記憶と幻想のコラージュ その2 

「Killing Me Softly With His Song」


  (1)
「あんなふうに死ねるといいね・・・」オヤジ。
「はぁ・・・?」半二。
「ノブだよ・・・」オヤジ。

人の噂も49日まで、というが、まだひと月もたっていないのに誰もノブの話をしなくなっていた。死に方が死に方だっただけに話題にしづらかった。半二もノブのことを思い出さないこともなかったが、酒の席で言い出すのも難だから、ひかえていた。
その日はノブの遊び友達の高山(タカ)が小島さんと「ロリン」に来ていた。半二はタカとは初対面だったが、オヤジは面識があるようだった。
「あれは、腹上死だね・・・」タカ。
「なんで・・・わかるの?」オヤジ。
「だいたい、ラブホテルで心筋梗塞ったら、それしかないだろう」タカ。
誰もが、うすうすそう思ってはいたが、そうハッキリくちにする者はいなかった。言われてみれば、あいまいに笑ってうなずくよりほかない。
「さいきん、腹上死って言葉、聞かなくなったな・・・}オヤジ。
「放送用語とかマスコミで禁止になっているのかも・・・」半二。
「何で?」オヤジ。
「よく分からないけど・・・圧力団体からクレームが入ると使用禁止になるらしいよ」半二。
「俺、SNSにチョンマゲと書いたら知らない人から抗議がきたよ・・・」タカ。
「・・・嘘だろう?・・・こいつはクダラナイ冗談ばっかり・・・」小島。

「腹上死ってぇのは、正しくは腹側死だって、ある物書きが言っていたよ。男が射精していつまでも女の腹の上にいるわけじゃないだろう?男にもよるだろうし、女がもうすこしそのまま上にいてくれ、という場合もあるだろうけれど、まぁ頃合いをみて側に横たわるわな。そこで逝っちゃうらしいよ。だから、腹側死・・・」オヤジ。
「そうなの・・・?イク(射精)と逝く(心臓麻痺)が同時かとおもっていた」タカ。
「まぁ、たとえ時間差があるにせよだ、ケッコウな終わり方じゃないか」オヤジ。
「オヤジさんは、もう無理だね・・・」タカ。

オヤジは強がってタカに何か言い返そうとしたが、ムキになるのも大人気ないから笑ってごまかした。60過ぎのタカに78歳の体力や気力を話しても理解されないだろう。老人の身体のことよりも気持ちや考え方のほうが想像しづらいかもしれない。タカにしたところで60過ぎだから身体の衰えは少なからず体験しているわけだ。歯は抜け、目はかすみ・・・身体はいずれ役に立たなくなる。そのことはタカも想像がつくだろうが、気持ちや考え方の衰えはまださほど感じていないはずだ。それは、その歳にならないと分からない。

去年の2月、オヤジは胃がんで胃の3分の2を切り取った(半二も同じ病院で同じ時期に胃の2分の1を切り取った)。だから今のところ、がんの再発と転移だけが頭にある。心臓や脳血管の病気は考えていない。が、歳がとしだけに何があっても不思議ではない。
だからというわけではないが、オヤジは自分の寿命を80歳と決めている。あと2年だ。その間にやっておきたいことがある。地上げにあっている現在の店舗兼住居の移転契約を結ぶこと。それにともなって生じる財産の相続分配を決めておくこと。自分が死んでからの相続争いだけは、避けたい。

オヤジの次男は不動産屋を継ぎ所帯をもって2人の子供(オヤジの孫)がいるが、長女はいかず後家で不動産屋の2階でオヤジと同居している。その2人に財産を半分ずつ相続させたい、と考えている。しかも、できるだけ相続税がかからない方法で。
オヤジと折り合いが悪く、若くして家を出た長男には相続させたくはない。その旨は口頭では伝えてあるが、法的に有効な相続放棄の書類を書かせたい、と前々から考えていたがのびのびになっていた。立ち退きと相続の件をこの2年の間に片付けたい。
それから・・・お相手してくれている春にも生きている間になんらかのかたちでお礼をしておきたい。

「俺もどうせ死ぬのなら、その腹側死ってぇのがいいな・・・」タカ。
「で、誰だよ、相手は?・・・ええ?」小島。
「モチロン、女房さ」タカ。
「それは、ケッコウなことで・・・女房ならノブのところみたいにもめなくていいよ。早めにしたほうがいいよ、でないと気がついたら俺みてぇにできなくなるからよ」オヤジ。
「生命保険、増額してからにしな。1年まえにな・・・」小島。
「考えてみれば、オヤジの言うようにノブの死に方は悪くないな。いきなりで、女房はびっくりするだろうが長患いすることを思えば本人も女房もあっ気なくていいよ」タカ。
「タカ、競馬のノミ代は払ってからにしてくれよな」小島。
「死んだら競馬の借金は香典代わりで棒引きさ・・・そう云えば、あの日ノブは、競馬で大儲けをしたんだってね。それがよくなかったのかも・・・それに、あの女房もよくない。前の亭主も心臓動脈乖離で死んでいるんだから・・・アヤシイ」タカ。
「タカ、お前・・・ノブの女房を知っているのかい?」オヤジ。
「まぁーね。彼女が働いていたスナックに行っていたからね、ノブと。事件のあと、その店に行ったら前の亭主も同じように死んでいる、と噂になっていたよ」


(2)
タカは学生時代にフォークバンドを組んで学園祭や地元のイベントで歌っていた。が、大学を卒業して就職をしてからはメンバーもバラバラになり自然消滅していた。たまに自分ひとりでギターを鳴らして歌ってみることもあったが、結婚してからはそんなこともなくギターはケースにはいったままだった。会社の同僚と呑んでカラオケで歌うぐらいだった。

ゴールデンウイークがあけた頃だった。タカが「ロリン」で歌会のチラシを手にして
「これ、来てみようかな。なに歌ってもいいの?1ドリンク付きで1500円だけど、なに飲んでもいいの?」
「昼間だからアルコールは出していないんだ。コーヒー、紅茶、ジュース・・・」半二。
「さいきん、しらふでは歌ったことないなぁ・・・スナックのカラオケだから・・・」タカ。
「譜面、持ってきてよ」
「・・・あったかなぁ」

タカがはじめて「ロリン」に来たのは小島さんと待ち合わせをしてからだ。
小島さんはお酒を呑めないから、まず1人で来ることはない。たまに競馬の代金のやり取りの場に使っている。音楽好きの知人を連れてきたときなどはコーヒーをお代わりして相手をしている。コーヒーは好きで自分の好みを半二につたえている。彼はいま流行のエスプレッソタイプのコーヒーではなく焙煎の浅いアメリカンタイプをストレートで番茶のように飲むのを好んでいる。
もう70歳だから、小島さんは昔の飲みかたなのかもしれない。

逆にタカはコーヒーにうるさくないだけではなく「ロリン」では飲まない。たいていビールを呑んでからウイスキーをのむ。そのビールだが、小ビンなのが気に入らない。「大」とはいわないが、せめて「中」にしてくれよ、と文句をつける。メーカーもバドワイザーやハイネケンだけじゃなく、国産も置いてくれよ、とも言う。
「俺は愛国主義者じゃないけどね、ビールは日本のものの方が美味いよ。アサヒのドライ、置いてよ」タカ。

「そう云えば、オヤジさんがキリンのラガーを呑みたいと言っていたなぁ」半二。
「カッコつけてベルギーのビールなんか置かないでさ、ラガーとドライでいいじゃないか」タカ。
「サントリーのプレミアムモルツも美味いよね」半二。
「美味くねぇよ、あんなの・・・」タカ。

タカは率直にものを言うタチだが、口が軽いのか言い過ぎてしまうことろがある。その分、腹黒いわけではない。いたって単純で5月の鯉のぼりのようにお腹はカラッポなのに誤解をうけやすく、彼を嫌う人もいる。
ゴールデンウイークのあとの歌会に来たものの参加せず、タカはカウンターでビールを呑んでいた。半二がアサヒのドライを用意していたので機嫌は悪くはない。おとなしくみんなの歌を聴いている。どうやら、偵察をかねて下見にきたようだ。

だいたい10人前後が歌いにくる。エリ、オヤジ、春、ソノを含む7〜8人は毎回くる。あたらしい人が参加したりして2〜3人が入れ替わっている。クラブ「園」でBGMを弾いているAとBは音響をやりながらピアニストの清水さんがこられないときは代わりにピアノを弾いている。AとBは同じ音大に通っているがAはクラシックでBはジャズ科。2人いるとなにかと心強い。便利。エリは2人を重宝している。

そんなこともあってエリは2人が「ロリン」のピアノで練習したいという希望をなんとかしたいと思っている。2人はクラブ「園」でバイトがある日は早めにいって2時間ぐらい練習をする。ただ、「園」には他の音大生もいるので毎日はできないし、アップライトなのがものたりない。で、練習に「ロリン」のピアノを使いたい、とソノを通して半二に打診していた。
半二は断るつもりで、いちおうエリとオヤジに相談したら2人ともいとも簡単に
「いいじゃないの・・・」と言う。
困った。

半二は毎朝10時までベッドにいる。夜中の12時に「ロリン」を閉めてから2時まで隣の部屋で呑みながらボンヤリしている。2時になると決まって眠くなりベッドに入ると5分で寝入ってしまう。明け方にいちど目が覚めトイレにたち、また10時まで寝る。疲れているときは途中で目を覚ますこともなく9時か10時まで寝ている。半二は寝るのが好きだ。だから、仕事がない日はいち日じゅうゴロゴロしている。
明け方に目が覚め、用を足しベッドにもどってから眠れないときがたまにある。うとうとしているだけだから頭の中に霧がかかっていて、そんな日はいち日じゅう気分がさえない。

4時に歌会が終わっても数人が居残ってだべっているときだった。
「彼女たち、ここのピアノで練習させてもらえないかしら・・・?」
ソノは音大生の2人を示してオヤジにたのんだ。いぜん半二も同じことをそれとなくお願いされていた。朝っぱらからピアノの練習は聞きたくなかったから返事はウヤムヤにしていた。
「いいんじゃないの・・・」
ピアノの持ち主のオヤジが半二を見た。
「う〜ん」
と言ったまま半二ははっきりとは返事をしなかった。
「練習させてあげてよ・・・ね、私が責任もつから・・・」
ピアノの元持ち主のエリも半二にたのんだ。
半二はエリ、ソノ、オヤジ、それから練習する若い女性2人に見つめられて断りづらくなった。
「朝は眠いからカンベンして欲しいんだよね・・・」
半二が条件をつけると、それがOKの合図とみんなが解釈して
「よかった・・・」
「ありがとう・・・」
それぞれが口にして話がかってに進行していった。あとの細かいこと(時間や料金、調律など)はエリと音大生が相談して決めることになった。半二はみんなから感謝されたが、なんだか腑に落ちなかった。
「ゆっくり寝て、ボ〜としていたいんだけど・・・」

「俺もギターを持ってきて練習していい・・・?家でやると近所迷惑になるんで」タカ。
エリは半二の顔色を見て取って
「ギターなら・・・カラオケボックスでいいんじゃない?」
「そうだよ、1人カラオケってーのがあるからさ・・・そっちの方が安くていいよ」オヤジ。


(3)
タカはノブの友達といってもそれほどの付き合いではなく、たんなる呑み友達。呑み屋で顔見知りになって話すようになっただけ。共通の話題は競馬。だから土日は行きつけの赤提灯で顔をあわせることが多い。それで、どちらかが儲かった日にはカラオケスナックに流れることもある。

小島さんに馬券をたのむようになったのもノブの紹介だった。わざわざ馬券のために後楽園まで出かけるのはめんどうだし、時間も電車賃もかかるし・・・。かといってスマホやパソコンで買うのは苦手だった。それでさいしょはノブにたのんでノブから小島さんに通していた。1年ほどしたら直接小島さんに連絡できるようになった。

タカも定年退職したが、運送会社に残ってアルバイトをしている。月に10日ほどトラックに乗ってコーラや乳製品を運んでいる。トラックを倉庫に横付けしてリフトで商品を積み込んでもらい、それを営業所まで運ぶだけだ。昔のように運転手は荷物の出し入れをしなくてもいいから楽だ。ただ、朝が早く5時前には家を出る。通勤ラッシュ前にトラックを現地に着け、倉庫が開くまで並びながらスポーツ新聞を読んでいる。午前中には仕事は終わってしまうから家でビールを呑みながら昼飯を食べ、また横になる。

