「ロリン」に置いている。エリの娘さんは小学校に入るまえからピアノを習いはじめ中学を卒業するまで弾いていたが、高校生になってからピタリと止めてしまった。部活や受験勉強で忙しくなったこともあるが才能の不足を感じたらしい。それでピアノの上と下にいろんな物が置かれている。狭いマンションでは荷物置場ではなく、ピアノ自体がお荷物になっていた。
 楽しめないピアノを無理強いすることはできない。で、業者に問い合わせてみると、引き取り値はタダ同然だった。インターネットでピアノのメーカーと型番を入力して調べてみると、どの業者も半で押したように安かったた。何の気なしにぼやいた。
 その話がオヤジの耳に入り
「俺が買い取るから置かせてくれよ。どうせ客が入らず空いているんだから」
 確かにガラガラだ。
 間の抜けた客席にピアノを置けばアクセントになるかもしれない。



(4)
 手術台で横になり、これから麻酔をかけます、と宣言されたとき
「ああ、このまま眠って目を覚まさないこともあるのだな」
 と思うと、ゆったりした時間(時計では1分もないだろう)が静かに流れ、身についた汚れがきれいさっぱり洗い落とされ、生き延びたいという執着心がなかった。

 そのときの心境を思い出すと発見があった。家族やカネや欲がどんどん抜け落ちて、自分が何もない、がらんどうになっていることだった。空っぽの器だった。それももうすぐ無くなるかもしれない。
 淡泊で素直だった。諦念、といえばおおげさ過ぎるが、似ている気がする。なんだか自分をがんじがらめにしていた、ぐるぐる巻きにしていた糸がほどけたような気がした。


「Jazz Cafe Bar Rollins」という店名だったが、看板ができあがると「s」が抜け落ちていた。それで誰もが「ロリン」というようになった。半二がその呼び名に慣れたころ、店や隣の部屋にもなじんできて、ずっと前からここに居るような気がしてきた。

 店を始めるとき、看板はなくてもいい、と考えていた。あの陰気な「うなぎ屋」のようにひっそりとやればいい。テメェひとりでやれば、人件費はかからないし家賃はただみたいなものだから、仕入れ代と光熱費を支払って10万も残ればいいだろう。なら、1日10人も客がくればいいんじゃないか。
 半二は、そんなのん気な考えでいた。

「バカいってんじゃないよ。看板がなくて客が入ってくるわけないだろう。誰がそんなオッカナイ所へ行くんだよ。それとも半ちゃん何かい、銀座のホステスみたいに、いいお客をたくさん持っているのかい?」
「いや……あの、うなぎ屋みたいに」
「あそこだってちゃんと看板はあったんだ。目立たなかったけど。それがいつの間にかなくなって……たぶん壊れたか、誰かが悪戯で持っていったんだろう。そのときはすでに客がついていたからね、だから看板がなくてもやっていけるのよ」
 オヤジにしてはめずらしく説教調の口調だった。

「でも看板って高いんだよね。電飾だと」
「そうよ、高いよ。だから業者に頼むんだよ。ビールやウィスキー、コーヒーやコーラの業者に当たってみな。どこかは、ただで看板を作ってくれるよ。まァ、その会社のロゴがはいるし、仕入れなくちゃいけないけどね。自前の看板は儲かってからでいいよ。あッ、その前に立ち退きになっているかも」
 オヤジは自分で落ちをつけてひとり笑っている。

 いよいよ仮オープンのときになってエリに聞かれた。
「店の名前はなんだっけ?」
「Rollins」
「ロリンズって?」
「ジャズのテナーサックス奏者だよ」

「うちの亭主、ジャズが好きでCDいっぱい持っているわよ」
 若いころ、半二はジャズのLPレコードをたくさん持っていた。それが、友達に貸したり引越しをするたびに減り、いま手元にあるのは30枚足らず。それも昔に買ったもので、ほとんど聴いていないからカビがはえているかもしれない。古いそれだけのレコードでJazz Cafe Bar を名のるのはおこがましいが、オヤジに引っぱられて地下の空間を見たとき、何かがよみがえった。若いころの自分がフラッシュバックされた。脳細胞で眠っていた記憶が目をさました。
 小鳥が飛び立つように、いきなり猫がかけ出すように、半二が動いた。何も考えず店を始めた。ドーパミンのシャワーが脳を洗ったのか。オヤジに洗脳されたのか。とにかく1歩あるきだした。

 エリがインテリアデザイナーの亭主を連れてきた。オカッパ頭で黒縁のメガネをかけた、いかにもその業界の人らしい身なりだった。細身だった。鼻の下にヒゲをたくわえ、似あっていた。彼がかもし出す雰囲気は多くの自己主張があるようだったが、名刺を出して藤田と名乗った以外はたいしてしゃべらなかった。
 それでも半二の古いLPジャケットをていねいに1枚ずつながめて
「いいですね」
 と言って、その中からビル・エバンスの1枚を選んで差し出して
「これ、かけてくれますか」
 カウンターの上のポータブルプレーヤーを見て子供のように笑った。

 それから何日かして、藤田は20枚ものCDを紙袋に入れて貸してくれる。取り出してCDを確認すると1枚1枚のケースに藤田の名前が貼り付けてあり
「かた苦しくて申し訳ありませんが……」
 藤田はCDのリストを出してサインを求めた。
 それが、預かり書になっている。半二は気持ちよくサインした。CDやレコードを貸すと戻ってこないことが多い。経験上、半二はそのことが分かっていたので気分を害することはなかったが、彼の性格が垣間見えたような気もした。重そうなプレーヤーを持ち上げ、カウンターに置いた。四方40cmの木目で半二が触るとビクともしなかった。横の半二のプレーヤーは子供のオモチャのようだ。
「これ、使ってください」

