記憶と幻想のコラージュ その3 

「Love For Sale」


  概略
半二・・・・・定年前に退職。離婚、胃がんになり病院の大部屋でオヤジと一緒になる。団塊世代。
オヤジ・・・駅前の不動産屋の2代目。会社を息子に譲り、悠々自適の隠居生活も胃がんになる。
      不動産屋の地下の空き店舗を半二貸す。
春・・・・・・半二とオヤジが入院した病院の看護師。
エリ・・・・・春の友達。オヤジの「歌声の会」に春と参加していて半二の店開きを手伝う。
ソノ・・・・・「クラブ園」のママ。通っていたジャズボーカルの先生を「ロリン」に呼んで「ジャズボーカル教室」を
      提案。千田は「クラブ園」の客で古い付き合い。
マサコ・・・オヤジの1人娘。50歳ぐらいの行かず後家。不動産屋の2階でオヤジと同居。
ノブ・・・・・ラブホで死ぬ。殺されたのかも?
タカ・・・・・ノブの飲み友達。さいきん「ロリン」の常連になる。
小島・・・・競馬のノミ屋をやっているらしい。ノブが死んだ夜、小島から10万円の配当を受け取っている。
藤田・・・・エリの亭主。インテリアデザイナー。オーディオマニアの山下は彼の仕事仲間。
中田・・・・「ロリン」のHPやライブのDVDを作っている常連客。
A・B・・・・「クラブ園」と「ロリン」でBGMのピアノを弾いている音大生(女性)。部屋をシェアーしている。


(1)
「ノブの遺体から薬物が検出したらしいよ・・・」オヤジ。
「薬物って・・・?」タカ。
「青酸カリらしい・・・」オヤジ。
「ええ・・・ホンマですか?」半二。
「オレも又聞きなんだけどさ・・・」オヤジ。

ノブが死んで半年もたってからそんな噂がまことしやかに流れている。

エリは半年かけて「Speak Low」が歌えるようになり、12月にはいって「Killig Me Softly・・・」の練習をしている。オヤジも「May Way」は卒業というか終わりにして、このところ「Autamn Leaves}ばかり歌っている。

だれが言いだしたのか、年末に「ジャズボーカル教室」の発表会をやろう、ということになり・・・

「それなら早く先生に相談しなくちゃ・・・まず、先生のスケジュールを押えてから・・・」エリ。
「Bの伴奏でもいいんじゃないの・・・?」オヤジ。
「それでは、いつもの練習とかわらないじゃない? 発表会だったらヒロ先生がいないと・・・」エリ。
「店の営業は28日までだからね・・・29日は大掃除。5日まで正月休み」半二。
「ずいぶん休むね。ハワイにでも行くのかい?」オヤジ。
「ご冗談を・・・寝正月ですよ」半二。

「先生ねぇ・・・28と29が空いているって・・・」エリ。
「じゃあ・・・28日だね。ちょうどいいよ、それで今年はオシマイ・・・」半二。
「では28日で決定。細かいことはのちほど・・・」エリ。
「先生にも歌ってもらったらどうだ・・・?」オヤジ。
「そうね・・・それもいいわね。先生に頼んでみる」エリ。
「前半、俺たち生徒が歌ってさ・・・後半は先生のライブにすればいいじゃないか・・・」オヤジ。
「先生に相談してみる。そうなると、お礼とかギャラとかもあるし・・・」エリ。


半二はオヤジが言ったノブの死因のことが気になったが、噂の域をでない話なので深追いはしなかった。タカ
もエリや他の客のまえではノブの死因については訊ねづらかった。オヤジの話が根も葉もない噂とも思わなかったが人聞きのいい話でもないのでスルーしていた。

小島さんが9月に事情聴取をうけたあと、タカも警察に呼び出された。
ノブとの交友関係をひとしきり訊かれたあと、ノブの奥さんのことを事細かく訊かれた。タカは
「知らない・・・知らない」
と、答えるよりなかった。
じっさいタカは奥さんのことは何もしらない。ノブといっしょに呑みに行っていたスナックの女性がノブの奥さんになっただけだ。タカの好みのタイプではなかったので関心がなかったし、なんでこんな女と結婚するんだ、と不思議なぐらいだった。
そんな感想を刑事に話したのを覚えている。
「えらく痩せていて、刺のある般若顔だった・・・」
と、タカが話したときだけ刑事がニヤッとした。


ほぼ「Cafe & Jazz Bar Rollins」のHPができあがった。
スケジュールのページに第1・第3月曜日の「ジャズボーカル教室」と第2日曜日昼間の「歌会」の催しを載せた。それから12月のAとBのBGMの予定表をアップした。

別枠で「ジャズボーカル教室発表会」&「Live ヒロ大橋(vo))+ジョージ大橋(p)」の告知をした。

12月28日 6時Open 発表会7時Start〜8時 Live8時30分Start〜9時30分

はじめ発表会とLiveで3000円(1ドリンク付き)だったが、生徒の希望で発表会とLiveを別売りにすることにした。生徒には1人チケット5枚のノルマがあり、聴きにくる生徒の友人や家族は発表会だけでいい人が多い、ということだった。それで入れ替え制になり2000円(1ドリンク付き)となった。1部2部、通しの料金は3000円(2ドリンク付き)。

とりあえず選曲を決めなければならないが、ソノとマサコ以外はみんな持ち歌は1曲しかない。だからすでに決まっているもどうぜんだが・・・念のため先生と本人に確認して12月の2回のレッスンで仕上げなければならない。

エリは「Killing Me Softly・・・」を歌いたかったが、まだ歌いこなせない。ヒロ先生も許可しないだろう。だから「Speak Low」を2日間かけて復習。オヤジは歌いなれた「May Way」にしたかったが、ヒロ先生のすすめもあって「Autamn Leaves」を歌うことになった。春は「Summertime」。
ソノは「Love For Sale」か「All Of Me」のどちらにしようか迷っている。「クラブ園」の客の千田はまだ「My Funny Varantin」しか歌えない。

チケットは生徒1人あたりノルマが5枚なので、それだけでチケットはさばけている。ただ、歌う生徒の家族で子供やお年寄りは1部だけで帰ってしまうので、その空いた2部だけのチケットを売りたいとエリは考えている。「発表会」で歌う生徒と関係のない客は素人の歌など聴きたくないだろう。だから「ヒロ大橋(vo)Live with ジョージ大橋(p)」2000円(1ドリンク付き)の告知をすればいい。

半二は知らなかったが、ヒロ先生のご主人のジョージ大橋さんは業界では名の通ったピアニストだった。昔は
有名なジャズマンと共演して、サイドではあるが多数のLPにはいっている。おもに銀座のクラブやホテルのラウンジなどで歌伴をしていたが、高田馬場にお店を出してからはそこでヒロさんの伴奏をしたり、昔のメンバーとライブをしたり、レッスンしたりしている。

ヒロ先生は60歳ぐらいでジョージさんは70をこえている。
ヒロ先生はジョージさんの生徒だったらしい。


「クラブ園」でチケットが売れている。
「ロリン」でも後半2部のチケットが売れている。
エリは毎日、チケットの売れ行きや予約の確認をして一喜一憂している。
「ねぇ、ホームページにさ、ヒロ先生とジョージさんのプロフィールを詳しく載せてよ。それを拡大コピーしてお店にも掲示して・・・」
エリは俄か興行しになった気でいる。

とにかく、エリを手伝って「発表会」とライブを成功させること。成功というのは客を集めることだが、みんなに
楽しんでもらう、喜んでもらうこと。だから、生徒にはしっかり練習をしてもらいたい。ヒロさんとジョージさんの
デュオはしょっちゅう自分の店でやっているから何の問題もないだろう。

ジャズピアニストのジョージさんを知らない、と言えばモグリ扱いされかねないが、半二は知らなかった。彼だけではなく、最近のミュージシャンは誰も知らない。半二が新宿のジャズ喫茶で働いていたのは1970年の秋から3年間でマイルスの新譜「ビッチェスブリュー」を聴いてついていけなくなったのを覚えている。そのアルバムはマイルスがロックを取り入れて(影響を受けて)エレキをふんだんに使っていた。
それからチック・コリアやハービー・ハンコックたちの音楽がヒュージョンの方へ流れていってから半二は積極
的にジャズを聴かなくなった。もう40年ちかくコンサートもライブにも行っていない。

50年代と60年代のアメリカのジャズしか聴いていないし、日本のジャズマンは渡辺貞夫と日野テルぐらいしか知らないのに「Cafe & Jazz Bar」の看板をかかげるのはちょっとおこがましい。恥ずかしながら、LPやCD は藤田さんからの借り物だし、音響は藤田さんの友達の山下さんが持ち込んだものだ。

「JAZZ」の看板は客寄せのつもりであったが、逆に客を寄せ付けない「壁」「バリアー」でもあった。
まぁ、それはどうでもいい。

小島が呼び出されたあとタカも呼ばれたが、半二には警察から声はかからなかった。ノブが死んだ翌日、刑事が2人で「ロリン」にきていろいろ訊かれた。
ノブは何時に「ロリン」にきて何時に帰ったのか。ここで誰と会っていたのか。ノブはここを出てどこへ行ったのか?ここにはよく来るのか。あんたとノブの関係は?

プロレスラーのような身体の若い刑事はたまに口元をゆるめることもあったが、小柄な年老いた刑事の方は表情がなく、陰気で傲慢だった。


(2)
「もう12月だなんて・・・早いわね」エリ。
「早すぎるよ・・・スピード違反だね」半二。
「オマワリさんに捕まえてもらおうかしら・・・」エリ。
「年々、早くなるんだよね・・・これが」タカ。
「なんでかね・・・子供のころは1年が気が遠くなるほどながかったのに・・・」半二。
「そうそう、正月にお年玉をもらうだろう・・・翌年の正月なんて想像できなかったね」タカ。
「小学生なんて夏休みもながかったぞ・・・それがどうだ、今じゃあ、あっという間に1年がたってしまう」
そういうオヤジをからかうように
「歳をとるごとに1年が早く感じてしまうから・・・オヤジさんなんかエラク早いだろうなぁ」半二。
「早いよ。右向いて左向いたら1年がたっている・・・」オヤジ。
「・・・歌舞伎みたい」エリ。

オヤジは79歳だ。今は元気だが2年前にガンで胃の3分の2を取っている。半二も胃の半分を取っている。たまたま同じ病院でオヤジと相部屋になった。同病相憐れむわけではないが・・・とにかく病院の大部屋が2人の出会いの場だった。同じ先生に胃を切り取ってもらい看護師の「春ちゃん」にめんどうを看てもらった。来年の2月で、あれからまる2年になる。2年だって、あっという間だ。

オヤジの世話で「ロリン」をはじめた。
病室は6人の大部屋だった。半二やオヤジのようにガンの手術をする患者は半月ちかくいたが、胆石や盲腸などの患者は1週間で退院していく。
腸のポリープを取るだけの人は1泊だけ。だから始終、部屋の患者が入れ替わっている。半二とオヤジともう1人のガン患者だけが半月のあいだ同じ顔をそろえてゴロゴロしていた。もう1人の患者は性格なのか病気のせいか、誰とも話さなかった。奥さんが世話に来たときだけポツリポツリ何かしゃべっていたが、よく聞き取れなかった。胃を全摘出らしい。

ほとんどの患者が心配と不安で途方にくれているなかにあって、オヤジだけが快活に大きな声をだしてだれかれとなく話しかけて回っていた。が、誰も本気で相手をする病人はいない。迷惑そうにする人もいる。で、しかたなくオヤジは折りたたみイスを持参で半二のベッドの横にきて話しこむ。
「俺の不動産屋の地下が空いているが、なにか商売をやらないか・・・」オヤジ

半二はまともに相手にしていなかった。これから胃がんの手術を受けるのに朗らかに談笑などしていられない。で、半二はほとんどうなずくばかりで聞き役だった。おかげで1週間もするとオヤジのこばかりか、他の患者のこと看護師や病院の情報が寝ながらにして集まってくる。
「川越の東口で不動産屋をやっているんだよ。仕事は息子にまかして俺はそこの2階に住んでいる。地下の店を貸していたんだけどね、閉めちゃって空いているんだ。どうだ、やるなら安くかすよ・・・」


半二は60歳の定年を前に早期退職を強要され、雀の涙の退職金で失業した。それから夫婦でゴタゴタしているうちに離婚。少ない年金とアルバイトで細々と暮らしていたが胃がんになったのでアルバイトも辞め、これからどうしたものかと途方にくれている。
「とにかく、手術がおわってからだ・・・」
半二は胃がんの手術をまえにして何も考えることができない。

離婚してしばらくの間、半二は元妻のことをたびたび思い出した。それは未練からではなく、どうして離婚にいたったのか?という疑問と原因をさぐるためだった。ひとりで自問自答しながら過去を振りかえってみても、考えがどうどう巡りをするばかりだ。そんな情けないことを1年もくりかえしていて分かったことがあった。
「アイツはオレが失業する数年前から別れる準備をしていた・・・」
そのことに気付いてから半二は元妻を思い出すことはなくなった。


「退院したら俺のところに寄ってくれよ・・・場所は分かるだろう」
1週間さきに退院したオヤジが言い残していった。

半二は退院してからしばらくの間、部屋でゴロゴロしていた。胃を半分とったお腹に力は入らないし、太ももの筋肉も落ちて歩くとフラフラする。食欲もない。たまに近所のコンビニへ買出しに行くぐらいだ。どちらかと云えば、体力より気力の方が衰えているようだ。活字を読む気にはなれずバッハやモーツアルトのCDをながしてボンヤリしていた。子供のことを想ったりはしたが、連絡してみる気にはなれなかった。娘はともかく息子は半二のことを嫌っていた。母親が父を嫌っているのが影響しているのだろう、なんども親子喧嘩をして暴力沙汰になりそうだった。そのうち息子は家を出て、もう6年も会っていない。

年金を引き出すために駅前に出たときにオヤジのことを思い出した。
そのあたりの土地カンがあったのでオヤジの不動産屋はすぐに分かった。川越駅東口のロータリーから1本はいったところ。半二が不動産屋の扉を押して用件を言うと、2階からオヤジが降りてきて
「ちょうどいい・・・メシ、食いに行こう。なにが食べたい?出所(退院)祝いだ、ご馳走してやるよ」

退院の3日前に重湯をすすった。2日前にパラパラッと米粒が泳いでいるお粥を味わった。前日にやたら汁の多いお粥を食べた。20日間の入院中に口に入れたのはそれだけで、あとは点滴だけだったが食欲はなかった。いままでちっとも欲しいとは思わなかったが、病院をあとにして部屋に向かう途中のコンビニで缶ビールを買い求めた。2分の1になった胃に冷えたビールを用心深く流し込むと、実に美味い。入院中、この味をすっかり忘れていたことに気付いた。それからお腹が鳴って、きゅうにうなぎの蒲焼が食べたくなった。

「うなぎ・・・」半二。
退院して1週間たつが、まだ食べていなかった。
「なにぃ・・・ウナギ! ほう、そうきたか・・・」
オヤジはうなぎ屋に予約の電話をいれながらタクシーのりばに向かって歩きだした。


「な、半ちゃん、退院してうなぎ屋に行ったのを覚えているだろう?2月になれば、あれから2年だよ、2年」オヤジ。
半二はオヤジとはいくぶん違った感慨をもっている。離婚してから胃がんで入院手術するまでの5年間は早かったが「ロリン」を始めてからの2年は早いながらも充実した感触があった。失業してからの5年間のアルバイトは、ただただ時間が過ぎていくだけだったが、小商いとはいえ自営業者になってから、やる事なす事なんでも手ごたえがあった。「ロリン」は半二ひとりでやる商売だからちっぽけなものだ。1日1万円の商いだ。でも自分の考えで自分がやるのだからおもしろいし、結果に納得だ。自分のどこからも不平不満がでてこない。

半二も67歳だから月日のたつのは人並みに早いことははやいが、新しくはじめた「ロリン」のせいで1日がながく感じることがある。それも、のっぺりしたものではなく、ザラザラとした手触り。紙やすりに指先をあてたような・・・
「コレデイイノダ・・・」と半二は想っている。


(3)
ちまたでは11月からクリスマスソングが流れている。
「ロリン」では12月28日の発表会にそなえて毎日のように誰かが練習をしている。見知らぬ客がくるまでは半二は下手な歌を黙認している。だいたい7時ごろまで歌っている。ソノなんかは「クラブ園」の仕事があるから、5時まえにきてAかBの伴奏で練習している。みんなの練習に関しては半二は口出ししないでエリに任せている。だから、エリはパートの仕事を終えると3時半には「ロリン」には入り、トイレ掃除をして店を手伝いながら自分も練習をしている。

誰も聞いていないパチンコ屋のBGMのようなクリスマスソングはいただけない。11月に流すのはちょっと早すぎる。たんに商売の景気づけなんだから、どうでもいいけど・・・うるさいね、と半二は思う。
どうせ大晦日にはクリスマスを忘れて除夜の鐘を聞いて、元旦には初詣に行くだろう。どうでもいいけど・・・半二にはどうでもいいことが多すぎるが。

ノブのことはちょっと気になる。11月のクリスマスソングのように右から左と聞き流すわけにはいかない。噂ではノブの遺体から青酸カリの成分が検出されたらしい。

「その話はね、うちの店(クラブ園)でもでているわよ・・・」ソノ。
「本当かなぁ・・・」半二。
「わからないけど、このへんの店で噂になっている」ソノ。
「その噂の出どころはどこなんだろうね・・・」半二。
「俺も又聞きなんだ。噂だから尾ひれがいっぱいついているんじゃないの」オヤジ。
ソノが出勤まえに練習しているところへオヤジと春が入ってきて噂話になったが、春とエリは話題には加わらなかった。