タカの子供2人(長男と長女)は所帯をもって家を出ているから2階の子供部屋だったふた間は空いている。その広い方の6畳間をタカの部屋にして、もうひとつの4畳半の部屋は物置になっている。生活のほとんどは1階のリビングと8畳の居間ですごす。寝るときだけタカは2階にあがる。
「おたくのご主人、歌、上手ですね・・・」
タカが2階で歌うと翌日きまって裏の奥さんから誉められる。
「嫌味なのよね・・・近所迷惑ってこと・・・わかってんの?」女房。
「ホメ殺しか・・・」タカ。

このところ車にお気に入りのCDを入れ、運転しながら歌っている。カラオケのCDもある。タカは「ロリン」で歌う曲をきめてそれがかり歌っている。
「いい加減にしてよね・・・同じ曲を何度もなんども・・・」
家で歌っていると女房の機嫌が悪くなるのでギターを車に積み込んでいる。ひと気のない公園や川原でギターを鳴らしながら歌っていると通りがかりのおじさん、おばさん、カップルなどが車の中を覗き込む。手をたたく若者もいる。

タカはギターを持ってひとりでカラオケボックスに行くようになった。ビールを呑みながら喉がかれるまでガンガン歌う。ギターの練習をする。それから「ロリン」の歌会を想定してカラオケのピアノバージョンで歌う。それらをしっかり録音して車のなかで聴き、チェックする。修正箇所をメモして、またカラオケに行く。そのくり返し。

「ひとりカラオケで歌ってきたよ・・・」
「ロリン」に入ってくるなりタカはそう言ってギターケースを壁ぎわに置いた。
「これ、あす使うから置いていっていい?」タカ。
「いいよ。・・・ピアノで歌うんじゃないの?」半二。
「うん、そのつもりだけど、うまくいかなかったら慣れたギターにしようと思って」
半二がアサヒのドライを出すと
「せめて中ビンにしてよ、大とまでは言わないからさ。小じゃ、たりないよ」
「もう1本、呑めばいいじゃない」
「それじゃ、高くつくよ。倍だよ」

「なに、しみったれたこと言っているんだよ・・・明日だな、デビューは」オヤジ。
「あまりプレッシャーをかけないでよ・・・」

タカは5月の歌会には来たが参加せず、1人カウンターでビールを呑んで様子をうかがっていた。だいたいの感じがつかめたので歌会が終わってからピアノの清水さんやメンバーたちと挨拶をした。
「こちら、タカさん・・・来月から歌うのよね?」
エリがタカをみんなに紹介して念を押した。

「プレッシャーったって、お前、バンドで歌っていたんだろう?」オヤジ。
「40年もまえのことだよ。もう、声がでないよ・・・」
「明日はピアノの清水さんが来られないんだって・・・代わりに音大生のAとBが歌の伴奏をやるらしいよ」
半二がエリから聞かされていた情報を伝えると
「だいじょうぶかな・・・?」タカ。
「だいじょうぶだよ。ジャズなら清水さんよりBの方がうまいよ」
オヤジはクラブ「園」でBの歌伴で歌っているから分かっている。Bは音大でもジャズ科に在籍している。Aは同じ大学のクラシック。2人はクラブ「園」でBGMのピアノを弾いている。たまにはお客さんに呼ばれて話し相手もするが、ホステスではない。あくまでもアルバイトはピアノの演奏。

「オヤジさん・・・AとBの練習の件だけどさ、昼から5時までにしてもらったよ。朝は静かにすごしたいので勘弁してもらった。本当は断りたかったんだけどね・・・エリやソノさんにも頼まれたし、オヤジもOKだしちゃったから・・・」半二。
「・・・なに、2人と話したのかい?」オヤジ。
「ええ・・・エリといっしょに。とりあえず12時から5時までの間で、前もって練習日と時間帯の予約を入れること。調律はAとBがすることを了承してもらいました」半二。
「練習代の料金は?」オヤジ。
「う〜ん、それを聞かれたんだけどね、もらっていいのかな・・・?もらうにしても、いくらもらえばいいのか分からない」半二。
「まぁ、相場ってものがあるはずだから、しっかりともらった方がいいよ。後々もめないためにも契約書を取り交わした方がいいな」オヤジ。
「ええ?・・・契約書ですか?」半二。
「ピアノの所有者の俺と店のオーナーのオマエと使用者のAとBで交わせばいいじゃないか。なに、簡単だよ、息子に作らせるから」
オヤジは不動産屋だけにめんどうな契約書類作りに手馴れている。

「料金をもらうのに抵抗があるのだったら、こうしたらどうだ?練習した時間だけロリンで弾いてもらえば(BGM)いいじゃないか。たとえば、1ヶ月に20時間練習したらロリンで20時間BGMをやるとか・・・」オヤジ。
「・・・それでもいいですけどね・・・」半二。
「クラブ園で聴いているけど、けっこういいよ・・・」オヤジ。
「こんど行ってみようかな、園」半二。
「いっしょに行こうよ。月曜日、ロリンは休みなんだろう?」オヤジ。
「うん、行ってもいいけど、彼女たち月曜日は店に居るのかな?」半二。
「AとBのどちらかは居ると思うけど・・・メールで確認しておくよ」オヤジ。
「俺も行ってみたいな、高いの?」タカ。
「タカが知れているよ・・・6時開店だからさ、口開けに入って7時前に出れば2〜3千円で済むよ」オヤジ。
「小ビンなの?」タカ。
「モチのロンだよ。ああいうところはね、呑む量じゃなく時間なんだよ。混雑時に長居すると高いよ。それと何人もの女性のサービスを受けていい思いをするとそれなりにね・・・」オヤジ。

「彼女たちは接客もするの?」半二。
「基本的にはしない。ピアノを弾くだけ。休憩時間はスタッフ室で休んでいるが、呼べば話し相手になってくれる。とうぜん、タダじゃないよ」オヤジ
「いくらするの?」タカ。
「それが、はっきりしない。こんどBに聞いておくよ」
オヤジはBの出勤日を見計らってクラブ「園」の開店時に入り、ソノさんと雑談しながらビールを呑みBの伴奏で2曲歌って7時まえには帰る(他のお客さんが入ってくると歌は中止)。「園」では酔った客に歌わせると他のお客様の迷惑になるので、本来お客さんには歌わせない。あくまでもピアノのBGMだけ。ただ、他に誰もお客さんがいないときはソノさんが大目に見てくれる。

タカはもともとクラブに足を運ぶタイプではない。赤提灯や居酒屋だったが、定年になってからは家で呑むことが多くなった。テレビのナイター野球を見ながらビールを2本も空けると眠くなってしまう。翌朝、仕事がある夜などは9時まえに寝てしまう。
ノブのような連れがいるときは焼き鳥屋で気勢をあげカラオケスナックに流れることもあったが、もうノブはいない。


(4)
ピアノの清水さんが来られなかったが、AとBの伴奏で6月の歌会も無事やり終えてエリはますますその気になっている。ソノさんの紹介でジャズボーカルのレッスンを受けることになり、エリは毎月2回、高田馬場まで通っている。いまのところ、楽譜の読み方と発声練習ばかり。レッスンの最後に1曲だけ歌わせてもらってアドバイスを受ける。その30分のレッスンを録音して毎日のように聴いている。

タカの歌会デビューもすんなりといった。ビートルズと吉田拓郎の曲を歌った。
「けっこういいじゃないか・・・」オヤジ。
「ピアノの伴奏で歌うと気持ちいいなぁ・・・ずれていたけど」
タカは肩の荷をおろして嬉しそうに笑った。
歳のせいかタカの声は高い音が出にくいようだったが、歌の感じはつかまえているように半二は思った。いいにつけ悪いにつけ、学生時代にフォークをやっていたのでギターを弾きながら語りかけるような歌い方が身についているようだ。その日いらい、タカは毎日のように「ロリン」に来るようになった。

毎日といえばAかBのどちらかが毎日のように練習にきている。2人はバッティングしないように日程を調整してスケジュール表を半二にわたしている。だいたい2〜3時間練習している。どうしても2人がぶつかる日は12時から5時までの間で分けている。1ヶ月ぐらいがたってから半二もピアノの音になれて気にならなくなってきた。どちらかといえばAのピアノの音の方が聞き流せる。Bのピアノはジャズなのでタッチが荒い。ときどき耳障りに感じるときがあるが、それにもだいぶ慣れてきた。

いままでは、お客さんが持ってきたレコードやCDをかける以外はネットから引っぱってきてアメリカのジャズ専門の放送局の音楽を流しっぱなしにしていた。めんどくさがりの半二はリクエストがないかぎりネットの電源を入れるだけだった。ところが今ではBGMとは云え生のピアノが鳴っている。
AとBはただで練習させてもらうかわりに、ただでBGMを弾くことになった。そのことについては、オヤジといっしょに契約書も交わした。練習時間とBGMを弾く時間は同じとなっているが、じっさいはそれほど厳密なものではない。40分ぐらい弾いて20分ぐらいの休憩を3回繰り返す。はじまる時間も7時ごろだったり8時ごろだったり、かなり適当。

タカもそうだが、ピアノのBGMを楽しみにしている客がいる。もちろんオヤジはBが弾く日は早めに2階からおりてくる。
「半ちゃん・・・AとBの予定表を作ってよ・・・聞いてもすぐに忘れちゃうんだよね」オヤジ。
「ホームページにも載せた方がいいね・・・月イチの歌会の案内も」タカ。
半二はパソコンが苦手で、しばらくホームページの更新をしていなかった。「ロリン」が開店した1年まえはむりしてブログを書き込んでいたが、このところサッパリごぶさたしている。手っ取り早いSNSのフェイスブックに「ロリン」の案内を投稿して自分のホームページがおざなりになっていた。
「よし、この際ホームページをリニュアールしよう」
半二は「ロリン」の客の中田の顔を想い浮かべていた。彼はシステム・エンジニアで会社ではホームページの製作も請けおっている
「いくらぐらいするのかな?」

今年にはいってからエリが「歌会」を主催し、6月からAとBのピアノのBGMをやりだしたせいか、お客さんが増えてきている。いままではそんなことは考えもしなかったが、その増えた分を宣伝広告費に使ってもいいかな、と半二は思うようになった。それは販売促進であり税金対策でもあった。この数年、所得税を納めるほどの収入がなかったので白色申告をしていたが、この分では青色にしなければならないだろう。

去年の2月に「ロリン」を開店したころは病みあがりでもあったし、のんびり気ままにやろうと思っていた。年金ではたりない生活費さえ残ればいいのだから、あの「うなぎ屋」のようにひっそりやるつもりでいたが、そういうわけにもいかなくなってきた。エリがはじめた「歌会」やピアノのBGMなどのスケジュールを発信しなければならない。店の休みや営業時間の案内をホームページで告知しないとお客様の迷惑になる。販売促進とか宣伝広告とか、そんな大げさなことはやりたくないが、お客様の要望には答えたい。

中田さんが持ってきたパンフレットによるとホームページの製作費は10万〜20万。維持管理費が年間5〜6万だった。

いつの間にか、金曜日と土曜日には小島さんが来るようになっていた。競馬専門紙とタブロイドの夕刊を持って入って来るとカウンター前を通りすぎて奥のテーブルにつく。小島さんはお酒を呑めない。アメリカンコーヒーをもっと薄くしてくれ、と言う。色のついたお湯のようなコーヒーを2杯飲んで競馬の検討を2時間ぐらいしている。どちらかと云えば、小島さんはBよりAのピアノを好んでいるようだ。Aは音大でクラシックを専攻しているが「ロリン」では有名なポピュラーや映画音楽などを弾きながらさりげなくモーツアルトなどをはさんだりしている。
小島さんは帰りがけに5分ほどカウンター席についてタカや半二とダベッテからお勘定をする。