 藤田は帰りがけに店のノートパソコンからネットで音楽だけを専門に配信する放送局につないでくれた。ジャズやロックやクラシックなどいろんなジャンルがあり、ジャズにしても主にスイングを流す局やバップやモダン、ビッグバンドなど細かく分かれていている。すべてアメリカのもので無料。日本の有線などと契約すると月に3千円はするのだが。
 半二はお客さんからリクエストがないかぎり好みの局にアクセスしたままにしてある。それは50年代から70年ごろまでのスタンダードを流しているところ。奇をてらったりマニアックにならず、ゆったり聴いたりBGMにできるのがいい。
 たまにLPやCDを持ってきて「かけてくれ」と言う客もいるが、それはそれでいいと思う。自分の部屋で聴くのと店とでは、オーディオも空間も違うから同じ音源でも微妙に音が違う。

 仮オープンのあと、本格的に営業を始めたが客は来なかった。知りあいが2、3人来るだけで暇を持て余していた。音楽を流しながら本を読んだり居眠りをしたりしていた。陽だまりでうずくまる猫のようだと半二は思った。猫のように足の向くまま散歩したり、たまには遠出して夜な夜な雌を追いかけたりして疲れて日向ぼっこするのは至福かもしれないが、来ない客をただただ待っているのは疲れる。
 まァ、暇つぶしで「焙煎」を始めたようなものだ。


 半二はオヤジに連れていってもらったうなぎ屋が引っかかっている。なぜだか不意に、農家のような店のたたずまいと陰のある夫婦が、運河の底から浮かび上がるアブクのようにポッと出てくる。確か、店の看板はなかったし、暖簾もでていなかった。だから知らない人には、うなぎ屋ともなんとも分からない。

 あれで、商売になっているのだろうか。
 オヤジとうなぎ屋に入ったときは、歳のはなれた先客のカップルがいるだけだったが、半二たちが食べはじめたころにはその姿はなかった。それから、新たに客は入ってこなかった。
 半二たちが来るまえの客の入り具合は分からないが、店の雰囲気からしてそれほど混んだ気配はなかった。厨房の亭主の姿は見えず、奥さんはダルそうな立ち振る舞い。お昼時でも3、4組の来客だろう、と半二は推測した。
 土日祭日は休みで、昼は12時から3時まで、夜は6時から9時まで。来るのはみんな電話かメール予約だから、予約がなければ店を開けない。そんなやり方だから、月の半分は閉まっていることになる。



(5)
 オヤジが春とエリを連れて入ってきた。5時前だから開店はしていない。半二は焙煎をしていた。3人はカラオケボックスの帰りに「ロリン」を覗いた。カラオケ通いはもう1年もつづいている。といっても月に1度ぐらいのペース。エリはときどき抜けるから、オヤジと春で行くこともあるのだろう。
「オヤジさんはいい人だけど、ちょっとエッチなのよね。なにげなく触るの。私はオヤジさんの手を払っちゃうけど、春はあまり気にしていないみたい。私のように拒絶したりはしないの……病院では患者さんに触られることも多いらしいのよ」
 エリはふたりの間柄を怪しんでいる。
 そういうことにうとい半二に女の直感をさりげなくしめした。

 春はオヤジと半二が入院していた病院の看護師。バスケットボールの選手のように大柄で本人は170といっているが、それ以上あるに違いない。オヤジと並ぶとオヤジの頭が春の肩あたりだ。歳も40ぐらいだから、同居しているオヤジの娘よりも若い。
 偶然、半二とオヤジは病院の大部屋で一緒になった。そこで春にはお世話になった。術後の痛みで自分では寝返りひとつうてないとき、彼女に身体を転がしてもらい暖かいタオルで拭いてもらった。ヒゲを剃ってもらい、髪も洗ってもらったから他人とは思えない。

 でも、退院してからカラオケボックスで会った春は別人だった。半二にとっては病院で制服を着て仕事をしているのが春で、カラオケでストレスを発散している彼女は一般名詞のオバサンにすぎない。病院内では彼女に親しみや感謝の念を覚えたが、カラオケボックスではなんの興味もおきなかった。自分の春にたいする想いが幻想だったようで、がっかりした。その反動かどうか分からないが、春より小柄な(春が大きすぎるだけでエリは中肉中背)エリのきめ細かい白い肌に目がいった。

 カウンターでオヤジを真ん中にして春とエリが並んでコーヒーを飲みながら談笑している。半二は焙煎した豆の熱をとりながらちょっとしたつまみの仕込みをしている。べつに聞き耳をたてているわけではないがオヤジの声だけが聞こえる。
 ほとんどオヤジの「歌声の会」に対する不満に春が話をあわせている。不満といっても本気ではない。戯言だ。春はオヤジに付き合って食事をし、歌ってふざけたお喋りで仕事のストレスを発散しているのだろう。オヤジは老人だから安心だし、口は悪いがやさしい。