12月にはいって半二は高田馬場にあるヒロ先生の店に出かけた。場所はエリに教えてもらった。早稲田大学に向かう通りの左側の地下だった。
20坪ほどの広さで、入ってすぐ正面にカウンターがあり右奥のグランドピアノが目についた。つぶれた学生向けの喫茶店を10年前に大橋夫妻が買い取り「Jazz Bar Brige」を開いた。それいらい毎日のように夫婦で、たまには仲間のミュージシャンが加わってライブをしている。さいきんではプロになった教え子たちが歌ったり演奏したりしている。

12月28日に生徒の発表会とヒロ先生(歌伴はジョージ)のライブがあるので下見と挨拶をかねて出かけた。ジョージのピアノと年老いたベースとドラムのトリオだった。古いスタンダードをゆったりと演奏していた。途中でヒロ先生が入り3曲歌うと、またピアノトリオにもどった。

休憩時間に半二はジョージのところへ行って挨拶をした。ヒロさんが仲をとりもって紹介してくれた。
「ジョージです。年末にはお世話になります」
ジョージが立ち上がり握手を求めた。
半二は手を握ってから思わず左手を添えるとジョージの手の甲にあてがった。ジョージは70半ばにしては若く見えた。
「僕たちも呼んでよ・・・」
ベースのKが笑いながら冗談っぽく話しかけてきた。
半二はなんて返事をしていいのかわからず、ニヤッとしてうなづいた。
「そのうちにね・・・」
と言いながらヒロさんがKとドラムのOを紹介してくれた。
「ジジイ(GG)トリオって呼ばれてんの・・・」
80ちかいKがおどけてみせた。

セカンドステージが始まるまえに半二は思いたって「Brige」を後にした。山手線の高田馬場駅ではなく明治通りを新宿に向かって歩いた。半二の耳の奥ではまだジョージのピアノトリオが演奏しヒロさんが歌っていた。ジョージさんやKさんと話していて急にむかし働いていたジャズ喫茶のオーナーを思い出した。もう、40年も会っていない。80歳ぐらいのはずだが、元気にしているのだろうか。そう思うと半二の足はかってにヒロさんの店を出て歩き出しているのだった。


「ロリン」を始めるまでは自分からすすんでジャズを聴くこともなかったし、ジャズ喫茶「D」のことも忘れていた。それが、ひょんなことから店(Cafe&BarRollins)をだしてレコードをかけているうちにジャズ喫茶「D」で働いていた青春時代を思い出した。LPジャケットを見ているだけで音楽やジャズメンがよみがえってくるのが不思議だった。まるでパブロフの犬だな、半二は苦笑いしながらも嬉しく、当時の仲間の名前や顔が浮かんできて懐かしい。

青春時代特有の羞恥や屈辱や失意も40年ものながい時間が経ってしまうと洗いたての綿のYシャツのようにさっぱりと小ぎれいになっている。
で、いままで敷居の高かった「D」に入ってみることにした。

意外と近かった。
早稲田通りから明治通りに入り、靖国通りを右に曲がった。半二が働いていたころの「D」は紀伊国屋の裏にあったが、今は映画館ピカデリーの横に移転している。場所はかわったが店の作りはほとんど同じだった。転ばないように細くて暗い階段を用心深く降りた。
店内は8割がたうまっておりカウンターの奥に案内された。半二が働いていた1970年ごろは新宿だけでも30軒ぐらいもジャズ喫茶があった。それが今では2、3軒しかないようだ(半二は詳しくは知らない)。

昔あったLPレコードを収納する棚や2台のターンテーブルや、その下にあった真空管アンプなどはなくなってCDをかけていた。もう誰も昔ほど熱心にジャズを聴いていない。すっかりBGMになっている。お酒を飲みながらの会話の背後で、読み物をしている人の意識下で音楽が流れたり消えてりしているようだ。

レジ横のカウンターの端にいるオーナーのH氏はすぐに分かった。L字型のカウンターの奥の端に座っている半二からは斜め45度の角度ではっきりと見えた。その風貌のあまりの老けように愕然としてしばらく納得できないでいた。それは無理もない。半二の記憶に残っているH氏はいつまでたっても30半ばの美青年だ。現在は80過ぎだから老けていてあたりまえだが、40数年ぶりに拝見してその変貌ぶりに驚いたが、自分の老化を考えると何も驚くにあたらない。

あまりにも年月がたちすぎていた。いぜんの半二だったらH氏に話しかけられなかったと思う。話す必要もなかったし・・・。
カウンターの角ごしに2度、目があったがH氏は半二に気付くことはなかった。H氏と談笑していた年配の客人が席を立ち帰途につくと見送ったH氏の表情に手持ちぶさたな空白があった。べつだん決意したわけではなかったが、半二はH氏のそばへ歩みよって
「あのぉ・・・45年まえにここで働いていた○○半二です・・・」
名乗る半二を振り返るようにして見あげたH氏は自分の記憶の中を数秒、検索していた。
「○○君・・・?」
H氏は首をかしげた。

「45年前っていったら店ができて2、3年だね・・・」
「1970年の秋です・・・」
なぜそんなに詳しく覚えているかと云うと、その年の11月25日に三島由紀夫氏が市ヶ谷の防衛庁で割腹自殺をしたから・・・。
「そのころ、誰が働いていた?」
H氏が半二に隣の席をすすめ、当時の仕事仲間を訊ねた。

「カメラをやっていた田中、落語好きだった山田、神宮前にBar「R」を出した山崎・・・それから斉藤」
「そう・・・斉藤くんといっしょに早番をやっていたの・・・」
夜になると新宿ミラノ座あたりのキャバレーでアルトを吹いていた斉藤くんの名前をだすと、やっとそのころの店の状況が浮かんできたようだ。
「斉藤くん・・・仙台に帰ったけど、どうしているかな・・・?○○くん、知らない?」
H氏は地震と津波のことを気にしているようだった。
「知らないですね・・・」
半二は引き抜かれるようにして山崎さんが出店した神宮前のBar「R」に移ったので、後ろめたさがあってジャズ喫茶「D」には顔を出さなかった。だから、斉藤くんのことも他の仲間のことも何も知らなかった。

「先ほど高田馬場のBrigeへ行って、ここまで歩いてきたんですよ・・・」
「歩いて・・・?」
「ええ、ぶらぶらと・・・思ったより近かった」
「僕もたまにBrigeへ行くよ、歩きじゃないけどね。・・・ジョージさんもここに来るしね」
「ジョージさんのピアノトリオとヒロさんの歌を聴いてきました」
「そう、いいでしょう・・・。彼とは古いつき合いなんですよ。こんど、紹介しますよ」
「年末にジョージさんの伴奏でヒロさんに歌ってもらうことになって・・・」
「ええ・・・?」

「ライブハウスをやっているの・・・?」H氏。
「いえいえ、ジャズバーなんですけどね・・・そんな本格的な店じゃないんです。2年前、住んでいる川越でただ同然の物件を紹介されましてね。まぁ、看板だけは「Jazz Bar」なんですけど・・・夜逃げしたイタリアンの後に居ぬきではいったんです」
「あ、そう。そこでジョージさんがやるの?」
「ええ、話すとながくなるんですけど・・・この夏から店でヒロ大橋さんの「ジャズボーカル教室が始まりまして、その生徒たちの発表会をすることになったんです。で、せっかくだからヒロ先生にも歌ってもらうことになり・・・彼女の歌伴をジョージさんが・・・」
「ふぅ〜ん、そうなの・・・」
H氏はそう云いながらも今ひとつ「ロリン」のいきさつや状況が思い描けないようだった。半二のことも覚えていないが、そのうち思い出すだろう。


その夜いらい、半二は都内に出る機会があると新宿「D」と高田馬場「Brige」に足を運ぶようにしている。
「先日は、ありがとうございました・・・」
ヒロ先生は芝居気たっぷりに深々と礼をして、いままでに見せたことのない笑顔で半二に話しかけた。
「びっくりして・・・嬉しかったわ・・・」
ヒロ先生は片目をつぶって見せた。
「ジョージからも、よろしくって・・・」ヒロ。

この日は今年最後の練習日だから、12月28日の発表会の仕上げをしなければならない。いつもの「ジャズボーカル教室」なら4時ごろからソノが歌いだしオヤジ、春とつづいて千田、最後のエリかマサコが終わるのは8時ごろ。誰かがレッスンを休んだりすると7時まえに終えてしまうこともあるが、今日は2時から始まっているのにヒロ先生から最終のOKがでるのが何時になるかわからない。ソノ以外はみんな覚悟をしている。

「あの後、新宿「D」に寄ったんですよ・・そしたらオーナーのH氏はジョージさんとは親しいんだって・・・」半二。
「そう、あの2人は若い頃からの友達。私もDで働いていたのよ・・・」ヒロ。
「へぇー、いつごろですか?」
「1980年ごろ・・・」
「オイラは1970年ごろ・・・」
10年のタイムラグがあるにせよ同じ店で働いていたとなるといっきに親近感がましてきて、半二は昔からヒロ先生を知っているような気がしてきた。

2時から始まったソノの練習はすんなりと終えたが、オヤジと春が終えるころには6時になっていた。休憩をいれて千田、マサコ、エリの練習が終わると9時を過ぎていた。いつものヒロ先生ならレッスンを終えるとそのまま帰るのだが、その日は疲れたのか
「ちょっと飲んでいこうかしら・・・」
カウンターに腰を下ろして
「ビール、生ね」
と言って人差し指を立てた。
「あら〜ないのっ・・・なんで置かないの?」
半二が生ビールがないことを謝るとヒロ先生は不思議そうに目を見開いた。

さいしょの頃はバドワイザーの小ビンしかなかったが、タカが日本のビールがいい、と云うのでアサヒのドライとキリンラガーも置いている。それで間にあっていて今までに生ビールが飲みたいという客もいたが、ヒロ先生ほど残念そうにする人はいなかった。
「生ビールはね、ある程度コンスタントに出ないと不味くなってしまうのでね・・・」半二。
「そうね・・・うちの生も古くなると私とジョージで飲んでしまうの・・・」ヒロ。
「ここじゃ、やっても1日に2、3杯しかでないでしょう。ゼロの日もあると思う。オレひとりじゃ呑みきれないから捨てることになるでしょう・・・」
「まぁ〜もったいない。Brigeではお客さんにふるまっちゃうの・・・。私ね・・・いぜん銀座のビヤホールで歌っていたことがあるの。終わるとね、生ビールを1杯(大ジョッキー)とソーセージをご馳走してくれるの。そこの生ビールが最高なのよ。だってその店は1晩で何百杯も出て大きな樫の木の樽が何本も空くんですもの・・・」

やはりビヤホールの生ビールは美味しい。同じようにCafeのコーヒーは美味しい。半二は「ロリン」を開店してから半年ほどしてコーヒー豆の焙煎をはじめた。それは客が来なくて暇をもてあました末ではあるが、美味しいコーヒーを飲みたかったから。1日の客が10人前後だからコーヒーのオーダーの数もしれている。めんどうではあるが、なにしろ暇だから、そのつどネルドリップで淹れている。ついでに自分の分も淹れるから半二は1日に3杯は飲むことになる。
オヤジがいうには、この辺では「ロリン」のコーヒーが1番うまい。オヤジいちりゅうのヨイショであるにしても、嬉しい。
それには落ちがあって
「半二よりエリの淹れたコーヒーの方がもっとうまい」オヤジ。

「夏になったら生ビールをはじめてもいいんだけど・・・」半二。
「そうね・・・5月になれば、ゴールデンウイークのころからけっこう出るわよ・・・」ヒロ先生。
「けっこう出るったって、うちには10人ぐらいしか客が来ない・・・」半二。
「ビンはやめて生だけに限定すればいいじゃない? で1人3杯飲んでもらうの・・・」ヒロ。
「居酒屋でちっちゃな生ビールのタンクを見たことがあるけど、何杯ぐたいとれるのかしら・・・?」
めずらしくエリが口をはさんだ。
「そうそう、それ。Brigeでも使っているのも・・・20杯ぐらいとれるんじゃないかしら・・・グラスの大きさにもよるけど」ヒロ。


マサコの練習が終わるのを待ってオヤジと春の3人は、あの陰気なうなぎ屋に出かけた。タクシーで15分ぐらい。荒川の河川敷のゴルフ場の裏手。半二は胃がんの手術の快気祝いでオヤジに連れていってもらったのがさいしょだった。退院して1週間後だったので、うな重のご飯はほとんど残した。
うなぎで1合のお酒を呑んだ。病み上がりの五臓六腑に昼酒がしみわたり心地よかった。

うなぎ屋の帰りに話しにでていたオヤジの不動産屋の地下の空き店舗を見せられた。その物件のことは入院している間に何度も聞かされうなぎ屋でもすすめられた。半二は乗り気ではなかったが、うなぎをご馳走してもらったことでもあるし無碍に断るのも失礼な気がして、ちょっとだけ地下の店を覗いてみることにした。

地下といっても南東から陽がはいる前庭があり、裏も天井付近の高いところに明かり取りの窓があったから感じとしては半地下のような雰囲気だ。半二がむかし働いていた御苑前のレストランを思い出した(グランドピアノがあり、シャンソンをやっていた)。

25坪あるのに保証金はなし、家賃は5万円でいい、という。
話が美味すぎる、何か訳があるのだろう。

「そうなんだよ・・・この土地はいま地上げにあっているんだよ。ここと隣の焼肉屋の周りはぜんぶ駐車場だろう。この2軒が立ち退けば2千坪の更地になるわけだ。いま交渉中でさ、いつまとまるか分からないが、立ち退きが決まったら無条件で出てもらうことになる」オヤジ。


半二もオヤジたちと一緒にうなぎ屋に行きたかったが、ヒロ先生がビールを飲みはじめたのでエリと付き合った。
「ウイスキーにしようかしら・・・」
ヒロ先生はかなりいけるくちらしい。
半二が自分とエリの分といっしょに生ハムとトマトのサラダを提供すると
「あら、ありがとう・・・」
と、云ってウイスキーソーダーを追加して
「何か食べる物、あるかしら・・・」

半二は「うなぎ」と言いかけて「うどんなら・・・」
ヒロさんがうなずくとそのテンポにあわせるかのようにNat King Coleがクリスマスソング(もろびときたりて)を歌っていた。アメリカから飛んでくるジャズ専門のネット放送はクリスマスソング特集のようだ。
「そうか、クリスマスか・・・」半二。
ヒロさんが子供のように歌に合わせて頭を振っている。
その様子を眺めるエリと半二の目があって微笑んでいる。


(4)
今年は土曜日がイブで日曜日がクリスマス。ケーキ屋さんではクリスマスケーキが冷房の効いた屋外に山積みにされ「ケンタッキー」では予約券を手にした客が列をなしている。土曜日の7時なのに「ロリン」には客がいない。

エリは今ごろ、亭主の藤田と娘の3人でチキンをかじりケーキをたべているだろう。同じように春も家庭の幸福に浸っているだろう。AやBや若者たちは恋人と楽しい夜を過ごすだろう。恋人のいない若者は仲間で馬鹿騒ぎするにちがいない。クリスマスの夜、たった1人でパソコンに向かっている人間は寂しい。

「ロリン」の口開けの客は小島さんだった。競馬専門紙とタブロイド版の夕刊を手にしている。さいきん、毎週金曜と土曜に来てレース検討をしている。小島さんは常連たちが座るカウンターを通りすぎて奥の席で2時間かけてアメリカンコーヒーを2杯飲む。音楽にはあまり関心がない。
予想に没頭しているのでBGMのピアノは聴いていない。でも、どちらかと云えばジャズのBよりクラシックのAの演奏を好んでいる。Aのピアノは予想に集中しているとゼンゼン聴こえないが、Bのピアノは遠慮なく小島さんの中に入り込んできて予想のジャマをする。

めずらしく小島がカウンターに座った。
「このまえ飲ましてもらった、うすーいハイボールもらおうか・・・コーヒーは後で」
小島はカウンターにお土産のから揚げをおいて
「食べてよ・・・」
「どうしたの?」半二。
「クリスマスだから、フライドチキン・・・へっへっへ」小島。
「なんだ変な笑い方して、気持ちわるいじゃないか・・・」半二。

そっとオヤジが入ってきて背後から小島の肩を揉んだ。
「マサコが買ってきたんだ。どうせ、半ちゃん1人だろうからって・・・」
と、云ってオヤジがショートケーキの入った箱を出した。
「ケーキなんか食いたくねーよ」
去年までの半二なら、そう言いかねないが、このところ自分では買い求めないにしてもいただいた甘味に手を出すようになっている。

商店街に新装開店した「から揚げ専門店」のまだ暖かいフライドチキンを皿に盛りつけ、冷蔵庫にあった野菜(ブロッコリー、レタス、オニオン、キュウリ、トマト)でサラダを作り、ひとまずケーキは冷蔵庫へ。
「ビールくれよ・・・小島さん、めずらしい物を飲んでいるね」
オヤジは特製ハイボールを指差している。

小島は今日の競馬で稼いだらしい(ハッキリとは言わない)。明日は有馬記念だ。競馬のお祭りのようなものだ。
「有馬記念はやらないの?」小島。
「もう、20年以上やっていない」オヤジ。
「オレも数年やらないと馬が全然わからない・・・」半二。
「わからなくても、年末ジャンボより有馬記念の方がいいんじゃないの?」
小島は専門紙をオヤジの方へさしだした。
「宝くじのつもりで買ってみるか・・・」
オヤジは専門紙を一瞥しただけで手には取らなかった。
から揚げの上で1/4のレモンを指ではさんで絞った。手についたレモンの汁を舐め、おしぼりで指を拭き、から揚げをひとつ取ると器を小島のほうにむけた。小島の頬はうすーいハイボール半分で赤らんでいる。
「おいしいじゃない、このから揚げ・・・」
オヤジはから揚げとサラダをかわるがわる口に運び、ビールを追加した。
「○○○・・・単勝千円づつ」
オヤジは有馬記念の出走表も見ず、財布から千円札を3枚とり出して小島に渡した。