小島さん同様にピアノのBGMをやるようになってから来るようになったのがオヤジの娘、マサコ。彼女は6月の歌会にはじめてオヤジと参加した。6歳のころからピアノを習っていたし、オヤジの遺伝か歌うのも上手い。いかず後家で不動産屋の2階でオヤジと同居している。数年前に母親が亡くなってからはマサコがオヤジの世話をしている。金銭的にはいつまでたってもオヤジのスネをかじっている。

いつの間にかマサコと春が仲良くなっていて、2人で「ロリン」にきている。マサコが50過ぎで春が40歳ぐらい。先日の「ロリン」での歌会でいっしょになる前から知り合っているようだ。オヤジと3人で例のうなぎ屋に行った、と春が言っていた。そのころから、春はマサコ公認のオヤジの遊び友達になった。あくまでも、遊び友達で愛人でないところが微妙だが・・・。
半二の想像では、マサコが春にオヤジの世話をさせたがっているように思える。全面的にではなく半分ぐらい春にまかせて自分は楽をしたい、というか自由でいたいのだろう。マサコには手に負えないオヤジが春を気に入っている。不思議なことだが、若い春が80ちかいオヤジを好いているらしいことだ。分からないものだ。

春はオヤジと半二が入院手術した大きな病院を辞め、個人経営の診療所に勤めをかえていた。事情はわからない。亭主や娘の希望なのかオヤジの要望なのか、それとも本人の体力的な問題なのか・・・その病院では婦長さん以外は若い看護師ばかりだったから年齢制限があったのかもしれないし、春は派遣だったのかもしれない。あるいは、オヤジとの関係が病院にバレ、居づらくなった可能性もある。
とにかく診療所の方は入院患者がいないので夜勤や休日出勤がなく、「ゼンゼン楽」だそうだ。とうぜん給料は減っているだろうが、その分ぐらいはオヤジがホテンしているだろうし、お小遣いももらっているはず、と半二はにらんでいる。

30分ぐらいして2階からオヤジが降りてきて奥のテーブルのマサコと春の間にすわった。いつもなら、春の膝に手を伸ばすところだが、娘のマサコのまえではそういうわけにもいかず、おとなしく2人の会話を聞いている。そういうときは女2人の会話には加わらずBのピアノを聴いている。ピアノの横へいって歌いたい気もするが、他の客もいることだし・・・オヤジはウイスキーのはいったグラスを手にカウンター席に移動して
「あの2人の会話には入っていけないよ・・・」
オヤジは半二に向かって言いながらあごで女2人をさした。
「あの2人、仲がいいですね・・・」半二。
「2人の共通の楽しみはね、俺の悪口・・・」

看護師の春は退院したオヤジから誘われてカラオケボックスにいった。病院では退院した患者との付き合いは禁止されているし、1人で行くのも心配だったので友人のエリを連れていった。(友人といってもエリとは同じマンションに住んでいて話すようになったのだが・・・)オヤジと2人でカラオケボックスにいるよりエリと3人の方が何かと都合がよかった。

オヤジは胃がんの手術で3週間入院していたので、看護していた春はオヤジの人柄や家族など、だいたいのことは知っていた。口は悪いが腹は黒くないし、80ちかい老人だから安心、と春は判断していた。それに1年前に死んだ自分の父親と同じ歳なのでなんとなく親しみを感じていた。

それから、エリと3人でオヤジがお手伝いをしている町内会の「歌声の会」に参加するようになった。自治会が主催しているお年寄りのための慰安の集いだった。みんなで歌って楽しみましょう、という趣旨。

そのころ、オヤジの不動産屋の地下で半二が「ロリン」の店開きをしようとしていた。「歌声の会」の帰りに3人でガラクタの残る更地の地下室を見にいった。胃がんの病みあがりの半二が呆然と座り込んでいるのを見て、エリが片付けと内装を手伝うことにした。
そんな経緯があり、オヤジ、春、エリ、半二が仲間になった。そこにオヤジの娘マサコが加わったことになる。

もうひとり、仲間に加わったのがタカ。彼は死んだノブの呑み友達だからノブと入れ替わったようなものだ。そうだ、もう誰も噂をしなくなったがノブが死んで3ヶ月が過ぎたのだ。早いものだ。

ノブはエリがはじめた「歌会」に参加してぐうぜんソノに再会した。
むかし、ソノがスナックにいたころノブは通って口説いてた。死んだ岡ちゃんもソノが好きだった。で、2人はソノのことで張り合っていたから、くだらないことでよく呑み屋で口論していた。そのとき、3・11の津波でソノの身内が亡くなったとかで、ソノがとつぜん姿を消した。それ以来だった。
ソノがママをしている「クラブ園」へオヤジと通いだしたころ、競馬が当たり小島さんから10数万が入った茶封筒を「ロリン」で受け取り「クラブ園」へ行ったあとホテルで死んだ。
心臓麻痺・・・ということだったが。

タカはノブの奥さんを知っているんだろう?」
女性2人に挟まれた奥の席からカウンターに移動してきたオヤジがタカに話しかけた。
「結婚するまえからノブと連れ立って奥さんのいるスナックに通っていたからね・・・」
「どんな人なんだい、その女性は?」オヤジ。
「痩せて般若顔だった。俺の好みじゃないから相手をしなかったけど、ノブは話していたね。そのとき、おいしい話を聞かされたらしい。なんでも、年老いた80になる母と20の息子と3人で暮らしているが、8部屋ある木造モルタルのアパートを2棟所有しているとのことだった。マユツバ・・・だと思ったけどね。そんな資産があれば50にもなってスナックなんかで働かないだろう?でも、ノブはそのアパートの話に惹かれたらしい。

「なに、女の財産目当てだったの?」オヤジ。
「それだけじゃないだろうけどね。ノブは離婚して1人で寂しかったんだろう」タカ。
「こんどその女が働いていた店に行こうじゃないか。案内してくれよ」オヤジ。
「近いよ、クラブ園が入っているビルの裏通りだよ。飲食店が5、6軒並んでいるなかのKだよ。ノブが死んでから様子伺いにいってきたよ。もちろん、奥さんは辞めていなかったけどね。あの奥さんの前の亭主も脳溢血で亡くなっているって噂だった。だからいちばん最初の亭主とは離婚したのか、それとも病死だったのか、そんな疑問や推測がオモシロオカシクささやかれていた。ノブは3番目の亭主だったんだね」
「その店に行ってみたいね」オヤジ。

新河岸だったら、その女の名前か住所のどちらかが分かれば物件のアパートの調べはつく。1番最初の亭主も離婚か病死かぐらいはすぐに分かる。オヤジは不動産屋家業で地上げをやっていたので身元調査はお手の物だ。
「ノブは生命保険に入っていたんだろう?いくらか知らないか?」オヤジ。
「保険の話はしたことがないな・・・」タカ。
「ふつう入っているよな、誰でも。問題は金額なんだよ、それと契約時期」オヤジ。
2人のうちのどちらかの馬券が当たった日など、ノブとタカは連れ立ってその女の勤めるスナック「K」に通っていた。そのうちノブは1人で通いだし、1年もしないうちに入籍してしまった。披露宴もなにもしなかったので、当分の間だれも2人の結婚を知らなかった。
「なんか変だったんだよね・・・2人の結婚」タカ。


(5)
6月の歌会のあとからピアノのBGMがはじまり、来客数が増えてきた。オヤジの娘マサコと春、タカや小島さんが頻繁に顔を出すようになった。ピアニストのAとBの友達の若い女性が来るようになって店の雰囲気が明るくなった。いままでは2、3人の中高年のオジサンがジャズを聴きながらカウンターでだべっているだけの暗い店だったが、女性客が増えてはなやいだ感じになってきた。
そうした新しい客のためにも、オヤジやタカに催促されていた「ロリン」の案内ポスターやチラシを作った。それから「ロリン」の客でシステム・エンジニアの中田さんにホームページを作ってもらうことにした。彼の会社に依頼すると割高なので、会社を通さず彼個人のアルバイトでやってもらうことにした。すると半分で済むし、彼の小遣いにもなる。

「ロリン」の開店から1年たって、エリが歌会を主導したころから店の趣が変わってきて、エリやオヤジの提案でピアノのBGMがはじまると開店当初の陰気な雲が消えプチブルな明るさがただよっている。
半二が「ロリン」を始めたのは年金ではたりない生活費を稼ぐためだった。とりあえず、月に10万円ほど残ればいいので、それほど気合は入っていない。あの「うなぎ屋」のように、やっているのかやっていないのか分からないような感じで細々とやりたかった。むかし働いていたジャズ喫茶のイメージを半二は抱いていた。が、なんとなく今風のピアノBarになってきた。


7月に入ってすぐ、35度の夏日の翌日、半二の左足親指の付け根に違和感があった。なんかちょっと歩きにくい、そんな感じだったので軽くストレッチするだけで気にとめていなかった。翌朝、ベッドからおりるときに痛みを感じ、捻挫でもしたかな?と前日の1日を振り返ってみた。
「あれかな・・・?」
小島さんに誘われてひさしぶりにタカとシステム・エンジニアの中田さんと4人でゴルフをした。酒の呑めない小島さんが運転してくれるので帰りに例の「うなぎ屋」に寄るのが楽しみだった。あい変わらずぶ愛想な「うなぎ屋」夫婦だったが、あいかわらず美味かった。ゴルフで汗をかいた後の風呂あがりなもんだから、ビールがグイグイとすすむ。
「ラウンド中に足の指の付け根でもひねったかな?」
半二はベッドに腰掛けたまま左足を持ち上げ足の甲のあたりから全体をさすった。少し熱があり皮膚に赤みがさし腫れていた。そのころになって、やっと思いついた。
「痛風かも・・・」

半二は40歳のときに初めて発作におそわれ訳が分からず、病院に駆けつけると
「痛風だね・・・」
医師は半二の腫れあがった足の甲を一瞥しただけで簡単に宣言して書類に横文字を書き並べた。
「痛み止めを出しておくので採血を済ませてください」
痛風なんて病気じゃないんだよ、自業自得なんだ。生活習慣を改めないかぎり治らないよ、と言わんばかりの若い医者の横柄な態度が不快だった。医者というのは意外と変な奴が多い。

それから数年後に2度目の発作があり、今回で3度目の痛風だった。
痛み止めを飲めば辛うじて歩けるが、びっこでスローモーション。心身ともに仕事のできる状態ではないし、お客様に見せられる姿ではないのでエリにメールをいれる。
1人でやっている仕事は病気をすると休まざるを得ない。休むとお客さんに迷惑をかけるだけではなく、その間、収入が途絶える。有給なんてないので、勤め人と違ってそこのところがきびしいが、エリが手伝ってくれればなんとか商売はできる。お客さんが来れば飲み物を提供するだけでいいのだから、それほど難しいことではない。食べ物やカクテルは別にしてコーヒーならエリは作れる。ビールやウイスキーなら簡単だ。

「ロリン」はそれほど忙しい店ではない。日に10人前後の客がきて呑んでダベッテいくだけだ。その相手をエリがするのだから、お客さんは喜んでいる。日ごろは手伝わないAやBもオヤジやタカの話し相手になっている。半二の痛風が治るまでの1週間、そんなわけで繁盛していた。
「このままエリちゃん、AもBも手伝えばいいじゃないか・・・」オヤジ。
「それがいいよ、売り上げもあがるし・・・」タカ。

そんなお客の要望がどれだけ影響したのか、エリが手伝いはじめた。日に4時間ぐらい、週に2、3日。エリの出られない日は、時間はマチマチだがAとBのどちらかが店に入るようにしているが、半二だけの日もある。そんなときは
「きょうは、半ちゃんだけなの?」
と、どのお客さんも言う。
半二は痛風をやってから、厨房で裏方にてっしている。9時をすぎてエリが引きあげたあとで、やおら顔を見せて客の話し相手をしている。
怪我(病気)の功名とは、このことかもしれない。

エリたちが手伝うようになって「ロリン」の売り上げが伸びることは喜ばしいことだったが、半二は仕事に追われるのは嫌だった。なるべく彼女たちに表にでてもらって、半二は裏で焙煎をしたり仕込みをしたりして引っ込んでいた。暇なときは彼女たちに任せて自分は隣の部屋で寝ころがっていた。