 2人だけにしたかったのか、オヤジと春が立ち上がってもエリはカウンターにすわったままだった。
「春、うなぎをご馳走してもらったんだって、オヤジさんに」
 エリはオヤジと春の背中を見送ったまま言った。
「オイラもご馳走してもらったよ。ちょうど1年前。エリにこの店の開店準備を手伝ってもらっているころ」
「美味しいの」
「美味しい。それに、ちょっと変わった店なんだ」
「何が」
「変な夫婦なんだ。ちょっと説明しにくいけど……料理人の亭主はまず表に出てこない。だから、どんな人か分からない。女房の仲居は夢二のモデルのようないい女なんだが、無口で愛想がない。まるっきり商売人じゃない。店に看板も暖簾もないんだから」
「それで客がくるの」
「オヤジのような常連だけだよ。しかも、予約をしないと入れないんだ」
「なんで入れないの」
 エリはカウンターの空になったカップとお冷のコップを洗い場の前にはこんで中に入ってきた。
「予約が入っていない日は店を開けないない。だから、いきなり行っても店が閉まっていることがある。運よくやっていても注文してから捌くから待たされる」
 エリは食器を洗いながら
「半ちゃん、連れてって」
「えっ」
「高いの」
「高い。1人3000円はする。ちょっと呑めば5000円だね。それに辺鄙なところにあるんだよ。荒川に河川敷のゴルフ場があるだろう。その裏あたり。車でないと行けないよ」
「車なら、わたしので」
 エリは食器を拭いたタオルを両手に持ったまま身体を半二にぶつけた。



(6)
 もともとは東京から流れてきたらしいが、親の代からここで不動産屋を営むオヤジが降りてきて
「なんか食うものないか」
 オヤジは2階で50になる娘(いかず後家)と住んでいる。その娘が都内へ出かけて帰りが遅くなるらしい。そんなメールを受け取ってインスタントラーメンでも作ろうと思ったが、それもめんどうになって「ロリン」に降りてきた。
「サンドイッチかスパゲティー。うどんもありますよ、オイラの晩飯だけど」
「じゃ、それくれよ。うどん」
 さいきん、半二は美味しい半生の讃岐うどんを見つけた。ただ、茹でるのに時間がかかる。
「俺も食いたいな」
 ノブがのってきた。
「いいよ。じゃあ、茹でるのに12、3分かかるからさ、悪いけどスーパーまでひとっ走りしてくんない?天ぷら買ってきてよ。天ぷらうどんにするからさ」
 ノブはビールの入ったグラスを手にしたままチュウチョしていた。駅前のスーパーはすぐそこだが、呑んでる途中で席を外したくなかった。
「美味しい讃岐の天ぷらうどん、ご馳走するからさ」
 オヤジがノブに頼むと
「どんなのがいいの?」
 ノブが立ちあがった。
「かき揚げと春菊。ごぼう天とちくわ、テキトーに買ってきて。余ったらつまみで出すから」
 半二は白身の魚(キス)と海老も追加した。
「俺にあれ買ってきて、紅しょうがの天ぷら」
 オヤジがノブの背中に言うと、振り向いてうなずいた。


 エリが「ロリン」ではじめた「歌会」にはオヤジが連れてきたスナックの女性とその仲間が来た。もちろん、ノブもいる。オヤジが若い女性と、ノブが中年女性の相手をしている。たまたまノブはその女性を知っていた。ソノ、といった。いぜん彼女のスナックに通って口説いたが、相手にされなかった。彼女はとぼけているのか、嫌がっているふうでもなく、ノブと楽しそうに話している。ノブも昔のことは忘れたのか嬉しそうにしている。
 オヤジは、それが面白くない。若い女性とソノの2人を両脇に抱えて歌う腹づもりでいたのに、横からノブが闖入し、なれなれしくしている。不愉快だ、というオヤジの顔色を見て、彼女はノブにかまわずオヤジに話しかけている。お水系らしく、その辺はそつがない。
 ソノは小柄で、美人というより愛嬌があり男を立てるのが上手だった。呑んで酔った男はついついその気になってしまう。店で1番の人気者だった。ノブのような客は他に何人もいたはずだ。

 エリはソノの歌を聴いて軽い嫉妬を覚えた。それだけではなく、好感も持った。
 ノブはエリが気に入ったことをすっかり忘れ、ソノに惚れ直した。オヤジも彼女の色気には抵抗できないでる。半二は初対面だった。確かに男の欲情を刺激するフェロモンを放っている。それは、感じる。でも、半二の男は反応しない。歳のせいか、その匂いたつ色気がうっとうしい。役立たず。

 「歌会」に参加してから、ソノは「ロリン」に来るようになった。夜のお勤めの前にコーヒーを飲んでいく。
「ここ、禁煙なのよね」
「外のテラスでお願いします」
 ソノはタバコとライターを手にどうしようかな、という面持ちだった。一服吸いたいが、夕暮れ時の外の空気は冷たい。
「タバコ、やめたいのよね」
 ソノは独り言のように呟いて立ち上がり、中年にしては可愛らしい微笑みを投げかけて出ていった。店の入り口全面が、ドアーも何もかもガラスなのでカウンターの中の半二からも見える。陽が落ちた地下の中庭のテラスでコートの襟を立ててタバコを吹かしているソノ。日本人女性でタバコを吸っている姿が決まっているのを見かけることはまずないが、彼女は様になっていた。思案げにタバコの煙をくゆらせている横顔は絵になっている。もしかしたら、地上の入り口あたりから見下ろす角度で写せば映画の1カットになるかもしれない。

「ソノさん、歌、上手いですね」
 何か思うところがあって話しかけたわけではないし、お世辞でもなかった。テラスからもどってきたソノに挨拶のように投げかけていた。
「ありがとう」
 ソノは唇を横に伸ばして静かに笑い、どうってことないのよ、って感じでうなずいた。
「歌、習っているでしょう?」
 これも反射的に言っただけで、半二はなにも考えていない。
「ええ、分かるの」
 こんどは真顔で半二を覗いた。
「あれだけ歌えるのは素人ではないね」
「あらァ〜おだてないでよ。でもうれしいわ」