「えっ・・・予想しないの・・・?」小島。
「競馬なんて予想したって当たらねェよ・・・」オヤジ。
「まァね。でも、競馬の楽しみは予想することにあるんじゃない?」小島。
「小島さんはいいよね。競馬新聞1部で1日予想がが楽しめて」
半二もから揚げを口に入れて
「美味しいね・・・から揚げには、やっぱりビールだね」
「ここの奥の席でさ、予想するのがいちばん落ち着くんだよね。まわりに誰もいないから1人なって集中できる」小島。
「1日に2時間も3時間も集中して予想してさ、当たってんの?勝ってるの?」オヤジ。
「当たりますよ、たまにだけど。有馬記念やダービーなどのG1レースを1日中考えて、的中したりすると快感だね。1冊の推理小説を読みきって犯人を当てたような嬉しさがあるよ」小島。
「ヘェ〜、1レースが1冊の推理小説ね・・・」半二。
「いいこと言うじゃねェか・・・で、勝っているのかい?」オヤジ。
「勝ったり負けたりよ・・・それで50年だからね・・・」小島。
「50年か・・・それはたいしたものだ。ふつう50年はもたないよ、やられちゃうよ」オヤジ。

「でさ、なんで3、6、9なの?」小島。
「出目だよ。俺のマイナンバーの下3桁だよ」オヤジ。
「何だよそれ。オヤジさん、ふざけてるね、まったく」小島。
「へッへッへ、いいじゃないか。宝くじなんだから、予想できないよ」オヤジ。
「3、6、9は麻雀の筋じゃないの?」半二。
「もうちょっとマジメに考えてよ・・・」小島。
「デタラメだから出目なんだよ。ブロッコリーもコレくらいの硬さが美味しいね、レタスもシャキシャキしているし」オヤジ。
「オヤジにのって2、5、8の単・・・」
呑んでもいいよ、と云って半二が3千円だした。
「あなたたち、有馬記念の出走表も見ないで・・・ハイボール、もう1杯もらおうかな、薄くね」小島。

「ところでさ・・・小島さんはノブの奥さんを知っているの?」オヤジ。
「なんだよ、刑事みたいな口の利きかたをして・・・知らないよ。警察でも言ったんだけど、タカが知っているんじゃないかな。あの2人はつるんで奥さんのいるスナックで呑んでいたから。あの奥さんはノブと結婚してスナックを辞めたのはいいんだけどラブホでアルバイトしていたらしいよ、例の」
「ホントかよ。あのラブホで働いていたのか?」オヤジ。
「そうらしいよ・・・ぽろっとノブがこぼしていた。なんでそんな所で働くのか疑問だったけどね、訊ねるのも悪いような気がして聞き流したけど」
「変な女だな。その奥さん、アパートを2棟所有しているとノブに粉をかけたんだって?」オヤジ。
「それは知らないけど・・・」小島。
「調べたんだよ。あのアパートの大家さんは別人で、あの女は賃貸でそこに住んでいるだけ」オヤジ。
「そうなの・・・なんであんな所で働くのか気がしれないね・・・それにノブはなんでのそ仕事を止めなかったのかね。自分の女房がラブホで働くなんて考えられないよ、そうでしょう。普通じゃないよ、まともじゃないよ・・・でも、そんなこと言えないじゃない?大のオトナ(ノブ)に向かって・・・」
小島は超薄い特製ハイボール2杯で饒舌になってきた。

小島とタカは警察に呼ばれて事情聴取をうけている。半二とソノの店には刑事が訪ねてきてノブの足取りの裏づけを取って帰った。49日まえには人の噂も消え、ノブは心臓麻痺で亡くなったことになっていた。それが半年もたってむしかえされている。定かではないが、遺体から薬物の成分が検出されたとなると、秘密裏に捜査は続けられているのだろう。

オヤジが2階にあがり、小島がコーヒーも飲まずに帰ると半二はオーダーストップには小1時間も早く看板のコンセントを抜いた。店の明かりを消すとどこからともなく山下達郎のクリスマスソング「あの人は来ない・・・」が聴こえてきたような気がした。


「クリスマス、どうだった?」エリ。
温めたフライパンにオリーブオイルをたらし、10分ほど茹でたパスタを入れ、出来合いのバジルソースを加え混ぜながら解凍した剥き身の芝海老をひとつまみ放りこんだ。皿に盛り付けたスパゲティーに粉チーズとパセリのみじん切りを少々ふりかけてできあがり。フランスパンを2枚スライス。インスタントのオニオンスープ。カウンターで遅い昼食をとっているとエリが入ってきた。
「イブの土曜日はオヤジと小島さんだけだったよ・・・昨日は休みだったから、午前中に洗濯と掃除を済ませて後はゴロゴロしていた」半二。
「昨日、来ればよかったわね・・・でも、娘と亭主がいたから・・・」
エリがカウンターに入りコーヒーを淹れようとしているところにAとBが降りてきた。

先週の月曜日にヒロ先生と最後のリハーサルをしたが、みんな自信がない。不安ばかりだ。それでもう1度自分たちでリハーサルをすることになった。エリがBに伴奏をたのんだらAも来ることになった。
「カラオケボックスで練習してきたよ・・・」
オヤジが春と入ってきて、俺にもコーヒー・・・
「マサコさんは?」エリ。
「夕方、来るって・・・」オヤジ。

オヤジとマサコ、ソノとエリはBの伴奏を気に行っている。春、クラブ「園」の千田、タカはAが歌いやすいという。まぁ、アマチュアだからどちらでもいいようなものの相性があるようだ。音楽だけではなく性格も関係しているようだ。
「エリの淹れたコーヒーは美味しいね・・・」オヤジ。
「なに、それって・・・オレにあてつけなの・・・?」半二。
「イヤイヤ・・・カラオケボックスのコーヒーは飲み放題なんだけど、飲めないんだよ不味くて・・・」

200円のフリードリンクのコーヒーと比べられては困る。生豆を仕入れて焙煎し、挽いて淹れたてのコーヒーが不味いわけがない。好みの違いにより美味しさはいくぶん違うだろうが・・・よっぽどブレンドの組み合わせを間違わないかぎり美味しいはずだ。半二は暇をもてあまして焙煎を始めたのだが、はじめてみると思っていた以上に奥が深くおもしろい。ブレンドの種類はやる気になれば限りがないし、焙煎も豆の大きさや状態、種類や天候、火の加減によってでき具合が微妙に違う。もちろん豆の挽き方や粉の大きさ、淹れる道具(ペーパーフィルター、布ドリップ、サイフォンなど)によっても味が変わってくる。

昔のコーヒーは不味かった。1970年ごろのジャズ喫茶のコーヒーは単なる茶色い苦いお湯だったが、半二が働いていた「D」のコーヒーは挽きたて淹れたてだったから評判がよかった。その頃からちまたではコーヒー専門店ができはじめ、サイホンでストレートコーヒーを出していた。いまで云うところのバリスタがカウンターの客の前で好きな豆のコーヒーを淹れてくれた。そのストレートコーヒーを通ぶった客かありがたくいただいていたのが懐かしい。

今は100円のコンビニのコーヒーも不味くはない。どんな飲食店にもコーヒーマシン(ピンからキリまでだが)が置いてあり、そこそこ飲める。半二はとりあえずマシンのコーヒーよりは美味しいものを提供したいと思っている。

「フリードリンクの飲み物って、みんなニセモノらしいわよ・・・」エリ。
「ジュースなんか果汁0%だもの・・・化学合成じゃないの・・・?」春。
「コーヒーもそうらしいよ。コーヒーの豆を使っていないんだって」判二。
「なんだよ、コーヒーもどきかよ。どおりで不味いわけだよ・・・」オヤジ。
「不味いだけじゃなく、身体に悪い・・・」エリ。

「オレなんかの高校生のころは喫茶店は不良のたまり場でね、校則で出入り禁止だったよ。今みたいにCafeもファストフード店もなかったから学校の帰りにお好み焼き屋に入って、みんなでワイワイ言いながらお好みや焼きそばを焼いて食べていた。コーヒーなんかないよ、サイダーとかラムネとかはあったけどカネがないから水だよ。そのてん今の子は恵まれているよ」半二。
「恵まれているのかね・・・?」オヤジ。
「私のころより今の子のほうが恵まれているというか・・・自由」エリ。
「オレたちのころは高校生でアルバイトをしている子はほとんどいなかったね。だからカネがなかった。母親からもらう小遣いだと週に1度しかお好み焼き屋に行けなかった」半二。
「うちの子もバイトを始めたのよ・・・コンビニで」エリ。
「・・・最近の高校生は親父よりたくさん小遣いを持っているらしい、バイトしているから」半二。
「うちの子はそうでもないけどね、間食とスマホ代に消えるから・・・」エリ。

年寄りたちが、今の時代はオカシイとなげいているところへソノが入って来て
「わるいんだけど・・・私、さきに練習させてもらえないかしら、店に入るまえに美容院に行きたいのよ」
それで、雑談が練習モードに切り替わった。

ソノさんが「Love For Sale」をサラッと仕上げたあと、オヤジがBing Crosby風に「Autaumn Leaves」を何度もくりかえし練習した。
「もう、これくらいでいいだろう・・・」
だれもOKを出さないのでオヤジは自分で切り上げた。
つづいて春が「Smmertime」をボサノバっぽいアレンジで歌った。春にはジャズよりボサノバの方が合っているようで譜面はヒロ先生が用意した。

千田(クラブ園の客)は今日もビシッとスーツできめている。60を過ぎているから一見会社の重役風だが何を生業にしているのか分からない。ソノとは古いつき合いらしい。顔に似合わず甘い声で「My Funny Valentine」を歌っている。オヤジは低い声で朗々と歌うタイプだが、千田は対照的にかすれた声でささやくように歌っている。どうやら、チェット・ベーカーを意識しているようだ。

エリの「Speak Low」も不満はあるにせよ、だいぶ仕上がった。マサコが遅れてやってきたので入れ替わると「The Man I Love」。

28日の発表会のプログラムは決まっている。
1ステージ
 オヤジ    「Autaumn Leaves」
 春       「Smmertime」
 千田     「My Funny Valentine」
 エリ      「Speak Low」
 マサコ    「The Man I Love」
 ソノ      「Love For Sale」

2ステージ
 ヒロ大橋(vo) ジョージ大橋(p)


(5)
大晦日の夕暮れ、中田が発表会の映像をDVDにしてくれて、持ってきた。
「1杯、飲んでいけば・・・」
と、半二がすすめると、これから車で実家に帰るという。
「じゃぁ、コーヒーにするか・・・」半二。
中田は持ってきたDVDを店のノートパソコンで再生した。

発表会が1時間、ヒロ先生のライブが1時間、計2時間のビデオを約1時間のDVDに編集してあった。
「編集に時間がかかったんですよ。あと、みんなの名前や曲名をいれたので印刷にも・・・まるまる2日かかりました。ちょうど会社が正月休みだったからよかったけど・・・でなかったら1週間はかかりましたね」中田。
「なかなかキレイに撮れているじゃない。音もいいね」
DVDの再生を見ながら半二が感想をもらしても、中田は見飽きたのかチラッとしか画面に目をやらない。
「録音は山下(エリの亭主藤田の友達)さんのものを拝借したんですよ・・・ビデオも最初は三脚の固定だったんですが、途中からタカさんがハンディーで撮りだして・・・」中田。
「いいよ、躍動感があって。うまく撮れてるよ」半二。

DVDが終わらないうちに中田は立ち上がって
「これ、みんなに渡してください。歌った人、ヒロ先生、A、B、半二さん、タカさん、藤田さん、山下さん」
「ただであげちゃうの?」
「うん、いいですよ、ただで」
「ただだと、もらった人のお返し(お礼)がめんどうだから・・・現金でもらった方が簡単でいいんじゃないの?」
「現金でもらうと商売のようで角が立つかも・・・」
「そんなこと、ないって。手数料だよ。一律千円にしとけば・・・千円なら納まりがいいと思うよ」
「じゃぁ、半二さんに任せます。たりないようでしたらダビングしますのでメールしてください」

これから中田は秩父の奥の小鹿野の実家に帰る。
毎年、大晦日の夕方に帰省して1泊だけして元旦の夜には川越に戻る。いつの間にかこのパターンが恒例になってきている。中田は30半ばの独身で父親とは折り合いが悪い。できたら父の顔は見たくないが、母の願いに最小限答えて帰省している。中田の妹は正月の3日か4日ごろに家族で帰省して2泊する。春と夏の休みにも亭主と2人の子供を連れて帰省する。妹は秩父に近い坂戸に住んでいるので連休があると子供だけを連れて帰ったりもしている。
妹は初老にさしかかった両親を案じてまめに里帰りをしているのに比べ中田は無頓着というか、肉親の情が薄いようだ。

耳をすますと地下の半二の部屋まで除夜の鐘の音が聞こえる。部屋にテレビはないから近所のお寺の鐘だろう。数をかぞえたことはないが108回打つという。煩悩の数らしい。ずいぶんあるものだ。
除夜の鐘の音は低く間があり、哀愁をおびてしんみりとしている。西洋のキリスト教のカランカランと聞こえる音とは違い除夜の鐘は仏教的に聞こえるが、インドや東アジアの寺でも同じような鐘を打つのだろうか。どうも違うような気がする。除夜の鐘の音は日本的だ。

歳をとったせいか、半二の煩悩の数が減っているような気がする。悩みもそれほどはない。どのように死ねばいいのだろう、ということぐらいだ。そのことに付随したこまかなことが2、3・・・そうだ、元旦には遺書を書こう。それから、郵便局があいたら「日本尊厳死協会」の入会手続きをしよう。
半二は離婚して2人の子供とも疎遠にしているので万が一の場合めんどうをみてくれる人がいない。いまさら子供の世話にはなりたくない。ポックリ逝きたいけれど、生と同様に死も選ぶことができない。ボケたり寝たきりになるのが心配。それが、半二の数少ない煩悩。


正月は5日からの営業だったが、プレオープンとして4日に発表会の上映を催した。機材は中田が会社から借りてくれた。元旦そうそうエリが、歌った人や関係者に上映会のメールをいっせいに発信した。半二も「Rollins」のホームページに載せた。

4日5時Open 6時〜7時発表会DVD上映 9時Close

2日の昼すぎ、トーストとバナナだけのブランチを食べコーヒーを飲んでいるとオヤジから呼び出しがかかった。
「初詣に行こう・・・まだなんだろう?なに?コーヒー飲んでる?俺にも飲ませろ、いま降りていくから」
半二はコーヒーを飲みながら中田が作ってくれたDVDをオヤジの目の前でヒラヒラさせた。
「これか・・・エリからメールがきてたよ。4日にやるんだって?」
半二はうなずきながら1枚のDVDを渡した。
「オヤジさん、けっこうキレイに写っているよ。歌もいい」
「そう、見たの?・・・もらっていいの?」
「みんなが中田さんにお礼をして、お菓子ばかり集まってもなんだから一律に千円にしたんですよ・・・」
オヤジは嬉しそうに千円とコーヒー代を出したが、半二は千円だけ受け取った。

氷川神社まで歩くと40分はかかる。年老いたオヤジにはちょっと骨だ。駅前からタクシーに乗った。
「年末によ、友達が脳溢血でたおれて入院しているんだ。その1週間前の忘年会では元気だったんだよ・・・見舞いに行ってきたんだけどね、半身不随になっていたよ・・・俺なんかより元気だったんだけどね・・・」
ふつうなら10分もかからない距離だが、初詣の車で渋滞。タクシーが動かなくなったので市役所の手前で降りた。そこからなら歩いても10分ぐらいだろう。人並みが金魚の糞のように氷川神社まで帯をなしている。
「日ごろ病気のことなんか忘れているんだけどね・・・友達が入院して見舞いに行ったりすると身に迫ってくるよ。正月そうそうこんな話で悪いんだけどさ・・・」
オヤジは歩きながらずっと友達の病気の話をしていたが、境内に入ると人ごみが密集してきて歩みがのろくなり、通勤電車の車内のようになってきたので黙ってしまった。礼拝の順番を待ちながら心を静かに整えているようだ。

帰りがけにオヤジは去年のものは火の中に投げ入れ、新たに健康祈願、商売繁盛、家内安全のお札と破魔矢を買い求めた。
「いつもこれを買っているんだ・・・」
毎年なじみの和菓子屋さんで買う鏡餅と同じようなものか、デパートで買い求めるおせち料理のようなものか。
「習慣なんだ・・・家に飾っておくと落ち着くんだ・・・」
信仰というより縁起物にちかい、お守り。

半二は百円の「おみくじ」さえやったことがない。

半二もいっしょにオヤジの家につくとマサコが春の家族を迎えていた。おせち料理をテーブルにならべながら
「昨日の残り物だけど・・・」
マサコが春を呼んだらしい。で、春は家族(夫と娘)で初詣に出かける途中でオヤジのところに寄った。
「主人です・・・」
春がオヤジと半二に亭主を紹介した。
「妻がお世話になっています・・・」
痩せて頬のこけた夫がオヤジと半二に頭を下げた。
「おめでとうございます。こちらこそ、春さんにはお世話になっています。今後ともよろしくお願いします」
オヤジはいつもとは違ってあらたまった感じでお辞儀をして、それからたおどけたように声をだして笑った。つられてみんなも微笑んだ。

半二はそれとなく春の亭主を窺っていたが、彼は妻とオヤジの関係には気付いていないようだった。妻がカラオケボックスでランチをご馳走してもらったり「ロリン」でおごってもらったりしていることに恐縮しているようだ。そのへんのところは春が上手に亭主に説明しているようで、オヤジとマサコにお礼を言っている彼は妻を信じる実直な夫。春は夫にオヤジよりもマサコとの関係を強調しているようだ。そのせいもあって春の夫はマサコに親近感を抱き、オヤジはマサコの父親だから敬意を表しているにすぎない。