痛風でブラブラしているときに文庫本を1冊読んだ。地味な作家だが誠実な感じで好感がもてた。むかし彼の小説を読んだことがあったが、訴えるものが弱く共感できないまま彼を忘れていた。小説ではなく学生時代の仲間や先生たちとの交流を語った雑文のような本だったが、じんわりと彼の人間性がかもしだされていた。それは若いころには気付かなかった人間の大切な質のようなものだった。

半二は図書館から彼の本を2冊借りてきて、ベッドに寝ころがって読み、疲れたらそのままうたた寝をするのが楽しみになった。

開店準備をすませてひと息ついたところだった。
「いいかしら・・・」
と言ってソノさんが入ってきた。彼女はクラブ「園」に出るまえに「ロリン」で一服していく。
「ちょうどいいわ・・・」
エリが3人分のコーヒーを淹れてくれる。その間、ソノはテラスに出て煙草を吸っている。止める、やめると言いながら禁煙できないでいる。クラブのママという職業柄やむを得ないのかもしれないが・・・。

「さいきん、煙草を吸わないお客さんが来なくなったのよ・・・でも、ここみたいに禁煙にするわけにもいかないし・・・」ソノ。
「そうね、クラブで禁煙は難しいわね・・・」エリ。
「いま日本の男性の喫煙率は30%だって・・・ソノさんの店は何%ぐらいなの?」半二。
「50・・・60%ぐらいかな・・・」ソノ。
「これからは喫煙率はどんどん下がるから煙草を吸わない人をターゲットにした方がいいよ・・・」半二。
「煙草の吸えないクラブなんてあるのかしら・・・?」ソノ。
「ロンドンのパブが禁煙になったらしいから、日本でもできるんじゃない?」半二。
「日本の家庭ではその30%の男性は(家族持ち)換気扇の下かベランダで吸っているらしいわよ」エリ。
「じゃ、とりあえず「園」でも換気扇の下を喫煙席にしようかしら・・・?」

「ところでさ・・・話はかわるけど・・・ここでジャズボーカルのレッスン、できないかしら?」ソノ。
ソノは半二にではなく、まずエリに向かって言った。エリはソノに紹介されて同じジャズボーカル教室に通っている。エリが首をかしげると
「ここでできるのなら、先生に相談してみようと思っているの・・・」
ソノはエリと半二の顔を交互に見つめて
「どう、いいでしょう・・・」
という感じでうなずいてコーヒーを飲んでいる。

ソノの考えは、こうだった。エリと自分が月2回バラバラに高田馬場まで通うのなら、先生にここに来てもらえばいい。そのためには生徒を最低あと2人、集めなければ・・・。
「私の店で候補のオジサンが1人いるけど・・・エリさん、誰かいない?」
エリの頭の中で春、オヤジ、タカの3人が並んでいた。春は誘えば習うかもしれないが、あとの2人はむりなようなきがした。
「とりあえず、春に声をかけてみる・・・」エリ。
「やるとしたら、いつやるの?」半二。
「先生に相談してみるけど・・・月2回ぐらいで・・・」ソノ。
「ここでやるのなら、日曜日と月曜日はお店が休みだから昼夜OKだけど他の日は昼間しか使えない・・・」
「それも先生に訊いてみるけど、生徒の都合もあるから・・・」ソノ。

5時に「ロリン」を開けてもすぐには客は来ない。だいたい6時ごろ。たまたまBがいたりするとお客さんが来るまでの間、エリはBに伴奏をしてもらって練習をしている。同じようなことをオヤジはクラブ「園」でしている。仕込みを終えると半二は隣の部屋で寝ころがって文庫本を読んでいる。店からエリの歌が聴こえてきて、いつの間にかウトウトしている。


(6)
ウトウトしていたが、たしかにエリの歌声はとぎれとぎれに聴こえていた。
20歳のころ、数人の仲間で話していて
「トッポイ奴だな・・・」
と、Y先輩に言われた。
47年も前の情景がなんの脈絡もなく、とつぜん想い浮かんだ。その頃、半二は大阪から上京したばかりで「トッポイ」という言葉をはじめて聞いた。意味が分からなかったが、なんとなく「おっちょこちょい」「お調子者」・・・といったニュアンスで受け止めて、聞き流していた。そのことを40数年間も忘れていたのに急に思い出して「トッポイ」の意味が気になりだした。

半二がうたた寝している隣の「ロリン」では、いつの間にかエリにかわってオヤジが歌っている。またシナトラの「マイウェイ」だ。
オヤジはクラブ「園」の開店前に行って他の客が来るまでの間、Bの伴奏でうたっている。ソノは自分が歌うこともあり、オヤジの練習だけは黙認している。
「園」では基本的に酔った客がピアノの伴奏で歌うことはお断りしている。ピアノはあくまでもBGMなのだが、なかにはどうしても歌わせろ、と迫る客がいて困る。そのかわり、断りきれずに歌っていただいた客には酔いが醒めるほどのサービス料をいただくことにしている。酔った素人がかわるがわる歌いだすと安っぽいカラオケスナックになってしまうのをソノは避けている。

半二が部屋を出て「ロリン」にはいると(境は扉1枚)ちょうどオヤジが歌いおわるところだった。7時になろうとするのに他に客は誰もいない。オヤジがカウンターにもどるとBも休憩にはいりオヤジの横にすわった。
「ありがとう。ご馳走するから、飲んで食べて・・・」
オヤジは横のBに飲食をすすめて心づけの小袋をわたした。「園」で歌うときもBにお礼のチップをあげているようだ。慣れてきたせいか、オヤジはBの伴奏が歌いやすいようだ。Bもオヤジの癖をつかんでホローしている。
AとBは、昼間タダでピアノの練習をさせてもらっているから「ロリン」では無給でBGMを弾いているのでオヤジのオゴリとチップは助かる。
「きょうは何があるの?」オヤジ。
「ざるそば、ですね。あとはトーストかサンド」半二。
「じゃ、天ざる、にしてよ」オヤジ。
「私も、私も・・・」エリとB。

いぜんは駅前のスーパーで天ぷらを買っていたが、もっと近くにチェーンの天丼屋さんができたので、そこで揚げたてを買っている。半二が適当に3人分注文すると20分後にできるとのことだった。引き取りに行くのはエリにお願いするとして、その間に3人分のそばを茹でなければならないから、大鍋にお湯を沸かして・・・ツユとワサビとネギを用意して・・・。

この冬に関西風「うどん」を出したところ好評で5月からは「ざるそば」をだしている。この辺にもイタリアンの専門店が何軒もできているのでスパゲティーはやめて、冬は「うどん」暖かくなると「ざるそば」にしている。でも、「天ざる」が出ない日もあるので注文がはいってから天ぷらを買いに行っている。

やはり天ぷらは揚げたてでないと・・・スーパーの冷えた天ぷらをいくら電子レンジやトースターで温めても歯ざわりがいただけない。天ぷらは「カリッ」「サクッ」でないと。
「美味しいね・・・まるでそば屋だよ・・・」オヤジ。
「美味しいわ・・・」B。
「オヤジさんの好きな紅しょうがの天ぷら、入れておきました」半二。
「おっ、ごぼう天もある、うれしいね」オヤジ。
「あらっ、半ちゃん、やさしいのね。気が利くじゃない」エリ。
「おいっ、痛風持ち、ビール呑めよ・・・」
きょうは上手く歌えてビール瓶をさしだすオヤジは機嫌がいい。

「やさしい、なんて言われたことないね。冷たい、と言われる。むかし、トッポイって言われたことがあるけど・・・どういう意味なんですかね?」半二。
「あまりいい意味じゃないよ。ずるい、抜け目がない、そんな感じだよ」オヤジ。
「へぇーそうなの。俺はてっきり、オッチョコチョイみたいな軽いかんじで受け止めていたんだけど・・・」半二。
「あれじゃないかしら・・・キザで不良っぽい・・・」エリ。
「なんか違うな・・・」半二。
「じや、生意気な奴ってことかしら・・・?」エリ。
「格好をつけている・・・っていう感じかな・・・?」B
年齢によるのか、地域によるのかみんなの解釈が違う。生きているかどうか分からないけれど、半二に向かってトッポイって言った奴を探し出してきて、そいつに尋ねてみるか・・・。
「半ちっゃんは抜け目がない、というより・・・間が抜けている・・・ウッフフ」オヤジ。

天ざるを食べ終えたオヤジが、やおら話し出した。
「去年、胃がんの手術をして胃を2/3取っただろう、それにしてはけっこう食べられるんだよね・・・人並みとまではいかないけど」
「胃が1/3しかない割にはやせないね」半二。
「そうなんだよ・・・」
オヤジは自分のお腹をなぜている。
「いまでも2ヶ月に1度、病院にいって診てもらっている。まぁ、異常はないんだけどね・・・まわりの病人を見ているとね、つくずく考えさせられるよ。車イスにのって押してもらっている老人。食事をスプーンで口にはこんでもらっている老人。こんなのばっかりだけど、彼らはまだいい方。ひと目につかないところでは寝たきりやボケ老人がベッドに横たわっている。悲惨な情景なんだよ、これが・・・」

「オヤジさんは大丈夫よ・・・小太りだし・・・」エリ。
「瘤取り爺さん?」半二。
「やせているより小太りの方が長生きするらしいけど・・・俺も79になるからね・・・いろいろ考えるよ。それでさ、尊厳死協会に入ったんだ」
「なんですか、それ?」エリ。
「まぁ、簡単に言うと延命治療をしないでくれ、という宣言なんだ」
「ふぅ〜ん」エリ。
「胃がんが再発するかもしれないし、転移するかもしれない。ボケたり寝たきりになる可能性もある。今は元気だけど、なんたって79だからよ、いつ何がおきるか分からない。だから、そうなる前に手をうったわけ」
オヤジは冗談っぽく、ポンと拍手を打ってひとり笑っている。

このところ週刊誌などでよく老人医療の特集などを目にする。気になっていて半二はつい読んでしまう。先週は安楽死が特集されていた。スイスでは治る見込みのない患者は医師の立会いのもとで安楽死が法律で認められている。だから安楽死をするために他国から年間何百人もの病人がスイスを訪れている。

「どうやって入会したの?」半二。
「その話は前から聞いていたんだけどね・・・同窓会やおなじ年頃の仲間と呑んだりすると、だいたい病気の話になるんだよ。それから、誰々が死んだとかね。もう、仲間の半分以上いないからね。そのなかには尊厳死協会に入っていた奴もいたりしてね・・・ネットで検索して資料請求すると無料で送ってくれるよ」
「やってみようかな?」半二。
「半ちゃん、まだ若いんじゃない?」エリ。
「若くないよ・・・岡ちゃんもノブも死んだしね・・・」

「俺が尊厳死協会に入った1番の理由はね、仲のよかった友人が植物人間になったからだよ。そいつは70歳でくも膜下になってね、離婚して女房が出ていったものだから、病状に気付く者が誰もいなくて発見が遅れたんだ。入院、即手術して命は取りとめたが後遺症が残ってね。手足が引きつけをおこしたみたいに縮んだままで伸びないんだ。口もきけず動くのは眼球だけなんだ。なんとか車イス生活ぐらいできるようにとリハビリをしていたけどね、病院が変わって、いつの間にかリハビリもやめてしまって寝たきりになっていた。それから3年間、薬漬けで植物人間になっていた。それでも生きているんだよ、悲惨だったよ。人命尊重という名の拷問だね・・・残酷だよ」
Bが席を離れピアノを弾きはじめた。バラードだった。

「治る見込みのない病人を薬漬けにして喜ぶのは製薬会社と病院と厚生省とそれらとつながっている政治家なんだ。その治療費は税金と国民の健康保険料だからね。半ちゃんたち団塊世代が後期高齢者になる頃には、今の制度を変えないかぎり健康保険はつぶれるよ」オヤジ。
「じゃあ、わたし達はどうなるの?」エリ。
「エリたち若者のためにも健康保険をつぶすわけにはいかないから、政府も尊厳死を認めて無駄な治療をやめることだね。ゆくゆくはスイスのように安楽死を認めるべきだと思うね」オヤジ。
「アメリカでも州によっては安楽死が認められているんだね。ユーチューブで末期がんの若い女性が安楽死する映像が流れていた」半二。
「ライブなの?」エリ。
「そう・・・」半二。
「もう・・・そういう時代なんだよ」オヤジ。