 半二のテキトーなほめ言葉にソノは謙遜しながらものってきた。
「月に2回、習いにいってるの。都内まで」
「やっぱりねェ……どおりで上手いわけだ」
「あらァ〜わたしより上手な方、いっぱいいるわよ」
 ソノがだいぶ打ち解けてきた。
「そうですか。どこまで通っているんですか」
「高田馬場。先生はプロのジャズボーカリストでね、ご主人がピアニスト。そこは、ジャズのライブハウスで、昼間や休みの日に歌や楽器のレッスンをしているの。ジャズのライブハウスは儲からないからね、レッスン教室で稼いでるみたい」
「もう、長いんですか」
「いえ、まだ習い始めて2年ぐらい。そのライブハウスで生徒の発表会があって、緊張したわ。わたし間違えてばかり。歌詞は忘れるし足は震えるし。そのときの歌を先生がCDにしてくれたから、しばらくは毎日聴いていたの。あまり下手だから今は聴いていないけどね。でも、今ではあの時より少しは上達したと思う。先生も褒めてくれるし仲間も良くなったと言ってくれる。だから、やる気が出ているのよ」
 半二には男を感じないのか色気を振りまかない。音楽仲間に話すようにしている。
「そのCD、聴いてみたいね」
「やめてよ。恥ずかしくて、とても他人に聴かせられたものじゃないのよ」

 ノブによるとソノは「クラブ園」のママになっていた。雇われママなのかオーナーママなのか。それは、はっきりしないが。「ロリン」でソノが歌った翌晩にはオヤジとふたりで出かけた。
「駅のロータリーに面してパチンコ屋があるだろう、あの裏側にある飲み屋ばかりが入っているビルの3階だよ。オヤジはあのビルの飲み屋にはほとんど顔を出したらしい。まァ、商売(不動産)柄ね。元は違う店だったらしいよ。だから『クラブ園』は最近できたんじゃないの」
 ノブは気にいったようだ。
「ふたりとも好きだね。昨日の今日じゃない」
「違うよ、一昨日の昨日だよ」
「で、どんな店なの」
「10坪ちょっとの広さかな。インテリアや調度品は高級そうに見えたけど、新しくはなかったから居ぬきで入ったんだろう。きょう日、あの手のクラブは流行らないんだよ。バブルの頃はよかっただろうけど」
「高そうだね」
 半二はタカに話を合わせた。
「高いね。あッ、そうそう、オヤジは1曲歌ったからね、あれが高くついたかも。カラオケじゃないんだよ。ピアノが置いてあってね、ここみたいなピアノじゃなくて箱みたいなやつ」
「アップライト」
「そうそう、それ。川越に音大があるじゃない?そのどこか知らないけどさ、音大の女の子がBGMで弾いているのよ。止せばいいのにオヤジが伴奏を頼んで歌ったのよ」
「ふゥ〜ん、なんとなく雰囲気が分かってきたよ」
 意外と半二は聞き上手だ。
「いっけんクラブ風だけど、ホステスはいないんだよ。ありャーみんな女子大生だな」
「客は入っていたの」
「いや、俺たちだけ。まァ、早く行って早く出たから、その後のことは分からないけど。



(7)
「オヤジは気に入ったようだから『クラブ園』に通うと思うよ。まったく好きだよね。あのオヤジがラブホから出てきたところ見た奴がいるんだ。大きな女と一緒だったと云うから、春だと思うよ。ジジイと中年女が何をするんだろうね。春の身体ってオヤジの倍ぐらいあるよね、大丈夫かな?」
 ノブはだいぶ酒がまわってきている。
「大丈夫かなって?」
「ほら、窒息死とか、いろいろあるじゃない」
 ノブは自分の妄想を半二に聞かせたいらしい。

 うなぎ屋から数軒先がラブホだ。ふたりはうなぎを食べてシケこむわけだ。他人に見られたところをみると、まだ陽は高い。たぶん、昼飯を食べてちょっと休んでいこうってことだろう。それだけじゃおもしろくないから、春が自分の看護師の制服に着替えるんだ。オヤジは入院患者のパジャマ。
「ノブさん、ちょっと考えすぎじゃない?」
「うん、でもまァ、ラブホからオヤジと春が出てきたんだから……なにもないことは、ないよね」
 ノブは自分の語りに酔っているのか。
「分からんよ、ふたりで歌を歌っていたかもしれないし」
「歌うんだったら、カラオケボックスでいいじゃない。なにもわざわざラブホで歌わなくても」

 噂をすれば何とやら。オヤジが2階から降りてきた。
「オヤジさん、くしゃみしなかった?」
 いらっしゃいませ、の代わりに半二が訊いた。
「なんだよ、いきなり。さては、よからぬ噂でも」
「『園』へ行った話を、ちょっと……」
 ノブが話題をすり替えた。
「ああ、そうか。あそこは、昔はいいクラブだったんだけどな。バブルがはじけてから、もう何軒も入れ替わっているよ」