春はおとなしい夫をうながし、挨拶もそこそこに立ち上がりおいとまを告げた。
「風がでないうちに初詣に行ってきます・・・」
「なに・・・もう、行っちゃうの・・・少しは箸をつけてよ。いま燗をつけたから・・・」マサコ。
「じゃぁ・・・お神酒をいただいてから行きなよ・・・」オヤジ。
マサコが注いだお猪口を手に
「今年もみんな元気で、幸せな1年でありますように・・・」オヤジ。
オヤジ、マサコ、春、夫、半二がそろって杯をかたむけた。
春の家族の帰りぎわ、オヤジが娘にお年玉を手渡した。
半二が手のひらを出すとオヤジがその手をパチンと叩いた。

春の家族につづいて半二も立ちあがるとマサコがおせち料理をみつくろって重箱に盛り付けてくれた。
「持っていって・・・」半二が両の手でうやうやしく受け取ると
「どうせないんだろう・・・おせちなんて」オヤジ。
半二はうなずいて
「今晩はこれでイッパイやります・・・」

春の亭主はどんな仕事をしているのだろう。半二は知らない。勤め人だと思う。40歳ぐらいだろう。半二と同じぐらいの身長で大柄の春より少し低い。年配のオヤジや半二に遠慮しているのか寡黙な性質なのか、ほとんどしゃべらなかったからどのような性格なのか分からない。オヤジは春から彼のことを多少なりとも聞き及んでいるはずだが、実際に会ってみて安心したのではないだろうか。仮にオヤジと春の秘密がバレても大事にはいたらないような気がする。オヤジは春の夫を見て一寸胸をなで下ろしているはずだ。

半二はマサコにいただいたおせち料理をつまみながら焼酎のお湯割りを呑み、元旦に書いた遺言状を読み直すためにパソコンを開いた。

○ 日本尊厳死協会に加入しました。延命治療はしないでください。何かあっても救急車を呼ばないでくださ   い。脱水症状による自然死を望みます。ただ、痛み止めだけは施してください。

○ 葬儀はおこなわないでください。息子と娘の2人だけで通夜をし、翌日に火葬してください。戒名は要りま  せん。骨は共同墓地に埋めてください。その手はずは整えておきます。供養はしなくていいです。お別れ   の会の話が持ち上がったらオヤジかエリさんに相談して、やってもいいです。

○ 負債は残しません。保険(受取人は娘)や預貯金(名義は娘)で残務処理をできるようにしておきます。万  が一、少しでもお金が残ったら娘にあげます。必要な書類や印鑑はまとめてXにいれておきます。

コルトレーンとエリントンのバラードを聴いていた。それからエバンスのピアノトリオやマル・ウォルドロンのピアノソロなど静かな曲を流して呑んでいたら遺言状に手を入れるのもめんどうになってきた。しらふのときにもう1度読み直して3枚プリントアウトして実印を押して息子と娘に郵送しておこう(1部は自分用)。司法書士に書いてもらった正式な公文書とはいえないが、とりあえず今はそれでいいだろう。

それにしても、尊厳死協会に入会したもののかかり付けの医者がいない。大きな病院ではなく近所の町医者でいい人をみつけなくてはならない。医者と弁護士と僧侶は各1人づつ友達になっておくこと、と誰かがいっていた。が、病気でもないのに医者のところに出向いて、いきなり
「お友達になってください」
というわけにもいかない。オヤジにでも近所の町医者を紹介してもらって風邪などをきっかけにおつき合いをしよう。

そうだ、国民健康保険の健康診査の無料券があった。まず、健康診査で顔つなぎをしよう。

群馬県との県境に埼玉県の丘陵墓地があり、そのいっかくに共同墓地がある。遺骨を埋葬するにも法律があり、どこに埋めてもいいわけではない。半二は法律に則ったうえで極力カネがかからず無宗教にしたかったのでその県営墓地に決めている。が、まだ契約はしていない。今年中にはしたいと思っている。そこは身寄りのいない人の葬儀を地方自治体がやり、埋葬することが多い。

12月28日はジャズボーカル教室の発表会とヒロ先生のライブ。翌日の29日はエリ、A、B、タカが手伝ってくれて「ロリン」の大掃除をすませるとそのまま忘年会となった。その後、半二は30日、31日、元旦と3日間部屋から1歩もでなかった。すると、ちょっとウツな気分になってきた。遺書を書いたせいかもしれない・・・。
おっくうだったけれど、オヤジに呼び出されて初詣にでかけたのがいい気分転換になった。オヤジ、マサコ、春の家族と会った夜、帰省して墓参りを思いついた。

去年のお盆に帰省したときも暇をもてあまして急に思いついたのだった。
帰ってみると兄は肝臓がんになって1週間後に手術をひかえていた。その後、手術は上手くいった、と報告は受けていた。半二もときどき様子うかがいの電話をしていたが、こんかい自分の目で兄の術後を確認しておきたかった。
3日の昼の新幹線に乗り、堺の実家に着いたのは夕方だった。4日の5時から中田が撮ってくれた発表会の上映を「ロリン」ですることに決まっているので、半二は3時ごろには帰りつきたいと考えている。
「なんや、えらいせわしないな・・・もっとゆっくりしていったらええやん・・・」
残念そうにいう兄はお盆のときには見せない笑顔だった。

お盆に帰ったときの兄は1週間後の手術で肝臓の7割を摘出する、といって
「まな板の鯉や・・・」
と、笑ってみせたが、死も覚悟しているふうだった。半二の前では明るくふるまっていたが無念の想いが瞳に写っていた。
ところが、正月の3日に会ったら満面の笑いで話す声のトーンが高くなっていた。正月だからではなく、毎日小ビンのビールを飲んでいた。タバコも食後に吸っていた。半二はそれを咎めることはできなかった。おそらく、兄嫁も子供も兄のタバコとビールを止めることができないのだろう。
「残った3割の肝臓がな、4割りに増えているんやて・・・先生がレントゲンの写真を見せて驚いていた・・」

兄弟ながら無口な半二とは対照的な兄は手術後の経過が順調なので元のなめらかな口調にもどっていた。
「仕事先からな、週に2日でも3日でもええから又きてくれ、って云われてんねん」
発病するまで週に4日、1日5時間のアルバイトをしていた。兄はお見舞いにきてくれたお礼と回復の報告を兼ねてアチコチに顔を出していた。
「無理せんといてや。でも、声がかかるだけでもうれしいなぁ・・・」半二。
「そうやねん、ほんま嬉しいわ・・・」

新大阪11時発の新幹線に乗りたい、と半二がいいだしたので早朝の墓参となった。実家の墓地は狭山丘陵のすその堺市丘陵公園墓地にある。1月4日、朝8時の丘陵墓地はまだ朝陽があたらず冷気につつまれている。半二の顔の肌が引き締まり、目が覚めた。
墓があるから、こうして墓参に来ているが、なければ・・・と半二は考えたが、自分の墓は欲しいとは思わなかった。何千人もの骨がごちゃ混ぜに埋まっている古墳のような共同墓地でいい。

現在、この丘陵公園墓地には千以上の墓石が立っているが、あと百年もすれば半ば以上の倒れた墓石を草が覆っているだろう。
「墓石の墓場になるんだ・・・」
半二は言葉に出さず、兄が入るであろう実家の墓と丘陵公園墓地を眺めた。


半二が実家から「ロリン」にもどると、すでにエリと中田が準備を始めていた。テーブルとイスを並べかえ、スクリーンをどのように吊るそうか?と思案していた。天井には物を吊るすレールはない。会議室の講義などで使う移動式のボードがあればいいのだが。
「あのスポットライトとあのスポットライトに紐を通して吊るしますか?ちょっと角度があっち向きますが・・・」中田。
「いいんじゃない。スクリーンにあわせてテーブルとイスの向きをかえれば・・・」エリ。

身軽な中田が脚立に上がりスクリーンを設置していると
「右がちょっとさがっている。もうちょっと。そうそう、それぐらい・・・」
エリが現場監督のように指示をしている。
ぶら下がったスクリーンにあわせて3人でテーブルとイスの角度をずらした。すると四角い部屋に対して斜めの構図となった。

「ねぇ〜、左右に空いたところにテーブルを集めたらどうかしら。そこで立食すればいいでしょう。イスもさぁ、きちんとスクェアーに並べないで、適当に5〜6人が話しながらスクリーンを見れるようにすれば・・・みんなケッコウ移動すると思うのよ・・・」エリ。
半二と中田がうなずき、テーブルを2箇所に集めた。整列していたイスを3箇所のブロックに分け、席は固定せず自由に行き来できるようにした。

「食べる物はどうするの・・・?」エリ。
「お正月でみんな美味しいものをたらふく食べているだろうから、たいして用意していないんだよ。いつものそばと小さな洗面器ぐらいある仙波の寄席豆腐。天ぷらはこれから頼んでおく・・・」半二。
「それだけ・・・?」エリ。
「持ち込み歓迎と伝えてあるから・・・なにか持ってくるだろう」半二。

半二の台詞が聞こえたかのようにオヤジ、マサコ、1升瓶をかかえた春の3人が一緒に降りてきた。
「よぉー、どうだった、大阪は?」オヤジ。
「墓参りしただけだから・・・」半二。
「兄貴はどうなんだよ?」オヤジ。
「思っていたより元気だった」半二。
「お前は胃だったけど、兄貴は肝臓だろう?」
「ええ、女優の川島なお美と同じ・・・きびしいと思うけど・・・今のところは順調・・・」
「まぁ、それは良かった」

エリの亭主の藤田と娘、春の亭主と娘、4人が藤田の車でやってきた(エリと春は同じマンションに住んでいて仲良くになった)。藤田はスペイン産の赤ワイン、春の亭主はスコッチを手にしていた。中学生と高校生の女の子のいる2家族がいっしょになったので「ロリン」の雰囲気がいつものJazz Barとは違う。
そこへタカが生ビールの樽(簡易)を抱えて身体でドアーを押し開き入ってきた。
「あけましておめでとうございます」タカ。
「おめでとう」
にこやかにみんなが口々に答える。
半二が手を貸してビヤダルを冷蔵庫に運びながら
「いまのは、ギャグだったの?」
「ゴクロウサン」オヤジがタカの肩をポン。

音大生のAとBは帰省したまま、まだ戻っていない。エリと中田と半二でスタンバイを済ませ飲み始めたころ、ソノと千田が入ってきた。2人はBarのママと客だが、古いつき合いらしい。千田は半二と同じぐらいの歳で今日も背広にネクタイ。中小企業の重役のようにも見えるが背広の着こなしが崩れている。腕にはめている派手な時計は勤め人がするものではない。
「遅いじゃないか・・・」オヤジ。
「ごめんなさいね・・・」ソノ。
千田は笑顔でうなずいただけで弁解がましいことはひと言もはっしなかった。

音響の山下(藤田の友人)と帰省中のAとBは欠席したが、ほぼ全員そろった。準備していたエリ、半二、中田、タカ。2階の部屋から降りてきたオヤジ、マサコ、春。エリの亭主の藤田と娘。春の亭主と娘。遅れてきたソノと千田。
エリの司会でオヤジが新年の乾杯の音頭をとる。いきなりオヤジに振られて半二が新年の挨拶。エリの合図で中田が照明を落とし、DVDをスクリーンに映しだした。
トップバッターのオヤジの「枯葉」がはじまると
「音が悪いな・・・」オヤジ。
エリの亭主の藤田が立ち上がり中田にDVDを止める指示を出した。それからPCとアンプとスピーカーをつなぎ直した。
「それでは・・・川越のビング・クロスビーが歌います・・・」
藤田が親指と人差し指で○を作るとオヤジの低音が響きだした。

春の「サマータイム」はボサノバ風にアレンジされているのでアストラッド・ジルベルトのようだった。ヒロ先生が春の声や音域を考えて選曲した。あまり抑揚をつけないで淡々と語りかけるように歌っていた。ジョージ・ガーシュインの有名な曲だけにみんなの胸にすんなり滑りこんでいる。春の亭主と娘が食い入るように画面を見つめていた。

千田の「マイ・ファニー・バレンタイン」はあきらかにチェット・ベイカーを意識している。あまり声量もなく音域もせまいが、甘い、いい声をしている。
「この人、どっかで見たことがある・・・」タカ。
「クラブ園の客だよ・・・」半二。
「そう・・・?園じゃないな、ノブと一緒に呑んでいて見かけたような・・・」タカ。
タカと話している間にエリの「Speak Low」がはじまっていた。
この半年、この曲ばかり歌っている。癖のない声がのびのびとしている。もともと持っていたのか、この1曲を歌うためにドレスに着替えたかいがあった。ちょっぴりセクシーな衣装が歌の雰囲気をかもしだしていた。エリの娘が恥ずかしそうにスクリーンの母親から視線をはずした。

半二がいちばん気に入っているのはマサコの歌。もう、練習のときから何度も聴いているので分かっていることだが・・・ノリがいい。それに学生時代にアメリカに留学していたとかで発音がネイティブのよう。声もオヤジ譲りで、若い頃にはジャズボーカルのレッスンを受けていたマサコはプロとは云えないまでも玄人はだし。

マサコがジャズボーカルを聴かせるとしたら、ソノは見せる感じ。だから、ライブハウスよりもホテルのラウンジのような所があうだろう。クラブのママだけに衣装がさまになっていて舞台栄えがする。150cm足らずで小太りのマサコとは対照的にソノのスタイルは申し分がない。
「Love For Sale」はジャズのスタンダードだが、半二は歌詞の意味を詳しくは知らない。

「思い出したよ・・・千田はノブの奥さんが働いていたスナックで見かけたことがある・・・」タカ。
「ふぅ〜ん。けっこう飲み歩いているんだ、千田は・・・」半二。
「最近は見かけなかったけどね・・・俺もスナックに行かなくなったし・・・」タカ。
「千田はクラブ園の客だけど、古いらしいよ。何している人なの?」半二。
「確か、弁護士とか司法書士とか、そんな仕事だったような・・・」タカ。
「ソノさんも昔、ノブの奥さんと一緒に働いたことがある、といっていたけど・・・そのころからなんだね、千田とは」半二。
「ノブの遺体から青酸カリが検出されたって、本当なの?」タカ。
「そう云うウワサだけどね・・・」半二。


(6)
もう半年ほど前から活字が見えずらくなっていた。半二は新聞を読んでいても10分もすると活字がにじむので、いったん紙面から目をはずして閉じる。まぶたを指のひらで軽く押える。そんなことを何度もくりかえして新聞を読み終えるのに1時間もかかる。
半二は5年前に左眼の白内障の手術をしているので、それが右眼にもきたな、と感じていた。

左眼の白内障のときは始めての経験で少なからずうろたえた。なんの気なしに右眼をつぶると左眼の視界の真ん中にねずみ色のお月様がでていた。右にくらべて左の視界は薄暗く真ん中に居座っているお月様の満ち欠けはない、満月のまま。半二は老眼の進行にともない眼鏡のレンズを3度取りかえているので老眼の症状はわかっていた。左眼の真ん中の黒っぽい丸は老眼の進行ではないようで不気味。
「さいきん、左眼が見えずらいんだよな・・・」
半二が不安そうにつぶやくと
「老眼じゃないの・・・?」
友人は簡単に言う。
「いや、老眼じゃないんだ。視界が暗いんだよ」
「そりゃぁ、白内障だよ」
友人はまたもあっさりと断定する。

その友人の母親が白内障の手術をして視界が明るくなったらしい。
「私の顔って、こんなにしわだらけだったのかしら・・・?」
いままで見えなかった自分の顔のしわが見えて喜んだり悲しんだり。そんな笑い話のなかで半二を勇気づけたのは
「ちっとも痛くないの・・・あれっ、もう終わったの・・・そんな感じ。時間にしたら15分くらいかしら・・・」
彼の母親の「ちっとも痛くないの」という台詞だった。

誰だって痛いのは嫌。眼にちっちゃなゴミが入っただけで痛くて涙が出るのだから、眼の手術と聞いただけで怖気づく。その痛みは想像をこえているだけに不安になる。で、半二は白内障の手術を1日延ばしにのばしていたが「ちっとも痛くない」と聞いて眼科の高い敷居をまたいだ。

半二は還暦を過ぎてはじめて眼科の病院に入った。
評判がいい、と紹介された眼科だったせいか、待合室は満員御礼だった。30人ぐらいの老人(女性が多い)が暗い表情でうつむいている。もしかしたら、60過ぎの半二がもっとも若い患者かもしれない。半二より若い女性がいるのは母親(義母)の付き添いだ。
半二はそこで2時間も待たされながらそばのテレビを見る気にもなれず、かといって活字を読むと眼が疲れるのでボンヤリしていた。
隣のオバサンが隣のオバサンと眼の病気の話をしている。その声がボンヤリした半二の頭に遠慮なく入ってくる。

2人のオバサンは互いに自分の病気を説明しあって同調している。半二はウルサイな、と感じながらも話を聞き流している。2人のオバサンはたまたま病院の待合室で隣り合わせになっただけの初対面のようだったが、同病相哀れみながらいつの間にか町内会の隣人に対するように世間話をしている。待合室のテレビのワイドショーを見ながら
「ひどいわね・・・」
「ほんとに・・・ひどい」
「なんであんなこと、するのかね・・・」
「分からない、私には考えられない・・・」
「これも時代のせいね・・・」
「私の若いころにはなかったわ・・・こんな・・・」