「・・・分かったわ、オヤジさんの尊厳死。・・・ねぇ、話、変えていい?この前、ソノさんから提案があったの。ここでジャズボーカルの教室をやらないか?って」エリ。
「ここで?・・・先生は?」オヤジ。
「そう、ここロリンで。先生はね、わたしとソノさんが習いに行っている高田馬場のヒロ先生。わたし達、月に2回、高田馬場に通っているのだけど、もしこちらで生徒をあと3、4人集められれば先生に来てもらえるかも?ってソノさんが言っているのよ」
エリがソノさんの提案を説明している。
「それで・・・?」オヤジ。
「ソノさんはね、クラブ園のお客さんで生徒になりそうな人が1人いるらしいの。こちらの歌会のメンバーの中にも生徒になりそうな人がいると思うのだけど・・・」エリ。
「こちらの連中はみんなポップス系だからね・・・どうかね?」オヤジ。
「オヤジさんが習えばいいじゃない」半二。
「えっ?なに言っているんだよ。79歳のジジイがジャズボーカルを習ってどうするんだよ。我流でいいよ・・・娘のマサコなら習うかも知れんな。あいつ若いころ、大橋巨泉の元奥さんに習っていたから・・・」
「へぇーそうなの・・・むかし取った杵柄かしら・・・マサコさんの歌、なんとなく感じがでているものね。オヤジさん、春ちゃんにも勧めてよ」エリ。
「春ちゃんねぇ・・・ジャズ向きじゃないんだよね・・・。俺なんかより友達のエリちゃんから誘えばいいじゃない」
「さいきん、わたしよりオヤジさんの方が仲がいいんだもん、春」
エリがオヤジの膝をポンと叩いたらオヤジもポンとエリの膝を叩き返して、ニヤリとした。

その日の客は「ロリン」のホームページを作ってくれたシステムエンジニアの中田と奥のテーブル席に着いた中年カップルだけだった。カップルは赤ワインのボトルを開けて生ハムのサラダとチーズの盛り合わせで呑んでいる。このところ月に2回ぐらいのペースで来店している。夫婦ではないようだが服装や物腰から受ける印象はわるくない。
「フランスパンがあれば欲しい」
といった男性は70歳、女性は60歳ぐらいだろう。

「いま聞いていた・・・そのジャズボーカル教室の話、ロリンのホームページに載せましょうか?」
エリの横に座っていた中田が半二に話しかけながらエリを見た。
「いいわね・・・そうしていただけると有り難いわ」
エリは中田の方へ首をまわして微笑んだ。
「それじゃ・・・ロリンでジャズボーカル教室をはじめるので生徒を募集しています、ということで。・・・日にちとか料金なんかは?」中田。
「たぶんロリンの休みの月曜日か日曜日のどちらかになると思うけど・・・ねぇ、半ちゃん?」エリ。
「そうだね・・・第2日曜日の昼間は歌会だからね・・・月曜日がいいんじゃない?」半二。
「先生の都合もあるけど・・・月曜日がいいわね。料金は30分4000円だと思うけど、確認してからアップしてください」エリ。
「先生の名前は・・・」
「それも、ちょっと待って・・・」エリ。
「それじゃ、とりあえず募集しているとだけいれておいて、連絡先はロリンとエリさん?」
「ロリンはメールだけにしておいて。電話の問い合わせにはエリでないと返答できないよ」半二。
「私のメールと携帯を載せておいてください」エリ。


(7)
9時にエリとオヤジが帰り、10時にはBも中田も帰り誰もいなくなった。半二は洗い物をしながら「トッポイ」って、どういう意味なんだろう?とまた考えた。オヤジやみんなの解釈を思いおこしていると、どうもあまりいい意味じゃないらしい。
半二はオヤジの言ったように「ずる賢い」「抜け目がない」だったら嫌だなぁ、と思いながら自分はそんなに要領がいいとは思えなかった。「ずる賢くて、抜け目がない」ならもっといい暮らしをしているはずだ。会社では、はぐれて出世できず、なんとか2人の子供を育てて住宅ローンを払い終えたら、窓際で早期退職をせまられた。雀の涙の退職金で会社を追い出されると、この時とばかり、何年も前から計画していたかのごとく女房から三行半を突きつけられた。夫婦喧嘩のはてに啖呵を切って家を飛び出した半二は「ずる賢く」はないし「抜け目がない」とも言えない。

エリが言っていた「生意気」でもなく、Bの「格好をつけている」でもないような気がする。どちらかと云えば、中田が帰りがけに言った解釈が当たっているかもしれない。
「トッポイはTopからきているんじゃない?だったら、頂上、先っちょ、先端だよね。流行に乗っている・・・ことじゃないの?」
半二は服装などのファッションには無頓着だったし、政治にも興味がなかった。朝から夕方までジャズ喫茶で働き、夜は誰かと呑んでいた。たまにアングラ芝居や映画やコンサートに行った。確かに流行のサブカルチャーを好んでいた。Yが半二のことを「トッポイ奴」と言ったのは「流行のサブカルチャー好みの奴」という意味かもしれない。時代の波に流され、いい気になって風俗に染まっていた、と半二は自分の軽薄をかえりみた。Yから見たら半二はつかみどころのない調子のいい奴だったのかもしれない。
「いい気になって・・・チャラチャラしやがって・・・」

中田が10時に帰り11時まで誰も来なかった。ラストオーダーの11時半までに誰も来なければ店を閉めよう、と思っていたら意外な客が
「まだいい・・・?」
と、入ってきた。
「いいですよ・・・12時までですが。・・・どうしたの?」
小島さんだ。
「いま、警察の帰りなんだよ・・・いろいろ聞かれて嫌んなっちゃうよ」
「ずいぶん遅いじゃない」
「うん、呼び出されてね。都合がわるいって言ったら、夜でもいいから来てくれって言うんだ。しかたなく行ってきたら、こんな時間になった。まぁ、ブラブラ歩いて帰ってきたんだけど・・・コーヒー・・・お酒を飲めたら飲みたい気分なんだけど・・・」
半二は自分のグラスに氷を入れ炭酸水を注いでスコッチをたらした。クルクルっとステアーしてから氷の入った別のグラスに3分の1ほど分けて小島さんに差し出した。
「いま、コーヒーを淹れるからそれまでこれでも飲んで・・・」
半二がウイスキーソーダーを呑んでいると小島さんもグラスを鼻に近づけてから口に含んだ。口の中でウイスキーを転がしているようだった。ためらいながら飲み込むと追いかけるように水を飲んだ。
「ノミ行為がバレたんじゃないの?」半二。
小島さんは首を振って
「ノンデナイッテ・・・俺もそれを聞かれると覚悟をしていたんだけどね・・・そっちの話はちっとも出ないんだ。ノブのことだよ」
ウイスキーを一口飲んだだけで小島さんの顔は赤みがさしている。
「ノブとはどういう付きあいですか?と訊ねるから、遊び友達と答えたら、どんな遊びですか?と訊くんだよ。いっけん言葉使いは丁重だが態度が高圧的なんだ。嫌な感じがしたけど口論してもしかたがないのでおおむね知っていることは話しておいた、脚色してね。ゴルフ、マージャン、競馬・・・つい競馬って言っちゃったよ。でも、何も追及してこなかった。スナックなんかに飲みにいかないのですか?と訊かれたから、下戸なんです、と答えておいた」
小島さんは残り少ないウイスキーソーダーを薬のように一気に流しこんで、空のグラスを眺めまわし
「このお酒、飲みやすいね・・・それで写真を2枚見せられて、見覚えがないですか?と訊ねるんだよ。2枚とも中年女性でね・・・」
「ふ・・・ん・・・」半二。

「それで、ノブの再婚相手や元の奥さんのことを聞かれたけど、会ったことないんだよね2人とも。つい口がすべってタカなら知っているかも・・・って言ってしまって、悪いことした・・・」
「タカはノブと呑み歩いていたから、どっちみち呼ばれるだろう・・・」半二。
心配していたノミ行為の追及はなかったが、警察はそれを知らないのか、知っていて話題にしないのか・・・いずれにしても調べればすぐにでも分かることだ。警察がその気になればいつでも小島さんをパクルことができる。そのことが分かっているだけに小島さんは気を重くしていたが、少しのウイスキーで酔いがまわり警察でのやり取りを半二に話すとだいぶ気がまぎれたようだ。
「大丈夫だよ、奴等は凶悪犯罪担当の刑事だ。競馬のノミ行為なんか相手にしないよ。ああいう組織は縦社会だからね、情報が横断的に流れないんだよ。特別捜査班ができるような犯罪は別だよ。小島さんの場合は担当外だし雑魚だから・・・お目をこぼし・・・」
半二が自分の言葉にうなずくと小島さんもうなずいてニヤッとした。

小島さんは「ロリン」を出て家路につきながら思った。
「明日、スマホを買い換えよう。警察によってすでに情報は抜き取られているだろうが・・・」


(8)
岡ちゃんが亡くなって、しばらくしてからノブが「ロリン」に来るようになった。ノブと岡ちゃんは呑み友達でスナックの女性の奪い合いをしていた。その女性がソノさんで2人とも相手にされなかった。
岡ちゃんの後を追うように1年後にノブが死にタカが「ロリン」に来るようになった。タカもノブや岡ちゃんと顔見知りだった。半二もふくめてみんな小島さんに馬券を通していた。警察がその気になって小島さんのスマホと中央競馬会のデータを照合すればバレルだろう。


4時に目がさめてトイレに立ったあと、しばらくぼんやりしていた。昔のことがポツンポツンと何の脈絡もなくバラバラに想い浮かんでくる。現像液に浸かった印画紙に写真が浮かびあがるように過去の情景がジワジワと現れ、オヤジがその写真の記憶をたどろうとするとまたたく間に消えてしまい、また別の写真が染みでてくる。

そのうち新聞配達のゴトンという音がしてオヤジはベッドをおり、リビングでお茶を飲みながら約1時間かけて新聞を読む。それから近くの公園でラジオ体操をする。雨でも降らないかぎり年寄りばかり20人ほどがあつまる。体操が終わると急いで帰る者、仲間と世間話しをする者、連れ立ってダベリながら帰宅する者あり。オヤジはみんなに挨拶をしたあとは、ひとり散歩しながら喫茶店に寄ってモーニングを食べて帰る。行く店は3軒あって、その朝に食べたい物や歩きたい距離や気分によって選んでいる。

オヤジがいちばん気に入っているのは和食のモーニングを出してくれる喫茶店「栗」。家から遠くなってしまうが、ご飯を食べたいときはラジオ体操をした公園から20分ほど散歩をかねて歩く。60歳ぐらいの夫婦だけでやっていて、朝7時に開店して3時には閉めてしまう。11時までモーニング、11時から2時までランチ。土日と祭日が休み。

昔の旅館の朝食のように質素なモーニング。納豆と生卵と目ざしなど小さな干し魚が付いて、ご飯と味噌汁はお代わりができる。頼んで生卵を目玉焼きやスクランブルに焼いてもらうこともできる。オヤジは納豆に生卵を入れ混ぜて食べる。お新香、梅干、のりなどは自分で自由に取れる。お茶も好きなだけ飲める。
食後、店のスポーツ新聞を読みながらコーヒーを飲み30分かけて歩いて帰る。

「栗」の夫婦はあまり無駄口をたたかず、オヤジから話しかけないかぎりはほっておいてくれるのがいい。主人は数年前に美術の教職を辞し、自宅の1階を改造して夫婦で喫茶店を始めた。2階を住居にし、家賃も人件費もかからないから何とか続いているようだ。2人の子供は社会人になっているし、年金もあるだろうから利益の追求が眼目ではない。
自分たち夫婦や日曜画家たちのためのギャラリーでもある。

オヤジの娘マサコは料理が得意ではない。朝はトーストにコーヒーだけで済ませている。たまにオヤジが居るときはスクランブルエッグやあり合わせの野菜でサラダを作ったりするが、あまり料理はしない。昼は外食や出前が多い。ご飯はまとめて炊いて冷凍してあるのでスーパーやデパートでお惣菜を買い求める。マサコはいかず後家で亭主や子供のオサンドをしたことがないので食べ物を作る習慣がない。誰だって自分のためだけに毎日3度も食事を作るのはめんどうなことだ。