 ノブは春のこともラブホのことも口にしなかった。
「この間のうどん、ある?」
「なくなったんですよ、あのとき3人で食べたから」
「あれ、美味しかったよな。出汁が関西風で、色が薄いわりにはしっかりした味で、麺も透き通るような色つやで、こちらの団子のような麺とは歯ごたえが違ってた。あれ、定番メニューで出せばいいじゃないか。スパゲティーよりよっぽど美味しいよ」
「お気に入りですね。天ぷらは俺が買いに走ったんですよ」
 ノブが思い出した。
「やってみようかな、讃岐うどん。関西のヒガシマル醤油がだしている、粉末のうどんスープなんだけど」
 味覚に自信のない半二だが、この「うどん」なら、いけると思う。
「美味しいよ、受けるよ」
 この辺にもイタリアンの店ができ始めたので中途半端なパスタやピザでは敵わない。味にうるさいオヤジが勧めるのたから大丈夫だろう。

「ラーメンならあるけど、賄いの」
「なに味?」
「醤油、塩、味噌、豚骨」
「いろいろあるんだね。じゃ、醤油で」
 半二は玉ねぎを1個スライスして電子レンジで5分。袋入りの乾麺を熱湯で3分。別の鍋でインスタントラーメンの粉末スープを溶かし卵を流し込む。そのスープの入ったドンブリに茹でた麺を入れ、玉ねぎの半分をのせた。いろどりに万能ネギとオヤジの好きな紅しょうが。

「美味そうだな。いい匂い」
 ノブの小鼻がふくらんでいる。
「うん、けっこういける。玉ねぎの甘みが効いている」
 麺をすするオヤジの横顔を見つめるノブに向かって半二が言った。
「作らないよ。食べるのなら一緒に頼まないとね」
「そんなこと言わないで作ってやれよ。商売人がめんどくさがって、どうするんだよ」
 オヤジはふうふういいながら、食べる合い間に言った。
 そんなこともあるかと思って、半二はチンした玉ねぎを半分残しておいた。



(8)
「ロリン」が開業してからもうすぐ1年になる。
 1日の客が数人。それでも、月に10万ぐらい残るから、この3月から月曜日も休むことにした。日月連休で祭日も休み。
 半二の年金だけでは生活できないから、オヤジのすすめもあって「ロリン」を始めたが、儲けるつもりはない。くたばったときに自分の亡がらを処分する費用さえ残せば、あとは生活費さえあればいいのだ(月3千円の医療保険には加入している)。

「日月休みで祭日も……ちょっと休みすぎじゃないの」
 さいきん常連になったノブがツッコミをいれる。
「いやァ、疲れちゃってね。ノブもオイラの歳になれば分かるよ」
 ノブはこの春で定年になる。が、そのまま嘱託で会社に残るそうだ。
「俺も、退職して少しはゆっくりしたかったんだけど、内のかあちゃんが辞めるな、とうるさいんだよ。仕事を辞めて1日中家にいるのがうっとしいらしいよ。昼飯も作らなくちゃならないし。それに働けば今までの半分でも給料は入ってくるわけだから。亭主元気で留守がいい、ってやつよ」
「ノブのところは新婚だから、そんなことはないでしょう」
 めずらしくノブが女房のことをしゃべったので、ちょっと持ち上げてみた。
「からかわないでくれよ。ババアとの再婚だよ」
 去年、この辺のスナック勤めの中年女性を披露宴もせず入籍だけした。その女性の評判はあまり芳しいものではない。ノブも話したがらないので半二は詮索しないでいた。

 そのとき、エリのことが半二の頭をかすめた。エリは見計らってカウンターにはいってきてコーヒーを淹れてくれる。めったにはないが、洗い物をしてくれたりする。ノブなど口うるさい客がいるときは何を言われるか分からないから手伝わない。するとオヤジが
「エリちゃん、コーヒー淹れてよ。半ちゃんより上手いんだから」
 などと冗談半分に頼んだりすることがある。
 そんなふうにお客さんから催促されて手伝うぶんには、いい。怪しまれないようにエリが意識しているのが半二には分かる。その辺の気遣いがうれしい。

 だが「歌会」のときだけは遠慮がない。準備、進行、片付けを取り仕切っている。エリの発案ではじめた「歌会」だけに怪しむ者はいない。それは誰もが認めている。2月にソノが加わって3月にはソノの仲間が参加するという。エリにはすでに「歌会」の青写真ができていて充実感がこみ上げている。

「ロリン」の開店は5時からだが、6時ごろまでは客はまずこない。半二は4時に店に入り掃除をしてから焙煎をする。店内にいい匂いが立ちこめてくる。簡単なつまみの仕込みをしているとだいたい5時をまわっている。客が入ってくるまでの間、メールやSNSのチェックをする。ついでにHPやFBでさりげなく店の宣伝をする。たまに、開店前にエリが入ってくることがある。べつにこれといった用事があるわけではない。近くに来たついでに立ち寄るようだ。
「こんどの歌会は何人集まるだろうか」
「ソノさんの歌仲間は何人来るだろうか」
 エリは思いついたことを問いかけながら掃き掃除や雑巾がけをしてくれる。慣れていて半二より要領がいい。しかも、キレイ。もしかしたらエリはお店の仕事をしていたことがあるのかも。
「半ちゃん、お店の顔はね、おトイレなのよ。いつもトイレをピカピカにすることね」
 エリは開店まえに「ロリン」に寄ったときは必ずトイレ掃除をしてくれる。
 お礼にコーヒーを淹れて出す。
 奥のピアノの横のテーブルで一緒に飲む(カウンターで飲んでいると入り口から見えてしまうので)。
「いつもトイレを掃除してくれて、ありがとう……」
 半二がふざけてヒョットコのように唇をつきだすと、エリも笑って唇をつきだし、人差し指で自分の唇に触れてから半二の唇にタッチした。