半二は眠たくなってきた。
いつの間にか2人のオバサンは身の上話をしている。
「うちの義母の介護を3年もやったのよ。ようやく終わったと思ったら急に目が見えなくなって・・・ここへ来たら白内障だって、両目とも。それで、手術をすることになったの。いっぺんに両目の手術はできないから、片方づつ・・・。みんなが云っているのよ、介護疲れが眼にでたって・・・」
「・・・それは大変だったわね・・・。私は、介護をしたことがないの。亭主が末っ子だから、亭主の兄夫婦が全部めんどうを看た。遠く離れていたから、助かった。私の実の両親も兄夫婦と暮らしていたから・・・私は親のめんどうは看ていないけど、亭主の世話が大変なのよ・・・。掃除、洗濯はいいんだけど、オサンドがね、めんどうなの。仕事を辞めてから1日中家にいるでしょう、うっとしいの。それに、昼からお酒を呑むのよ・・・。嫌んなっちゃう」

オバサンたちの会話は亭主の悪口が多いようだが、半二は別れて10年もたつから何も言われていないだろう。男も女も同居している間は喧嘩したり悪口を言ったりしているが、別れてしまうと何も言わないものだ。


久しぶりにその眼科に訪ねてみてもあい変らずの混みようだった。簡単な検査のあと先生に診てもらいながら眼の状態を説明した。先生は半二の話を「ふん、ふん」と聞きながら子供の手のひらぐらいの大きな虫眼鏡で半二の眼球を覗き込んだ。ライトを浴びて指示どおり上下左右、斜めに眼球を動かした。
「5年ぶりだね・・・」
先生はカルテを見ながらつぶやいて
「もっと早く来ないとダメだよ・・・」
不満そうな口ぶりだった。ちょっともったいをつけるように言いよどんで
「白内障だけど・・・黄班変性症もでているね・・・大学病院の紹介状を書くので・・・」
白内障は自覚していたが、加齢黄班変性症とはまったくもって想定外だった。

半二は5年前に左眼の白内障の手術をしているだけに安易に考えていた。それほど白内障の手術は簡単だったから、1月から眼科に通えば2月3月と検査したり、なんやかや準備をして4月に手術をすれば視界は明るくなり半二の日々もそうなる予定だったが、狂ってきた。
先生の口から「加齢黄班変性症」と聞いて半二の脳細胞はフリーズしたようだ。診察を終え、会計を待っている間も
「黄色だよな・・・」
「緑じゃないよな・・・」
「緑は大変なんだよ、たしか・・・」
半二の固まった脳細胞は同じことを何度もリピートしていた。

会計のときに大学病院の紹介状を渡された。手紙のなかに半二の黄班変性症の診察資料がはいっている。受付の女性が大学病院と電話で連絡して
「大学病院の先生は何日と何日の何時が都合がいいのですが、いつにしますか?」
と、問われて半二は返事ができなかった。
半二は咄嗟に自分の仕事の予定を思い出すことができなかった。ちょっと待ってもらって椅子に腰をおろし、手帳を取り出した。手帳を見るまでもない。「ロリン」の休みは日曜日と月曜日。それに、3時まではいつも空いている。半二はおもむろにカウンターに歩み寄り
「何日の月曜日の2時でお願いします」と言った。

「なんだか、うかない顔してるのね・・・」
ロリンは休みだったがジャズボーカル教室の夜だった。ソノは4時に来てたっぷり1時間レッスンを受け仕事(クラブ園)にでかけた。オヤジと春とマサコの3人で2時間ほど。千田は急な仕事が入ったとかでレッスンをキャンセルした。最後のエリも1時間のレッスン。千田が空けた穴があったのでエリは少し余分に歌った。みんなの授業料(千田の分はエリが立て替えた)をまとめてヒロ先生に渡し、そのいち部を場所代として半二に払った。レッスン予約のスケジュールや授業代などの金銭管理はエリがボランティアでやっている。
オヤジたち3人は食事に行き、エリも早く帰った。

「もう1本、飲んでいいかしら・・・」
今日はヒロ先生のお店「ブリッジ」で働きながら歌を習っているニカが車で迎えにくることになっている。半二はビールを出し、自分のウイスキーソーダーの氷を人差し指でステアーして、その指をしゃぶった。
「美味しそうね・・・」ヒロ。
やっと、うかない半二に笑いがこぼれて
「ブロッコリー、食べますか・・・?」
ヒロ先生がうなずくと半二は手早くブロッコリーを5分ほど茹で、冷えたトマトといっしょに出した。氷水で灰汁を抜いたオニオンスライスをトマトにのせ自家製ドレッシング(オリーブオイル、酢、塩、コショウ)をかける。

「眼の病気になりましてね・・・」半二。
「眼の病気?」ヒロ。
「加齢黄班変性症」
「・・・あぁ・・・それ。緑ではなく黄色の方ね」
「そう。で、大学病院を紹介されたんだけど・・・オヤジに訊ねたら、そこは止めた方がいい、と云うんだよね」
「ふぅ〜ん。なんで?」
「オヤジの知り合いの知り合いがそこで手術をして、上手くいかなくて手術をやり直したんだって。それでも上手くいかなくて別の病院で手術を受けたらイッパツで成功したらしい」
「ふぅ〜ん。なるほどね。運よね、どんな先生にあたるか・・・」
「その成功した病院は御茶ノ水にある眼科専門の大きな病院だと、オヤジは云うんだけど・・・」
「知っている、その病院。私の友達も通っていた。有名よ・・・」

ニカが迎えに来た。
「何か飲んでいけば・・・半二さん、悪いわね遅くなって・・・」ヒロ。
「いえいえ・・・何がいいですか?」半二。
「ビール、飲みたいけど・・・コーヒー」
ニカは25歳ぐらいだろうか、丸顔でポッチャリしている。大きな目がクルクルッと動く。さいきん多い整形顔にはない暖かい表情。

あのね、ジョージさんがね、ここでライブをさせてもらえないかって・・・」
ニカがコーヒーを飲み終え、立ち上がろうとするところでヒロさんが言った。
「ええ、いいですよ・・・」
半二は咄嗟に返事をしていた。
「たぶん、ジョージさんのピアノにベースとドラムがはいって私が何曲か歌う・・・」
半二が高田馬場の「ブリッジ」で聴いたメンバーだろう。
「じゃあ、ジョージさんにOKって言っとくわよ・・・3月でどう?」ヒロ。
「う〜ん、だいじょうぶだと思うけど・・・一応エリと相談してみる、日にちとか」半二。

「なんだ・・・先生、まだいたの」オヤジ。
「マサコさんと春ちゃんは?」半二。
ボーカルレッスンのあと食事をすませた春はそのまま帰り、マサコは2階に上がり、オヤジは途中出会ったタカと地下の「ロリン」に降りてきた。
「よろしくね・・・」
オヤジと入れ替わるようにヒロ先生は右手をパーに開いてほんの少し左右に振って帰っていった。
「あの女の子はなんなの?先生の娘じゃないよね?」
オヤジはヒロさんを迎えに来たニカのことを訊いている。
「先生の店で働きながら歌を習っているんだって。先生夫婦の雑用もしているみたいで・・・車で迎えにきたんだよ」半二。

「ふぅ〜ん・・・半ちゃん、いちど馬場の先生の店「ブリッジ」に連れていってよ」オヤジ。
「いいですよ。ニカの歌が聴きたいの?」半二。
「いや、どんなところか、見てみたいんだよ・・・」
「オヤジはね、ああいうグラマーな女性が好きなんだよ、若いしね」タカ。

「さっき3人でうなぎを食べた帰りに例のノブが死んだホテルの前を通ったんだけどさ、どうなったのかね・・・あの事件」オヤジ。
「どうなったのかねぇーったって、オヤジがいちばん詳しいんじゃないの?」タカ。
「そんなことはないよ・・・。・・・ただ、遺体から青酸カリが検出されたらしい。それも噂だけどね」オヤジ。
「そろそろ逮捕されるんじゃないの、奥さん。・・・泳がせているのかな?」タカ。
「青酸カリの入手経路を洗っているんだと思うよ。状況証拠だけじゃ弱いからね」オヤジ。

「あの奥さんが働いているスナックへノブと通っているころ、ジャズボーカルのレッスンを受けているあの千田もいたよ。思い出したよ。いつもカウンターに座ってノブの奥さんになる女性と話していたけど、口説いているふうには見えなかったね。でも、ノブは千田に対抗心をもっていたよ」タカ。
「なんであんな女に惚れるかね?ガリガリで般若みたいな面で・・・わからんね」オヤジ。
「たで喰う虫も好き好き・・・」タカ。
「まぁな・・・」オヤジ。
「春ちゃんもニカもグラマーだから虫がつきやすい・・・」
と云いかけて半二はやめ
「じゃぁ一緒にブリッジにいきましょう。ジョージさんがここでライブをやりたいらしいので相談もあるし・・・」
「いいね」オヤジ。

「いいんじゃない・・・」
ヒロ先生が言い残していったジョージさんのライブの件をエリに話すと、すでに知っていたかのようにすんなり同意した。
「問題は3月のいつにするか・・・第1と第2の月曜日の夜はレッスンで第二2日曜日の昼間は月いちの歌会・・・」エリ。
「第3日曜の昼は町内会の総会の予約が入っている・・・」半二。
べつに宣伝したわけではないが「ロリン」の昼間が空いているので会議の場に使われるようになっている。そうなるといつものAとBのピアノの練習はできなくなるのだが・・・会議といっても月1、2回だが、半二は予約が入るとAとBにはしかたなく練習を勘弁してもらっている。

「やるならロリンの定休日でレッスンや歌会にぶつからない日曜か月曜ね・・・」エリ。
「客の入りを考えると土曜日の夜がいいんだけど・・・そうすると営業日が削られるし、普段のお客さんの迷惑にもなるし・・・」半二。
「普段の客ったって5、6人しかいないし、ライブの客とかぶっているし・・・」エリ。
「じゃぁ、土曜か日曜の夜ということで先生とジョージさんのスケジュールと調整しよう。それは、エリに頼む」判二。
エリはうなずきながらも、何か考えているようだった。

前々から半二と相談していたことだが、正月5日の「ジャズボーカル教室発表会DVDを見る会」の後、エリは家にもどってから、ころあいを見はからってパートの退職を持ちだした。
「べつに今の仕事に不満なわけではないけれど・・・もうちょっと歌の勉強をしたいので・・・」
いま働いている建築事務所は夫の紹介だったので、まず夫の了解が必要だった。発表会のDVDをみんなで見たあとなのでエリも藤田も気分が高揚していた。藤田は中田からもらった(お礼はした)DVDをノートパソコンにセットしてシーバスリーガルを持ちだしロックで飲みはじめた。エリは炭酸で薄めたハイボールをひと口飲んで、また炭酸をつぎたして炭酸水のようなシーバスにした。

「ロリンでバイトしながら、ヒロ先生にもっと習おうと思って・・・」エリ。
夫の藤田はDVDの画面を見ながらうなずいているが、何を考えているかは分からない。
「半二さんは了解しているの?」
「ええ・・・火曜から金曜までの4日間、4時から8時まで・・・」
「良子(娘)の晩ごはんはどうするの?」
「帰ってからいっしょに食べようと思っているけど・・・お腹がすいたら、おやつをたべてもらって・・・」
「8時まで働いて帰って支度をすると、食べるのは9時になるよね・・・仕事は7時までにしてもらえば・・・」
たしかに夫の云うとおりだった。こんど高校2年生になる娘のことも考えなければならない。エリはうなずきながら
「・・・そうね、半二さんに頼んで7時までにしてもらいます」

「建築事務所の方には早めに言っておいたほうがいいね。会社の迷惑にならないように後釜のパートさんが入って、引継ぎをしてからでないと・・・」藤田。
それは、エリも承知していた。
「ロリン」も今すぐに人手を必要としているわけではない。どうせ5時に開店しても7時ごろまで客が来ないことも多いのだ。エリの仕事は開店準備とトイレ掃除ぐらい。藤田は発表会のDVD(エリの歌う姿)を見たせいか、エリの転職願いを受け入れた。その夜はめずらしく藤田がエリの寝床に侵入した。
「あらっ・・・」
と、エリは思った。
そのときはすでにエリは身体をずらしていた。


「どうせやるなら、この前みたいに発表会もやってくれないかなぁ・・・」
レッスンを終えてオヤジが誰に言うともなくつぶやいた。
ヒロ先生、エリ、半二の3人がいっせいにオヤジの顔を見つめた。
「いや、ソノさんがいっていたんだよ・・・」
たじろいだオヤジが弁解がましくソノさんの名前を出した。
たしかにソノさんが望んでいるかもしれないが、オヤジは年末の発表会で歌った興奮がいまだに冷めやまぬようだった。しょっちゅう例のDVDを見ている、と云っていた。
オヤジは中田に頼んで10枚もダビングしてもらって知り合いに配っていた。

「この前ブリッジでジョージさんのトリオを聴いたけど、好かったねぇ・・・しっとりとしていて」
前々からの約束で、オヤジは半二が打ち合わせをかねて「ブリッジ」に行くのでついていった。
「その節はありがとうございました。70過ぎの年寄りトリオだからどうしてもしっとりしちゃうのよ・・・」ヒロ。
「あのトリオで歌ってみたいね・・・」
なんてことを言い出すんだよ・・・半二がオヤジをにらみ、驚いたエリの両目がパッチリ見開いている。
「年末の発表会はヒロ先生の伴奏でよかったけどさぁ・・・ブリッジでジョージさんのトリオをバックに先生が歌っているのを聴いたら・・・」
オヤジはどこまで本気で言っているのだろう。

「じゃぁね、お昼に発表会をやって夜にジョージさんのライブをやりましょう・・・ジョージさんがOKを出せばね。となると、譜面を書いてリハをしなければ・・・。みんな、馬場まで来てくれるかしら・・・?」
すかさずヒロさんがジョージさんに電話をいれた。
「3月19日の日曜日なら空いているって。リハは1週間前の12日の日曜日でどうかしら・・・?」
「ほんとにいいんですか・・・?」エリ。
「だいじょうぶよ、ブリッジの生徒さんのバックもやっているから・・・歌伴は慣れているの」ヒロ。
「オヤジさん、言いだしっぺだから3人分(ジョージトリオ)のリハのギャラは払ってね・・・」エリ。
「いいよ、こんどの発表会は冥土のみやげだ・・・」オヤジ。


エリが3月19日の発表会と、そのためのリハを12日に高田馬場「ブリッジ」でやる件をメールで一斉発信をした。半二もHPとFBに発表会とジョージトリオ+ヒロ大橋のライブをアップした。中田を筆頭に生徒のみんなもFBでシェアーしたりラインでつながっていたので、その情報はあっという間に常連客や仲間にひろまった。
いちばん喜んだのは、やはりソノさんだった。彼女は高田馬場まで通ってヒロ先生のレッスンを受けていて、かつてそこの生徒の発表会でジョージトリオのバックで歌ったことがあった。足が震えて歌詞を忘れたが・・・。

オヤジは発表会が決まってから「ブリッジ」に春やマサコを連れてでかけている。春は子供と亭主がいるので同伴したのは1度きりだが、タカはオヤジのお抱え運転手として毎回つきあっている。そのせいか、タカもジャズが好きになってきてヒロ先生のレッスンを受けようかと考えている。

3月19日の発表会が決まると俄然練習に熱が入るのも無理もない。
昼間、AとBのどちらかがピアノの練習をしていると4時ごろ、ボーカルの生徒の誰かが顔をだしている。アバウトだがピアノの練習は12時から5時までの間となっている。AとBは音大に通っているので授業の関係で練習日や時間を調整している。2人の練習予定と夜のBGMは「ロリン」のHPと掲示板にピンナップされている。

歌い手にもそれぞれ好みがあってオヤジはBの練習日の4時ごろにやってきて5時からBに伴奏をしてもらう。まず、開店5時には客は来ない。だいたい1時間ぐらいは練習ができる。ソノもオヤジと同じパターンで2人は熱心だ。春と千田はAの伴奏を選び、エリとマサコはあえてどちらかというふうでもない。


(7)
正月休み明けにエリが辞職願を出したら1月の末には新しいパートさんが見つかった。
求人誌で募集したのではなく社長の知り合いの紹介だった。半月、エリは一緒に働いて仕事内容の引継ぎをすませ、今は「ロリン」のアルバイト。半二とは4時から7時までの約束だが3時ごろには出勤している。まずコーヒーを淹れて飲んでから(AかBがいれば一緒に)掃除。
エリが働きだして最初にしたことは不要なガラクタを処分することだった。とりあえず全部、隣の半二の部屋に放り込んだ。居ぬきの店の古い汚れた壁紙をはがしたためにコンクリートがむき出しになっている壁に粗いドングロスの布を貼った。コンクリートの打ちっぱなしも悪くはないが感覚がちょっと古い。それに寒々しい感じがするのとライブのときに反響が強すぎる。その工事は夫の藤田に安くやってもらった。
それから、天井にスポットライト用のラインを取り付けた。その工事はエリが勤めていた会社に安くしてもらった。ついでに業者さんに天井の掃除をお願いした。そういうことを半二はなかなかやらない。

半二は何もやらない、といえば云いすぎだがあまり店をキレイにしようとはしない。掃除が嫌いなのか苦手なのか。身だしなみもかまわないタイプで無頓着だ。コーヒーやお酒や料理に気をつかっているわりには店内は雑然としたままだ。
それでも2年前に開店したときは、物がなかっただけに小ざっぱりとしていた。いつの間にか不要な物がふえ安っぽい居酒屋の感じがしないでもない。半二はエリに提言されても動かないが、エリが掃除をして片付けたり勝手にレイアウトを変更しても文句は言わない。
半二よりもお客さんの方が
「キレイになったじゃない・・・」
「スッキリしたね・・・」
と、反応する。

そういうわけで、エリはカウンターの上の物をいったん全部下ろして必要な酒瓶だけをもどした。お土産らしき小物や置物はまとめて箱に入れ半二の部屋に運んだ。厨房内の小道具、調理器具、タオルなどは使い終えたらその辺に置いておかないで収納庫に入れてもらうように半二に頼んだ。ちょっとした隙間にビールケースやダンボールが置いてあるのは、いただけない。そうした不要なものがお客の目に入ると店の雰囲気が安っぽくなる。
「整理整頓、してよね、ね」
エリはやりだすと徹底的にやる性格のようだ。
半二はものぐさでテキトー。