そのためだけではないが、春が休みの日などは自分の娘を連れてきて(亭主はどうしているのだろう?)マサコとオヤジのランチを作ったりする(パスタを茹で、市販のソースをかけるだけの簡単なスパゲティーなど)。春は意外にもマサコに気にいられ、2人は急接近している。そこへエリが合流することもあり、食事を済ませた春の娘が帰ったあと、このメンバーでカラオケボックスに行ったりもする。

「ねぇ春ちゃん、ボーカルのレッスン、受けない?」マサコ。
「エリさんからも誘われているの・・・でも、高いのよね」春。
「30分で4000円なら普通じゃないの。それに、オヤジが出してくれるわよ」マサコ。
「悪いわ・・・お世話になってばかりで・・・」春。
「そんなことないわよ。たまに食事でもしながらオヤジの話し相手になってくれればいいのよ。老人の世話は大変だから・・・とくにうちのオヤジはうるさくて難しいのよ。春ちゃんがいると助かるわ・・・よろしくネ」
ソノが「ロリン」の歌会でジャズを歌ったとき、春は「ステキだなぁ」と思ったが、エリのように習う気にはならなかった。お金もかかるし、通うのも大変だし・・・ジャズは何だか自分には合わない感じがした。それにジャズは難しい。

春はオヤジが胃がんで入院していた病院の看護師をしていたが、派遣社員だったので年齢が40歳になり、その病院との契約が切れ辞めた。今は個人の内科の病院にパートで勤めている。手術も入院の設備もない近所の老人たちの加齢症に付き合っている小さな病院。院長先生も患者と同じくらいの老人。奥さんが受付をして春ともう1人の看護師が働いている。
大学病院に勤めている息子が週に2日、手伝いに来るので若い病人はその日に来る。たいした設備がないので手に負えない病人には大学病院の紹介状を書いている。

春は土日祝日が休みで午前中3時間、午後3時間の勤務。以前の病院に比べると夜勤もなくなり変則なシフトでないので楽。その分、給料が半分になったが亭主や子供は喜んでいる。オヤジにとっても春の転勤は好都合だ。お昼の休憩時間が2時間もあるのでいつでもランチができる。オヤジは食事をご馳走するだけではなく、お小遣いもあげているようだ。

「私、習うつもりなのよ。春ちゃんも入りなさいよ。春ちゃんが入ればオヤジも来るから・・・」マサコ。
春はマサコがすすめてくれるのであれば付き合ってもいいな、と思ってうなずいた。
「私たち3人が入ればあとエリさん、ソノさん・・・なんとかなるんじゃない?」マサコ。

マサコからジャズボーカル教室の話を聞かされた翌日、オヤジからウナギを食べに行こうと誘われた。いつもの陰気な店で(美味しいが・・・)料理を待っている間にオヤジが日本尊厳死協会の入会書を見せた。

尊厳死の宣言書
(リビング・ウイル Living Will)について

(1) ご家族もしくは近親者が宣言書を保管しておいて下さい。万一の場合、宣言書が見つからなくて困るこ   とがありますので、保管場所は確認しておいて下さい。

(2) 主治医がおられれば、あらかじめ宣言書を見せて、不治かつ末期になったときの自分の考えを伝えて   おいた方がいいでしょう。

(3) 日本医師会は1992年に、日本学術会議が1994年に尊厳死(自然死)を積極的に容認しています。

(4) 宣言書の本文中の「ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命措置」ということは人工呼吸器や点滴   による人口栄養補給を含めるのが普通です。

春は看護師なので尊厳死協会のことは知っていた。たまに医師の指示で延命措置をしないことがある。その場合は他の病院かホスピスに移ることが多い。

「コピーだけど春ちゃんも持っていてよ・・・息子とマサコにも渡してある」オヤジ。

土用の丑が過ぎたせいか、辺鄙なせいか店にはオヤジたち以外には1組の中年カップルしかいない。オヤジが予約をしておいたので席につくと間もなくビールと肝の串焼きがでてきた。仲居の奥さんはあい変らず無愛想でオヤジと一言二言、言葉を交わすだけで春には話しかけない。軽くうなずくように会釈するだけだ。春もオヤジに連れられて通ううちに奥さんの無愛想に慣れて、それはそれで気楽でいい。

ビールで乾杯してから肝を食べ終えるころうな重(オヤジのはご飯が半分)が運ばれてくる。肝吸いとお新香。頼みもしないのに冷えたトマトのぶつ切りの小鉢がある。オニオンスライスがふりかけてあり、あとは塩があるだけだ。奥さんは何も言わないが、どうやら自分の畑の作らしい。

どのうなぎ屋でも、うな重には松竹梅とか何とか種類があるものだが、ここは3000円のうな重きりしかない。うな丼もない。メニューらしきものが見あたらない。
常連さんは適当に好みを伝えている。「うなぎをもう1枚のせてくれ」だの「蒲焼をくれ」だの「白焼きがいい」だの。
オヤジはいつも決まっていて「肝の串焼き」と「うな重」、日によってビールだったりお酒だったり。決まりと言えば・・・いつのころからか、うなぎ屋の側のラブホで休憩するのがコースとなっていた。

オヤジは歳のせいか昼酒がまわって休憩したくなる。春が用意した浴衣に着替え、ベッドに横たわるとそのまま眠り落ちそうだ。春も看護師の制服に着替えオヤジの脈をとる。腕にゴムバンドをはめ血圧を計る。
これは2人だけの儀式だ。

去年の2月、オヤジが胃がんで入院している間、春は看護師としてオヤジの世話をしていた。手術後、寝返りのうてないオヤジの身体を転がして拭いてくれる。髪の毛を洗ってくれる。ペニスにつながった管から垂れ落ちる小便の溜まった尿瓶を取りかえてくれる。看護師は交代制で他の人も同じことをしてくれるのだが、春のやり方だけはマニュアル的ではなく母親のような感触があった。

オヤジは横たわったまま春の腕を引っぱりこみ、口づけをする。はじめ、おとなしくしていた春の唇が動きだす。オヤジが吸うと春も吸う。じょじょに激しくなり、何やら呻きだす。オヤジが両の手で両の乳房をつかむと、春は「あっ」と漏らしてオヤジの両手に手を重ねる。オヤジは春の乳房が大好きだ。メロンのように大きくてゴムまりのようにやわらかい。
棟方志功の版画の女性のようだ。

オヤジが春の看護師の制服のボタンに手をかけるも、あせる気持ちがそうさせるのか老いた指が思いどおりに動かないのかボタンがスムースに外れないので春が手を貸してくれる。オヤジが制服を左右に開くと春は起き上がり「しょうがないわね・・・」という感じで含み笑いをしながら制服を脱いでたたんだ。ついでにブラをはずしてオヤジを抱き寄せ、そのままベッドに倒れこんだ。オヤジはもてあそばれるように春の上になり赤子のように乳房に顔をうずめ乳首を吸った。右手をもう一方の乳房にあてがうと、つきたての餅のように指の間からこぼれそうでこぼれずたゆたっている。

春は自分の乳房を揉んでいるオヤジの手に手を重ね、もう一方の手でオヤジのハゲ頭を抱いた。オヤジの口は乳首を含み鼻の穴は豊満な乳房でふさがれて息ができない。窒息死するまえにオヤジは乳首に歯をあてた。ひるんだすきにオヤジは顔をはなし、深呼吸を3度した。

「痛い・・・」ともらしながらも春はオヤジのハゲ頭をはなさず抱きよせ自分の乳房に強くあてがった。オヤジの口と鼻は乳房にうずもれて・・・窒息死はゴメンだ、とばかりオヤジは頭をイヤイヤしながらみぞおちのあたりにずらして呼吸をととのえ、へそを舐めながら両の手で両の乳房を持ち上げるように揉んだ。

オヤジの顔がおへそまで降りてきて、まだ下がろうとすると「イヤ・・・」と言って春はオヤジの頭を押さえた。が、春の両手はツルッとすべってハゲ頭は落下していった。
オヤジは春の両膝を立てて開いた。草むらに顔をうずめるとスモークチーズのような春の臭いがした。そのむせかえるような春の臭いにもなれ舌先を突きだすと感じやすいところに触れたようで春の腰がピクッと動いた。オヤジは両手のひらを春のでん部に添えて逃げないように固定した。それからはお定まりのコースだった。

オヤジが胃がんで入院していたときは、自分では身動きひとつできない身体を春が転がして拭いてくれた。
あんなに有り難かったことはない。
いまでは、オヤジが大きな春を転がして愛撫している。そのうち春は自ら転がり身悶え求める。オヤジは忍耐強く入念に春の反応にこたえる。もはやオヤジは自分がしているのか、させられているのか、定かではない。

春はなにか小さくほえて下半身を痙攣させる。それからしばらく死んだように静かになる。そばのオヤジの血圧がさがり呼吸が整ったころ
「あらっ、寝ちゃったみたい・・・」
春は恥ずかしそうに笑いオヤジのハゲ頭を赤子のように抱き寄せる。

「サマータイム・・・・・・・・・・」
春はオヤジの顔を胸にあてがい何度も出だしの箇所を繰り返し歌った。
オヤジの顔は歌に合わせて左右に揺れ、小船に乗っているようだった。つきたての餅のように柔らかい豊満な乳房がオヤジの口と鼻にピッチリくっつき息苦しかった。意識が遠くへ去っていくようだった。このまま逝ってしまうのも悪くないなぁ、と思った。そうすれば、他人がなんと言おうと立派な「尊厳死」には違いない。

(9)
帰りのタクシーの中でオヤジは、うとうとしながらコックリしている。春はオヤジから預かった「尊厳死協会入会書」のコピーをどうしようか、思案している。持ち帰っても、もし亭主に見つかると説明がめんどうだ。亭主はオヤジのことをエリが主催する「歌会」の仲間のひとりしか考えていない。妻の春がエリやオヤジとカラオケボックスに行っているのは知っている。が、その程度の仲と思っているからオヤジの「尊厳死協会入会書」を見ると「どうしてお前がこんな物をもっているんだ」ということになりかねない。

「亭主に見つかると揉めるから・・・わたしより院長先生(オヤジが胃がんの手術をしてもらった)の方がいい・・・」
春がコピーを差し出すとオヤジはまだ覚めやらぬ虚ろな目で春とコピーをしばらく眺めていた。数秒たってからオヤジは春の言わんとするところに気付いてコピーを受け取り内ポケットに入れた。自分で自分に言い聞かせ納得したかのように何度もうなずいている。家路につくオヤジの足取りはたよりない。春はかけよってオヤジの腕を取って支えてあげたくなったが、立ち止まったまま見送っていた。誰が見ているか知れない。

「ロリン」の定休日の日、月に火、水、木もつけたして盆休みを5日間とることにした。もともと半二には商売っ気がない。1年半まえに「ロリン」を始めたころから10万の収入があればいいと考えていた。手取り8万の年金をたせば自分ひとり(半二は離婚してひとり暮らし)ぐらいの生活費にはなるだろう。もうすぐ67歳になるから、これから借金はしたくない。それだけではなく貯金もしたくはない。できることなら資産はプラスマイナス0で逝きたいと思っているが、そんな計算どおりにはいかないだろう。でも、2人の子供には迷惑をかけたくはない。

だから、半二はオヤジの入会した「尊厳死協会」に関心がある。

「ロリン」の定休日の日、月、とあわせて火、水、木も休むと半二が言い出したとき
「わたしがやろうかしら・・・その火木金・・・」
とエリがぽつりともらした。
エリならコーヒーも淹れられるし他の飲み物も作れる。どうせビールかウイスキーか、たまにワインがでるくらいだから・・・。お通しを作るのがめんどうであれば、お惣菜を買ってきてもいい。「ロリン」名物の天ざるもやらなくていい。
現在でも「ロリン」が暇なときでエリやAやBがいるとき、半二はカウンターの裏の自分の部屋で横になっていることがある。オヤジやタカなどは半二より女性陣がお相手してくれる方が嬉しいようだ。
「エリがやってくれるのなら助かるな・・・でも、ご主人の許可が出ないとね」
「たぶん、大丈夫だと思う」
エリはまったく問題ないという表情。