 開店まえにエリが帰り、雑巾がけした看板を表に出していると、じっとこちらを見ている人がいた。顔を上げるとソノだった。
「いいかしら」
 営業笑いのソノだった。
 半二の後について降り、入ると
「いい匂い(コーヒーの)」
 ソノは商売柄、初対面で男の気持ちをぐッと捕まえるのがうまい。それから笑顔でゆっくり開襟をひらかせる。
 彼女は「歌会」に参加してから、出勤まえに「ロリン」に寄るようになった。一服していく。
「オヤジさん、行ったんだって。2日つづけて」
「ええ、早い時間にきて1曲だけ歌っていくの」
「迷惑をかけなければ、いいんだけど」
「ゼンゼン大丈夫よ。陽気で明るいから、若い女の子にも好かれているわよ」
「助平ェだから気をつけた方がいいよ」
「あら、そうなの?でも、お歳だから。そのわりにはいい声をしているわね。2日つづけてシナトラを歌ったのよ」
「へェー、オヤジのシナトラなんて聴いたことがないな」
「いいわよ。これから歌いこめばもっと良くなると思う」
 半二はオヤジがマイクをにぎって悦に入っている姿を想像した。ソノを気に入っているのは間違いない。若い女の子をからかったり、へたな冗談を言って笑わすのが楽しいのだろう。それよりもなによりも、音大生のピアノ伴奏で歌うのが嬉しいのだろう。気持ちいいのだろう。音痴で歌わない半二にも、その快感は想像できる。
「ここのピアノ、昼間あいているでしょう?」
 あごで奥のピアノを指してソノが訊ねた。
「昼も夜も……」
「うちの音大生がここのピアノで練習させてもらえないかって、オヤジさんに聞いてたわよ」
 ソノが半二の顔をうかがった。
「えェ、そうなの。まァ、オヤジのピアノだけど。エリさんからオヤジが買い取ってここに置いてある」
「半二さんさえよければ、オヤジさんはいいと言っていたわ。うちはアップライトだし、大学のピアノは予約制の順番待ちで、都合のいい時間に十分に弾けないし。自宅のピアノで練習できる学生はいいけれど、地方から来ている学生は大変よ。ピアノの弾ける部屋を借りて生活するには資産家のお嬢さんでないと無理」

 そこへノブが現れた。
 ノブ がこんな早い時間に来るのは、ソノに会えるのでは?という魂胆からだった。
「あらッ、ノブさん、先日はありがとうございました」
 ソノの営業スマイル。
「いえいえ、。オヤジさんに誘われてね。オヤジ、昨日も行ったんだって?」
「ええ、今日も来るかも。ノブさんもいらっしゃいよ」
 ソノが愛想よく誘うとノブは鼻の下をのばしている。ビールを呑みながら、まんざらでもなさそうにのばした鼻の下を人差し指の背でこすっている。行きたそうだが、行くとは返事しないでニタニタしている。
 ソノはノブの助平心をくすぐって立ち上がり、半二に向かって片目をつぶった。出て行くソノを見送ったノブは
「いい女になったなァ…。もともといい女だったけど」
「口説いていたんだって?」
 半二が含み笑いをした。
「うふふ、そんな大そうな話じゃないんだよ。数年まえ、彼女はこの近くのスナックで働いていてね、人気者だったんだ。客のほとんどは、多かれ少なかれソノが目当てだったと思うよ、他に何人も女の子がいたけどね。だから、ソノを口説いた男はたくさんいて、俺はその中1人にすぎないんだよ。みんな、相手にされなかったみたいだけど。その頃、3.11があってさ、彼女の身内のだれかが亡くなったらしくて、店を辞めて仙台へ帰ったんだよ。あれからしばらく見かけないと思ったら『クラブ園』のママになっていた」
 ノブは遠くを見る目つきでその頃を想い出しているようだ。

 ノブの話から、半二にもよみがえる映像があった。
 3.11のときは定年まえにリストラされ、友人の飲食店を手伝っていた。アルバイトだからたいした収入にはならないが、ブラブラしているよりはいいだろう、ということで友人の休みの日や不在の時間帯を主に任されていた。
 その日の3時ごろだった。ビルの3階にあった店は今までに経験したこともない大きな揺れで立っていることもできず、洗い場のシンクのふちを両手で掴んでいた。店内にはお客さんが10人ちかくいた。本来ならお客さんを避難誘導しなければならないのだが、何もできず、目の前にあったガスの元栓をひねるのが精一杯だった。
 ながい揺れがおさまると、次々とお客さんが逃げ出すように出て行ったが、お年寄りほど慌てていた。お年寄りほど命が惜しいようにみえた。そのときは
「大きな地震だったね」
 と口々に言い合うだけで津波のことは分からなかった。その夜、電車が不通になり5時間歩いて帰った。

 家のテレビで見た津波の大きさに唖然とした。
 車が流され、大きな船が陸に打ち上げられていた。高い壁のような波が次々と打ち寄せてきて町を飲み込んでいる情景に身震いがした。

 翌朝のテレビで幼い女の子が小さい両手をメガホンにして海に向かって
「お母さ〜ん」
 と、何度も何度も呼んでいた。



(9)
 めずらしく小島が降りてきた。彼はお酒を飲めない。コーヒーは好きだがジャズには興味がない。だから、まず1人で「ロリン」に来ることはない。今日はノブに会いに来た。
 茶封筒をノブに渡して言った
「おめでとう」
 ノブは封筒から札を取り出し数えた。
 小島も半二も札を見ていた。ノブがうなずくと小島はたち立ちあがり
「じゃ…」
 と、言った。
 もう1件、支払いか受け取りかがあるようだった。あまり時間をかけないでそつなく切り上げるところは作業のようだ。