「半ちゃん、仕事中の服装、私服でしょ?」エリ。
「えっ・・・?」
いきなり何を言いだすんだ、とばかり半二は訝った。
「やっぱり・・・Tシャツじゃいけないと思うの・・・」
「ロリン」に客で来ている間は何も言わなかったが、働きだすとエリはうるさくなった。
半二は意外な気がした。いままで見えなかったエリの側面が見えてきた。小うるさいが、それでも半二の欠落している穴を埋めてくれるので不愉快ではない。なのでエリの提案に素直にしたがっている。

黒いズボンに黒い靴。白いYシャツに黒い棒の蝶ネクタイ。この格好がいい、とエリが言う。昔のバーテンダーのスタイルだ。
エリは棒タイと領収書を半に渡した。

半二の格好をからかっていたのは2、3日で1週間もすれば誰も何も言わなくなった。4時からソノが歌って帰り、春も歌って帰った。オヤジはひとり残ってBとエリとだべっていた。
「半ちゃんは?」オヤジ。
エリは親指を立てて隣の部屋をさした。
5時までに珈琲豆の焙煎と突き出しのおつまみの仕込みをすませると半二は部屋にもどってゴロゴロしている。特別なことがなければ7時にエリと交代する。今日は塾帰りのエリの娘が迎えにきていた。高校生の娘はすでにエリより背が高い。親子が出て行くと入れ替わるようにタカが入って
「もう、練習は終わったの?」
「終わりました・・・ソノさん、春さん、オヤジさん」B。

「オレも習おうかな?」
タカは「ロリン」の月いちの「歌会」には参加しているが、ジャズボーカルのレッスンは受けていない。まわりのみんなの発表会を見たり聴いたりしているうちに自分も仲間に入りたくなったようだ。さいきん、オヤジのお抱え運転手で馬場の「ブリッジ」へ行くようになってから想いが高じてきた。

「習えばいいじゃないか。歌会だけじゃ、進歩がないよ」
エリにさそわれて
「この歳になってさ、いまさらジャズボーカルのレッスンを受けてもな・・・」
と、云っていたオヤジが今ではいちばん熱心な生徒だ。

「習うのはいいんだけどさ・・・あの千田って男が気になるんだよなぁ・・・」タカ。
「気になるって・・・?」エリ。
「だんだん思い出してきたんだけどさ・・・死んだノブの奥さんは(愛ちゃん)って云うんだ。ぜんぜん愛らしくないし、もちろん源氏名だけどさ。(愛ちゃん)と千田は親しかったよ。だから、ノブは千田に嫉妬していてね・・・」タカ。
「千田とソノさんも古いつき合いらしいね・・・」オヤジ。
「ソノさんは(愛ちゃん)と同じ店で働いたことがあるって云ってたよ」半二。
「川越なんてさ、ちっちゃな街だからさ、長く住んでいればみんな知り合いになっちゃうのよ。知人をたどっていけばね、芋づるし式。しかも水商売にかぎれば誰もがネタバレしている・・・(愛ちゃん)、ソノさん・・・あの千田ってぇ男は元弁護士らしいよ。バブルのとき、地上げの事件て資格を失くしたそうだ。でも、法律に詳しいから飲食店や裏社会の相談にのって悪知恵を提供しているらしい・・・」オヤジ。
「そんな風には見えないけどね・・・」エリ。


「あら・・・めずらしいじゃない・・・」エリ。
「うん・・・」
松山さんはオヤジが世話役をしている町内会の「歌声の会」に参加していて公民館で歌っているお年寄りのひとりだ。その会にオヤジにさそわれて春とエリが参加していたが、歌の選曲がどうしてもお年寄り向けになっていて・・・唱歌、童謡、民謡、演歌などでエリはものたりず「歌声の会」は辞めて「ロリン」で「歌会」を始めた。「歌会」のメンバーは町内会の「歌声の会」より若いエリやタカ、春たちの世代があつまっている。歌う曲もJポップやビートルズなど洋楽が多い。たまには演歌も歌わないこともないけれど、まず童謡や民謡は歌わない。だから町内会の「歌声の会」に参加する老人が「ロリン」の「歌会」に来ることはないが、松山さんだけが何故か両方に出席している。

エリが「歌会」始めるときオヤジに「歌声の会」のお年寄りを呼ばないで、とお願いしてあったから松山さん以外には誰も来ない。その松山さんも月1回の「歌会」にしか「ロリン」に顔を出すことはなかったのだが・・・。
「うん、ちょっと前を通ったものだから・・・」松山。
「コーヒーでいい?」エリ。
「うん、タバコは・・・外なんだよね・・・」
「ゴメンナサイネ・・・」エリ。
「いい加減に止めろよ・・・タバコなんて」オヤジ。
松山はオヤジよりひとつ年上の80歳。同じ町内会に住んでいながら最近「歌声の会」で知り合った。
「コーヒーとコレしか楽しみがないんだよ・・・」
松山はコーヒーができるまで外(地下ながら、入り口の前庭に2つのテーブルとイスがある)へタバコを吸いにでた。
「松山さんはひとりモンなんだよ・・・3年前に奥さんを亡くされてね・・・ひとり息子は都内にいるらしいけどね、孫2人と」オヤジ。

松山さんは広島出身で東京の大学を出て埼玉で中学校の教師をしていた。退職前の数年間は校長をしていて退職後は教育関係の機関に席を置き3ヶ所異動したあと、70歳をまえにして隠居生活となった。退職してしばらくの間は毎朝背広を着てカバンを持って家を出た。以前勤めていた学校の付近まで出かけ、ぶらついて見知らぬ街で昼食をとり、映画を見たり本屋に立ち寄ったあと喫茶店で時間をつぶして夕方になると家路についた。

そんなことを3ヶ月ばかり続けていた。

そんなとき、女房が町内会の「歌声の会」に出かける、というので付いて行ったのがはじまりだった。それいらい月1回の「歌声の会」には欠かさず夫婦で出席していた。さほど夫婦仲がいいとも思っていない松山だが、退屈しのぎに夫婦で歌っていた。歌も人並み以上に好きでも興味があるわけでもなく、職場の歓送迎会の余興でしかたなく歌うていど。下戸なのでカラオケスナックには行かないし、カラオケボックスに誘われてもめったに付きあわない。
だからカラオケで歌えるのも3曲だけで、その場のTPOで歌い分けている。うながされたり指名されたりして松山がマイクを持つと皆が知っていて曲名を連呼する。それは、酒が入っているせいもあって松山さんへの暖かいリクエストのようでありながら、からかいのニュアンスも含まれていた。
宴会場のなかでは1番上の役職にありながら部下たちから冷やかしの声が飛ぶのは彼が権力を振り回さない実直な人柄のせいでもある。

「あい変らず、仲がいいね・・・」
と、オヤジたちにはからかわれていたが内実はそんなものではない。そんなものではないが、それを説明するのはメンドウだ。
なぜか夫婦で出席しているのは松山だけで珍しがられていただけ。松山の妻は「歌が好き」だけではなく「俳句」や「山歩き」の会にも入っていて活動的だった。だから始終出歩いて仲間と楽しくやっていたが、3年前に脳溢血で亡くなった。

「どうした風の吹きまわしなんだい・・・?」
タバコをいっぷく吸ってもどってきた松山にオヤジが問いかけた。
「コーヒーが飲みたくなってね、それにタバコ・・・」
松山が飲んでいる自分のコーヒーカップをゆび指し答える。
「こんど発表会をやるから来てよ」オヤジ。
「いつなの・・・?」松山。
「3月19日の日曜日。2時から・・・」
エリが答えると、松山はスマホを取り出して予定をチェック。
「いまのところ何も予定ははいっていないなぁ・・・。いいよ、いま支払っておこうか?」
「歌会」で顔見知りのオヤジ、エリ、春が歌うので松山は発表会に来る気になったようだ。
「支払いはまだいいの、予約だけで・・・」エリ。

「あら、めずらしい・・・」
1年ほど前からいつもカップルで来ている根本が1人でやって来たので思わずエリは独り言のようにつぶやいた。
「今日はこちらに座ってみようかな・・・」
カウンターのエリ、オヤジ、タカ、松山の隣の椅子を引いてすわった。
「今日はお1人なんですか?」
と、言いかけてエリが問いを飲み込んだら
「今日は1人かい?」
と、オヤジがなれなれしく話しかけた。

「今日はめずらしいことばかり・・・松山さんが来て根本さんが来て・・・」エリ。
「今日は振られちゃいましてね・・・」
根本は月2回のペースで彼女と「ロリン」に来ている。いつも奥のピアノのそばのテーブルに着くのでエリも半二も話したことはなかった。2人でチーズや生ハムをつまんでワインの赤を1本空け、〆にざるそばを食べて帰る。オヤジやタカといった常連客とはどことなく雰囲気が違う。身だしなみがいい。
年末の発表会とヒロ先生のライブにも来ていた。見た目にも根本と彼女は夫婦ではないのが明らかで気になるところだが、問いただすわけにもいかない。

「いつもご一緒の人(女性)はキレイなかたですね・・・」エリ。
根本は微笑んでうなずくだけで返事をしない。
「どこかでお会いしたことがあるような気がするんだけど・・・彼女と」
オヤジは60歳ぐらいの彼女を「お水系」のママとにらんでカマをかけてみた。
「たぶん会ったのはここだけだと思いますよ・・・川越の人じゃないですから・・・」
70歳ぐらいの根本はあまり彼女については触れられたくないようだった。

「根本さんはジャズが好きなんですね・・・」
エリが話題を根本のご婦人からジャズに振った。

「ええ、好きなんですけどね・・・古いんです。ベニーグッドマンとかね・・・。もちろんスイングだけじゃぁなくバップもファンキーも聴きますよ・・・」
根本は高校の部活でブラスバンドに入っていてトロンボーンを吹いていたそうでビッグバンドを好んでいる。
「なんでも聴きますがね、やはり古いのがいいですね、1970年ぐらいまでかな・・・。最近のは聴いていません・・・速くて・・・」
きょうの根本はワインではなくビールを飲んでいる。
「俺たちもビッグバンドで踊った世代だからね・・・ダンスホールもあちこちにあったし・・・」オヤジ。
「キャバレーにもビッグバンドが入っていましたよね」根本。
「そうそう・・・ホステスさんと踊れるのが嬉しくてね・・・」オヤジ。
「それが今ではカラオケ・・・歌っても踊っても」根本。
昔はずいぶんと贅沢だったのね・・・」エリ。

ひとしきり、オヤジと根本の間でダンスホール、キャバレー、映画館など昔の遊び場の話に花が咲いていた。

タカと半二は蚊帳の外に置かれたようでオヤジと根本の昔話に入っていけない。
「根本さん、また発表会とヒロ先生のライブがあるので来てください・・・3月19日の日曜日。発表会は2時からでヒロ先生のライブは5時から・・・」エリ。
根本は手帳をめくり(80歳の松山はスマホだった)
「夜は予定が入っているけど昼間は来れます。ジョージ大橋さんは・・・むかし銀座で聴いたことがあります」
「年末の前回はピアノのジョージさんだけでしたが、今回はベースとドラムが入ってヒロ先生が歌います」エリ。
根本は口にしなかったが、昼よりも夜に来たかったようだ。


(8)
発表会とジョージ大橋トリオ+ヒロの準備がひととおりととのったところで半二は、エリを慰労することにした。
「一段落したし、なにかご馳走するよ・・・ロリンの休みの月曜日・・・」
日曜日の2時からの発表会は生徒の親族や友人たちの予約がすでに30名も入っている。5時からのジョージさんとヒロ先生のライブも15名ぐらいの予約が入っている(その内生徒が6名)。
発表会の客の入りは心配していなかったが(生徒のノルマがあるので)、ジョージさんのライブは予想がつかなかった。前回、年末のヒロ先生とジョージさんのDuoは発表会の後半に組み込まれていたが、今回は昼と夜に分かれているので
「どうかな・・・?」
と、半二は気がかりだったが、めどがついた。
「そうね・・・うなぎがいいわ・・・れいの」
車を出してくれるエリが昼間が都合がいい、というので1時半に予約を入れておいた。仕込みの準備があるのだろう、予約のときに注文品も聞かれる。
行きは半二が運転し、お酒を呑んだので帰りはエリが送ってくれた。

「ここはタレが甘すぎず、ちょうどいいわね・・・」エリ。
「うん・・・」

半二は肝をかじりビールを呑み、白焼きをつまみに日本酒をぬるカンでいただき顔を赤らめていた。
白焼きにはワサビと醤油、塩が添えられていた。
半二は何もつけないで口に運び、確かめるようにゆっくりそしゃくした。うなぎの脂と唾液がまじりあってかすかに甘みがあった。うなぎにしては歯ごたえもある。
エリは半二の口の動きをじっと見ていた。エリの目が食べたい、と言っている。半二がうなずくと箸をのばし白焼きをちぎって口に入れた。噛みながらうなずいている。うなずきながら噛んでいる。

半二は塩をつまんで落とした白焼きの一片を口に入れ塩が溶けるのを目を閉じて待った。半二にはエリが自分の表情を見つめているのが見えるようだった。エリも塩をつけて食べた。うなずいている。
半二はすりわさびを醤油でとかずにそのまま白焼きにぬって食べてみた。つんっ、と鼻に抜けるものがあって半二が顔をゆがめたのを見て、エリは声を出さないで笑った。それから、ひかえめにわさびをつけて口に運んだ。つんっ、と鼻にくるものはないようで微笑みながらうなずいている。
醤油はつかわず、2人で一皿、味わった。

「ここは予約制だから、頃合いを見はからって捌くから美味しいんだと思う。ちょっとやせて脂ののりがたりないけどね・・・。この辺の荒川や伊佐沼のうなぎはこんなものだよ・・・台湾や中国産は養殖だから脂がのっているけどね・・・」
半二はガンで胃を半分取ったせいか、うな重のご飯を半分のこした。エリは同じものをキレイにたいらげた。なにか果実かアイスクリームなどが欲しいと感じていたが、お新香しかなかった。コーヒーも飲みたかったが、うなぎ屋にはなかったのでお新香をかじりお茶をいただいた。半二はビール1本、お酒1合で眠たげにしている。
エリが運転席につくと
「ちょっと休んでいこう・・・コーヒーもあるよ・・・」
半二は目と鼻の先のラブホをアゴをしゃくって示した。
エリはハンドルを握ったまま横の半二を見て静かに笑った。

「ノブさんが死んだ所じゃないの・・・」エリ。
「死んだのか? 殺されたのか・・・?」半二。
「なんで奥さんは捕まらないの?」エリ。
「証拠が見つかるまで泳がせているんだろう」
「証拠って?」
「薬物だね・・・噂では青酸カリらしいけど・・・」

「和歌山の毒入りカレー事件って、あったじゃない。あの毒はヒ素だったんだけどさ、容疑者の家でヒ素が見つかったんだよ。容疑者の夫がシロアリ退治の仕事をしていてヒ素を使っていた。しかも、ヒ素の成分がカレーの中のものと容疑者の家のものとが一致したんだよ。それで、逮捕、起訴となったわけよ・・・」半二。

ラブホの陰からタクシーが出てきてエリの車の前に割り込んだ。
半二の誘いが聞こえなかったかのように、エリはホテルの前を素通りして16号線にぶつかった信号で止まった。
「コーヒー・・・飲みたかったなぁ・・・」半二。
「ねぇ・・・前のタクシー、春とオヤジさんじゃない?」エリ。
タクシーの後部座席の右側に大柄な中年女性の背中と後頭部が見える。その横に小柄な老人のハゲ頭だけが枕からはみ出している
「違いないわ・・・あの服には見覚えがある・・・」エリ。
「ちょっとスピードを落として・・・あまり近づかないで・・・」半二。

タクシーはオヤジの家(1階が不動産屋、地下がロリン、2階がオヤジとマサコの住まい)に向かっているようだ。車で10分ぐらいの距離だから見失うことはないだろう。
以前、ノブがオヤジと春がうなぎ屋のそばのラブホから出てくるのを見かけたと云って、2人の情事をおもしろおかしく脚色して半二に話して聞かせたことがあった。まさかそこでノブが死ぬとは・・・半二は因縁めいたものを感じた。もしかしたら、ノブは自分の妄想をなぞってそのラブホに入ったのかもしれない。
タクシーは家の前で止まり、オヤジだけが降り、そのまま走りさった。


梅が咲き、日中の風が緩みはじめた。

3月19日の発表会にそなえて1週間前の日曜日にリハーサルをした。JR高田馬場駅で降りて早稲田通りを大学の方へ向かって5分ほど歩いた。左側の地下にヒロ先生の店「ブリッジ」がある。そこはJazz Barで週に1、2度ライブをしている。出演しているのはジョージと彼の友達がほとんど。ヒロ先生も歌う。それから、先生の生徒でセミプロの女性歌手。
半二は何度も来ているし、オヤジも半二について下見に来たことがある。

1時から3時までソノと千田がリハーサルをした。ベースとドラムがはいったジョージトリオをバックに歌うと気持ちがいい。ソノの「Love For Sale」は30分ほどでOKが出たが、千田の「My Funny Valentine」はすんなりとはいかなかった。ソノはジョージのバックで歌ったことがあるし、会場の店は今まで習いに来ていた「ブリッジ」だから気後れすることもない。そのてん千田は何もかも初めてで緊張している。出だしの入るタイミングが合わない。ジョージとアイコンタクトをとって何度も合図の練習をした。