じっさいエリの亭主の藤田は、毎晩仕事帰りに3日間も顔を出した。火、水は1時間ほどいて自分が持ち込んだレコードをかけたりしていたが、最後の木曜日は遅く来てラストまでいた(いつもは12時だが、半二のいないこの3日間は10時閉店にした)。
水曜日にAが、火曜日と木曜日にBがBGMではいり、エリの手伝いもした。オヤジは地下まで降りてきて、特にBの日には開店前にきて歌っていた。エリも客がいないとBの伴奏で練習し、最後の木曜日はマサコと春も歌っていた。
半二がいたら
「いい加減にしてよ・・・」
と言って止めたであろうが、客は知り合いばかりだから
「いいだろう・・・知らない客が来るまでは・・・」
とオヤジがOKをだした。
7時になって歌わない客の中田(システムエンジニア)や素人の歌が迷惑になりそうなお客さんが入ってきたので身内の歌は終わり、BのBGMとなってガヤガヤとした雰囲気が落ち着いたピアノBarになった。。

「先生からOKが出たわよ・・・9月からだって」エリ。
「9月からって・・・いつやるの・・・」マサコ。
「ロリンの休みの月曜日、第1と第3だって・・・先生はいちおう5時から9時までロリンにいるから、その間にやりましょうって」エリ。
「予約を入れた方がいいわね」マサコ。

「ええ、わたしの方にメールを入れて、時間もね。1番の5時からはソノさんが全部予約済み・・・彼女は6時からクラブ園の仕事があるからね。1コマ30分4000円。2コマだと7000円。レッスンが時間どおりぴったり終わるわけではないし、生徒の入れ替わりにひと呼吸おくのでいちおう10分の余裕をみてくれ、と言われているのよ」エリ。
「分かったわ、だいたいの時間を予約指定すればいいのね・・・」マサコ。
「ええ、わたしの方でレッスンのスケジュール表を作りますが・・・30分ぐらいの誤差は(歯科の予約時間のように)でるかも・・・」エリ。

「先着順なの?・・・じゃあ俺、ソノさんの後ろにしておいて・・・」オヤジ。
「わたしはオヤジさんの後ろで・・・とりあえず。来られないときは前もってメールします」春。
「べつに今、決めなくてもいいのよ。そのときそのときで、みなさん都合があるでしょうから・・・それから、キャンセルはできるだけ早くしてね。当日キャンセルされると他の人に迷惑がかかるし、先生の収入減になるから」エリ。

「当日キャンセルは有料だね。・・・それから、入会金とか年会費とか、あるの?」オヤジ。
「わたしが通っていた先生の教室では年会費はなくて入会金が5000円でしたが・・・こちらの教室ではどうするか、訊いておきます、当日キャンセルの件も」エリ。
「エリさん、レッスン教室の規約みたいなものができたら教えて。ロリンのホームページに載せます」中田。

「ホームページ、見ましたよ。キレイにできているね」
エリの亭主の藤田が中田に話しかけた。
「いやー、まだ出来あがっていないんですが・・・」

はじめ、店をやるならホームページを作った方がいいよ、といろんな人に助言をされた。自分で作ればタダでできるよ、コマーシャルがはいるけど、と。しかし、半二はシステムに弱い。さいきんやっと携帯からスマホにかえたばかりで、電話とメール以外はまだ使いこなせていない。
中田がシステムエンジニアだと分かったのでホームページのこを訊ねたら、わが社で作りましょうか?という話になった。値段を聞いたところ、内容にもよるが10〜20万ぐらいする、と言う。なにも株式会社のHPを作るのではない。個人の店のHPを作るにしては高いと思い、断った。

するとしばらくして中田から、私がアルバイトで作りましょうか?という申し出があり、5万でいいと言う。アルバイトということは彼の会社を通さないで中田の小遣いかせぎ。その小遣いはどうせ「ロリン」で呑んでしまうだろう、と思い中田に頼むことにした。

「ロリン」のHPは未完成だが、店の入り口、店内の写真をアップしている。メニュー、営業時間(17時〜24時LO23:30)、休日(日、月、祭日)。電話番号、メールやHPんのアドレス。店へのアクセス地図。催しものとして今のところ第2日曜日昼間の「歌会」とAとBの「BGM」のスケジュールを載せているが、これからは「ジャズボーカル教室」の案内も。中田は半二に週に1回でいいからブログを書いたり写真をアップすることをすすめている。毎週HPが更新されているとアクセスする人も増え、なかには「Jazz &Cafe Bar Rollins」に足を運ぶ人もいるだろうから。

「じゃあ、さっそく先生と相談して教室の案内を決めますので中田さん、HPに載せてください」
エリがお願いすると中田はうなずいている。
「あのピアノのメーカーや型番もアップしてAとBのように練習者の募集をしてみては・・・?もしかして、ライブをやりたいというミュージシャンが現れるかもしれないし・・・」
エリの夫の藤田の提案にも中田はうなずいている。
エリ夫婦と中田の3人で「ロリン」のHPの話がつづいている。
オヤジとマサコと春の3人で「ジャズボーカル教室」の話がつづいている。
半二のいない間にいろんなことが決まっていく。そのようにして「ロリン」がみんなの場所になりつつある。

大阪には兄と姉がいたが、半二は離婚してブラブラしていたこともあって親族に会わせる顔がなかったし、身内の冠婚葬祭もほとんど終わってしまうと帰省することもなくなっていた。お盆も過ぎて急に墓参りを思いたったのは亡き両親に呼ばれたのかもしれない。故郷の大阪に帰ったのは5年ぶりだった。

「肝臓がんになってな、来週、手術することになってんねん」
そう言う兄はがん患者には見えなかったが、1ヶ月前、朝おきたら黄疸がでていた。病院に行くと即入院だった。すぐに肝臓がんと判明したが体力の回復と精密検査のため1ヶ月も入院していた。正確には胆管がんから肝臓がんになっており、肝臓の70%を切除することになった。容態が落ち着いたので手術まえの1週間だけ自宅待機になったところへたまたま半二が帰ってきた。

虫の知らせだったかもしれない。

「オマエに連絡しようと思ったが、心配させるのもなんだから手術後に・・・」
そう云えば、半二が昨年の2月に胃がんの手術をしたときも退院してからの事後報告だった。兄弟とはいえ数年も音信不通だったのに、いきなり胃がんの手術の電話をするのは気がひけた。だから兄の気持ちは分からないでもない。

その夜は半二ひとりが呑み、兄は食欲がないようで缶詰の冷えた桃やみかんを少し口に入れていた。病気の話はさいしょだけで、その後は半二の現状報告となり「ロリン」の話をした。

兄は半二の家族のことはさけて訊ねなかった。
兄の2人の子供の家族のことや孫の話をした。兄の妹で半二の姉の家族の話など親族の暮らしぶりが語られた。そのうち昔話になり兄や半二が子供のころの話になった。60年ぐらい前のことだ。
半二は、ふと前々から気になっていたことを兄に訊ねてみた。

「親父はなんで警察を辞めたのかなぁ?」
親父は東京の上野で警察官をしていたが辞め、大阪に流れて昭和17年ごろ母と所帯をもった。戦前では今では考えられないほど警察官の社会的地位は高く、ほとんどの人が定年まで勤めていたのに何故親父は途中で辞めてしまったのか、半二には疑問だった。
「酒とちがうか・・・たぶんそうやろう・・・」
兄も正確なことは知らないようだった。
半二の想像では親父が上司と喧嘩をして・・・辞めたことになるのだが・・・。性格からして親父は警察のガチガチの組織では息苦しくて勤まらないような気がしたが、だからといって安定した生活を棒にふってまで自分から退職を申し出たとも考えにくい。日々のウップンを酒でまぎらわしているうちに不祥事でも起こしたのか?

兄は半二より5歳年上だけに半二より親父の姿をよく見ている。親父は「アル中だった」いえば大げさにすぎるが、それにちかい酒の呑み方をしていた。たまに、帰宅してから暴れて母を困らせることもあった。兄は子供のころから親父のそうした乱れたふるまいを目にしていたから
「酒とちがうか・・・」と言ったのだろう。
どのような不祥事なのかは分からないが、酒がらみのトラブルで親父は辞職せざるを得なくなったのではないか、というのが兄の推測だ。たぶん、そんなところだろう、と半二も思った。本当はもっと詳しく、不祥事ならどんなで不祥事なのかを知りたかったのだが・・・。

翌朝の墓参では、それほど汚れてもいない墓石の雑巾がけをした。兄が対になった植木を球体に剪定して
「これで、さっぱりしたな・・・」
散髪したての子供の坊主頭をなぜるようにして言った。
兄は親父が好きだった芋焼酎を墓石の頭からふりかけ、供えた。線香をあげ、手を合わせる。かわるがわる半二も兄嫁も墓石の前にしゃがんで手を合わせた。
兄は来週に肝臓がんの手術を控えているせいか、永くしゃがんでいた・・・兄嫁も。

半二は、俺は何をしにここに来たのだろう、と思った。お盆も過ぎてからきゅうに思いたって墓参に来てみたけれど・・・それは、たまたま連休がとれたからだが・・・亡き両親に呼ばれたような気もするし、兄の病気を虫が知らせてくれたのかもしれない。
半二はもっと詳しく親父のことを知りたかったのだが・・・。
「色即是空  空即是色」
半二は手を合わせて3度くりかえした。


(10)
半二が休んで大阪に帰っている間も「ロリン」は営業していた。日、月は定休日だったが火、水、木は半二の代わりにエリがやった(いつもより2時間早い10時閉店だったが)。AとBがBGMをやりながら手伝ったしエリの夫の藤田も自分の好みのレコードを回しにきた。春もボランティアで接客をした(マサコとオヤジの話し相手だが)。

半二は帰りの新幹線が京都を出たころから兄嫁が持たしてくれた弁当をひろげ、缶ビールを呑んだ。おにぎりにお新香、前夜の酒席の残り物。名古屋に着くころには500mm缶のビールを呑み弁当を食べ終えていた。うとうとしながら墓参りの情景を思い出していた。気付くと電車は浜名湖を通過している。少し眠ったようだ。
「確率は半々だと思っている」
と、兄は人ごとのように言った。

昨年、有名な女優が兄とまったく同じ胆肝がんでなくなっている。一応、手術は成功していたが2年後、激やせした姿をテレビで見せ、視聴者を驚かせたかと思う間もなく死んだ。だから難しい病気には違いない。
ビールはもう欲しくなかった。半二は売り子が押すワゴンでミニチュアのジャックダニエルを買い、氷を求めてロックにした。

昼下がり、右手に太平洋の海原が広がり波もなく、8月の光を反射している。半二は車窓いっぱいの海を見ていて、何も言うことがない。プラスチックの透明なフニャフニャのコップをゆすって氷を回しウイスキーを口に含んでいた。
列車は思い出したように数箇所のトンネルに入り、半二はその暗がりの中で兄を想った。
半々で死んだらそれまでだ。
半々で成功しても、有名な女優のようなことがある。
来週にせよ、2年後にせよ、あるいは10年後であったとしても、人はみな死ぬ。熱海の海原は人の死も生も呑みこんで許容して目の前にある。半二はロックを呑んで、ただ海を見ていた。


半二が5日ぶりに「ロリン」に出ても何の変わりもなかった。あれっ、と感じるようなちょっとした驚きがあるかと思ったが、いつもと変わらぬ金曜日だった。エリとはメールのやりとりをしていたので、その日その日の来客者や売り上げは分かっていた。それだけの情報で店の様子が目に浮かんだ。
ということは、半二がいなくても「ロリン」はやっていけるといことだ。エリがいれば、という条件がつくが、オヤジも冗談半分に同じようなことを言っていた。それは嬉しいような嬉しくないような、なんとも妙な感じだ。ただ半二には5日ぶりに「ロリン」に出て新鮮な気分があった。
その気分をうまく説明できないのだが・・・大阪に帰り兄に会って話しあったことで、昨日の自分とは違う新たな自分になったような気がした。

半二が休んでいる日の売り上げは半二がやっている日の倍の2万もあった。3日で6万。で、半分の3万円をエリに渡した。
「あらっ、多いわ・・・」と言いながら
「AとBと春ちゃんにもお礼をしなくちゃ・・・」
エリは札を手に口元を隠して目で笑って半二と札にお辞儀をした。
「近いうちにに大阪に帰ることになりそうなので・・・そのときは、またお願いします」
半二は兄の手術のことはまだ誰にも話していなかった。
「いいわよ・・・でも、早めに言ってね。急にたのまれてもできない日もあるから・・・」