 小島は仕事もしないでゴルフ三昧の生活をしている。競馬が上手いらしい。半二はいまでは競馬をやめているが、いぜん小島に何度か頼んだことがある。彼は頼まれた馬券はパソコンで購入している、と言っていたが、ノンでいるに違いない。年金だけではゴルフ三昧とはいかないだろう。まァ、馬券をノンでいるかどうかはどうでもいいことだった。当たったときに配当さえもらえればいいのだから。ノブは穴を当てた。
「ノブ…うなぎ、ご馳走してよ」
 半二は茶封筒の入ったノブの内ポケットを指差した。
「うなぎ、か。いいなァ」
「美味しい店があるんだよ。オヤジさんと行った店で」
「ああァ、あの店ね。俺も行ってみたい」
 ニヤニヤしながらノブは立ちあがり
「これから行こうよ」
 と、誘う。
 半二が「ロリン」を閉めて同行できないのを見越して
「おごるからさァ」
 ノブは札の入った内ポケットをジャケットの上からポンポンと叩いた。
 おそらく、ついさっき帰ったソノを追いかけて「クラブ園」に行くに違いない。「園」ではないにしても、どこかへ呑みにいくだろう。女性のいる店。フトコロにはたんまりとある。

 ノブが帰ってから、客は誰もこなかった。
 小さな両手でメガホンを作って、海の沖に向かって
「お母ァさ〜ん」
 と、何度も呼ぶ、小さい女の子の姿がよみがえってくる。
「そうか……きょうは3.11だったのか」
 半二はいつもより早く店を閉めた。



(10)
 いつものように自転車に乗って銭湯に行った。
「ロリン」の隣の10坪ほどの倉庫を改装して半二の部屋にしたので、風呂がないのが不便。冬場は1日おきに銭湯に行き、ついでに仕入れをして帰る。マグロのブツとアボガドを買った。マグロはひと口サイズに切られパックされていたが、できるだけ筋のない物にした。アボガドは10個ほど握ってみて食べごろの2個を選んだ。店にレタス、トマト、きゅうり、玉ねぎがあるので、マグロとアボガドでお通しのサラダかマリネを作ろう。

 階段を降り店のドアーを開けようとしゃがんで床の鍵を回したとき
「ちょっといいですか」
 と、2人連れの男が声をかけてきた。
 半二は、しゃがんだまま振り返り、見あげる姿勢になった。若くて大きい方の男がサッと黒い手帳を出してすぐに胸の内ポケットにしまった。金色の菊の印があったような、なかったような、はっきりとは見えなかった。

 店の中に入ると背の低い年配の刑事が
「昨晩、タナカノブオさん、来ましたね」
 と、言いながら店内を見わたした。
 半二が、ええ、と返事をすると
「何時に来て、何時に帰ったの?」
 と、横柄な口の利き方、態度だった。

 若い方の刑事は大柄で柔道でもやっていそうな体躯だから、用心棒のようだった。半二は昨晩の出来事を順番に思い出していた。5時に開店の看板を出すと待っていたかのようにソノが入ってきて、しばらくするとノブが降りてきた。ノブはソノが出勤まえに「ロリン」に寄ることを知っていて会いたかったようだ。10分ほど雑談をして、ソノが出ていくと小島が入ってきて茶封筒をノブに渡した。
「だいたい、5時半ごろ来て、6時ごろ帰りましたね」
 半二は不愉快な気分をできるだけ表情に出さないように淡々と話した。

 年配の刑事は小島には興味を示さず、ソノのことを訊ねたので「クラブ園」の場所を教えた。若い刑事は軽く会釈したが、上司の方は訊くだけきくと礼も言わずクルッと背を向けた。半二は表に出て、土俵にあがった相撲取りのように塩を撒いた。それから、手についた塩を舐めた。日ごろはしないが、入り口にひとにぎり塩を盛った。

 その夜、オヤジが入ってくるなり
「ノブが死んだよ」
 と言って、半二の顔を見つめた。
「信じられん」
 そう言いたそうに首を左右に振った。
「昨夜、ラブホで死んだらしい。心臓麻痺だって。女がいたから事件性があるって。だから検視したらしい」
 オヤジはいったいどこからそんな情報を得てくるのだろう。

「さっき、刑事がきたよ」
 小島も入ってくるなりそう言ってため息をついた。
「ここでノブに会ったことを知っていたよ。あせったよ、馬のことかと思って」
「あせることは、ねェじゃねェか」
 オヤジがからかい半分に突っこんだ。
「まァね。……ノブのギャンブルじゃなく、オンナのことを知りたがっていた。……で、何でノブとここで会っていたのだ、と訊くわけよ」
「当たり馬券の配当を渡した」
 半二もからかった。
「やめてよ、半ちゃん。それだけは、勘弁してよ。ねェ、変に勘ぐられても困るんだ。ね、このさい冗談はなしにして」
「大丈夫だよ。奴等は殺人の担当だ。チンケなノミ行為の取り締まりとは違うから」
 オヤジが安心させるように小島に言った。
 小島は返事もせず黙っていた。一心に何かを考えているようだが、虚ろだった。