リハーサルを終えた千田はぐったりと疲れ、放心したようにしばらくの間、座り込んでいた。

タカをお抱え運転手にして、オヤジが春とマサコと4人で「ブリッジ」にやってきたのはソノと千田が帰った後だった。

タカは定年退職後も同じ会社に残って嘱託で月に10日ほど働いている。振り込まれる夫婦の年金には手をつけないでアルバイト代を小遣いにしている。まぁ、呑み代のためにアルバイトをしているようなものだ。今日のようにオヤジの運転手をしていると小遣いを使わないで1日楽しく遊べる。年金にさえ手をつけなければタカがどこで何をしようと妻はいっさい文句を言わない。

まずマサコから・・・リハーサルの順番はヒロ先生が決めてあった。「Summer Time」。これは年末の発表会で春が歌ったスタンダードナンバー。春は先生の意見もいれてボサノバ調で軽く歌っていたが、マサコは黒人っぽくねばりつくように歌う。若い頃、ジャズボーカルを習っていたが永い間、歌っていなかった。去年からエリやオヤジに勧められてヒロ先生のレッスンを受けている。生徒のなかでは1番上手いのだが小太りで衣装のセンスがイマイチ。やはり女性ボーカルはミテクレが大事。そのてん、ソノはビジュアルで得点している。

前回のオヤジは「Autumn Leaves」、今回は「Aprill In Paris」。ほとんどビング・クロスビーのコピーだが低い声がいい。去年の夏までは町内会のお年寄りたちと「歌声の会」で唱歌や童謡、民謡などを歌っていたから、まだジャズにはなっていない。それでも、79歳にしてジャズボーカルのレッスンを受けるとはたいしたものだ。
タカもお抱え運転手としてオヤジにつきあったり「ロリン」でみんなの歌を聴いたりしているうちに月1回の「歌会」では物足りなくなってきてヒロ先生のレッスンを受けようかな、という気になってきている。

3人のなかで春がいちばん時間がかかった。「The Girl From Ipanema」。春はオヤジに誘われて町内会の「歌声の会」に入り、エリに誘われてロリンの「歌会」に参加している。いままでポップスばかり歌っていたのでジャズはなじまない、と云うより無理。で、ヒロ先生にすすめられてボサノバにしている。ポルトガル語も英語にくらべて発音しやすい。サンバなど上手くリズムがとれない曲もあるが・・・歌謡曲に通じるフィーリングがあり歌いやすい。
「足でステップを踏みながら歌うとリズムがとれるよ・・・」ジョージ。

エリと半二が新宿のジャズ喫茶「D」で待ち合わせをして高田馬場の「ブリッジ」に着いたときは、まだ春のリハーサルがつづいていた。
「半ちゃんがあのジャズ喫茶で働いていたなんて・・・想像できないわね・・・」エリ。
「1970年・・・もう47年も前のことだよ・・・」半二。
エリはもう少し半二の過去を知りたかったが、自分のリハーサルを控えていたので春の歌に耳をかたむけていた。半二も春の歌を聴きながら、いつもよりもいいと感じていた。ジョージのピアノトリオが春をサポートしている。歌いやすそうだからエリのリハーサルも上手くいくだろう。

ソノと千田の姿はすでになく
「せっかくだから、この辺で食事をして帰るよ・・・」
オヤジたちはマサコのおすすめのイタリアンで食べて帰ることになっている。
「わるいわね・・・お先に・・・」マサコ。
エリの友達の春はリハーサルで疲れたのか、なにも言わない。
「よかったわよ・・・」
エリが声をかけると、春ははじめて表情をくずしてうなずいた。

「ちょっと休憩させてよ・・・」
と、ジョージはエリと半二のところに来て云い、カウンターに向かってコーヒーをたのんだ。
カウンターのニカがOKサインのように親指と人差し指で○をつくるとジョージは親指と人差し指と中指を立て、3杯の合図。
1時からソノと千田、4時からオヤジ、マサコ、春のリハーサルで7時になっている。あとエリひとりでお終いだ・・・。
「チケットは売れてるの・・・?」ヒロ先生。
「30枚、身内ばかりだけど・・・」
「私たちの方は?」ヒロ。
昼の発表会が2時から休憩をはさんで4時まで。5時から7時までジョージトリオ+ヒロのライブ。
「今のところ15名の予約が入っています。あと1週間あるので30人ぐらいになると思います」エリ。

「じゃぁ、やりますか・・・」
3人がそれぞれの楽器のところへ歩み、ヒロ先生が譜面をさしだすとジョージがベースとドラムに2、3指示をだした。2人がうなずくだけで簡単な打ち合わせが終わるとピアノが鳴りだしジョージが目で合図をするとエリが入っていった。
「そこのところをもう1回・・・」
何度も同じところをやりなおしている。

エリの声はハスキーであまり声量はない。ヘレン・メリルのような感じだから選曲を間違わなければ、そこそこ聴ける。ヒロ先生に習いはじめて1年になるし、英語の発音がいいのが取り得だ。半二は楽譜は読めないし楽器はできないし、ただ聴いているだけなので批評はできない。なんとなく感じるだけだ。エリはこれからまだまだ上手くなると思う。生徒はそれぞれ上達するだろうが、半二はエリにいちばん可能性を感じている(プロにはなれないだろうが)。
半二とヒロ先生とカウンターのニカがリハーサルに聴き入っていると靴音がして夫の藤田と中田が降りてきた。エリは藤田が来ることを知っていたのかリハーサルに集中しているためか、2人の男を一瞥しただけで反応を示さなかった。

藤田は目礼をするとヒロ先生と半二の席に着いた。中田もいっしょにエリのリハーサルを聴きながらビールを飲んだ。しばらく黙って4人でリハーサルの成り行きを見聞きしていた。そろそろ終わりそうな気配がしたころ、藤田がヒロに話しかけた
「今回も発表会のDVDを作ろうと思いましてね・・・先生の許可をいただきに来たんです・・・」
「私はいいけど・・・今回はバックがジョージトリオだから、ジョージさんに訊いてみないと・・・」
ヒロはリハーサル中のジョージの方を見やって軽くうなずいていた。

ジョージが立ち上がって
「お疲れさま・・・」
というと、エリはジョージの方へ歩み寄って最敬礼をした。
ジョージが手を差し出すとエリは両手でその手を包んで、また礼をした。ベースとドラムさんのところにも歩み寄り、同じように握手と礼をしてから4人のテーブルに着いた。ジョージたちも隣のテーブルに着き飲み物をたのんだ。ニカが作りヒロが運んだ。見かねてエリも手伝った。ひととおり飲み物がいきわたったところで乾杯となった。
「お疲れさま・・・」
ずれながら、みんなが口々にそう云いあった。

「ジョージさん、発表会のDVDを作りたいとのことなんだけど・・・」
ヒロが中田の方に手のひらを向けた。
年末の発表会も中田がDVDを作り、みんなにあげた。もちろんヒロの許可があって、見本の1枚を先生に渡してある。DVDのできは良く、みんな1人で数枚ほしがった。今回はジョージトリオがバックなのでかれのOKがいる。
「いいけど・・・販売はしないでね」ジョージ。

「私たちのライブはどうしますか・・・?」ヒロ。
「写真はいいけど・・・録音は止めてほしい。著作権の絡みがあってね・・・だからCDもDVDにもしないで」ジョージ。
「1、2曲なら、こっそりとってもいいよ、ね、ジョージ。俺たちは感知しないから。ユーチューブにアップしてもいいよ。でもそれは、あくまでも盗聴盗撮」
著作権の問題もあって、DVDの製作は公認できないのでベースさんが折衷安をだした。一応、ジョージに責任がかからない曖昧なところでみんなが納得した。その後も飲みながらエリ、藤田、ジョージ、ヒロ先生が雑談をしていた。ベースとドラムさんが帰りかけたのを機に半二は席を立った。
エリといっしょにリハーサルに来たときは帰りもいっしょで、どこかで呑んで帰ろうと思っていたが・・・エリの亭主の藤田が来たので1人さきに「ブリッジ」を出ることにした。

足は新宿の方に向いて、ブラブラと明治通りを歩いた。
まさか、あの有名なジョージ大橋さんのライブを自分の店でやるようになるとは・・・半二の想像外の事だった。歩きながら、事のなりゆきがよみがえってきた。


胃がんで入院した病院の大部屋でオヤジに出会ったのが事の始まりだった。オヤジが先に退院したのだが、2週間ほど同じ部屋でひまを持て余していた。が、その大部屋の患者は胃がん、大腸がんなどの手術をひかえていて無駄口をたたく者はいない。オヤジだけが同部屋のひとりひとりに話しかけて与太話をもちかけている。誰もまともに相手をしないので半二のベッドの横に椅子を運んできて話し込むようになった。

「俺の会社(不動産屋)の地下が空いているんだ、どうだ、やらないか?」
半二が失業中でブラブラしているのを知ってオヤジが誘ってきた。
どこまで本気なのか、分からない。半二は胃がんになる前に離婚して家を出ていた。とにかくカネがない。手術が上手くいくかどうかも分からない。商売のことなど考える余地がない。
「・・・むかし、その地下で俺と女房で喫茶店をやっていたんだけどさ、バブルで不動産の方が忙しくなって親戚に任せていたらバブルがはじけて喫茶店がつぶれちゃった。その後、賃貸に出したらイタリアンになってケッコウ繁盛していたんだけどよう、夜逃げされてまいったよ」
オヤジから似たような話をなんども聞かされて、半二は彼の過去や略歴、家族構成まで諳んじてしまっている。

胃がんの手術を終え、退院してから1週間後のことだった。オヤジの誘いを本気にはしていなかったが、駅前のキャッシュコーナーに行ったついでに不動産屋を訪ねてみた。快気祝い、ということでオヤジがうなぎをご馳走してくれた。その帰り、義理で不動産屋の地下に降りてみると東南から陽が入る前庭があり、悪くない。家賃もほぼタダ。保証金もなにも要らないと云う。居ぬきで、そのまますぐにでも商売ができる、あまりにもできすぎた話だ。

失業して、離婚して、胃がんになって、半二がカネのないことはオヤジは承知していながら地下の店を貸してくれる、という。オヤジには何か魂胆があるのでは・・・?と勘ぐってみたが、自己破産にちかい半二からは何も取るものはない。
半二は年金では足りない生活費を気楽なアルバイトでもして稼げばいいと考えていたが、胃がんになって、そんなのん気なことはいっていられなくなった。もうこの体力ではいくら気楽なアルバイトでも雇ってくれないだろう。
「生活保護」もちらっと頭をかすめたが・・・。

ただ、不動産屋の前の階段を降りて前庭と全面ガラス張りの入り口付近を見たとき、若い頃に働いていた神宮前のレストランを思い出した。中に入るとケッコウ広い。23坪だ、とオヤジは云った。保証金なし、家賃もただどうぜんとなれば、いましがた食べた「うなぎ屋」のように人目をさけるような商いをしても自分1人ならなんとかなるんじゃないか・・・半二は即答はさけたが
「やってみよう」と、思った。

病み上がりの半二がゴソゴソと居ぬきの店の片付けをしていると「歌声の会」の帰りにオヤジについて覗きにきたエリが手伝ってくれることになった。彼女は建設事務所で働いていたし、亭主の藤田はインテリアデザイナーなので無料でいろいろとアドバイスをしてもらった。それに藤田の友達の山下がオーディオマニアで頼みもしないのにターンテーブルやスピーカーを運んできた。おかげでJazz Barの看板も泣かずにすんだ。

そのうちエリがオヤジと参加している町内会のお年寄りのための「歌声の会」では物足りず「歌会」を「ロリン」で始めた。そこで歌っていた「クラブ園」のママ、ソノが「ロリン」でジャズボーカルの教室をやりましょう、と言い出し、エリがその提案にのった。去年の暮れ、そのジャズ教室の発表会があった。1部で生徒全員がヒロ先生のピアノで歌い、2部はジョージとヒロ先生のデュオとなった。

今回はジョージトリオをバックに発表会、夜はジョージトリオ+ヒロのライブ。


半二は明治通りを新宿に向かいながら熱いものが込みあげてくるのを感じていた。じわじわと興奮してくるのが分かる。嬉しい。でも、信じられない。こんなオレがジョージトリオのライブをやるなんて・・・。

足はかってに花園神社を通り抜けゴールデン街に入って行った。どうしてここに来たのだろう、半二は自分でもとまどった。40年ぶりだった。今夜は明治通りの裏の方から入ったが、かつては靖国通りの表から入った。そのころ、入り口の角にはいつも数人のオカマがタバコをふかしながら通行人を誘ったり、からかったりしてたむろしていた。半二が通ったのは1970年代で80年になると、ぷつりと足が向かなくなった。行きつけの店は「G」1軒だけで頻繁にかよったのは75年から80年にかけて。

「G」はなかった。細い階段の上には「J」の看板が赤く輝いていた。半二は階段の奥の暗がりを見上げてチュウチョした。目を周りの店にもどすと見覚えのある看板もあり、白人の観光客らしい2、3人連れが何組も通り過ぎる。かつては赤線(青線)だっただけにイカガワシイ店が多く、ぼったくりBarも少なくなかった。酔っぱらいの喧嘩沙汰もたえなかった。
マップを手にうろうろする白人カップルたちを見ていると隔世の観がする。

半二は細い階段をミシミシと上がった。突き当たって右のドアーを開けると目の前にカウンターがあり、ママさんがちらっと半二を見てほんの数秒、見つめ合った。半二が口元をゆるめるとママは半二が立っているカウンターの席を手のひらで示した。入ってすぐ左に4人席があったが狭くて4人は座れないだろう。客のカバンやコート置き場になっている。カウンターは6、7人すわれるかどうか。5坪あるかないかの細長い空間はゴールデン街ではみな同じだ。

半二がドアーを開けたとき右隣にすわっているヒゲ面の太った男が振り向くように見あげた。その男の右側に40代のカップルがいたが半二には反応しなかった。ママの背後の酒棚にはサントリーの角とジャックダニエルと芋焼酎のビンがずらりと並んでいる。常連さんのボトルキープだろう。カウンターの中ほどにスコッチが数本と国産の赤ワインの小ビンがあり、カウンターの端に木の桶があり、最近ではめずらしい氷やの1貫目の塊が手ぬぐいを被っている。
「何にしますか・・・?」
メニューがあるわけでもなく、ぶっきらぼうにママがたずねる。
「これをロックで・・・」
半二はチャージとウイスキーの値段を確認してから注文するつもりでいたが、何ゆえか値段を聞けなかった。見栄っ張りなのか、野暮に見られたくなかったのか・・・目の前のジャックダニエルの四角い黒ラベルを指差した。
「ボラレル・・・かな?」
という思いと
「いくらなんでも1万円も取らないだろう・・・」
という思いがあいなかばしていた。

歌舞伎町では5、6万ふんだくる暴力Barがあるらしいが、そんなところは色仕掛けで酔っぱらいを引っ張り込んでいる。酔っぱらいのオノボリさんが客引きの甘い誘いにだまされてカードでカネを引き出すはめに・・・。よくある話だ。

でも、この店はだいじょうぶだろう。
半二も店に1歩足をふみ入れただけで判断がつく歳になっていた。

ロックが出されたとき、半二はお水を求めた。
グラスを振って中の氷の塊りを回した。ふた口でシングルを飲み干した。
「おでん、食べる?」ママ。
店に入ったときからいい匂いがしていたが、カウンターの卓上コンロに大きな鍋がのっかり、ママがふたを取ると白い蒸気とともに鰹節と昆布の出汁の匂いが立ちのぼった。その匂いはゴールデン街にはふさわしくない家庭的なもののように思えたが、意外とこの店が疑似家庭なのかもしれない。
半二は匂いにさそわれて立ち上がり鍋の中を覗き込んだ。
「3個・・・ね」ママ。
「じゃがいも、昆布、厚揚げ・・・お腹すいているんだ・・・」
半二はエリのリハーサルを聴きながらビールを呑んでいただけで食事はしていなかった。
「すきっ腹はいけないよ。ひとつオマケするわ・・・」ママ。
「じゃぁ・・・玉子」半二。

「俺にもオマケ、ちょうだいよ」
半二の右横の男がその風貌ににあわず可愛らしくお願いしていた。
大根のはいった小皿を受け取ると男は
「これは・・・明日になるともっと美味しくなるな・・・」
と、云って箸で大根を十字に切り、一片をヒゲで覆われた小さな口に入れた。キレイな白い歯が覗いた。
半二は映画「イージー・ライダー」に出ていたヒゲ面の太った男優に似ている、と思ったが名前が出てこなかった。そういえば・・・この店は昔は「G」で映画の関係者が多く出入りしていた。芝居関係の人も来ていて売れないアングラ俳優が議論したりグダをまいたり、はてには喧嘩をしたり・・・。そんな店になぜ半二が通うようになったのか、半二もさだかには覚えていない。

初めて「G」に入った時のことは覚えている。40年ぐらい前の1977ごろだ。客は誰もいなかった。早い時間に「G」の扉を開けるとカウンターの中の女性が半二を見て軽くうなずいた。ママはカウンターの中で毛糸を編んでいたらしく両手に編み棒を持っていた。50歳ぐらいだろうか、30歳まえの半二にはおばさんに見えた。それに素人っぽく見えた。話してみると、その通りで彼女はまったく水商売の経験はなく、店を引き継いで1週間たらずだった。
どのような経緯で彼女がカウンターの中にいるのか、聞き漏らしたが場違いの印象が強く残った。それは悪いものではなく、ゴミダメに新品のテレビを置いてあるような軽い驚きだった。

その頃の「G」にくらべると同じ店だが「J」は内装をリニュアールしてありトイレなどは最新式のキレイなものだった。店名が変わっただけではなく経営者が変わったのだろう。ただ、ゴールデン街の地権者の名義が複雑きわまりないらしいが・・・