半二が休む3日間はピンチヒッターでエリがやること、AとBが手伝うことを中田がHPに載せた。「ロリン」の告知板にもその旨のポスターをピンナップした。なによりもエリのくちコミが効いた。「ロリン」の客だけではなく自分の友達にもメールで集客していた。だから日ごろ「ロリン」に来ないエリの友達がもの珍しげに覗きにきた。楽しそうにカウンター内のエリと話し合っている中年女性の姿は今までの「ロリン」にはない情景だった。

たいていの場合、ジャズオタクっぽい中年と若いころジャズをかじっていた老人が、その知識を披露したり経験を自慢したりすることが多い。看板の「Jazz」の文字に惹かれて「ロリン」に入ってくる客は「Jazz」に強いこだわりがある。それがなければ、わざわざ得体の知れぬ地下の店まで降りては来ない。
逆に云うと「Jazz」という文字が壁になっていて、興味があり入ってみたい人にとっては敷居が高い。で、けっきょく一般客が入らず、客の絶対数がたりない。そんな訳で「ジャズ喫茶」のほとんどは潰れている。かろうじて営業しているのが「Jazz Bar」「Jazz Live House」。川越には1軒だけ週末にライブをやる店があったが、その店も去年なくなった。

ジャズに関心のないエリの友達がきているので、亭主の藤田は気を利かせて古いアート・テイタムのピアノトリオやエバンスなどをかけている。スイングするビッグバンドをBGMにしたりAに映画音楽やシャンソンを弾いてもらったり。まったく音楽に反応しないでオシャベリに夢中になっているエリの友達もいるが、なかにはAのピアノに耳を傾けるオバサマもいる。
「なかなか感じのいい店じゃないの・・・またこんど来てみるわ・・・」
帰り際にそんなことを言うエリの友達もいた。

そのエリの友達は中学高校とブラスバンドでトロンボーンを吹いていた。もう永いあいだ楽器を触ってはいないが、たまに大学のビッグバンドの演奏を聴きにいく。「ロリン」に来てみてジャズのビッグバンドに興味がわいた。コンボでもトロンボーンがはいっているのなら聴いてみたい。そんなことをエリに告げていた。
どうように高校までピアノを習っていたエリの友達がAのピアノ演奏に興味を示した。有名な映画音楽やシャンソンはよく聴いてしっていたが(自分でも少しは弾ける)、はじめて聴くエバンス(ジャズピアニスト)の演奏が気に入って
「エリが店に出る日は来るよ・・・」
「早めに出番をメールして・・・」
エリの友達はみな同じようなことを言って帰った。

「たまに店を手伝おうかしら・・・」
エリは週に4日、パートで9時から3時まで働いている。建築事務所で事務と電話番。夜は空いているが女子高生のひとり娘がいるのでそう頻繁に家を空けられないが・・・。
エリはパートの帰り、たまに「ロリン」に寄る。営業前に来てトイレ掃除をしてくれる。半二が仕込みや焙煎をしている間に掃除機や雑巾がけをしてくれる。毎日ではないけれど、週に2回ぐらい。掃除がおわると自分でコーヒーを淹れ半二と飲んで開店前には帰る。

べつにエリがソノさんを避けているわけではないのだが・・・エリが帰ってから計ったように入れ違いで「クラブ園」のママが来ることがある。ソノさんは自分の店に入る前に「ロリン」でコーヒーを飲んで一服していく。
「ロリン」の歌会に参加していたソノさんのなにげない思いつきで「ジャズボーカル教室」の話が持ちあがった。ソノさんに紹介されてエリも高田馬場までレッスンに通っていたので、それならいっそうのこと、先生に川越に来てもらおう、ということになった。「ロリンでジャズボーカル」の発案はソノさんだったが、先生と「ロリン」の半二の間にはいってまとめたのはエリだった。

毎月第1と第3月曜日(月曜日はロリンの定休日)、5時から10時までの間。予約制。30分4000円、1時間7000円(1ドリンク付き)。入会金5000円、年会費なし。

先生から、生徒を5人以上集めてくれれば川越で「教室」をひらいてもいい、と条件がでたのでエリはとにかく知り合いをかき集めた。
オヤジ、春、マサコ、エリとソノさん、「クラブ園」の客C。この6人でスタートした。

「ロリン」でジャズボーカル教室を始めてから、エリはパートの帰りに「ロリン」に寄ることが多くなった。川越西口にある職場から駅をまたいで5分。たまに半二にたのまれて買い物をしていくこともある。それでも3時半には店に着く。1時間かけてトイレ、掃除機、雑巾がけをする。それから自分でコーヒーを淹れて(半二のぶんも)雑談して帰る。
「週に2回ぐらい、お店手伝っていこうかしら・・・?」
話のながれでエリがそんなことをもらした。
「うん・・・助かるね、そうしてもらうと」半二。
「まだ曜日ははっきりしないけど・・・時間も8時ぐらいまでかな・・・」
「ご主人には話してあるの・・・」
「まだ・・・タイミングを見計らって・・・機嫌のいいときにね」
エリの亭主の藤田は50歳ぐらいのインテリアデザイナー。都内で仲間と小さな事務所を構えている。ジャズのLPを200枚ぐらい持っていてCDもそれくらいある。「ロリン」に置いてあるLPやCDはほとんど藤田のものだ。「ロリン」のスピーカーやプレイヤーは藤田の仲間のオーディオマニアの山下が持ち込んだもの。そんなわけで藤田は仕事帰りにふらりとやってきて自分の古いLPをかけウイスキーを呑んで帰る。

初回の「ジャズボーカル教室」は5時からソノさん、そのあとオヤジ、春、マサコとつづいた。1コマ30分授業だが、じっさいは40分ぐらいで休憩をいれるので1人45分はかかる。そのへんの時間調整を含んだスケジュールを組まなければ・・・多少ルーズに。
ソノさんのレッスンはすでに高田馬場で習っているのでスムースに終えたが、オヤジと春は初めてなので発声練習から。

オヤジは「クラブ園」や「ロリン」でシナトラの「May Way」ばかり歌っている。79歳になり声量も落ちてきたがバリトンのいい声をしている。先生はレッスンの最後に生徒に1曲歌ってもらうことにして
「いいわね・・・うんうん・・・いいわよ〜」
と誉めるが、オヤジの歌はどうしてもジャズには聴こえない。演歌、歌謡曲になってしまう。あの美空ひばりでもそうなってしまうのだから・・・やむを得ない。春はJポップ調だがオヤジに比べて若いだけに可能性を感じる。半二がいちばん感心したのはマサコ。若いころレッスンを受けていただけにジャズの感じをつかんでいる。
「なかなかやるじゃないの・・・」
先生も伴奏をしながら楽しそうに身体を揺らしている。

ソノさんにさそわれて習いに来た「クラブ園」のお客さんCは70歳ぐらいでスーツを着ていたせいか重役サラリーマンに見えた。可もなく、不可もなし、といったところ(カラオケでは上手いのかもしれないが)。発声の基本からやらなければならないようだ。

エリは習いはじめて3ヶ月。やっと先生の人柄も分かってきてレッスンの要領がつかめてきた。はじめに発声練習をして、それから前回指摘されたところを歌ってみせる。そこで先生はエリが復習したかどうかチェックして再度課題を出す。
歌い方だけではなく楽譜の解釈、歌詞の意味だけではなく、その背景やストーリーを想像すること。そうすると自然と自分の感情や心の動きが表現される。

「最初は好きな歌手の物まねでもいいの・・・サイショはね。でも、いつまでもコピーではね・・・うまく聴こえても、つまらない。だからきちんと理解して自分の解釈で歌わないとね・・・」
だから先生は1曲の歌を何ヶ月もかけて教える。
エリは「Speak Low]を少しだけ、ほんの少しだけ歌えるようになった。

レッスンが途切れとぎれに聴こえてくるカウンターで、コーヒーを淹れていると兄のことが半二の頭のすみをかすめた。コーヒーを淹れているときは他の作業はせず、余計なことは考えないでお茶を点てるときのように(お茶は点てたことはないが)無心でお湯とコーヒーの粉の戯れを眺めている。
そう心がけているのだが、大阪から帰ってから何をしていても水が低きに流れるように考えが兄の方へ落ちていく。死の陰がチラチラ見え隠れする。

半二は歌わないが、兄は歌が好きでよくカラオケスナックで歌っていた。おそらくピアノの伴奏で歌ったことはないだろうし、ジャズなど歌えないのに何故か兄がレッスン教室のみんなに混じって歌っている姿がでてきて、半二はその場違いさに苦笑した。

急に思いたって、半二は帰省した。5年ぶりのお墓参りが目的だったが、いきなり
「胆肝がんの手術をすることになった」と、兄。
たしかに、やせて食欲がなさそうだった。兄は好きなタバコもビールも欲しくない、と言う。40日間も検査入院をしていて手術日が決まり、それまでの1週間は自宅でゆっくりしていいことになった。そこへ偶然、半二が帰ってきた。

「せっかく用意したから・・・食べてや」兄嫁。
「呑んで・・・」
兄がビールをついでくれるが、自分ひとりではすすまない。
半二は1年半前にした胃がんの手術の体験談を話して、それとなくはげました。ついでに離婚したいきさつや退院後にはじめた「ロリン」の近況報告をした。半二はオヤジに教えられてから考えている「尊厳死」のことが喉元まで込みあげてきたが、数日後に手術をひかえている兄夫婦には言い出しかねた。
兄の好きなビール(兄はお酒はビールしか呑まない)を目の前でひとりで呑んでも美味くないので焼酎に変えてもらった。

9月の2回目の「ジャズボーカルレッスン」を終えてから、毎週土曜日の昼間、自主練習をしようよ、ということになった。エリが幹事で、歌いたい人、来られる人がきて歌って帰る。かなりルーズでシバリのない練習。とりあえずBが歌伴のピアノをやる。
半二はエリに全部まかせて顔を出さないが、場所代はもらえるらしい。歌った人がお金を出し合ってピアニストのBに心づけを渡している。それらの決め事はエリがオヤジに相談している。1時から始まり「ロリン」の開店5時までだが、客が来なければ来るまでやっている。

歌い終えたオヤジがカウンターにやってきて
「ノブの奥さんのアパートを調べたよ・・・」
オヤジは不動産屋をやっているだけに、すぐに分かったようだ。
「あのアパートは土地も建物も奥さんのものじゃないよ。うちの息子が新河岸の不動産屋に問い合わせたんだ。ノブの奥さん家族はあのアパートの所有者じゃなく、ただ住んでいるだけだって・・・」
「じゃぁ・・・ノブはだまされていたのか・・・?」半二。
オヤジの横にいたソノがつぶやいた。
「うちのお客さんが言っていたのよ・・・ノブもノブの前の亭主も心臓麻痺で亡くなっている。さいしょの亭主も病死らしい、病名は分からないけど・・・それとね、ノブさんが死んだときホテルにいっしょにいた女性は奥さんだって」

タカも歌い終えてカウンターにやってきて
「夫婦でラブホなんかに行くかね・・・? 遠出しているのなら分かるけど、あいつの家から徒歩10分だよ。それに・・・子供もいなくて2人住まいなんだから・・・なんで近所のラブホに行くんだよ?」タカ。
「そのへんのところは警察が事情聴取しているだろう・・・」オヤジ。
「なんか、変だよね・・・」タカ。
「みんな、あやしいって・・・」ソノ。
「アヤシイ、だけではダメなんだよ、証拠がないと。今は自白だけでは無理だし、状況証拠を集めても難しい。裁判がもたないからね。もちろん内偵はしているだろう。ノブの解剖結果もでているだろう・・・」
オヤジが話題を変えるように
「ビールくれよ」
と、言うとタカも欲しいという。
歌い終えた春がオヤジの横に座ってビールをついだ。
春の次にエリがロバータ・フラッグの歌を歌いはじめた。

「Killing Me Softly With His Song]




        「 記憶と幻想のコラージュ」その2  終わり


          これはフィクションです。

         メール nagano_taku@yahoo.co.jp



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