 昨夜につづいて「ロリン」を早く閉めた。
 臨時休業をしないこと、どんなに客が来なくても、居眠りしながらでもラストオーダーの11時半までは営業することにこだわっていたのに……気が滅入って商売をする気になれない。
 地上の看板スポットのコンセントを抜き屋内に入れ、店の明かりを消し鍵をかけ、クローズの札をぶら下げた。ウィスキーと冷えた炭酸と氷を部屋に運んだ。マル・ウォルドロンのCDをボリュームを落として流した。扉を開け放しておくと店のスピーカーから部屋の中に音楽が忍びこんでくる。人差し指でウィスキーソーダーの氷をクルッと回した。自分の指を舐めた。半二は唇に当てたエリの人差し指を想いだしていた。

 ウイスキーのせいだろうか。エリのせいだろうか。
 50年前に見た映画を思い出していた。高校の帰り、大阪梅田でイタリア映画を見た。内容は覚えていない。中年の男女4、5人が狭い小屋でいちゃつきながら駄弁っている。ただそれだけなのにワイセツ感が濃密にただよっていた。タイトルは「赤い砂漠」(パゾリーニ)だったような気がするが、記憶ちがいかもしれない。2時間ちかい映画だったはずなのにその1カットしか覚えていないのはどうしたことだろう。
 通学の途中、梅田で乗り換えるので学校に行かず映画館に入ることもあった。学校の帰りに入ることもあった。当時(1965年頃)は昼間でもほとんどの座席が得体の知れない男達でうまっていた(女性だけの客はまずいなかった)。


「昨夜、閉まっていたわね」
 エリが入ってくるなり、そう言って半二の顔色をうかがった。
「9時ごろ、閉めちゃった」
「あらッ、9時ごろ来たのよ」
 エリもノブの死を知っていた。
「開店まえに刑事が来たんだよ。態度がデカくて嫌な感じの奴等だった。それからオヤジがきて、小島さんがきてノブのことを話していたら……気が滅入ってきてね」
「半ちゃんが閉めた後に来たわけね。メールしたんだけど」
 エリは半二に会いたかった。
「ゴメン、朝になって気がついた。電話してくれればよかったのに」

「『歌会』のまえにカラオケボックスで食事をしよう、とオヤジさんから誘いがあったけど(もちろん春も一緒に)断ってこっちに来たの。あの2人、なんだかアヤシイのよね」
 コーヒーを淹れながらエリが話した。
「あの2人がラブホから出てくるところをノブの知りあいが見たらしいよ」
 半二は得意になって話すノブの妄想を思い出した。

「ノブさん、死んじゃったんだって。昨日、刑事さんが来てね、いろいろ訊かれたのよ。その日、ノブさん、うちに来たのよ。早い時間だったから、他にお客さんがいなかったので1曲、歌ッたの。マイウェイ、この娘(こ)の伴奏で。きょう、『歌会』で歌うつもりだったらしいの」
 3月の「歌会」で ソノが事件のいきさつを話した。
「あの野朗、俺の持ち歌を奪うつもりだったな」
 オヤジが冗談っぽく言ってみんなを笑わせたところでエリと春が「歌会」の準備を始めた。ソノの指示があったようで音大生の2人もテーブルと椅子を並び変えるのを手伝った。音響(マイク、アンプ、スピーカー)のセッティングも学生がやってくれた。

 歌の合間にオヤジがソノに言った。
「アイツのスマホを調べれば、何でも分かるんだよ。警察がやれば消去したものでも再生できる。だから、奴の足取りも相手のオンナもわかっているんだ。どうやらラブホのそばのうなぎ屋によったらしい。事件じゃないね、色事だよ。心臓麻痺だよ。一応、解剖するらしいけど」
「詳しいわね、オヤジさん。……でもね、ノブさんの再婚相手、わたし知っているのよ。いっしょに仕事をしたことがあるの。ちょっとだけ」
 いっとき事件の話題で盛り上がり、歌はそっちのけだった。半二はノブのことを何も知らないことを知らされた。再婚したのは知っていたが、相手の女性の素性も知らない(興味がなかった)。それに、ノブが3人目の結婚相手で、しかも2人目の相手も心臓麻痺とは……。最初の亭主とは離婚なのか、死別なのか?心臓とか脳の血管の病気だったら、どうなるんだろう。
「ホテルにいたオンナはノブの女房とは関係ないんだろう?あるの?」
 オヤジは自分に問いかけるようにつぶやいて、探偵ポワロのように両手を胸のまえで開いてみせた。
 ノブの噂話を打ち切るかのようにエリが手をたたいて集合をかけた。3月の第2日曜日、ティータイムの「歌会」。梅と入れ替わるように桜の芽が顔を見せはじめた。


 胃がんの手術をしたのは去年の2月だった。雪がふっていた。入院している間、めずらしく何度も雪がふった。手術の後、個室に移されていた。
 手術台で
「これから全身麻酔をかけます」
 と宣言されたとき
「このまま、眠ったまま終りになることもあるのだな」
 という思いが走り
「まァ、それはそれでいいか…」
 身についた汚れが洗われサッパリしていた。

 翌朝、目が覚めて思ったのは
「生きていたんだ……」
 というだけで、嬉しくもなかった。
 なんだか、拾い物をしたような気分だった。
 あれから1年がたった。身も心も空っぽだった半二が「ジャズ バー ロリン」を営んでいる。間もなくエリの「歌会」がはじまろうとしている。オヤジが「マイ ウェイ」を歌うだろう。
 




                       つづく

                         これはフィクションです
                        「記憶と幻想のコラージュ」その1
                          
                                  

                        ご意見、お問い合わせは
                        メール  nagano_taku@yahoo.co.jp


inserted by FC2 system