2杯目をお代わりして・・・
「この店、昔はGでしたよね?」半二。
「ええ・・・」ママ。
「40年ぐらい前にちょくちょく来てたんだけど・・・」
「40年・・・」
50過ぎのヒゲ男が半二を正視した。
「40年前・・・まだ生まれてなかったわ・・・」
50過ぎのママがにやり、として
「ここ、10年前に始めたのよ・・・Gのお客さんも来てくれているわよ・・・」

ふたり連れの客が入ってきてカウンターにすわるといっぱいになり、つづいて来たひとりは4人席に置いてある鞄やコートをまとめて空いたところにすわった。頃合いだ、と思い半二は席を立った。1時間たらず、おでん付きチャージとジャックダニエルのロック2杯で2100円。
「ありがとうございます」
ひかえめに微笑んだママさんを見て、半二は軽くうなずいた。

伊勢丹前の新宿3丁目から副都心線に乗ると直通で川越に着いた。
そのころ、エリは「ブリッジ」でヒロ先生とまだ発表会の打ち合わせをしていた。隣のテーブルで亭主の藤田と中田が発表会の録音と撮影について話していた。
「録音は山下がやってくれることになっている・・・動画の方は知り合いのプロに頼んである。ギャラは出せないけどね・・・」藤田。


(9)
吹く風がゆるんでいる。半二は川越でまっ先に咲く中院のしだれ桜の枝に顔を近づけた。つぼみががふくらんでいる。今にも開きそうな気配だ。

高田馬場の「ブリッジ」でリハーサルをしてからこの1週間、生徒たちは毎日入れ替わり立ち代り練習をしている。AとBは自分たちの練習は最小限にとどめて、かわるがわる歌伴につとめている。いつもならボーカルの練習をしていても「ロリン」のお客さんが入って来ると中止していたが、本番まえの今回に限り半二も大目にみている。客もほとんど常連さんだから下手な歌を笑って聞き流している。お酒が入っているせいもあって歌い終わるごとにあちこちから冷やかしの声が飛ぶ。知らない仲ではないから、歌手も掛け声に言い返したりして場がなごむ。

そんなとき、根本がいつもの彼女とやって来てピアノのそばのテーブルに着いた。赤ワインのボトルとおつまみのチーズの盛り合わせか生ハムのサラダをとり、2人で分けあっている。仕上げにざるそばを食べる。半二には2人が夫婦には見えない。他の人たちもそう思っているだろう。でも、夫婦でないにしても70のおじさんと60のおばさんが何処で何をしようとどうでもいいことだ。

2人の雰囲気は「ロリン」の常連客たちとは一寸ちがう。着ているものは生地がよさそうだし、話し方がていねいでおっとりしている。どことなく上品。この前、根本がカウンター席にすわったときに話してみて感じがいい、と半二は思った。
オヤジは根本の連れのご婦人に関心があるが、なかなか近づけない。オヤジが思っていたお水系の女性ではないようだが、まったくの素人ではないようでブティックでも経営しているのかもしれない。エリも根本の彼女とは話したことはないが好感をもっている。普通の家庭の奥さんには見えない。たぶん、何か仕事をしているのだろうが、それが何であるのかはエリには想像がつかない。

あれから、松山さんが毎日のように「ロリン」に来るようになった。

オヤジの居そうな時間帯をみはからって早めに来る。松山さんは奥さんが亡くなって独居老人(息子夫婦は都内在住)になったので話し相手が欲しいようだった。だからと云って相手が誰でもいいわけではない。とにかく信用できない人には近づかない。好ましくない人とは話をしない。そのてんオヤジは同じ町内だし「歌声の会」とロリンの「歌会」にも入っていて口は悪いが安心だ。
松山は下戸で酒は一滴も口にしないがコーヒーとタバコが大好き。コーヒーを飲みながら酒飲みの相手をするのは苦にならない。苦とまでは云えないが、タバコを吸うときに皆と離れて前庭のテーブルに移動しなければならないのが少しばかりメンドウ。
家族や友人、いろんな人から禁煙を勧められた。自分でもタバコは止めた方がいいと思っている。しかし、止められない。80過ぎて今さら止める気にはなれない。

「私は、呑む、打つ、買う、をしなかったんだから・・・タバコぐらいいいじゃないか」
と、松山は自分に同意を求めている。
カウンターから入り口のガラス越しに見えるタバコを吸う松山の姿が、本人はそう思っていないだろうが孤独に映る。

「いいじゃないの・・・」
歌い終えてカウンターにやってきたオヤジにタカがからかい半分で挨拶をした。
「うん、いいよ・・・」
松山も席をひとつ空けてほめた。
空いたタカと松山の間の席にすわり
「ありがとう・・・」
めずらしく、オヤジが謙虚・・・
「俺にビール、くれよ。タカにも呑ませてやって・・・」
オヤジは春とマサコのいるボックス席にはもどらずカウンターでうまそうにビールを呑んでいる。

「オレもジャズボーカル、習おうかな・・・?」タカ。
「習えばいいじゃないか・・・」オヤジ。
「でも、オレの歌はジャズじゃないしな・・・」タカ。
「お前はフォークだからな・・・。でも、いいじゃないか、そんなこと」オヤジ。
「声もでなくなったし・・・」タカ。
「春だって、あの千田だって習っているんだから・・・気にするなって」オヤジ。
「オヤジさん、確かに上手くなったよ、レッスンうけだしてから・・・」松山。
「・・・きょうは、えらくほめるねぇ・・・さては何かコンタンがあるな・・・?」オヤジ。

春とマサコが「ロリン」でのリハを終えるとタカを誘ってオヤジたち4人は食事に出かけた。

エリが入念な最終調整を切りあげると根本が席を立ちひと言ふた言、エリに話しかけてからカウンターの半二のところで会計をした。そのとき、連れの婦人とエリが挨拶をしているが半二の横目にはいった。
「じゃ、日曜日。夜は来れないけれど発表会に来ます」
2人は半二と松山にも礼をして帰っていった。

根本さんたちが帰ったので
「そろそろ上がった方がいいんじゃない?」
10時ちかくなった時計を指さして半二がエリに言った。
一応エリの仕事は7時までだが、ここのところ発表会にそなえて皆の練習がかさなり遅くなっていた。そんなときは高校生の娘は「ロリン」に寄ってエリの用意した夕食をとって帰る。家で電子レンジで温める場合もあるし、娘がコンビニで買って帰ることもある。問題は亭主の藤田で、彼が帰宅してもエリが居なければ機嫌が悪くなる。
エリは帰り際にBに歌伴のお礼の心づけの小袋をわたすとそそくさと出て行った。

オヤジから
「Bに飲み食いさせてやってくれ・・・」
と、云われていたので
「Bちゃん、何でも好きなもの飲んで食べていいよ・・・オヤジから頼まれているんだ」半二。
「あらぁ〜ウレシイ。いつもの天ざるとビール、ビールはお代わりしてもいいの?」B。
「いいよ、モチロン。じゃんじゃん飲んで売り上げに貢献して」半二。
「私も食べようかな・・・」松山。
半二は自分の分も含めて3人分の天ぷらのテイクアウトの電話を入れ、大きな鍋にお湯を沸かした。麺は近くの手打ちそばやさんから分けてもらっている。つゆは市販のものに隠し味を忍ばせてある。評判はいい。と云うか「ロリン」には腹の足しになるものが「そば」しかない(冬場は「大阪うどん」をだすが)。

店を始めたころはピザやスパゲティーを出していたが、最近「ロリン」のまわりにも本格的なイタリアンの店ができはじめたのでピザやスパゲティーを止め「そば」にした。サンドイッチやサラダも作る。
「半二さん・・・天ぷらをもらいに行ってくるから・・・サラダもお願い」
Bは媚びるように身体をひねった。
去年、天丼屋さんのチェーン店ができ、揚げたての天ぷらの「お持ち帰り」ができる。

「どちらの大学なんですか・・・?」松山。
「S音大です・・・川越の」B。
「・・・ほう、じゃ親御さんも大変だ、仕送りで」松山。
「弟も4月から大学生なんです・・・」B。
「そりゃ・・・カネがかかってしょうがないな・・・お父さん、何やっているの?」松山。
「旅館っといっても民宿みたいな・・・だから弟は地元の国立大学、私は借りた部屋をAとシェアしています。ここと「園」でアルバイト(ピアノのBGM)をして仕送りを抑えています」
「偉いね・・・」

「松山さん、まるで職務質問だね・・・」半二。
松山とBはカウンターに並んで、半二は厨房の中でそばを食べながら話している。
80過ぎの松山にとって20歳のBは孫のようなものだ。1日中、誰とも話さない日が多い彼にとってオヤジや半二と会話ができるだけで気が晴れる。それにBやエリのような若い女性と話せるのは嬉しいことだ。
そのBが
「ゴチソウサマー」
と云って帰ると追いかけるように松山も帰っていった。
誰もいなくなったので閉店時間には間があるが、半二は片付けはじめた。オーダーストップが11時半なので、どんなに暇でお客さんがいなくても11時半までは店を閉めないことにしている。

「カウンターで寝ててもいいからさ・・・早じまいはいけないよ・・・」
「お客さんのなかには気の食わない奴も必ずいるもんだよ。喧嘩しないことだね。帰ってくれとか、2度と来るなとか言っちゃぁダメだよ・・・」

「ロリン」をはじめるにあたって半二はいろんな人からアドバイスを受けたが、オヤジに言われた上記の2つだけは守っている。
そろそろ看板を消して閉めようかと思っているところへそのオヤジが降りてきた。
「ちょっといいだろう・・・」
時計を見ると11時半にはなっていなかった。
「みんなで食事に行ったんじゃないの・・・」半二。
「駅前の豚骨・・・熊本ラーメンを食べたら春もマサコもさっさと帰っちゃったんで・・・1人で「クラブ園」へ行ったんだよ。お酒、ぬるかんで1杯だけくれよ・・・悪いな・・・そこでねソノさんから聞いたんだけどさ、ノブの女房(愛ちゃん)が逮捕されるっつうんだよ」
「へぇ・・・」半二。
「どうやらその情報は千田から仕入れたらしい・・・千田とノブの女房は古い仲だからね」オヤジ。
「ソノさんもノブの女房とは一緒に仕事をしたことがる、と云っていた」半二。
「だから・・・あの3人はつながっているんだ」オヤジ。

「まだやっているの・・・」
小島さんが競馬新聞を片手にドアーを開けた。
オヤジが振り返り
「おぉ・・・やってるよ」と答えた。
半二は地上に上がり看板のコンセントを抜いた。
立ちあがると大きく息をした。もう、深夜の空気も冷たくはない。明日は発表会とヒロ先生のライブだ。
明日の競馬はなにか大きなレースでもあるのだろうか?桜花賞には早すぎるような気がする。半二はスポーツ新聞を読んでも、もう競馬欄は見なくなっているから馬もスケジュールもわからない。
「・・・その逮捕の話、本当なの?」小島。
「噂だけどね・・・クラブ園で聞いたんだよ、ソノさんから」オヤジ。
「じゃぁ・・・証拠・・・薬物がでたのかな?」小島。
「そりゃ、分からん・・・出たんじゃないの」オヤジ。

「明日、昼間は競馬で来れないけど・・・夜のライブには来るよ」
小島さんは薄いハイボールを半分残してオヤジといっしょに立ち上がった。


(10)
半二は「ロリン」をはじめてから天気が気になりだした。たいした売り上げではないが雨が降ると減少する。どうしても客足がにぶる。それはどうしようもないことだが・・・半二は翌日の天気はネットでチェックする。ピンポイントで川越の天気と週間予報も見る。明日から雨の傘マークがついているが、今日はなんとかもちそうだ。

10時には藤田とエリ、中田が1番乗りでやってきた。つづいてAとB。藤田の友達の山下(オーディオマニアでロリンにターンテーブルやスピーカーを置いている)も来て挨拶もそこそこにセッティングをはじめる。まず、テーブルを2箇所の片すみに集め椅子だけを30脚ならべる。足りない数だけ半二の部屋から運ぶ。みんなでやると、あっという間だ。
山下とAとBが音響のセッティングを、藤田と中田が撮影の準備をした。半二とエリが店の仕込み(飲み物だけ)をしているところへヒロ先生とジョージがやって来た。それから、ベースとドラムさんがワンボックスカーで一緒に。みんなでコーヒーを飲んでいると生徒たちが次々とやって来る。発表会は2時からだが、お客さんが入る1時まで音あわせをする。


生徒の親族や友人知人で30人ぐらいのお客様が集まった。「歌会」の仲間やタカ、根本、松山など。歌う6人の生徒は1人で5人のお客さんを呼ぶことになっている。ノルマではないが、それぐらいのお客さんが入らないとジョージトリオのギャラとヒロ先生への謝礼がでない。2000円の入場料で別に飲み物を1品とってもらうことになっている。飲み物代が半二の取り分。

マサコはチケットを5枚購入して友達にあげた。オヤジは町内会の「歌声の会」とロリンの「歌会」の仲間にそれぞれ3枚ずつあげた。春は亭主と娘と職場の同僚の看護師が来た。エリも亭主と娘、それから元職場の建築事務所の社員。千田の知り合いは誰もいないようだったが、その代わりソノが「クラブ園」のお客さんを7〜8人、呼んでいた。生徒の知り合いの「ロリン」の客も何人か来ていたので30人はこえているはずだ。

司会進行役はヒロ先生。

オヤジ    「Eplir In Paris」
春       「The Girl From Ipanema]
千田     「My Funny Valentine」

エリ、マサコ、ソノは2曲。

エリ     「Speak Low」 「Killing Me Softry」
マサコ    「The Man I Love」 「Don't Explain」
ソノ     「All Of Me」 「Love For Sale」

全員歌い終えたところでヒロ先生がオヤジをステージに呼ぶサプライズがあった。春が年末の発表会で歌い、マサコも今回歌うつもりで練習していた「「Smmertime」をオヤジにリクエストした。虚を突かれたオヤジがとまどっているとジョージさんのピアノが鳴り出し、ベースが付いていきドラムが控えめにリズムをきざんだ。この曲を歌うつもりで練習していたマサコが歌いだし、春がつづくと、そこでやっとオヤジが入っていった。

それから、ヒロ先生と生徒全員で歌った。

根本、松山、タカの3人はカウンターで静かに聴いていた。歌と歌の間でヒロ先生が生徒を紹介したり曲の解説をしたりしていると3人はそれぞれに感想をもらしている。3人はすでに何度も生徒たちの歌を聴いて知っている。
「ソノさんがいいなぁ・・・」
誰が云うともなく3人の意見が一致した。
タカは「ロリン」の歌会にでるようになってソノさんの歌が好きになった。それは、ソノさんが好きになった、ということでもあったようで、さっそくオヤジと「クラブ園」に出かけていた。ソノさんはたいして美人ではないけれどクラブのママだけあって人当たりがいい。さりげない気配りと、じっと見つめる瞳に殿方は吸い寄せられる。ソノさんは仕事がら派手な衣装も着こなしてステージ映えがする。
「今度、クラブ園へいきましょう・・・」
根本がタカに話しかけるとタカは嬉しそうにうなずいている。
「僕もお供しようかな・・・?」
松山が根本にではなく半二を見ててれくさそうにつぶやいた。
「松山さん、お酒が飲めないのに・・・」半二。
「うん、コーヒーでいいよ」松山。
「コーヒー・・・あったかな?」半二。
「ジュースでもいいよ」松山。

発表会が終わると歌った生徒の親族や友人たちは手を振ったり、ひと言声をかけたりしてぞろぞろと帰っていったが、生徒たちはヒロ先生のライブを聴くために「ロリン」に残っていた。ジョージさん達はもうリハーサルの必要がないのでライブが始まるまでコーヒーを飲みながら雑談をしている。その周りに歌ったばかりの生徒たちが陣取りヒロ先生の感想、講釈を聞いている。先生が6人全員の歌をほめながらも1ポイントアドバイスをするとドッと笑いがおこる。発表会で歌ったばかりの高揚感が残っているのか、皆の笑い声が高い。

「俺にもビール、ちょうだい・・・」
オヤジがカウンターにやってきて腰をおろした。
「お疲れさま・・・」
半二がビールをだすとタカが注ぎカウンターの根本、松山も口々に
「お疲れさま・・・」
と云って乾杯のポーズだけした。
「オヤジさん、よかったよ。これからは川越のビング・クロスビーと呼ばせてもらうよ・・・」
タカが持ち上げながらからかうように言った。
「いい声してますね・・・」
根本が話しかけると、オヤジはめずらしく素直に頭を下げた。

「私にもビール、ください・・・喉がからから」ソノ。
半二がバドワイザーとグラスを出すとオヤジが注いだ。
「よかったよ・・・ソノさん、色っぽくて・・・」タカ。
「あらっ、そっち? 歌じゃなくて」ソノ。
「もちろん、歌もよかった。ジュリー・ロンドンみたいで」タカ。
「こんどクラブ園にオジャマしてよろしいですか・・・?」根本。
「どうぞ、どうぞ・・・」
ソノは愛想笑いで根本を見たが、その一瞥に根本を値踏みする気配を半二は感じた。
「僕も付いて行こうかな・・・?」松山。
「どうぞ、どうぞ」
ソノはいたわるように松山の手をとった。
「僕は下戸でお酒は飲めないんだけど・・・」松山。
「いいですよ・・・飲めなくても。そういう方のほうがありがたいんです。その分、私がいただきます」ソノ。

ジョージ大橋トリオ+ヒロ先生のライブが始まりそうだった。
オヤジとソノが立ち上がってテーブル席へもどろうとして
「じゃぁ・・・私が君たちをクラブ園へ案内するよ・・・」
と、オヤジはタカ、根本、松山の3人に言い放って・・・おどけたように
「Love For Sale」を口ずさんだ。

ソノがオヤジの腕をとって口を一の字にしてニッと笑った。



               おわり

               「記憶と幻想のコラージュ」 その(3)
               「Love For Sale」

               メール nagano_taku@yahoo.co.jp

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